行頭あけをしていないことについて

これは弁明だが、このブログで行頭を一文字分あけるという至極基本的な文章のルールが守れていないのは、一重にWordPressの仕様のせいである。どうやらなんらかのお節介な機能が働いて、書く際に行頭をあけても、その一文字分のスペースが詰められてしまうらしい。もちろん行頭あけを維持させるプラグインもあり、この前それを入れてみた。で、どうやらテンプレートの破損というのはそのプラグインのために起こったらしく、プラグインを削除後も後遺症的に症状が居座ってしまったということらしい。その他になにか従来から変わったことをした覚えがないので、恐らく大方これのせいだろう。行頭をあけるプラグインは他にもあるのだろうが、さて、こうなると迂闊にそれらを入れられなくなった。ほかのプラグインにしても、やっていることは同じだろうし、そうなるとやはりテンプレートに対して同じような働きかけを行い、それを壊してしまうのではないか。そういったことを考え合わせた結果、どうか行頭あけをしていないことを大目に見てもらうことにした。ここに書いているものをもし印刷物にすることがあれば編集するとして、ウェブ上では日本語のオーソドックスな書式を省略させていただくことにする。とは言え思い返してみるとかの谷崎潤一郎なども行頭をあけない書き方で有名なので、決して行頭をあけない文章がないわけでもない。谷崎潤一郎は原稿上ではあけていた行頭を、活字にする際にわざわざ詰めるよう編集に指示していたほどだという。その理由は定かではないが、もしやWordPressの走りなのでは? それにしても、行頭をあけないで書くブログやネット記事はたくさんあるので(あと幅が一定でないめちゃくちゃな行間あけ)、どうもそれと同じような感じになって嫌である。とりあえず行頭をあけたくてもあけられないのだということをわかってもらえたらうれしい。

テンプレートの不具合

サイトのテーマを一時変更した。記事一覧がグリッドレイアウトにできたので、作品も見せやすくとても気に入っていたのだが、どうしてか「テーマが破損している」というメッセージとともにいつの間にかデフォルトのテーマに切り替わったりして、そのためその間にサイトを閲覧した場合には「テンプレートが一致しない」という表示とともに白紙のページが出ていたらしい。テーマのどこが破損しているのかは全くわからず、検索すると同じようなケースはヒットするのだが(WordPressでは一般的な症状らしい)、基本的な対処法を試してみても効果なし。サーバーまで行ってディレクトリ内のファイルをチェックしても特に問題なし。と、ぼくなどにできるのはそれくらいなのでお手上げであった(テーマを一度削除してインストールし直しても結果は同じ)。テーマが壊れているなら壊れていないテーマに変えるしかなかろうということで、もう細かいことに凝ると時間がかかって仕方がないので、フッツーのなんの変哲もない形に変えてみた。グリッドでないので絵を観てもらうには延々スクロールしてもらうしかないのだが、一枚一枚が大きく表示されるからこれはこれで悪くないだろう。最低限カテゴリー分けはしているから全く見づらいということもないし。見やすいものを、というよりは少なくとも見づらくないものであればいいのではないだろうか。 とは言え暇を見つけてはもっとよさそうなテーマがないか探し、試してみるので、サイトの見た目がなにやら安定していなくとも悪しからず。基本的な形はそこまで変わらないと思う。サイト作りは楽しいが、こういうのが疲れる。

砲手

 男の仕事は至ってシンプルだった。ボタンを押す、ただそれだけ。
 朝、職場にやってきてタイムカードをパンチすると、パーテーションで区切られたわずか2メートル四方の自分の持ち場に入り、座席に座って操作盤に向かう。操作盤はボタンが2つとその中央上部にランプが一つついただけのもので、この3つの丸による三角形が、男の仕事の全てと言ってよかった。
 ランプが赤く点灯すると、すぐに右側の赤いボタンを押す。この赤いボタンが、勤務中に最も頻繁に押すメインのボタンだ。ずっと押し続けているものだから、男がこの仕事に就いたときには真新しかったそれは、すでに真ん中のところが剥げてテカテカと光っている。ランプが消灯している間はボタンを押さないが、ランプが消えている時間は8時間の勤務時間中にトータルで10分もないだろう。
 左側にある青いボタンは、赤いボタンが沈み込んで戻らなくなったり、押せなくなったり、ランプが点灯しなくなったり、なんらかの故障が見られた場合に押す。すると、操作盤に向かって右側の壁面に取り付けられているスピーカーから、どういう状況か尋ねる通信が入るので、スピーカーの下についているマイクに向かって現状を説明する。もし、青いボタンを押してもスピーカーからなんの反応もなければ、つまりスピーカーの不具合や通信の不調が見られた場合には、背後の扉を開けて、外の通路に向かって右手を挙げる。そうすれば、通路を巡回している監督がやってきて、状況を説明できる。ただ、この通路は全長200メートルほどあり、監督はひとりしかおらず、さらには100のブース全てからしょっちゅう挙手が起こるので、監督を呼ぶチャンスはほとんどない。そういう場合には、終業ベルが鳴るまで座って待機するしかない。もちろんなにもせず座っていた場合には、一定時間赤いボタンが一度も押されていないことがコンピュータに記録されるので、タイムカードの記録に関わらずその時間は無給となる可能性がある。この事態を避けるために、誰もがあまり強く赤いボタンを押さないようにしていた。
 男は今日もスイッチを押し続けている。適度な力で、素早く必要な回数を押す。
 ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
 カチ、カチ、カチ、カチ。他の99のブースからもこの音が一斉に聞こえる。ひとつひとつは小さな音に過ぎないが、100のカチ、カチがひとつに合わさると、それなりの大きな音となる。耳をやられる者もいるので、監督も含め各々が耳栓やヘッドセットをつけてこの音の嵐から聴覚を守っていた。男もまたヘッドセットをつけ、それでいながら全くノイズを遮断しない程度にそれを緩めていた(なにも聞こえなくなるのもそれはそれで仕事に支障をきたす)。
 ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
 実はこのスイッチがどういった機能を果たしているのかは、操作者たちには一切知らされていない。通路を巡回する監督にも知らされているか微妙なところだ。彼らがわかっていることと言えば、このスイッチを押すことは重要な仕事であり、生きた人間が自分の判断でこれを押すことがなによりも全体のプロセスに欠かせないということ。とは言え、その全体のプロセスがなんのプロセスなのかは誰にもわからなかったし、男をはじめ操作者たちはほかの同僚とは全く言葉を交わすことがないため、情報や推測を交換することさえなかった。
 しかし、誰もがそれで十分だと考えていた。男もそうだった。余計な交友は面倒ごとを招くことをよく理解していたし、ゆくゆくはこのシンプルな仕事にとって邪魔になる。彼らは皆同じような性格、特性を買われてこの職場に配備されていたから、もしかしたらいざ付き合ってみればそこそこ気の合う友人になれたかもしれない。だが、全員が全員、他者と一定の距離を保つことを好んでいたため、それは意味のない仮定と言えた。彼らはこの仕事のそうした無駄のなさを気に入っているのだ。
 ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
 最初のうちはあまりに単調な作業なので、勤務中にいろいろな考え事にふけろうと男も思っていたが、すぐにかえってそんな暇はないことを思い知った。ランプの点灯する頻度もそうだが、スイッチを押すのにはそれなりの集中力が必要だったのだ。考え事をしながらなどしていられない。そんな姿勢で挑めば、ランプの点灯とのタイミングを合わせられず、点灯していない間にスイッチを押してしまったり、点灯している間に押しそこねたりしてしまう。後者については前述の通りだが、前者もまた減給や無給となる恐れがあるから気が抜けない。そう、この仕事は案外気の抜けないものだった。
 ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
 他のことをなにも考えずに、ランチや夕食のことさえ考えずにスイッチを押し続けていると、自然とある境地に達するようになる。雑念が消え去り、ただ赤いランプと赤いスイッチにだけ精神や思考、感覚が集中していく。この場に、この世界に、この宇宙に自分とランプとスイッチしか存在しないのではないかという感覚になり、神経は指先の、指の腹の一点に集中する。男はこの感覚を気に入っていた。他のことを考えながらこの仕事をしようなど、愚かな考えだった。未だかつて経験したことのないクリアな感覚は病みつきになり、ある種の瞑想状態が自分を高次元に導いているかのように感じた。
 ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
 それはなにもこの男に限ったことではなかった。残りの99のブースで同じようにスイッチを押している人間全員が同じ感覚にどっぷりと浸り、不思議なゾーンに入り込んで目を輝かせていた。なにも考えないことを考えることの喜び、全くの無心で指だけが勝手に動いていく快感に、全員が魅せられていた。そして、これは彼らの雇い主としても申し分ないことだった。実を言えばこの雇い主さえもこのスイッチの意味をよく理解していない。スイッチの真の意味を知り、全体のプロセスというやつを把握しているのはそれよりももっと高いレベルにいる人間たちで、監督や雇い主などスイッチを押している操作者たちとほとんど変わらない末端と言えた。言うまでもなく、彼らには詳細を知る必要がないし、知らないほうが幸福というものだった。
 ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
 そんなことも男の知るところではないし、はなから興味さえなかった。いつしか男の興味はスイッチをいかに華麗に押すか、いかに素早く例のゾーンに入り込んでクリアな精神状態を得るか、それだけに集中するようになった。これがもし元々多趣味で交友の広い人間だったなら、周囲の者はその変わりように驚いただろうが、この男はもとよりこれと言った趣味もなく、友人も少なく、なによりもとの性格がこの仕事に適していたのだから、変化が際立つ心配もなかった。事情を知る者が今の彼の姿を見れば、彼が天職を得たと考えたことだろう。もちろんそんな観測者も彼の場合はいないのだが。 
 ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
 もはや男には疑問などこれっぽっちもないし、この仕事をする上での弊害は一切ないと言えた。スイッチを押すという最終的な行為を生きた人間が自分の判断でしなくてはならないという必要に迫られてこのような仕事を与えられているということも、この際彼にとってはどうでもよかった。実は高度な戦略用人工知能が全てのプロセスを進めており、あとはスイッチを押すだけというところまで完了した際に、赤いランプが点灯しているなどということも、彼にとってはどうでもいいことだし、知る由もない。
 ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
 実はランプが点灯し消え、次に点灯するまでのほとんど2秒もない間に、コンピュータが「次の」標的を探し出して照準を完璧に合わせ、エネルギーの充填や砲身の冷却、各種システムの点検を終えていることも、男が知るはずもないことだった。
 ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
 そのコンピュータが一度に、軌道上に配備されている100基のレーザー砲に同じコマンドを繰り返し、地表の至るところにある100の標的に対しほぼ同時に照準が合わせられ、最終的に赤いランプが点灯していることも、男の預かり知らぬところだ。
 ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
 コンピュータが探し出して照準を合わせた標的には、なんの武装もしていない小さな村さえも含まれていて、そこに暮らす老若男女の住人たちは自分たちになにが降り掛かったのか知る暇もなく(光線さえ見えることはない)、一瞬で蒸発してしまうこと、一瞬後には農場の巨大なサイロから小さな子どもの遊んでいた玩具の車まであらゆるものが跡形もなく消えること、何世代にも渡ってその土地で人々が暮らしてきた痕跡さえも消え、その土地には最初からなにもなかったかのようになってしまうことも、男が知るはずもなかった。
 ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
 一体誰が男を、100人の無自覚な砲手たちを責めることができよう。彼らはなにも知らず、ただ無の境地で瞑想にふけっているに過ぎない。彼らの上司もスイッチの意味を知らないし、おそらくその上司も知らないだろう。途方もないほどの階層を上がっていって、ようやくランプとスイッチに関する機構の一部を把握する技師や管理者が現れるのがせいぜいである。彼らの誰一人として、この全体像を知らないし、スイッチが押された結果起こることを知らないのである。誰のことを責めることができるのだろうか。
 ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
 そうして彼らに真相を知らせることもできない。もし本当のことを知れば、その多くが精神的に破綻するのは目に見えている。100人の砲手たちははこれまでやってきたことの重みに押しつぶされ、これからすることに怯えて壊れてしまうに違いない。あるいは、重大な現実から逃避するためにより一層瞑想の世界に浸り、二度とこちらに戻ってこなくなるかもしれない。そのままスイッチを押すだけの機械と化してしまうかもしれない。もっとも、今もそれと大して変わらないのだが。
 ランプが点灯する。
 唐突に。
 そこまで一瞬で考え至って、男の指が止まった。配属以来初めてボタンを押す指が動きを止めた。
 ランプが点灯する。
 まさか。
 ランプが点灯する。
 そんなわけがあるか。
 ランプが点灯する。
 馬鹿げている。
 ランプが点灯する。
 男は再びスイッチを押す。

子ども好きかどうかと言えば

子どもが生まれてからというもの、だいぶ小さい子の相手ができるようになった気がするのだが、子どもが好きかどうかと言われれば、そんなのその相手の子どもによるとしか言いようがない。というかこの問いに対する回答としてはこれが適当であって、もし「子ども大好き!」などと答えるやつがいようものならそういう人は信用できない。 なぜかと言えば、子どもを「子ども」という属性でひとつにくくっているからであって、個々にどういう子どもがいるのかをあんまり考えていなさそうな印象だからだ。そういう人に限って自分が想定している(求めていると言い換えてもいい)子ども像から外れた子がいたら困惑するのが目に浮かぶ。早い話が、自称子ども好きが子どもの頃のぼくを好きになってくれたとはとても思えないわけである。彼ら彼女らのほとんどは自分たちの思う子どもらしい子どもが好きなのだ。だいたい大人好きとは言わないのだから(年上好きとかは違う話として)、子ども好きもおかしな言葉なのだ。その響きにはなんとなく犬好き猫好きと同じ響きを感じてしまうのだが、上述のように犬好き猫好きも犬猫からしたら迷惑な話かもしれない。 思えばぼくは犬に関しても飼うようになってからだいぶ明るくなったが、それでもやっぱり犬好きとは言う気があまり起こらない。これは妻もそうで、好きなのは自分んちの犬であって、よその犬のことはわからないからだ。子どもであれば、犬であれば、全部が全部好きだと迷いなく言えてしまうほうが、屈託はないかもしれない。だが、ひとりひとりと接してみなくてはわからないからと慎重に考える方が、個々を意識しているように思うのだが、どうだろうね。

仕事のやり方

気づけば来年で専門学校を卒業して10年になる。卒業後の初夏くらいには一応名前の載るイラストの仕事をやっているので、キャリアとしても10年である。10年経ってもなかなか慣れないことにぶつかるばかりで、未だ模索と試行錯誤の連続なのだが、まあ、これは一生こうなのだろう。とは言えそれだけの時間やってきているので一応、自分なりのやり方が出来上がってきたというか、特に考えなくても手が動くくらいにはプロセスが習慣化したように思う。ひとによってはそういうのを「こなす」と呼び、そこには往々にして否定的なニュアンスが含まれるのだが、ぼくとしては仕事というものはこなさないでどうするのだという感じである。依頼主にしてもこなしてくれないと困るだろう。こなした上で、その中で自分にとって重要なところは工夫と力を注げばいいのである。というかそうあるべきだと思う。 自分なりの仕事の手順が決まってくると、今度はそれをひとに教えてみたくなる。10年もやってればひとに教えてもよさそうなこともいろいろ出てくる。こういう経験はひとにも教えたほうがいいのではないか。それは別に後続の人間だけでなくて、今現在も仕事をしている同業者にしてもそうなのだが、いかんせん親しい同業者が全然いない。いたとしてもぼくより経験が豊富なので特にこちらから共有できるようなこともない(愚痴の共有にはなるだろうが)。しかし、これひとに教えたいななどと思う一方で、そういう教えたがりな年寄りにはなりたくないし、作品の外でひとの世話を焼こうとする作家というのがどうにも好きになれないし、業界というものに対して帰属意識みたいなものも大してないので、やや教えるということに躊躇がある。専門学校の授業のひとつで講師がかつて教えて、今現在一線で仕事をしている卒業生というのを個人的に呼んで話をしてもらうというのがあり、ああいうのに誘ってくれれば、じゃあしょうがないということになり、一席ぶったりもできるのだが、もちろんそんな誘いも気配も全然ない。というかあの学校からはすっかり忘れ去られていると思う(こちらも卒業生であることをアピールしていないのだから当然と言えば当然だが)。それに授業に講師が呼ぶような卒業生というのは、卒業後も講師とコンタクトを取り続けるようなまめな人と見え、そんなことも一切やっていないのだから呼ばれなくて当然である。てっきり卒業後はああいうのに呼ばれると在学中から思い込んでいたのだが(マジかよ)。とは言え今の自分を見、これまでの自分を振り返ってみたところで、果たして学生たちの参考になるようなところがあるだろうか? 思えばどれひとつ取っても、専門学校が好んで教えるような手順を踏まずに来ているような気がする。なにか特別なことをした、というわけではなく、普通やるべきことをしてこなかったという方が大きい。売り込みと呼べるようなことは全然していません、あちこちの出版社を自分の脚で歩き回るようなことをしていません、作品集も大してまとめていません。じゃあなにをしたのか。大してなにもしていない。ひとつだけ言えるのは、描くのをやめなかったことですね、などと紋切り型で嫌味に聞こえるような言葉で締めるのが関の山ではないか。自分で書いていてもこれはなんの参考にもならないなと思う。とは言え、今どき紙ばさみやフォルダを持って出版社まわっているようなひとが本当にいるのだろうか?どうもこれが自分ではイメージしづらいところである。トミ・アンゲラーは靴底すり減らしてニューヨークを歩き回ったというが、今やそんな姿は専門学校の授業の中にしかいないのではないか。とは言え授業でそうすべきと教わったのももう10年前のことなのである。今ではもうそんなこと教えていないのかもしれない。そう思うと、自分が学生だった頃というのは、アナログが重んじられた最後の時代だったのかもしれない。ましてや今は対面で会うことが忌避されている状況。もはや直におしかけるようなことを推奨もしてはいないだろう。まあしかねないのがあの学校らしいところ、と言えばそうなのだが。 とは言え、今こうして仕事をしているこのときこそ、学ぶことが多く、これをそろそろ書いてまとめておきたいと思った。学生時代は仕事がもらえるようになるまでのプロセスが知りたくて仕方がなかったが、実は本当に重要なのは仕事が始まってからのことだったのだと、当時の自分に教えてあげたいものだ。どういう準備をしておくべきか、こういうことを頼まれたらどう対応すればいいか、こんなトラブルが起きたらどうすべきか。特にトラブルについてはレクチャーがあったほうがいい。自力で乗り越えると経験値にもなるが、その際のストレスが計り知れない。だがストレスのない仕事というのはままごとのようなものでもあるので、やはりトラブルのひとつやふたつあったほうが、単調になるよりはいいのではないか。というより、なにかしら必ず起こるものだ。そうでなければ本当に、こなしてるだけになる。

幽霊の寝息

少し前に、この時期お決まりな感じでラジオに稲川淳二が出ていてしゃべっていたのだが、雑談でさえもなんだか不安になる語り口なのがすごいのだが、どうしたって話題は怪談に絡んでいくことになり、公演でスライドによって見せているという心霊写真の話になった。毎回どの心霊写真を見せるかを部屋で決めているのだが、いつもとある写真(それがまた強烈なやつらしいのだが)を見ているところで部屋の外、階段を上がってくる足音が聞こえてくるというのだ。最初は家の人が上がってきて、部屋の前で思い直して引き返していったのかと思ったらしい。ところがあとで聞いてみても部屋の方には行っていないという。翌年、再びスライド用の心霊写真を選んでいると、やはり前年も眺めていた写真を手にとったところで、またしても階段を上がってくる音がする……という、ぼくの拙い文章では全然わからないと思うがシンプルながらにとても不安になる話である。それで、その話を聞いていて怖い怖いと思っていたら、ぼくの耳にも耳慣れない音が聞こえてくるではないか。 ぼくの部屋はマンションの表の通路に面しているので、我が家より奥にある部屋の住人が通ったり、宅配業者やヤクルトレディが出入りする物音は大変よく聞こえてくる。以前などほかの部屋(あるいは全く別の民家)からやってきた猫が来て鳴いていることもあった。そういうわけで通路の方で音がするのは別に珍しいことではない。ところがそのときは外にひとの気配もないし、なにより問題の音は壁や窓一枚隔たところから聞こえてきているというより、もっと近いところ、なんなら部屋の内側で聞こえているというくらい明瞭ではっきりしていたのだ。どんな音かと言えば、「うう……うう……」といううめき声にも似た声なのである。ラジオの話題に呼応するかのようにぴったりで、かえって可笑しいくらいなのだが、ああ、とうとうぼくにも聞こえるようになってしまったか、学生時代に本当かどうか怪しい心霊体験を飲み会の席で披露して注目を浴びていたやつらの仲間入りか、などと考えたのだが、ふと足元を見ると犬が寝ている。ゆっくり上下するぽんぽこりんのお腹。それに合わせて、あの「うう……うう……」がそいつの鼻先から聞こえてくる。幽霊の正体見たり犬のいびきだったとさ。

都会人と魔女

自分は決して愛想のいい人間ではないが、というかむしろ悪い方だと思うのだが、それにしても同じマンションの住人と階段やエントランスで鉢合わせしたときに挨拶しても、どうしてかあんまりちゃんと返されないというか、まるで他の住人とエンカウントしたのがイレギュラーな事態とでも言うように、気まずそうされる感じに、自分のことは棚に上げて違和感を抱いてしまう。はっきり言って無視されることさえあるのだが(聞こえていないという可能性に望みをかけるが)、他の住人に会うことってそこまで嫌なことだろうか。確かに自分の生活圏のすごく近い範囲に知らない人間が住んでるというのは、アパートなりマンションなりで暮らし始めた頃にぼくも慣れなかったというか、やや落ち着かないものがあったが、だとすれば尚更挨拶くらいしたほうがよくはないか。挨拶というのは自分が怪しい者ではないと表示するためのものでもある、ということを聞いたことがある。最低限挨拶をするだけで自分の身も守れるというわけだ。狭い空間で知らない人と遭遇することに居心地の悪さを覚えるのなら、挨拶してそれを軽減すればいいのに、とぼくなどは思う。 余計な近所付き合いなどせず、そっけなく接するのが都会の暮らし方なのだ、ということも人から聞いたことがあるが、その発言者は都会人どころかぼくよりも半端な地方から出てきた人間だったので、全然説得力がなかった。とは言え、ここにヒントがある気がする。つまりそれは勘違いされた都会像であって、同じマンションの住人のあの不可思議な態度は、要するに知らない土地で暮らす人のよそよそしさそのものなのではないか(念の為記しておくがかく言うぼくもよそ者である)。 都会は冷たい、と紋切型な言い方がある。都会という部分は別に東京でもニューヨークでもロンドンでもいいのだろうけれど、大きな街というものは往々にしてきらびやかに語られるのと同じくらい、冷たさを含んで語られることも多い。しかしそれはその人がよそから来たから、見知らぬ土地だからそう感じるのであって、そんなよそ者が大勢集まっているからこそ都会は冷たくなってしまうのである。そうしていつの間にか出来上がってしまった勘違いされた都会像に、地方からやってきた人々は自分を適合させようとがんばり、そっけない立派な都会人になっていく。そして同じマンションの階段でコーギー連れて降りてきたぼくの挨拶にも、中学生男子みたいなこっくり頷きで返すようになるのである。もちろん全てはぼくの想像で、案外本当に聞こえていないのかもしれないし、元からそういうそっけない人柄なのかもしれない。 『魔女の宅急便』というとてもおもしろい映画があるのだが、娘がこれに夢中で繰り返し観ているおかげでぼくも何度も物語を反芻する機会を得た。子どもの頃はテレビ放映していても断片的にしか観れず、最初から最後まではおろか全体を俯瞰して咀嚼することなど全然できず、仮にできたとしても子どもの頃ではあのストーリーの言わんとするところが、それほど理解できなかったと思う。今更ぼくが指摘することでもないが、魔女や箒で飛ぶといったことはフォーマットであって、物語の軸は少女の上京物語にある(二度の世界大戦が起こらず、魔女と魔法を使わない人間がかつて共生していたという世界観にはもちろん惹かれるが)。魔女のキキは初めて訪れた大きな街で、到着早々ちょっとしたトラブルを起こしたために思い描いていた理想と現実とのギャップにぶつかり、勝手のわからない街で途方に暮れ、しまいには「この街の人は魔女が好きではないらしい」と断じてしまう。それで、ご存知のようにそのあといろいろあって、最後にキキは「この街が好きだ」と言って物語は終わる。別に街は最初から表情を変えていない。人々がキキを受け入れたというよりは、キキが街に心を開いたのである。おそらく街の方は最初から門戸を開け放っていたのだろう。トンボという眼鏡の飛行少年にしても、最初から気持ち悪いくらい大歓迎状態である。人々と打ち解けるかどうかはキキ次第、自分次第なのだ。都会が冷たいかどうかも自分次第かもしれない。

二度目のディズニーランドはご機嫌

ふと思い立ち、ディズニーランドに行った。ふと思い立つのは大事である。もちろんふと思い立ったとは言え、今は予約制なのでチケットを取ってからだったが。今回は娘の遊び友達の家族と二組で行ったが、娘も友達が一緒で楽しそうであった。ご覧のようにフル装備。まず最初に入り口のところで風船に一目惚れし、そもそものきっかけだった新しいポップコーンバケット(イッツ・ア・スモールワールド!)を買い、子ども用の耳カチューシャを買って出来上がりである。ポップコーン食べる手が止まらない。前回は初めてで全てに対して警戒していたが、今回はだいぶいろいろなものに乗れてご機嫌だった。 思えば夏場にディズニーランドに行ったのは初めてだった。真っ青な空、日陰のないカンカン照りで身体がヒリヒリする辛さもあったが、雰囲気もあって楽しかった。飲み物代がかさむので水筒を持っていけばよかった。水分が汗で出てしまったらしく、一度もトイレに行かずに終わった。 娘はダンボの回転遊具と「イッツ・ア・スモールワールド」が気に入ったらしく、後者は二度乗った。確かにゆったり動くボートからいろいろなものが見られて子どもにはちょうどいいかもしれない(大抵のライドにある暗い演出もなく怖くない)。今はディズニーキャラクターが多数追加されてそれらを見つけるのも楽しみらしい。メアリー・ブレアのオリジナルの雰囲気からだいぶ変わってしまった気もするがこれも時の流れだろう。いつまでもNY万博時のままというのもね。廃れてクローズしてしまうよりずっといい。 そもそも行こうとなったきっかけ、「イッツ・ア・スモールワールド」のポップコーンバケット。素晴らしいデザイン。最近は箱型でシンプルな蓋を開けるのが主流らしい。確かに蓋が重たいよりは開けやすいし食べやすい。とは言え今度はR2-D2を持っていてリフィルしたい。 こんな仕掛け付きだから魅力的だった。人形が時計部分がくるくる回る。もうこれ以上ポップコーン入れは買わないようにしたいが、当然またなにかかわいいのが出そうな気がする……。

油圧ショベル

父親の教えにより幼少期よりショベルカーのことを「ユンボ」と呼んでいたのだが、中学くらいに上がってもまだその癖が抜けず、うっかり同級生たちの前で油圧ショベルをユンボと呼んだら大笑いされた覚えがある。ぼくとしてはショベルカーという呼称のほうが全然馴染めないのだが(そもそもなぜ「シャベル」でなく「ショベル」なのか、そして「カー」か?)、大笑いしたからには彼らにはユンボという名称の意味するところとその呼称を使う層の属すセンス(年代?)みたいなものがわかっていたのだろう。あるいは単純に語感にちょっと可笑しい響きがあるせいか。で、ユンボというのは元々はフランスはシカム社製油圧ショベルの製品名で、のちに三菱が国産化する際にもユンボの名で発売したことから、油圧ショベルの代名詞として広まったらしい。当のシカム社も今ではユンボ社と名を変えている。つまりは油圧ショベル界のバンドエイドみたいなものである。ショベルカーをユンボと呼んでなんらおかしいことはないのである。ちなみにキャタピラー社にはユンボという名の製品はない。なにはともあれ、今後も恥じることなくユンボと呼んでいこう。ユンボのほうが、語感的に油圧ショベルの持つどっしりしたイメージと、繊細な動きをよく表している気がする。「ユン」がちょうど優雅なアームの部分、「ボ」が車体とそれが載るキャタピラのボリュームを感じさせる。ユンボ!と言いながら地面にどしんと着地しそうなイメージである。そんなところでどうだ。

幼稚園デビュー

4年保育ということでこのたび幼稚園に入園となった。絵本の「マドレーヌ」みたいな帽子で得意げである。自転車に乗るときはヘルメットをしなければならないのだが、帽子を脱ぎたがらないのが困る。自転車による送迎は、まあなんとかなりそう。このために買った電動アシスト自転車、最初乗った頃はバッテリーや機構に加えて子どもも乗せているので少し重くて小回りがきかせられないくらいだったが、買い物その他の用事のたびに乗るようにしていたらかなり慣れた。高校時代は家から駅まで山道を延々漕いでいたのだから身体に染み込んでいるのだろう。しかし、街で自転車に乗る人はどうも自分を風だと思いこんでいる人が多く、ずいぶん無茶な隙間をろくに減速せず通り抜けようとするから、ああならないように気をつけたい。 妻が職場に復帰してからというもの、昼は子どもの相手をして夜仕事というような日々だったので、ようやく日中落ち着いた時間が取れそうでなによりである。

Jet Alone

エヴァに出てくるエヴァ以外で好きな兵器の筆頭、ジェットアローン。TVシリーズにて、日本重化学工業共同体がネルフのエヴァに対抗して開発したロボット兵器として登場。通産省や防衛庁とも共同で開発しており、要するに特務機関ネルフの超法規的保護によって対使徒戦における旨味にありつけなくなった連中が手を組んで作ったということらしいのだが、そんな事情はともかくとしてこいつはロボットとしてかなり好みの造形で、かわいい。小さな頭部に長い腕、逆三角形の胸部にほっそりした脚、というプロポーションから、『天空の城ラピュタ』のロボット兵などが連想される。シルエットもさることながら、連節したベルト状の腕なんかも同じである。同時にぼくが強く既視感を覚えるのは、『スター・ウォーズ』シリーズのスーパー・バトルドロイドである。あれもラピュタから連なる系譜にいると思うが(厳密に言えばラピュタロボの前にフライシャーによるアニメ『スーパーマン』に登場する現金強奪ロボットが祖先にいるのだが)、頭部が半分胸部に埋まったような形はよりジェットアローンに近い。腕はベルト状ではないが、平べったく、手が連節したミトン型となっている。腰から胸部にかけてのフォルムも似ている。 そういう言ってみれば古典的なデザインもかわいくて好きなところだが、頭の周りにボルトがたくさん打たれているのがまたいい。リベットがたくさん打たれている昔の兵器っぽいところがデザインとも合わさってジェットアローンのキャラクターを立ている気がする。もちろん腕をひらひらさせながら延々と荒れ果てた平原を歩いているシルエットも好きだし、それを制止するために初号機が後ろから追いかけてくるところも本当におもしろい。 もうすっかりお馴染みの話になったが、愛すべきジェットアローンは『シン・エヴァ』にも登場している。冒頭で復旧されたユーロ・ネルフの兵装ビルの内部が8号機のビューポートに映し出されたとき、格納されている「予備パーツ」(逆三角形のボディに長い腕)にはっきり「JA-02」という文字が表示されており、このパーツが新2号機の身体を覆うことになる。重武装の新2号機の背中から伸びた(というか飛び出した)制御棒も、暴走したジェットアローンが背中から伸ばしていたそれと同じものだ(制御棒が外に飛び出すという演出は『破』における獣化モードでもやっていた)。 新劇場版におけるジェットアローンシリーズがどういう経緯でネルフの手に渡り、エヴァの予備パーツになったのかとても気になるところだが、ぼくは前々から新劇場版の世界線ではジェットアローンの開発責任者である時田シロウが、ミサトたちのヴィレに加わっているのではないかと勝手に妄想していた。ヴィレは対ネルフ組織であり、ネルフ以外のあらゆる組織が寄り集まっていると考えられるので、そこに旧日本重化学工業共同体の残党が加わっていても不思議はない。というかネルフに対抗する組織としてはヴィレよりも先輩に当たるし、旧劇場版でネルフ本部を蹂躙した戦略自衛隊よりも登場が早いわけで、ネルフ殲滅を目的とするヴィレの中枢にからんでいてもおかしくないのである。ちなみにヴィレの戦闘員の衣装は旧劇における戦自の隊員の格好と全く同じだったりする。このことからネルフには戦自からの流れも入っているのだろうと考えられる。つまり、かつてネルフの敵として登場した組織が、ネルフが悪役となった新劇では仲間になっているというわけだ。だから、実はAAAヴンダーの艦内のどこかには時田もいたのではないか。あるいは、すでに故人だが生前は碇ゲンドウのネルフに反旗を翻したミサトに協力していたのかもしれない。 などと考えていたので、ジェットアローンがこういう形で登場したのはとてもうれしい。

2歳児犬の散歩したがる

主に夕方の散歩に出ようとするとき、「ポコ(犬の名前)の散歩いくー!」などと言い出し張り切って外に出て、危ないから手をつなごうとするもふりほどき、一丁前にひとりでテクテク歩き、挙げ句は犬のリードを持ちたがり、こちらは犬と子どものどちらをおさえようとすればいいのか迷い、ヒヤヒヤしながら見守っている。リードのしっかりした持ち方を教えると案外それを覚えて手首に輪っかを通してぎゅっと握りしめたりするが、当然犬が本気になればひとたまりもないだろう。もちろん犬の方はものすごく遠慮して歩く。でも一緒に散歩に出られて犬の方もなんだかテンションが上がってる印象で、いつもより速歩き。このところずっと具合がよくなく、11歳ともなればそろそろ……などと思っていたのだが、最近になって具体的な症状がはっきりわかり、それによってちゃんと合った薬も与えられるようになったためか、すっかり調子がよくなった。薬はどうやらこれからずっとあげなければならないようだが、仕方がない。こんなによくなるなら文句はない。

Evangelion Mark.44B

『シン・ エヴァ』冒頭のパリの戦いにて登場しぼくの心を奪った不気味でおもしろい44B。すっかり悪の組織が板についたネルフ側が送り込んできたやつらで、陽電子砲を担いだ4444Cに付き従う電源供給担当の機体。複数体が列を組んでグース・ステップで襲来する絵は文句のつけようがないほど素晴らしい。陽電子砲と言えばヤシマ作戦で初号機が使ったもので、今回は対するヴィレ側もヤシマ作戦で零号機が持っていたシールドに似たものを戦艦の艦底につけており、つまりは最終章に来てヤシマ作戦のちょっとした再現がされているわけだ。かつて使徒に対してともに使われたもの同士が対峙するという形で。 改めて『序』から見直してみたら、なるほど確かに44Bのこの中央上部についているのと同じものが、初号機が構える陽電子砲に電力を送るために配置されていた。これらを実用化するにあたり移動式にしたということだが、そこによく見慣れたエヴァの脚をつけてしまうところがとてもおもしろい。 またこいつらはパリの新市街、ラ・デファンスの方向から凱旋門前で作業しているヴィレ側に向かってやってくるのだが、ラ・デファンスとはかつてその地域がパリの防衛拠点だったことからつけられた名前。そんな防衛線の名を冠した街を背に、ご丁寧にグース・ステップ(言うまでもなくかつてパリにも侵攻したドイツ軍のトレードマーク)まで踏んで襲来するとは、よくできたシーンである。

『シン・エヴァ』IMAXにて2回目

久しぶりになにかに夢中になるという感覚に浸かっていて楽しい。公開日に一回見たきり10日ほどの間延々と頭の中で反芻しながら、パンフレットから抜き出したシーンを絵に描いたりして長い余韻の中にあった。かなりいろいろな映像が思い出されて考えているだけで楽しかったが、果たしてIMAXで挑んだ2回目はそんな10日間を上書きしてあまりあるほど鮮明で強烈な映像だった。どんな内容かはもちろんわかっているが、それでも初めて観ているかのような感覚と言っても過言ではない。正直IMAX礼賛型の映画の評判というのは信用していないのだが、これは確かに通常の2Dスクリーンとは別物と呼びたくなるのはわかる。そしてもちろん別物ではない。そういうふうに簡単に別物と言い切ってしまえる評価が信用ならないわけである。 それはどうでもいいとして、視界がとにかく絵で埋められる。ある意味実写映画よりもアニメーションのほうがそういった没入感みたいなものは強いかもしれない。ましてや次から次へと新鮮で強い絵を見せてくれる作品なら尚更である。ほとんど無限に近い数のエヴァの大群が押し寄せてくるところなどは本当にあの空間に落っこちてしまったかのような具合でぐわあんとする。 そんな異常空間での戦いはもちろんだが、農村の風景もさらに強く響いてくる気がした。仮称アヤナミが住人に紛れて生活している数日間を静止画だけで見せるくだりなどは、初見だと動きがない分目を休ませるような気で眺めていたが、大間違いだった。ああいうところこそ巨大なスクリーンで観ると刺さってくる。軍手をはめた手が握る不恰好に丸まったキュウリだとか、子どもたちと一緒にケンスケの授業を受けているところだとか、大スクリーンで観る絵画のような感じで目が皿になった。自分が確かにあそこにいたような気さえする。別にそれは自分が同じような(全然違うのだが)農村の出だからというわけではなく、今現在の生活も含め、映し出されている光景と同じものがいくらでもそこかしこに見つかるような気がしてならないのだ。 ついでに大きな画面のせいか、2回目なせいかわからないが、田んぼが遠景になったところであちこちで細かく小さな水紋が動いているのに気づいた。オタマジャクシかなにかのためだろうけれど、そういうところに気づけるのもうれしい。あの農村の風景は、アニメで描かれがちな「必要以上に美しい田舎」みたいになっていないところが好きなところである。状況はとても特殊だが、その中の生活をできるだけリアルに描くため、そういったフィルターを通すことはしなかったのだろう。あれだけ「土の匂い」をストーリー的にも強調しているのなら、野山を美化しそうなものだが、そうしないところが素直にかっこいいのである。だって、綺麗すぎる田舎の景色からはきっと土の匂いはしないから。美しいどころか泥臭ささえあるあのあたりの描写は、そういったためだろうと思っている。本当ならああいう景色のところではそれほど空気がパキッと鮮明でないというのもある。少なくともぼくの過ごしてきたところのイメージだが。だからあれくらい泥臭くて、ぼんやりした感じがいちばん合っている。それに、それでも美しいと感じるシーンがあったのだから、その描写で成功しているというほかない。 そんなふうにイメージと考えが押し寄せてくるわけだから、観終わって帰ってきたらずっと頭が火照っていた。一年以上映画館に行っていなかったのに10日くらい空けて同じもの観に行っているのだから、そりゃ体も頭もびっくりするだろう。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(2021) 感想

劇場まで観に行って本当によかった。エヴァを公開日に観たのも初めてだし、およそ一年振りの劇場鑑賞、やはりスクリーンはいいものだ。端的に言えばすごいものを観たという感覚。忘れられない映画体験、アニメーション体験となった。 TVシリーズの最終回と旧劇場版『Air / まごころを、君に』に新劇場版の新たな展開を合わせた素晴らしい集大成にして完結編。旧作の展開を予感させながらも、その予感が気持ちよく裏切られる感覚は、かつて17歳の夏に『破』で受けた衝撃と同じもの。同じ世界観、同じキャラクターたち、けれど少し違う表情。知っているようで知らない世界。決して同じことは繰り返さず前進するキャラクターたちの姿は、もしかしたら作り手の姿勢と同じものかもしれない。とにかく新しい映像を見せようという気概がひとつひとつの場面やデザインから伝わってきて、それでいながら馴染みのあるイメージや様式を忘れさせない。だから親しみと未知とが合わさった世界が広がり、引き込まれる。絶対に印象に残る強い画、おもしろい画があるのがエヴァの好きなところでもある。 大団円にあって驚くほどフォーカスされる人間の生活ディテールは衝撃的でさえあり、新鮮だった。おなじみの未来都市での生活ではなく、世界の破滅を生き残った人々が築いた農村での生活で、食べることや働くこと、生み育てることがかなりの濃度で強調される。極端な状況下での極端な生活かもしれないが、エヴァンゲリオンにおいては必要な描写なのだろう。土や緑、農作業のイメージは、『破』で加持リョウジがすいかを育てていた畑へと繋がり、その加持の願いこそ地球の多様な種の存続であったこと、そしてそれを託されていたのが方舟としてのAAAヴンダーだったことがわかる。『破』での海洋研究所見学もここに繋がってくるとは。この物語は最初から地球上のあらゆる生命への賛歌であり、碇シンジは自分が守るべきものをあの農村、第3村ではっきり認識したわけである。 最後の戦いを前に、集められるだけの地球上の「種子」をおさめたユニットが宇宙空間に射出されるが、これがタンポポの綿毛のような形に変形するところは本当に感動した。映像やセリフ、キャラクターの表情などいろいろな要素に感動したが、ここはいわゆるSF的感動である。タンポポの綿毛のように伸ばされた細くたくさんのアンテナ、それは種子をできるだけ遠くへ飛ばそうと(逃がそうと)する目的に合致した素晴らしいデザインだった。 多様な個々の生命とその世界を存続させようという願いと希望に溢れた物語であることに気付かされるだけでも胸がいっぱいだが、その上あれだけ絶望し抜け殻になりかけていたシンジがしっかり立って前進する展開にはもはやなにも考えることができず、ただ見ていることしかできない。生き残った人々、新たに生まれてくる生命、不鮮明な未来を前にそれでも一瞬一瞬を噛み締めて生きながらえている第3村の「生活」を目の当たりにし、ミサトや加持、アスカたちの真意にさえ気づいたシンジにはもはや迷いも恐れもない。ここへ来て本当の恐れを抱き始めるのはあの父親、碇ゲンドウである。 ヒトであることをやめて神に等しい存在になり「果てた」父ゲンドウは、最初こそ強大で絶大で絶対的な力で息子を圧倒したかのように見えたが、シンジが父親と対峙するだけでなく、歩み寄った途端にひどく矮小な内面をあらわにする。あれだけ大きくて恐ろしい存在だった父親、文字通り神同然の存在にまでなった父親が小さなただの人間に見える。それはつまり息子が大人になったということにほかならない。そして、相手に歩み寄ることを知ったシンジは、当然ながら未熟な群体である人間をひとつに統合するのではなく、個々が生きる世界を選ぶ。確かに多様ゆえの不協和音は起こる。しかし、多様であるがゆえに世界は豊かにもなる。 なによりも生きたい、そして新しく生まれてくる生命を守りたいという願いから、シンジやミサトたちは戦った。生命として自然な本能によって神になろうとした男に抵抗したその行動は非常にシンプルなものと言える。確かにこの作品は世界観や設定、ガジェットが複雑だが、根底にあるその動機はシンプルでわかりやすく、だからこそこれだけ響いてくるのだろう。少なくとも今はこれ以上あまり細かいことを考えたくないくらいには、ぼくの気持ちにストレートに響いている。 とは言えこうして書き出してみても、もっとよく確認したいという衝動がわいてきて仕方がない。もしかしたら間違えているかもとか、もっとあそこをよく見てみたいとか、一度きりの鑑賞から一週間、長い余韻の中でずっと反芻してきたが、それにも限度がある。絶対にもう一度くらいは劇場で観たいものである。 そして、『破』の公開を機に初めてシリーズに触れてから12年が経とうとし、『Q』を観て全くの未知への衝撃を受けてからも8年が経ち、その間にぼくは結婚して子どもも生まれ、まあまあ仕事もしている。そのことになにより驚いてしまうし、『Q』を一緒に観に行った素敵な年上の女性とのちに結婚するということも、あのときのぼくはまだ知らないのだ。

子ども用歯ブラシがよい

子どもの頃から歯磨きが下手で、歯並びの関係もあって汚れが取りきれず、今でもよく虫歯になる。小さな虫歯ができるたびに歯医者に行って削ってもらえばいいのだが、実はいつの間にか何箇所もできていて、痛みがないまま大きくなってしまったものさえあったりして、医者の方も一度に全部はやってくれないので、何ヶ月もだらだら通うことになってかなわない。 歯ブラシにかけている力もやたら強いらしく、普段から筆圧も強いから納得がいく。それによって歯茎が傷ついたり、下がったりしてしまう。ブラシ先の柔らかいものを使ったほうがいいと歯医者に勧められたので、そういうものを探そうと思ったものの、すぐに行けるようなドラッグストアの売り場を見ても大して種類が多いわけでもなく、妻のようにインターネットで日用品を探すセンスもない。そこでふと思いついたのが子ども用歯ブラシである。ブラシ先が柔らかく、おまけにブラシ自体も小さいときている。そういうわけで『アナと雪の女王』の若干インチキ臭いイラスト入りの小さな水色の歯ブラシを買ってみた。ちなみに売り場で物色している際に娘がそれを見ていたので、てっきり自分の歯ブラシだと思い込んだらしいが残念でした。娘はディズニー作品をキャラクター名でしか呼べないのだが、アナ雪のことは「おあふ」と呼ぶ。 果たして小さくて柔らかい歯ブラシは、歯の裏側や奥歯の側面までよく磨ける。自分としてはここまで細かく磨けたのは初めてだ。舌で撫でてみれば驚くほどツルツルである。子ども用歯ブラシを現役で使っていたであろう子どもの頃からうまくできていればなあ。

取り掛かるまでが不安

新しく仕事を始めるとき、取り掛かるまでの間がいちばん不安になる。うまくできるだろうかとか、どのくらいのペースで進められるのだろうとか、そういうことを考えるのだが、もちろんそれは取り掛かっていないから感触がわからないのであって、少しでも取り組んでみると、どんな感じかわかってあっさり安心する。そもそも取り組まずに置いているというせいで不安になっているのだから、ちょっとでもやってみればいいのだ。やってもいないうちからやる気がわくわけがなく、進めていくうちにやらずにはおれなくなる。だいたいぼくは単純なので描き出してしまえば乗ってきてずっと描いていける。というようなことに最近気づいた。

ハリーのことを全然わかっていなかった

年末あたりからあまり読み返してなかった「ハリー・ポッター」の後半6、7巻を読んでいたのだが、なんというか、刊行当時の十代の頭では全然理解できていなかった情緒や社会的要素といったものがようやくわかるようになって、一気にいろいろなものが押し寄せてきてなかなかの衝撃だった。完結から十数年経つというのに今になって改めてわかることが出てくるとは、やはり好きな本は読み返さないといけない。 なにがいちばん大きいかと言えば、ハリーたちの気持ちの揺れ動きが前よりわかるようになったところだ。基本的にはハリーの主観によって書かれる物語なので、彼の心理はもちろんだが、彼の目を通して描かれる他の人物たちのそれも、注意深く読んでいるとよくわかってくる。ロンとハーマイオニーの関係はもちろん結果としてはわかりやすいのだが、その過程、やたらとぶつかり合いながらもだんだん惹かれ合っているらしい様子などは、こんなに細かく描写されていたのかと驚く。 それを察知したハリーが、ふたりの親友の関係が新しい形を取り始めたことを、うれしさ半分不安半分の複雑さで受け取るところもまたいい。この関係がうまくいかなかった場合、また3人は以前と同じような関係を続けることができるだろうかと。 十代の頃はそれほど関心を持たなかったくだりである。だって異性の友達とかいなかったし、こういったケースに仮に自分を置いて考えてみる、といったようなことが全然出来なかった。ぼくにとって人間関係というものは種類が恐ろしく少なく(今もそれほど多様ではないが)、また自分の知らないケースへの想像力が恐ろしく欠如していた。だからこのときのハリーの不安もそれほど感情移入できるものではなかったのだろう。というかこんなところ当時読んだ記憶がない。そこで、当時の自分がいかに情緒的に乏しかったを思い知る。こんなにはっきり活字で書いてある心理描写にもピンと来ないのだから、実際のコミュニケーションでそれを読み取るなんて無理な話である。そして、もし当時から最低限でもその力があったなら、もっとハリーたちを身近に感じていたことだろう。ぼくはずっと彼らを本物の友達のようによく知っているつもりだった。多くのポッタリアンたちがそうだと思うが、自分もまた彼らの同級生であるかのように感じながら読んでいた。しかし、全然わかっていなかったのだ。せいぜい教室の反対側にいる、一度もしゃべったことのないクラスメイト程度である。 とても悔やんでいる。もっとちゃんと読んでくるべきだったとか、もっと人付き合いをするべきだったとか、視覚的な空想だけでなく人の気持ちを想像するべきだったとか、いろいろなことを悔やむ。もちろん今からでも遅くはない。ようやくこれだけのことを読み取れるようになったのだ。確実に進歩はしていると思う。そして、今からでもハリーたちのことを知ることもできる。後半だけと言わず最初から全部、何度も何度も読み返そう。

無駄のない線

元旦、というか大晦日の深夜に書いたきり日記記事を全然書いていなかったのでそろそろ。イラストはそれなりにアップしていて、キャプションついでにいろいろ書いているから、もっと全体をブログっぽく変えていったほうがいいのかなあ。 今年もおかげさまで初っ端からずっと絵を描いているのだが、仕事であれプライベートであれ、ブラシ先の設定に悩んでしまうのは相変わらず。こういう感じの線のほうが全体の密度がいいのではないかとか、雰囲気が出るのではないかとか、場合によってはここはできるだけ均一な線で描いてほしいという依頼もあるが(こう言われてしまうのはやはりぼくの手法が目に見えて定まっていないからだろう)、いずれももっといい絵にしたいからにほかならない。しかし、いい絵とは線がどうこうより当然ながら内容、技量、センスである。描きたいものと手法が合致しているのに越したことはないが、少なくとも先に手法を決めようとしても仕方がない。いやもうこんなこと何度も自分に言い聞かせるように書いていることなのでいい加減にしたいが、結局のところ道具ややり方はシンプルなものでいいということにいつも落ち着く。 シンプルと言えば、よく「無駄のない線」みたいな表現がある。無駄な線なんてないだろうと思うのだが、もちろんこれはそのひとの絵においての話であって、別に線をいっぱい描き込むこと自体が余計なことだというわけではないだろう。それじゃあまるで線をいっぱい描くのが損というようなことになってしまう。線の少ない簡潔な絵もたくさん描き込んだすごみのある絵も、かりに値段が一緒だったら線の単価は前者のほうが高いということになってしまう。もちろんそんなことは馬鹿馬鹿しい。どちらの絵も描き手にとっての労力はおそらく同じで、前者も別に簡単に描けるというわけでもなく、後者もまたそのひとにとっては最も描きやすいやり方だったりするのだ。効率ばかり考えて出来ることではないのが、この仕事の悩ましいところだろう。でも、線の単価は上がらなくとも、自分にとって余計なものだと思う要素を削っていったら、描くものそれ自体の価値自体は上がるんだろうな。

簡単に振り返る

年が明けてしまったが、今年なのか去年なのか微妙な時間帯に簡単に振り返ってみると、個人的には結構忙しくてあっという間な感じだった。とにかくたくさん描いたものだ。春から夏頃までが特に大変で、それ以降は少し落ち着いてはいたが今に至るまでやはりなにかとかかりきりだった。もちろん生活のためには常に仕事が必要だが、それにしてもあまりずっと仕事ばかりだと自分からなにか作りたいものを考えることを忘れてしまう。こうしてポートフォリオを見返してみても、自主的に描いたものの少なさに驚く(描いたもの全てを載せているわけでもないが)。仕事であれだけ描いていれば仕方がないことだが、今年はもう少し能動的に活動できるようにしたい。 目の前の仕事に取り組むのでいっぱいいっぱいで、経験や技術は積み重ねられるものの、どうも表現手法が伸び悩んでいるというのが、一年を通して感じたことである。仕事ごとに出せる限りのものを出しているつもりだが、さらにもう少しよくできるのではないかと思うことは少なくない。自分の期待するイメージと実際の技術との間にズレが生じるときこそ自分が成長している最中であるということはなんとなくわかっているのだが、わかっていてももどかしさを感じずにはおれない。そしてこの場合そのズレを埋めるのに必要なのが、もう数段階進んだ表現手法なのだろうと思う。とにかく求められたものを描くだけでなく、求められたものをどう描くかを、もっと考える必要があるだろう。発想を鍛えなければならない。 数少ない作業環境の変化と言えば、新しく昇降式デスクと、液晶ペンタブレットを導入したことだ。前の机は座高に対して若干低かったので、座った状態で天板の高さが満足なところに調整できるだけでもだいぶ楽になったのだが、立ったまま作業ができる高さまで上げることで、ひとつの姿勢で体がかたまることを防げる。もっとも、ついつい座りっぱなしになってしまうのだが。しかし以前のような疲れを感じなくなった。 液晶タブレット、通称液タブの方はついこのあいだ、12月に入ってから使い出したのだが、本当によく言われているようにもっと前から使いたかったと思うほどの感動を覚えている。ペンタブ自体を使い始めて10年ほどになり、自分では相当慣れているつもりだったのだが、直に画面にペンを走らせる液タブに切り替えてみて、普通のペンタブがとても描きづらいものだったというのを痛感した。もちろん長い間助けられてきて、自分のキャリアはペンタブによる描画抜きでは語れないのだが、やはり手元に描いたものが前方の画面に現れるという空間的な距離、ラグはどうしても人間には違和感を拭いきれないものだったのだろう。うまく説明できているかわからないが、液タブはもっと体感的に描けるような気がするし、描いているもののサイズや画面の中の密度も掴みやすい。こちらもこれまで感じてきた疲れが一気に解消された。力を抜いて描くことができるようになったので、必要以上にかけていた筆圧も弱まり、手も楽になった。 意識や道具が整ったところで、より一層好きなように好きなだけ描いていきたいと思う。

初歩的な間違い

インスタグラムで絵をアップするとどうも画質が著しく低くなるのを、これまでインスタグラムはその程度のもの(拡大して見られるほど鮮明な画像をあげるサービスではない)ということでしょうがないと思ってきたのだが、どうやら推奨サイズにあらかじめリサイズして投稿すれば、とても鮮明というほどではないにせよ、拡大してもある程度見られるくらいにはなるということがわかった(少なくともガビガビにならない)。 なんのことはない、推奨サイズを無視して大きな画像をそのままぽんぽんアップしていただけである。自分でもどうして推奨サイズをあまり意識してこなかったかよくわからないが(縦横比や幅を合わせることばかりに意識が行っていたのだろうか)、初歩的過ぎて恥ずかしい限りだ。一体何年インターネットやっているのだ。ツイッターその他のサービスではだいたいリサイズしなくとも大きなサイズでそのままアップすることができたので、以前はあったリサイズするという習慣がなんとなく抜け落ちてしまっていたのだろう。 今までアップしてきたイラスト全てをやり直したい気分である。ましてや最近はなかなか気合いを入れた「マンダロリアン」のレビューなどもアップしていたのに、あんなガビガビのままなのは気持ちが悪い。道理でほかのひとたちの画像はそれほど画質が落ちていないわけだ。とてももったいない気分だが、2020年最後の最後にひとつ勉強になった。大抵そのままアップできたり勝手にリサイズしてくれたりするようになったとは言え、推奨サイズは軽んじてはいけない。

The Mandalorian :Chapter 16 – Post Credit Scene

ボバ・フェットってそういう願望があったのか、と少し意外ではあったのだが、しかしよく考えてみればクローンであるという負い目から大きな野望があってもおかしくない。初めてマンドーの前に姿を現したときには『クローンの攻撃』でジャンゴが言っていたのと同じ「銀河に足跡を残したい」という言葉を口にしており、ある意味オリジナルであるジャンゴよりもその言葉は切実だったかもしれない。自分の複製が銀河中で戦い、やがては蹂躙し、征服するまでになったジャンゴに対し、それに匹敵、もしくは超えるくらいのことを成し遂げるには、ジャバ・ザ・ハット級の犯罪王になるくらいでなければ……というわけだ。おそらくジャバなど軽く超える気でいるだろうが、果たしてどんなクライムロードになるのか。『ザ・ブック・オブ・ボバ・フェット』、楽しみである。

The Mandalorian :Chapter 16

絶体絶命なところでXウィングがやってきたときに、まさかとは思ったがそのまさかであった。今シーズンでXウィングと言えば新共和国軍のパイロットのおじさんのイメージなのだが、どっちかなと思わせてのルーク・スカイウォーカー登場というのも小憎い。デジタル技術でマーク・ハミルの顔が若返っているわけだが、ギリギリまでずっとフードで顔を隠して戦うというのも、技術上の都合(あまり長々と見ていると違和感は出るだろうと思う)と偉大なジェダイがとうとう現れたという演出上の効果が一致していてとても自然だ。今シーズンはとにかくジェダイにたどりつくための手がかり集めで、アソーカ・タノこそゴールかと思われたのだが、結局彼女は元ジェダイでしかなく、本命登場のための振りだったわけである。本当に全てがルーク・スカイウォーカーそのひとの登場のための準備だったと思えるほどスマートな語り口だったが、もちろんマンドーと「子ども」の物語もいったんの終息を迎え、それがまた綺麗だった。一体あんな別れ方をして、シーズン3はどんなお話になるのか。

The Mandalorian :Chapter 15

メイフェルドのキャラもいいのだが、<スレーヴI>回でもあったと思う。まずあの独特の離着陸の仕方で内部がどういうふうになるのか。操縦席や乗員の座席は機体の動きに合わせて可動するというような設定はプラモデルを作ったことがあったのでなんとなくわかっていたが、実際に映像で見られてうれしい。部屋ごとぐるっと動くという結構大掛かりな様子だった。 そして終盤、帝国軍の追跡を振り切るために機体の裏側から放つサイズミック・チャージという爆弾。『クローンの攻撃』でもジャンゴが追ってくるオビ=ワン・ケノービの機体に向かって放ったが、これが爆発するときの音はプリクエル三部作の効果音の中でも特に好きなものだ(ほかにはポッドレーサーのエンジン音であるとか、ジオノージアンの声、ワット・タンバーの与圧服の音、ドラゴン・マウントの鳴き声などいろいろ)。同じ武器をボバがTIEファイターに放ち、同じ音、同じ破壊力を耳と目で感じられるとは。ボバ時代の<スレーヴI>が戦うところが見られるのが楽しい。 マンドーが教えられてきた掟では、人前でマンダロリアンのヘルメットを脱いで顔を晒してはいけないことになっているのだが、今回は帝国軍の基地に潜入するために変装をしたり、端末の顔認証のために人前で顔を晒すことに。そもそも自分がよりどころにする教義に従って「子ども」をその同胞のもとに返そうとしていた彼が、だんだん「子ども」を守るために教義が要求するルールを曲げ始めるのがおもしろいところ。すでに彼は自発的にそうしたくて「子ども」を救おうとしているという印象。もちろん異なる派閥に属していたボ=カターンや、父親の意志とともにアーマーを受け継いだボバといった自分がそれまで知っていたのとは少し違うマンダロリアンたちとの出会いによって、心境に変化もあったことだろう。SWシリーズお約束の「帝国軍トルーパーへの変装」が、マンドーの場合にはこういった葛藤もセットになるというのも本当にうまいこと出来ている。

The Mandalorian :Chapter 14

 ボバ・フェットのオリジナルかつ父親であるジャンゴ・フェットは、孤児だったところをマンダロリアンによって戦士として育てられ、戦士たちが滅んだあとは賞金稼ぎの道を歩んだ、という設定は以前からあったが、ディズニーによる買収やシークエル三部作制作決定とともに従来の映画外メディアで紡がれてきた設定群がいったん白紙化されてからは、果たしてジャンゴが正確にマンダロリアンなのか、それともマンダロリアンの装甲をまとっただけの傭兵に過ぎなかったのかが、フェットのファン、マンダロリアンのファンにはだいぶ気になるところだった(だろうと思う)。 個人的には新しい設定がなんであれ好きなように解釈するつもりでいたのだが、このたび晴れてジャンゴは旧設定と同様にマンダロリアンに育てられた孤児ということが明らかになり、このあたりは落ち着いたように思う(マンダロリアンの歴史についてはだいぶ変わっている)。マンダロリアンに育てられた孤児、というのは主人公マンドーとも共通しており、彼の背景や、マンダロリアンとは種族名であると同時に教義でもある(つまりは異星人でもなれる)というような明言は、ある程度ジャンゴへの伏線になっていたと思う。 いずれにせよボバ自身はクローンなので、ジャンゴのルーツがどうであれボバはボバ、とも考えられるのだが(ボバ同様ジャンゴの遺伝子から作られた無数のクローン兵士たちをマンダロリアンとは呼ばないように)、それでもジャンゴに育てられた彼は父親のアイデンティティを受け継いでいると自認していたらしく、これがわかっただけでもだいぶ熱い。クローンだが息子同様に育てられ、名前と個性を与えられながら、自分や父親と同じ顔をした兵士たちが大量に消費されていくのを目の当たりにしてもいる彼は、自分の存在や人生をどうとらえているのか。掘り下げたらおもしろそう。

書く日を決めるしかないのか

仕事や絵の更新はともかく全然ブログが書けない。サイトの形を新しくしてからそろそろ一年経つが、こんなに書けなかった年も珍しい。前のブログだと絵や仕事の報告の記事もカウントされるから数が稼げてたところはあるが。雑記はしばらく書かないと本当に書かなくなってしまう。 とは言えプライベートなノートの書き物はそこそこやっていて、今年は2冊ほど消費したのでまあまあ書いたと思う。誰に見せるでもないノートは思考の整理になって大変よい。多分そこでの書き物に満足しているから、こちらのほうが疎かになったのかもしれない。それから、今年はやはりなにかと日常について書きづらい。生活について思うところを書くのがどうにも躊躇われる。出来事を単純に書くのでもいいが、出来事となると結局子どものことになったりして、それもなんだかありのままを書きづらい。妻が職場に復帰したので出勤日の日中はぼくが子どもを見ているのだが、ぼく、子ども、犬で過ごしているあの時間も、別にやましいことはないが克明に書く気にもならない。そんなもので遊ばせて大丈夫?などといちいち言われては敵わない。結局ぼくも言われてもいないことや見たこともないようなひとを恐れるようになった。くだらない。しかし本当に平穏さを得たいなら、なにも書かないことが一番でもある。でもそれじゃあつまらないので、ぼくはぼくの書くことや書き方をもっと身につけなければならない。 気軽に書くブログというのを念頭に置いていたけれど、そんなことでは半年くらい放置してしまうことになるので、ここは無理にでも書く日というのを決めて、なにもないならなにもないなりに書くようにしたほうがいいのかもしれない。今がそうなんだけど。

The Mandalorian :Chapter 13

 
 脚本も監督もデイヴ・フィローニということで完全に彼のやりたいことを発揮した回。低い彩度の中で焼けた木々や寂れた家屋が並ぶ様子はもちろん黒澤映画風。アソーカの登場はもちろんだが、ジェダイだった彼女の登場によりこれまで知る由もなかった「子ども」の正体、バックグラウンドが判明するところも大きいと思う。アソーカにさえ会えればなんとかなるという一心でここまでやってきたものの、結局彼女は「子ども」を引き取るのを断るのだが、よくよく思えばもう彼女はとっくにジェダイをやめているので、実は「子ども」を育てる義理も資格もないのである。マンドーの言うところの「仲間のもとに返す」ことにならないのだ。そういうわけで再び新しい目的地を与えられてともに旅を続けるマンダロリアンとその小さな相棒であった。

The Mandalorian :Chapter 12

始まりの地に戻るということで、シーズン1初回で主人公の賞金稼ぎ稼業を説明するためのお尋ね者だったミスロルが再登場。借金返済のためカール・ウェザース扮するカルガ監督官にこき使われているが、その関係で今回はパーティの一員に。活躍というほどもこともないけど、なかなかいいキャラクターとして昇華していた。すでに一度出てきたキャラクターをうまく使うとおもしろい。しかし、ミスロルというのは種族名らしいので、ここまでのキャラクターになるなら個体名つけてもよさそうなのだが。まあそのあたりがあっさりしているのも本シリーズらしさでもある。 渓谷でのチェイスは本当にゲームっぽくて、自分がプレイしたことのあるやつだとPSの「レベル・アサルト2」なんかのステージを思い出した。チェイスではないが操作するのがTIEファイターなので渓谷との組み合わせに既視感がある。出来上がった映像がゲームっぽいというよりは、これまでSWの外伝ストーリーを映画以外で視覚化・映像化してきたものの多くがゲームなので、参照先がそれになるか、同一世界観で同じ発想をすると自然と似た絵になるのか。いずれにせよSWゲームはその世界観に奥行きを与えてきた。 秘密のラボでマンドーたちが発見するのはタンクの中で培養されているなにか。これがクローン的なもので、その研究に「子ども」の血液が必要であることから、恐らくのちに最高指導者スノークや復活を目論む皇帝の肉体となるものなのだろう。台詞で登場する「血液中のM値」のM値とは恐らく、肉体とフォースの結びつきに深く関係する生命体ミディ=クロリアンであって、つまりはクローンを造るのにフォースの強い者の血が必要というわけだ。説明の不足していた『スカイウォーカーの夜明け』への伏線を張ることで映画の補強もこなしてしまうとは、さすがである。

The Mandalorian :Chapter 11

アニメを観ていないひとは若干置いてけぼりになるのではないかという懸念もあるにはあるけれど、逆に関連設定を俯瞰していないひとのほうが主人公マンドーの主観に移入して作品を体験できるので、そちらのほうが貴重な気がする。CWを手掛けたデイヴ・フィローニが関わっていてマンダロリアンがテーマである以上(フィローニのトレードマークであるテンガロンッハットにちなんで帽子バースと呼ばせてもらう)、黒いライトセイバーやマンダロリアンの氏族などがある程度絡むのは仕方ないとは思うが、ある程度におさえてほしいところである。シーズン1でこのドラマ独自の雰囲気、世界観を作れたのだから、変にアニメの世界を持ってくることはないと、個人的には思うのだが、もしもシークエル三部作等の新作映画がなければCWがあのままSW拡張世界の先端であり続け、もっと言えばメディアミックスの中心であっただろうとも思うので、今更言っても仕方がない。とっくの昔にSWはCWによって生きながらえていたところはある。

帝王ザーグ

USディズニーストア から並行輸入の帝王ザーグ。買ってばっかりなのもよくないのだが、これは本当にかっこよくてトイ・ストーリーコレクションをやるなら絶対おさえたいと思っていたのだ。キャラもかっこいいしトイとしてもかっこいい(この作品においてそのふたつは同義なのがいい)。言うまでもなくダース・ヴェイダーのパロディキャラなのだが、それを越えたオリジナリティが十分に確立されていて、顔といいフォルムといい見事である。腕や腰、胸部の体型などになんとなくバズ・ライトイヤーとの共通点があるのも、実は親子という設定に則していて細かい。残念ながら右腕のシューターは飾りで、撃つことはできない。一応背中に弾薬となるボールがいっぱい収納されていて、ボタンを押すと弾倉が回転するようにはなっている。よくよく思えば背中の弾倉から伸びているチューブを通ってボールが発射されるというのも、先行のバズ・ライトイヤーの現実的なギミックに比べるとやや無理がある。そのあたりが主人公に比べてちょっと緩め。 パッケージはバズ・ライトイヤーのものと揃えた形、ただバズのよりはひとまわり大きい。下のほうにエンジンノズルらしきものが描かれているので、これも一応宇宙船やロケットを模しているのだろう。劇中パッケージ再現ではあるがこういうUSトイ感、それも作品の年代から90年代のUSトイの雰囲気なので最高だ。小さくて繊細な作りの玩具が増えていく中でこういう雰囲気を楽しめるのは貴重だと思う。トイ好きにはディズニーストアものをおすすめしたい。 目と口を光らせてしゃべる。特に口が光るのがいい。一連のトイ・ストーリーものの中では一番お気に入りである。 ポテトヘッドを忘れたがとりあえずこんな感じ。見ての通り結構な大きさ。特にレックスとザーグはそれなりに大きい。映画のようにそのへんをこそこそ動き回るにはかなりの存在感。まず物音がすごいと思う。  

レックス

ウッディとバズに続き、ディズニーストアで出ているレックス。やはりまずはオリジナルのメンバーを揃えた方が並べて絵になるし、このザ・恐竜な感じがよい。背中に変な黄緑色の吹きかけがしている以外はまあまあ満足。背中のボタンを押すと顎と腕が連動して動き、セリフを発する。吹き替えで観てる回数の方が多いせいか三ツ矢ボイスじゃないとなんとなく違和感だが、それだけあの声はこのキャラクターに馴染んでいるのだなあ。タカラトミーが出しているバージョン(シンクウェイ版だろうか)も手ごろな大きさだが、このDストア版のほうがグリーンの感じや光沢が映画のものに近い気がする。塗りなどに安っぽいところもあるけれど、そもそもアンディのおもちゃたちの大半は大味なUSトイの世界観なので、これくらいのグレードがむしろ正しい。

小学8年生付録のティラノサウルス

「小学8年生」10・11月号の付録、ティラノサウルス骨格のプラモデル。実は学年誌というのを買ったのは初めてなんだけど、小学生のあいだにこういうのを読んでおけばよかったなと思う。結構いろんなことが小学生にわかる形で簡潔に書いてあっておもしろい。時事問題についても、大人の読み物だとやたら複雑だったり入れ込みすぎたり懐疑的になったりするが、小学生の読み物だから全てがとにかくシンプルでフラットに書いてあってわかりやすかったりする。 背中を伸ばしたクラシックなポーズ。 同じくクラシックなタミヤのキットと。足とか体型を見てもわかるようにタミヤのこれは恐竜というより怪獣だよね。

The Mandalorian :Chapter 10

監督が『アントマン』で脚本が『アイアンマン』というのは個人的にとても刺さるところがある。ずいぶん緩めの話ではあったけれど、締めるところは締めるという感じで、ドラマチックでもあった。特に新共和国軍のXウィングとのチェイスや、その後のやりとりは、不時着した惑星で遭遇した巨大蜘蛛との戦いよりも見せ場としては惹かれる。帝国軍のパイロットだったら問答無用で撃ち落としそうなところを、Xウィングのパイロットは追いかけながら「撃たせないでくれ!」などと言って制止しようとする。しまいには十分容疑があるマンドーに対し、情状を汲んで見逃す(積極的に助けようとはしないバランスがよい)。前シーズンもそうだったが、健在な新共和国のディテールが垣間見えるところはこのドラマのおもしろいところでもある。新共和国も帝国残党ものちの後継組織とはえらい違いなのだが、30年も経つとああも劣化してしまうのか。まあそれはいいや。 緊張感溢れる交信ののちマンドーの正体を知って攻撃体勢に移るXウィングだが、映画ではお馴染みのSフォイル展開というモーションを、緊張を破り危険を知らせる演出に使うのには感嘆した。市民や味方でない者にとっては強力な火力を積んだ立派な軍用機であることを改めて思い知らされる。 実はカエルの奥さんも、サバック・ゲームをしているでかい虫も、前シーズンのカンティーナのシーンにも姿を見せていた。特にカエルはあとでこういうふうに使うつもりだったのか、既出の中からよさそうなものを選んだのか。大きなカエル、大きな虫、みたいな単純さがなんだかんだいちばんわかりやすくてすっと入ってくるデザインになるのかも。

The Mandalorian :Chapter 9

「シーズン2第1話」と通し話数で「チャプター9」のふた通り呼び方があって面倒なのだが、ぼくはチャプターとほうをメインにしたい。「タトゥイーンにマンダロリアン がいる」と言われたら当然カークーンの大穴に落下したはずのボバ・フェットを連想するのだが、それを逆手に取った展開が上手。現れたのは確かにボバのヘルメットやアーマーを身につけてはいるが全然違うシルエット。 ジャワ族からボバの装備を手に入れたこの保安官なる人物、ボバのアーマーを借りてきただけなのだが、塗装の剥げ具合やジェットパックのダメージ、彼なりの着こなし方から立派に別のキャラクターが確立されているのがすごい。ジェットパックのロケット弾で悪党たちをスピーダーごと吹き飛ばすシーンは、アイアンマンが初陣でテロリストたちを退治するシーンと構図がそっくりで、さすがジョン・ファヴロー監督作。全体的にも映画並みの高級感が溢れ、巨大なクレイト・ドラゴンと小さな人物たちが同居する画面の構成、マンドーと保安官がジェットパックを自在に使って巨獣と渡り合うアクションなども目を見張る。着ているひとが違っても、ボバ・フェットの装いとマンドーの共闘は感動を覚えずにはおれない。やっぱりボバ・フェットの生みの親のひとりでありジェットパック好きのジョー・ジョンストンにも1話くらいは監督してほしくなる。 ジャワがサルラックから逃れたボバ・フェットの第一発見者だったらしいことは昔のコミックと同じ。アイデンティティであるアーマーを自分から捨てることはなさそうなので、水やなんかと引き換えにジャワに渡したのだろうと考えられるけれど、いずれは取り戻すつもりでもあるような気がする。5年もの月日が経っていることを思えば、すでにジャワがそれを手放していることは知っているのかもしれず、鎧を追って砂漠を彷徨っていたのだろうか。いずれにせよ今やそれを取り戻すには、マンドーと対峙しなければならない。

ディズニーストア のウッディとバズ

お誕生日ディズニーパークからの帰り道、イクスピアリの中にある大きなディズニーストア で前から気になっていた『トイストーリー』のふたりをまとめて買った。とりあえず誕生日のトイはこれで決まり。『トイストーリー』はおもちゃが主人公なので、関連商品のおもちゃも劇中に登場する彼ら自身ということで、ほかの映画のグッズとはちょっと意味合いが違って、劇中の彼らそのものを手に入れるというような感覚で楽しい。これまでこの手の等身大グッズが出るタイミングというのは何度もあったわけだが(特に10年前の3作目のときに買わなかったのは惜しかった)、昨年4作目があったおかげでようやく自分で手にすることができた。 このキャラクターたちの等身大おもちゃといえば、1作目の頃からシンクウェイ(日本ではタカラトミーが代理)というメーカーが出していて(ミスター・ポテトヘッドやバービーなど映画以前から実際に存在していた物に関してはそれぞれのメーカーからそのまま出ている)、ぼくは1作目のタイミングで出たバズ・ライトイヤーだけはもらいもので持っていた。普通のバズとは違い、本来黄緑色の部分が黒、白い部分がクロムメッキになっている特殊なバージョンでかっこいいのだが、ウッディと並べるとなるとやはり通常版がびしっと合うということで、揃いで欲しかったのだ。由緒正しいシンクウェイもいいのだが、やや値段が高い(2体揃えるなら尚更かさむ)。それで、あるときディズニーストアを覗いたときにディズニーストア ブランドのものが出ていたことを知って、ずっと気になっていたのだ。造形はほとんど変わらず、機能としてはしゃべるセリフの数や種類がやや違う程度(ディズニーストアのほうがずっと少ない)。値段はそれぞれ3800円税別で、2体でやっとシンクウェイ版1体の値段を少し超える程度。もちろんよくよく観察するとシンクウェイよりも少しチープな感じもあるのだが、ぼくとしては全然申し分ない。しゃべるセリフの量など別に気にならない。お人形遊びでは自分でしゃべってきたからね。シンクウェイを選ぶ方が、もしかしたら王道かもしれないが、もう少し他のものを試してみたいというか、『トイストーリー』のものが少し欲しい、という程度なのでこれくらいでちょうどいいと思った次第。なによりディズニーパークの帰りにディズニーストア で買い物するというのが気分としてとてもいい。 まずウッディ。布で縫われたところが多いので安っぽさは結構際立つが、劇場の雰囲気は十分出ていて、なによりこの手に持ったときのくたっとなる感じがいい。顔もかわいい。ほんとは「おもちゃ」の状態なら口は閉じているのだが、かわいいからよしとしよう。劇中のようなおもちゃモードの表情だと少し不気味に思われるのだろうか。しかし1作目は不気味さもポイントだと思う。音声は英語でトム・ハンクスの声でしゃべるのだが、セリフのレパートリーが完全に4作目準拠で、やたらとフォーキー(4作目のキーキャラクター)絡みのセリフを発する(「君はゴミじゃない!」とか)。おもちゃとしてのウッディが欲しい身としては、キャラクターとしてのセリフではなくおもちゃとしての決まったセリフ(「おれのブーツにゃガラガラ蛇」とかのやつ、うろ覚え)を聞きたいのだが、前述のようにそのあたりはしゃべったらいいな程度なのでまあいいか(個体差かもしれないが背中の紐の接触が若干悪く声が出ないことも)。4作目はおもちゃとしてのしゃべる機能を奪われる話でもあるからこういう仕様なのかもしれない。ブーツの裏にあるのはボニーの名前で、これもシンクウェイ版ではアルファベットのシールが付属して自分の名前を入れられたりするのだが、あくまで4作目の関連商品なので仕方ない。ブーツの作りも若干安っぽく見えたが、調べるとシンクウェイ版と大して変わらないようなので、こんなところだろう。全体的には気に入っている。 本来ウッディが欲しく、ウッディが来るなら色違いでなく普通のバズも欲しいという感じでついでに近かったのだが、出来としてはバズのほうがかなりいいと思う。造形はやはり前から持っているシンクウェイ版とほとんど変わらない。若干プラスチックの質感が安っぽいが、やはり値段ゆえだし、これは90年代と今とではおもちゃ全般がそうなっている。シンクウェイでは関節の中に金属が入っていたくらいでだいぶ頑丈だったが、最新のシンクウェイ版もそうなのかどうかはちょっとわからない。ただその分こちらのバージョンは関節が柔らかく動かしやすいと思う。ボタン類は劇中同様全て押せて、ウッディに比べるとセリフの量も多く、なによりおもちゃとしてのバズのデフォルトのセリフになっている。左胸の赤いボタンで背中の翼が展開するのだが、この展開の仕方が、下側に縦向きに下がっていた翼が上にカーブして持ち上がる形で横に広がるという、つまり劇中と同じ展開の仕方をする。シンクウェイ版では翼がただ横向きに収納されていたものがそのまま飛び出すという形になっているので、これに関してはシンクウェイよりよくできている。そしてうれしいのはヘルメットの開閉が横のボタンでワンタッチで出来るところ。これもシンクウェイ版では手動だったので得点である。 手に取ってみるとウッディよりバズのほうがよくできているのだが、この違いは『トイストーリー』の源流にあるこのふたりの違いとして正しいものとも言える。バズのほうがハイテクな機能があって、わあすげえ!という印象を抱かせて当然なのである(その分ウッディには50年代に作られた貫禄、ヴィンテージ感がなければふたりは互角にならないのだが)。古いおもちゃと新しいおもちゃという違いを見せるのに、カウボーイと宇宙飛行士というモチーフにしたのは本当にナイスだと思う。新旧がわかりやすいし、なによりこのふたつはアメリカの子どもたちの遊びの変遷、ヒーローの変遷において象徴的な存在だったからだ。宇宙競争の激化や月面着陸の快挙によって、宇宙飛行士がそれまでヒーローだった西部劇のガンマンに取って変わったという史実的なムーブメントを、そのままアンディというひとりの少年が持っているおもちゃたちの交代劇に落とし込んだわけだ。 漫画「ピーナッツ」にとてもわかりやすいエピソードがある。おなじみチャーリー・ブラウンがカウボーイハットをかぶって座り込み、ため息をついていると、通りかかった子がどうしたのかと尋ねる。するとチャーリー・ブラウンが「みんな宇宙ごっこに夢中なんだ」というようなことを答え、彼が指し示した先ではほかの友達たちが金魚鉢ヘルメットをかぶってレーザーガンのおもちゃを撃ち合って遊んでいるというオチ。実際の漫画が手元にないので細かいところは違うかもしれないが、とにかく気の毒なチャーリー・ブラウンが例によって流行りに乗っかれずにひとりぼっちになっているという筋。この子どもたちの遊びの移り変わりがウッディとバズのバディ像へとつながっていくのだ。

お誕生日ディズニー

妻がぼくの誕生日にディズニーランドに行こうと言ってくれたので一家3人で行ってきた。ただディズニーランドに行くだけではない。前日から行って夜はディズニーのホテルに泊まり、そこで誕生日を迎えて、翌日はシーで遊ぼうという壮大な計画である。誕生日にディズニーランドに行くだけでもすごいのに、泊まりで続けてシーまで行くなんて普段の頭では考えられない。ぼくはもうすっかりレジャーとは無縁な日々をおくっていたので体や頭がついていくかと不安もあったけれど、遊びへの復帰としてこれほどのものはほかにないだろう。 天気は台風接近ということもあり両日とも雨だったが、心配していたほどではなく、ただひたすらぱらぱらしとしとと降っていた。雨のディズニーは初めてではないからなんとなく想像はできたし、思えば誕生日はいつも天気が悪い。去年も台風だったし、10年前19歳になった誕生日も土砂降りだった。そもそも生まれたときも台風で、そういう時期なのである。 予約を取った頃ちょうどオープンした新しい「美女と野獣」エリア。完全予約制かつ雨で人出がそれほどない中、ここはやはり多少混み合っていた。アトラクション自体の予約は取れなかったので外の街並みを素通りしただけだが、よく出来ていた。既存のランドの背景に比べて、どちらかといえばシーの方に近い気合の入れ方。あちこちの窓からボンジュール!と陽気な(それでいて中身がなさそうな)住民が挨拶してきそうなあの家々が再現されていた。
オーディオアニマトロニクスでなく本物のカラス
ぼくはそれほどこの新エリアに関心はなかったけれど(今後予定されているシーの拡張のほうが惹かれる)、これのおかげでディズニーランドにおけるぼくの地理感がちょっと狂ってしまって、方向音痴ながらディズニーパークの中ではそれなりに方向を覚えていると思っていたのだが(そういうふうに出来ている)、しばらく行っていなかったからなのか、一角がかなり大きく拡張されたからなのか、雨で視界がよくなかったからなのか、多分その全部だろう。ときどきわけがわからなくなった。人の流れが若干変わってしまったのかもしれない。「ベイマックス」等のアトラクションのためにトゥモローランドのランドマークとも言うべきロケットがなくなってしまったのは残念だ。 これはディズニーブランドのキャラクターを大幅に追加した「イッツ・ア・スモールワールド」もそうだけど、かつてあったような世界や技術への探究よりもキャラクターコンテンツに比重が寄ってきてしまっているのは、正直に言えば寂しく思う。ぼくもキャラクターは好きなので言えないが。ディズニープラスで配信されているディズニーパーク建造の歴史を紐解いたドキュメンタリー「イマジニア」なんかを観ていると尚更そう感じる。まあ、ぼくが遊びに行くようになってからはもうとっくにキャラクター主体になっているので、体験しえなかったものへの郷愁に過ぎない。とりあえず「ベイマックス」のアトラクションにはなんら惹かれるものがなかった。作中の舞台であるサンフランソーキョーの街並みが再現されているならともかく。 予想はしていたが、どれだけ地味なアトラクションであっても2歳の娘が急に楽しんで乗れるわけもなく、彼女のご機嫌をとりながら雨の中こっちへ行ったりあっちへ行ったりしているうちに、ランドでの初日は終わった。結局乗ったのはアリスのティーカップ(これを最初にしたのがまずかった)、「プーさんのハニーハント」(これはそこそこ喜んでいたがクライマックスの悪夢のシーンで怯えていた。ぼくも怖い)、そして「イッツ・ア・スモールワールド」くらい(まあまあお気に召したらしい)。それから閉園間際にぼくだけで急いで乗ってきた定番「ホーンテッドマンション」。実はハロウィンのシーズンに通常版の「ホーンテッドマンション」に乗れるのはなかなか貴重(感染症対策でハロウィンの模様替えやイベントは中止)。いつ頃からか、9月から年末年始までずっとジャック・スケリントンに乗っ取られるようになってしまったので(もちろんあれも好きだが、いろいろと明る過ぎて本来のホーンテッドらしさが全然ない。あれこそ別個で作ればいいのにな)、いい体験ができた。しかも夜になって乗ったからか、周囲はもちろん内部も一段と暗い気がした。 ディズニーに来てこれしか乗ってないなんて初めてで、そりゃ物足りなさもあったけれど、かえってなんだか贅沢な過ごし方をした気もする。身動きもある程度取りづらかったので、見に行っていない一角もいろいろある(ところどころ閉鎖になっているから尚更そう感じたかもしれないが)。こうして思い返すと、あそこも行っていない、あれも見ていないなというのが結構ある。そうしてまた行きたくなってくる。 ホテルはアンバサダーホテルに泊まった。去年友達の結婚式があったところだが、誕生日に泊まることになるとは思ってもみなかった。ディズニーのホテルは初めてディズニーランドに来た5歳のときにも泊まった気がするが、あれはどこだったのか全然わからない。部屋のテレビはディズニーチャンネルが通じているので寝るまでずっと観ていた。翌日のディズニーシーのチケットもフロントで取れてほくほくである(ホテルに泊まるとチェックイン日以外の日のチケットをフロントで取れるようだ)。ここではなにも心配する必要がないのだという、この頃は感じなかった安堵感。当然一時的なものでしかない。頭のどこかでそれはわかっていながら、しかしその一時の安心がなにより必要なのだ。
これは取っておこう。
  二日目、誕生日当日のシー。依然しとしと雨。初日よりは弱い。風のある雨じゃないのが本当によかった。続けて行くと顕著だが、ランドに比べてシーは歩くところが広く、視界も開けていて歩きやすい気がする。あまりこちらでランドのような人混みができているのも見たこともないし。ランドは結局ところフロンティアやトゥーンタウンのように見てまわるセット作りのエリア以外では、アトラクションの外側をそれほど作り込んではいないので景観的におもしろいものは少ないが、シーのほうはなんでもない建物を丁寧に作っていて、船や列車、街並みというものが見ているだけでも楽しく、前日よりは娘のご機嫌もとりやすかった。二日目は前日は買えなかったポップコーンバケットを買ったのも大きい。初日だって欲しかったのだが、どこ行っても「美女と野獣」と「ベイマックス」しか置いておらず、欲しいバケットがなかったので買いそびれてしまったのだ。こんなことならすでに持っているR2-D2を持っていけばよかった。 ポップコーンバケットと言えば、みんな本当にいろいろなものを持っている。そして、誰かが持っていたからといってそれがその日売っているとは限らない。大抵の場合おもしろい形のものはかつて販売されていたもので、各自マイバケットとして持参しているのだ。見た感じ結構年季の入ったものをぶらさげているひともいて、なるほど、来るたびに新しいのを買って集めるのも楽しいだろうけれど、同じものを長年使い続けるのも安定していてよさそうだ。なによりすぐにリフィルして食べられる。味とバケットの組み合わせで困ることもない(欲しいバケットなのにフレーバーが好きじゃないなど)。長年愛用の旅行鞄のように馴染んだりしたら素敵だろう。そうと決まれば次回はR2-D2(の中を綺麗にして)を最初から下げていくぞ。 というようなことを考えていたら、ディズニーパークに定期的に行く趣味というのも楽しそうだなあと思い、わくわくしてきた。特別なときに取っておいてもいいけど、とにかくいつまでも時折ディズニーに行く人間でいようと思うのだった。 シーの街並みにはいろいろなスタイルがあるが、中でもこのニューヨーク(それも20世紀初頭)の街並みは楽しい。広告や看板もなかなかよく作ってあり、いろいろなものがあるのでおもしろい。こういう作りが細かく切れ目がなく続いているので、ランドよりもかえって別世界観が楽しめると思う。なにより無理になにかに乗ろうとしなくても楽しいのがいい。この写真のコンサートホールは、前に友達と来た時に抽選が当たったので中でショーを観たことがあるが、結構本格的で感動を覚えた。 かと思えばこういう遺跡なども細かく、とにかく作り物に見えないように視界が限られているところがリアルさを感じる。決して全体像は見えず、また奥のほうがどうなっているかまでは目が届かない。キャラクターグリーティングの予約が取れたので、一家はここでピスヘルメットを被った探検隊仕様のミニー・マウスと対面した。ぼくはもうなにマウスの着ぐるみでもへいちゃらである(5歳のときは大泣きした)。娘は怖がるかなと思ったが、案外平気で(ものすごく気を使った距離離れていたのもありそうだが)うれしそうに手を振り続けていた。オーディオアニマトロニクスなどに比べたら、血が通っていて怖くないのかもしれない。 「マーメイドラグーン」というのも、前に来ているはずなのだが、なんだか今回はとても綺麗で楽しく感じられた。色合いへの反応の仕方が変わったのだろうか。娘の気を引けるものを探してあちこち見渡す中で感度がよくなったのかもしれない。海の底っぽい若干の薄暗さの中で色とりどりの魚や珊瑚がよく映えている。ここでもグリーティングの予約ができたので、娘はアリエルと対面。これはもう全然平気だ。人だし。多分人魚ということもわかっておらず、ちょっと派手なお姉さんくらいにしか思わなかっただろう。「ばいば〜い」と手を振っていた。 子どものときほど没入というか、その世界観に圧倒されるようなことはなくなりつつあるが、それでもやっぱりぼくにとって気分転換にはうってつけの場所だと改めて思った。2歳の娘を連れて、雨の中だったとしても、である。子どものときのように楽しめなくなってしまったのではないか、と寂しくなったときもあったが、大人になって見るところや感じるところが変わったのは悪いことではないだろう。セットにせよキャラクターにせよ、作り手の意図や機械の仕掛けについて想像したりというのは、今だからできることだ。少なくとも魅力を感じないなんてことが全然ない。あれこやこれやの悩み事を一瞬でも忘れられる場所があるということも思い出せてよかった。創造の意欲だってわく。わくだけかもしれないがわくだけでも重要だ。素晴らしい誕生日をありがとう!
雨具を拒否してポップコーンを肌身離さず歩き回る娘とそれを追う妻

「三体 II 黒暗森林」

型破りな中国のSF小説「三体」シリーズの第二巻「黒暗森林」のいち場面より。第一巻の「三体」もインパクトがあったけれど、それがまだまだ序章に過ぎなかったことを思い知らされる内容。前作がことが始まるまでを丹念に描いた序章だっただけに、今作は最初からことが始まっていてノンストップ。 文革で学者だった父親をリンチで殺されてしまったひとりの女性がのちに秘密のアンテナ施設に配属され、密かに外宇宙文明にコンタクトをとり、彼らに地球の存在を知らせ、招いてしまうことから全てが始まるという経緯やバックグラウンドを描いたのが第一巻。三つの太陽に囲まれその周回が不安定な過酷な環境(ずっと極寒の夜だったりずっと灼熱の昼間だったりで地球のように安定して昼夜を過ごせる時期が不定期に訪れる)で何度も文明再建を繰り返してきた三体文明は、安住の地を求めていたが、父親の運命をはじめ人類の愚かさに絶望していた彼女は三体文明の侵略を手引きすることを選び、やがて三体側に協力する地球側組織のリーダーとなる。第一巻では彼女が率いる地球三体協会を、巻き込まれ型の語り部たる科学者や敏腕刑事をはじめ当局側が追い詰めていくのが山場で、三体文明の艦隊がすでに故郷を出発し、文明の未来がかかった遠征の旅を始めたことが明らかになる。彼らが地球のある太陽系に到着するまで400年だという。 そして、400年後の侵略に備えて必死に準備を進めるというのが第二巻「黒暗森林」の物語。400年もあるのだからまだまだ時間はあるのだが、地球はまだ宇宙空間での戦闘はおろか宇宙船の技術もほとんど進んでいない。その上三体側から送り込まれてきた原子以下のサイズのコンピュータ的存在によって地球上のあらゆる動きが監視されており、一定の技術の発展が封じ込まれてしまっている。侵略への対策を講じようとしても、その内容は三体側に筒抜けの状態。音声も文書も監視されている。つまりふたり以上の人間がそれについて話し合うことができないのだ。しかし、地球人にもほぼ唯一といっていい優位性がある。それが思考である。三体人のコミュニケーションにおいては思考が全てオープンで、隠し事や嘘といった概念がない。監視に送り込まれてきた原子以下のスパイにも、人間の思考までは読み取れない。というわけで、地球では三体に対抗する作戦を、ひたすら自分の頭の中だけで考案する人間を4人選出し、今回の主人公はそのうちのひとりとなる。 選ばれた4人は全てが自由というほどではないにせよ、地球上のかなりの部分を自由に動かせる権限を持ち、その意図について説明する義務がない。ほかの人間にはその真意がわからず、それぞれが考える作戦の全貌を知るのは本人だけで、そこがこの計画の狙いとなる。400年後の侵略に備えるため、途中で冷凍睡眠に入って時を越えるのも自由。3人がそれぞれどんな作戦を進め、またそれがどのように三体側(に協力する人間)に暴かれておじゃんになるかが描かれる中、しかし主人公は……というのがおおまかな内容である。 こんなあらすじでそのすごさが伝わるとは全然思えないが、とにかく話のスケールや拡がりかたに圧倒される。そして大きな話が始まるまでに、その経緯や準備、伏線を丹念に積み上げていくところが丁寧で、だからこそあとに来る拡張する展開がおもしろい。上の絵は個人的な大詰め、読んでいて感動さえ覚えたシーン。読んでいなければなにがなんだかわからないと思うが、これを説明するのはちょっともったいない気がするので特に補足しないでおく。気になったら読んでみよう。とんでもないことが起こっているところ、はっきり言って膨大な数の破壊と死の場面である。しかし、とてつもなく興奮してしまう。その感覚はたとえるならゴジラが放射熱線を吐き出すシーン、あれが近いと思う。

ハッピーハッキングキーボード

 iMac純正のマジックキーボードが前から不満だった。スマートではあるかもしれないが、それゆえキー自体も薄く、指先が底に当たるような硬い感覚が非常にくたびれるのだ。ひとつひとつのキーをしっかり押している感じもあまりないので、打ち間違いも少なくない。それから、これは好みだが音がよくない。パチパチペタペタという具合で、ぼくが好きなのはもっとしっかりした打鍵音、カタカタ、スコンスコンというやつだ。なので、キーが厚めの、感触のしっかりしたキーボードが欲しかった。上の写真はHHKB、ハッピーハッキングキーボードのLite2というもの。Mac向けの刻印で英語配列のものにしてみた。iMacを買った際に普通に日本語配列のキーボードを選んでしまったのだが、友達が言うには英語配列も選べたらしく、どうして英語配列にしなかったのだと言われて以来悔しくてずっと欲しかったんだよね。英語配列は日本語配列よりキーが少なくてすっきりしているとか、Adobeソフトなどでよく使うショートカットキーも英語配列が前提になっているとか(そのほうが同時に打ちやすい配置にあるとか)、いろいろ利点はあるらしいのだが、単純に一度使ってみたかったのだ。慣れてしまえばどちらでも変わらないだろうし、実際使ってみるとやはり噂に聞いていたようにキータッチの感触やコトコトという音が心地よい。裏側の脚を出すことでキーボードに角度がつけられるのも打ちやすい。それによってキーボードが浮き上がって隙間ができるので、iMacの画面の下にすっとしまうこともできる(画面の下までにせり出しているスタンドの底面がその隙間にうまく入ってくれる格好)。少しでも多くなにか書きたいので、メールの返事でさえ楽しいくらいだ。この調子でたくさん文章を書きたい。

クラシック・エディター

 貼り付ける画像の縦横比が自由に変えられなくなった問題について。結局よくわからなかったが、プラグインで旧式のエディターを使えるようにたらなんとか解決した。ブロック式で記事を作る最新のやり方の方が確かに体感的で楽だったが、クラシック・エディターの方が自分はやりやすいような気がする。昔からあるホームページやブログのエディターの見た目でかえってこちらのほうが馴染みがある。で、画像も四隅をカーソルで掴んだり、数値を打ち込んだりして、縦横比を保ったまま大きさを好きに変えられるようになった。ツールを変えただけで、元のツールでどうしてああいう不具合が起こったのかは依然わからないのが少し気になるが、とりあえずはこのやり方でやってみよう。  ひと通り全ての記事の画像の大きさを、短い辺を640pxくらいで揃えてみた。どんと大きく絵を載せるのもいいのだが、ものによっては大きすぎたり近すぎたりで見えづらいものもあるし、携帯端末で見る分には変化はないのだが、パソコンのブラウザだと不揃いさが気持ち悪い。フルサイズの画像にアクセスできるようリンクさせた上で、まとまりのいい大きさに揃えると、記事やサイト全体がすっきりすると思う。ひと安心。

ちょっと手に負えない

 このサイトはワードプレス で作っているのだが、ワードプレス というのは自由度が高い代わりに自分で対処しきれない不具合もかなり起こる気がする。最近になってテーマ変えて、ようやく納得いける外観が得られたものの、テーマ変更の過程で画像の設定が変わったのか(実際どうかはわからない。タイミングとしてそれ以外変えたところが思いつかない)少なくない記事で画像の埋め込みが無効となってしまった。今、ひとつひとつチェックして直したところ。画像が消えずにいる記事も、画像の表示サイズが変わっていたり、貼り付けている画像そのものと指定の表示サイズが合っておらず画質が下がったりしていたので、結局それらも貼り直すことになった。修正はできたがどうも気持ちが悪い。思いつくワードを検索しても同じトラブルの例はなかなか見つからない(言葉を少しずつ変えてもずっと同じサイトがトップに上がってくるのは全く頭に来る)。基本的には非常にスマートで安定しているので、まだしばらくは使いたいところだけれど(1年も経っていない)、多少の制限があってももう少しこちらのやることが単純で済むような形を選びたいとも思える。もちろん手打ちのサイトはもうやる気しないが。なにかいいサービスはないかなあ。細かいところを気にせず、ひたすらに絵のアップとブログ、ちょっとした遊びのページが作れればそれでいい。

グレートバーガー

 少しずつ外食もするようにしているが、今年になってからまだ行っていなかったグレートバーガーに行った。グレートバーガーは、言葉で説明するのがすごく面倒なところにあるのだが、原宿の、神宮前の渋谷寄りの路地の中にある。あのあたりは入り組んでいてぼく自身とりあえず路地に入ってからなんとなく歩いて行ってたどり着くという感じなので、あまりひとに説明はできない。9年ほど前にオープンした際並んで食べて以来ファンである。ぼくが並んでまで食事をするということはありえないことなので、言うまでもなく付き合いで行ったのだが、それ以降まるで自力で見つけたかのように友人や家族、のちに妻となる女性と行ったりして、今に至る。一度場所を移動しているのだが、もとの場所から数軒先に移動したような具合。ぼくがこれほどひとつのお店に通い続けるというのはここ以外にはあまりない。

 行ってみたら満席で、ひとりだったので少しだけ待って空いたカウンター席についた。思えばカウンター席は初めてだ。すぐ目の前が厨房になっているので、いつもは離れた席から眺めていたバーガー作りが間近で見られて感動さえ覚えた。鉄板の上に何枚もパテが並んでじゅうじゅういっている。カウンター天板の奥側半分も調理台の一部となっているうような形なので、すぐ目の前にどんどん皿が並んでいく。それら全て見ていて飽きない。バーガー以外にもサンドやステーキ、パンケーキといったメニューがあるが、ここに来るのはやはり特別なことなので、ついついバーガーを頼んでしまう。でも、いつかサンドやステーキ、パンケーキも食べてみたい。どれを食べてもグレートなこと間違いなし。

いつもと変わらなかった

 元々夏だからといって遊ぶことも少ないので結局普段と大して変わらないまま8月が終わりそうだ。あれだけいつもとは違う夏になるとラジオがしきりに言っていたのに、悲しくなるほどいつも通りである。いつまで経っても自分が感じている疎外感はこういうところから来ているのかなどと思ったりするが、別に今更ひとと同じ趣味や習慣がないことに不安を覚えることはあまりない。

 できるだけ落書きをしようと思い、なんとなくでもごちゃごちゃ描く習慣が戻ってきたが、そうすることで自分の描きたいものや描いたほうがいいものが見えてきたような気がする。映画などのファンアートはもちろん楽しいが、やはり自分で考えたものがそれなりにかわいく出来上がると気分がいい。学生の頃からどこかひねったものを描かなければと思い込んでいたところがあるが、王道や定番、シンプルでわかりやすいものを描くほうが自分に合っているかもしれないとも思えてきた。自分が平凡に感じるものでも、描いてみるとひとには独特に見えることもあるらしいし(このパターンが大変多い)。あまり無理に奇をてらったり難しく考える必要はないのかもしれない。しかし、普通に書いたり描いたりしたものでもすぐに独特だと言われるのは、それはそれで寂しくもある。

 

外気

 しばらくぶりに徹夜をする。もう絶対に根を詰めたり煮詰まったりさせないよういくら心がけたところで、それは心がけでしかなく、実際にはどうしても悩んでしまい、おそらく誰も求めていないであろう細部にこだわって朝になってしまうのだ。このところ太陽が昇ってしまうと大変な暑さなので、ここで一度犬の散歩に行ってしまおうと思い、お腹を上に見せて寝息を立てている犬を叩き起こす。外へ出るとまだ涼しい。ふとマスクを外してみる。ダース・ヴェイダーではないので、別にマスクを外した途端に死ぬわけではない。なるべく着け、平気そうなら外すという判断を各自ができればそれでいい話だろうと思う。それでも、外出時は必ず着けるようにしていたので(元来ぼくは出かけたままの状態を切り替えることが苦手で、途中で暑かったら上着を脱ぐとか、寒くなったら着るとかいうのができないから、マスクも器用に扱えないだろう)、外にいながら鼻から口を覆っていないというのは変な感じで、ちょっといけないことをしている気にさえなる。たかだか数ヶ月でこんな感覚になろうとは、数年続いたら一体どうなるだろう。

 夏の早朝特有の湿った草木のような匂いがした。外の空気とはずいぶんいろいろな匂いが混ざっているなと改めて思う。なんだか強烈な感じさえして、自分はずっと室内やマスクを通した薄い空気で生きていたのではないかと不安になる。

 まだ人も車も来ないので、道にたくさんのムクドリがいる。前にも書いたようにこのあたりはとにかくムクドリが多い。カラスやスズメなどより頻繁に見かける。そして近寄ってもなかなか逃げない。大きくはないとは言え近づいても逃げない鳥というのは少し怖い。

 いつも散歩しない時間帯を歩くと、普段は見たこともないような大きな犬がいたりする。公園(と言っても田舎の同級生の家の庭ほどもない広さだが)ではおばさんがひとり太極拳のようなジェスチャーをやっている。太陽はまだ低いところをオレンジ色ににぶく光っているが、あれがあと数時間もすれば殺人的な光線を放つようになる。そうなる前に運動や犬の散歩を済ませようというひとがわりといて、狭い道を行ったり来たりしている。ぼくは目の奥がキリキリした。

 ぐるっと歩いてきて気分転換になっただろう、そうあって欲しいと願っていたが、帰ってきて犬の足を洗って、ソーダストリームで作った炭酸水を飲んでから再び机に向かうと、大して頭はすっきりしておらず、出かける前と同じ箇所を引き続き描いては消し描いては消しするのだった。

考えさせられる

 映画の感想においてだいぶ言葉を選ぶようになってしまったが、選ぼうとして考えれば考えるほど沼にひきずりこまれてしまうので、逆に使うことを自分に禁じている言葉を設定している。そのひとつに「考えさせられる」というものがある。

 これはぼく自身のスタンスであって、別にこの言葉を用いることや用いるひとをどうこう言うつもりはない。場合によってはこの言葉が最適であることもあるだろう。あくまでぼくとしては、この言葉に頼りたくないと思っている。

 大抵この言葉は、なにか強いメッセージが込められた作品に対し使われると思う。この言葉を用いることで、自分はその作品が訴えるところが理解でき、それについて考えを巡らせている、巡らすことができる人間であると表明することができる。そうしてその一言だけで作品の深さみたいなものを表せてしまい(表せていないのだが)、具体的になにをどう考えたのかは言わなくとも許されてしまうところがある。そこが危うく、ぼくの気に入らないところでもある。もっとも、具体的に考えたことが言えるのなら、わざわざ考えさせられたというようなことは言う必要がない。もちろん字数に限りがあり、それを思う存分書けないこともある。そういうときにこの手の言葉は非常に便利であり、つい使いたくなるのもわかる。ああ、ここで「考えさせられる」を素直に使えればこれで片付くのになあと思うことも少なくない。しかし、限りある字数の中でどうにかこうにか自分の言葉、表現を工夫したいと欲を出したり背伸びしたりしてしまうのがぼくの性分なのである。

 はっきり言えば、「考えさせられる」で締めてしまうと、なんだか考えてなさそうな印象があるんだよね。なにより「させられる」というのがひっかかる。まだ「考えたくなる」「考えずにはおれない」というほうが主体的でいい。「させられる」などと言うから考えてなさそうに見えないのかもしれない。受動的なニュアンスが強く、作品のメッセージをどこかで押し付けられたように感じているのではないかという印象さえある。つまりそれは消極的な態度と言えるのではないか。「考えさせられる」のであって自分から考えようとはしていない。まあ、こんな一言からそこまで拡大するのは意地が悪いとも思うし、依然としてほかのひとが使うのは一向に構わないが、自分がこの言葉に違和感を持ち避けたいと思っているその理由を考えていくと、こんなところである。

 で、わざわざここにこう書くということは、今後より一層この言葉を使えなくするためだったりする。ほかにもまだ自分から禁じている言葉はあるのだが、全部明かすと非常にやりづらくなるので教えてやらない。いずれもその一言を使うとそれだけで片付き、それっぽく聞こえる便利な言葉ばかりだ。しかし、便利な言葉に頼りすぎると、やがては表情に乏しい文章になるだろうと思う。知人のひとりはそれをジョージ・オーウェルの小説に出てくる「ニュースピーク」になぞらえていた。一言で反対のニュアンスを併せ持ち、いろいろな場面で使うことのできる魔法のような言葉。曖昧で具体性に欠くので角が立ちづらい言葉。だがそれを多用しすぎれば、語彙が減ってしまうことだろう。

Joker(2019)

 去年試写で観たきりだった『ジョーカー』がNetflixに来ていたので見返す。この映画を巡ってはいろいろな意見があると思うけれど、ひとまずぼくとしては無数にあるバットマン神話の数々の中の、いちパターンという程度であることは、初見時から変わらない。80年代の生々しい不景気なゴッサム・シティをはじめ絵的にかっこおもしろいところも多く、なによりのちにジョーカーへと変貌を遂げる主人公アーサーに扮するガリガリのホアキン・フェニックスの所作もいちいち見応えがある。

 今までは大富豪とその協力者である警察の視点からしか描かれなかったゴッサムそのものを、最下層の生活から描いたのは新鮮で、その象徴としてこれまでのバットマン神話ではブルース・ウェインにとって絶対的な存在だった「偉大な父」トーマス・ウェインを、低い視点から見上げて別の姿に描き出しているのがおもしろかった。主人公アーサーはつねに混み合った雑踏をさまようが、これもつねに高いビルの上から街を見下ろしているバットマンの定番ポーズとはわかりやすく対照的だ。

 またアーサーが、実はトーマス・ウェインと使用人との間に生まれたのではないかという疑惑(限りなくその可能性が高いことが示唆されるが結局本当かどうかははっきり明かされない)により、アーサーとブルース、ジョーカーとバットマンを「兄弟」として対比するというような試みもなされている。最終的にアーサーが悪として覚醒し、カリスマ的なピエロに感化された暴徒のひとりが、息子を連れて暴動の現場から逃れようとするウェイン夫妻に銃口を向けることになるが、これは間接的にジョーカーがバットマンを生んだというような構図になる。こういう、全く見慣れないルックやフォーマットによって、お馴染みの神話を構成し直しているようなところがおもしろい。

 ただ、そのためにあの犯罪界の道化王子たるジョーカーの誕生秘話として少しスケールが小さく感じられもするのだが(ましてやヒース・レジャー版の伝説的なバージョンと比べたら尚更だが、その比較はおそらく意味がないし、両者の違いこそがおもしろいところである)、そこはDCコミックのキャラクターの設定をところどころ借りながら、アーサー・フレックというひとりの男について描いた映画と受け取るのが妥当だろう。もしくは、いつものジョーカーがいつもの調子で語った嘘か本当かわからない身の上話のいちパターンだと思う程度がちょうどいいと思う(ラストシーンでカウンセラーと話しているところからその想像ができる)。タイトルに「The」がつかないのはそのあたりの余地のためでもあるのではないだろうか。ジョーカーそのものというよりは、ジョーカーのような男、ジョーカーという概念を指しているのだろうと思うことにしている。

ムクドリ

 犬の散歩をしていると道を挟んだ木と木の間に見事な蜘蛛の巣が張られているのを見かけて、家主が一生懸命糸を張ってるのをぼやっと見ていたら、ムクドリが飛んできてそのクモをぱくりと食べてしまった。一瞬の出来事で驚いたが、そりゃそういうこともあるだろうなと思い、なんだか久しぶりにああいうものを見たから少し興奮した。あんな空中にあれほど大きな巣を張っていればさぞいろいろな虫がかかったろうに、鳥からしたらとてもわかりやすく狙いやすい位置だったのだろう。

 それとは別に、セミが鳴いている木のそばにムクドリがおりてくるところにもでくわした。鳥がやってくると、それまでジリジリ鳴いていたセミがぱたっと鳴くのをやめてしまい、本当によく出来ていると思った。ムクドリはじっと木の上の、セミがいるあたりを伺っていたが、その少し先まで歩いていくと、今度は二羽のムクドリが取り合うようにしてセミをついばんでいた。クモの巣もセミの声もやつらが生きていくのに必要なものだけれど、裏目に出やすいらしい。

EE-3

まだそれほど事態が深刻になっていない頃、ディズニーランドに行った友達にパーク限定のボバ・フェットのブラスター(EE-3カービン・ライフル)を買っておいてもらったのを、このたびようやく受け取った。ディズニーランドはあのあと間も無く休園となったので、なかなかのタイミングだった。このブラスター・ライフルはボバ・フェットごっこにはもってこいのグッズでずっと欲しかったのだが、いかんせんディズニーランドに行く機会が少なかったので、ようやく手に入ってうれしい。このほかにもハン・ソロのピストルやストームトルーパー(もちろん帝国軍の)のライフルもあり、近年のSWグッズがビミョーな雰囲気なのに対して、ご覧のように昔のようなパッケージがグッド(「TRY IT!」)。ひとによってはこれを黒く塗装してリアルに仕上げるのだが、わざわざ本物の銃火器からかけ離れた色合いを施しているのだし、このボバ・フェット風の配色がかわいいのでこのままにしておく。

 やはりこれを持つだけでも格好がつく(?)。戦っていないときのボバはライフルを構えるというよりは、やや銃身を抱くようにしてたたずんでいるのだが、あのポーズも好きなところ。長年の仕事に全体がくたびれたような様子(決して弱々しいという意味ではなく)がかっこいい。ヘルメットとブラスターだけで終わらせてもいいのだが、こうなると両腕にはめるガントレットなども作りたくなってきた。もとより全身を作るつもりは全然なかったが、こんな感じでやがて全部を揃えてしまうのだろうか。いや、胸部プレートとかジャンプスーツは面倒くさい。

ラジオを聴くための機械

 小さなラジオ兼Bluetoothスピーカー。台湾のSANGEANというメーカーのWR-301というもの。ラジオとしてのかわいさに惹かれて買ったが、長らくスピーカーというものを持っていなかったので、パソコンで流れる音をこちらにまわすもよし、iPadで観る映画の音をここから流すこともできるというのが、少しうれしい。端末から直に発せられる音よりも柔らかい印象なのがいいし、音量を微調整できるので夜中も最低限の大きさにすればイヤホンを使わなくても済む(当たり前のことだが音を流す向きが変えられるのも大きい)。ラジオなんて今時はradikoなどを使った方が感度を気にせず常に綺麗な音で聴けるかもしれないが、どうしても音が鋭く感じられたり、インターネットとワンセットな感覚がせわしない気がしていたので、ラジオを聴くための機械としてのラジオがずっと欲しかったのだ。懐古的と言われればそれまでだが、シンプルに単体としてのラジオはどこかのんびりした気分で聴ける気がする。聴き逃したものをあとで再生できるというような機能もないが、かえってそれが刹那的でよい。聴き逃したならもうそれっきりでいいような気もするし(元々そうだった)、今なんて言ったのだろう、というようなものもあっさり聴き流してしまえる。それだけで気楽に思えるのである。ラジオを聴いたのは久しぶりだけれど、自分からは興味関心を持たない音楽や話題が勝手に流れ込んでくる感じはかえって新鮮である。自分から探そうとすればなんでも見つかる時代だが、興味がないものは探しようがない。だからこそテレビの映画放映も、ラジオの音楽も、知らないものと出会うためには必要だろうと思う。話題や会話も、しばらく聴いていると語彙のあるひととないひとの差が際立ってきておもしろいが、BGMのように聴き流せる他愛のないおしゃべりもあったほうがいいというのがわかってくる。なんとなくひとがしゃべっているというだけで気が紛れるし、その話題はそれほど深く考えるほどの内容でないほうが楽なこともある。これはFMしか聴けないのだが、もしAMが聴きたいことがあればradikoをBluetoothで流せばいいや。木のフレームがとにかくかわいい。

Bottle Cap Collection

 自分が欲しいと思うボトルキャップを、大貫卓也氏による「GET!!STAR WARS」キャンペーンのポスター風に。大貫さんは「ペプシマン」も手掛けているけれど、いかにも本国アメリカ発のキャラクターだとばかり思っていたペプシマンが、実は日本で生まれた独自のキャラクターだというのは驚き(アメリカでは知名度が低いらしい)。SWのキャンペーンにしてもとても舶来な感じで、アメトイ的なインパクトがSWとぴったり合っていたと思う。「スター・ウォーズを集めろ。」というコピーもそれだけでとてつもない強さを持っていただけでなく、アメトイではお馴染みの文句「COLLECT THEM ALL!」(大抵の場合パッケージの裏側にラインナップとともに書かれている言葉だ)を思わせ、一個だけでは終わらない世界観の広がりを感じられてわくわくする。

 ボトルキャップは子どもの頃の夏の記憶と深く結びついているだけでなく、玩具をコレクションするという趣味の起源と言えると思う。はっきり言って、自分にとって新しいSWに足りなかった最大の要因はこのペプシとのタイアップだろう。プリクエル三部作は毎回このボトルキャップのキャンペーンをやっていたせいもあり、どこかでやはりSWと言えばペプシであり、紺色で、夏で、ちょっと大人びた渋いおもちゃのイメージだった。懐古は危うさをはらむが、自分がなにと出会って形成されてきたかは忘れたくない。個人的にはサーフボードを持ったワニが気に入っている。

地獄から抜ける

 大好きで尊敬している人たちが貶められてしまうお馴染みのツイッター地獄には、とても悲しくなる。ちょっとしたことも誤解されたまま広められてしまい、文脈を理解しない通りすがりによってさらにややこしくなる。今更言うことでもないが、やはりあれは独白集であってコミュニケーションに向いているものではないのだろう。確かに連続投稿で書き続けることはできるかもしれないが、ひとつひとつはどうしたってケチくさい140字で、それは単体で広められて前後の文脈がわからない通りすがりの目に留まる恐れがある。そう思うとあそこで起こる揉め事はほとんど事故のようなものとも言えるのかもしれないが、それはどんどん連鎖して収拾がつかなくなる。だから地獄なのだ。昔で言うフォーラムなら熱心な管理者がいて明確なルールがあったが、SNSはそれとは少し違う。フォーラムがある程度閉ざされた建物の中の、文字通り会議室であるなら、ツイッターとはあらゆる人が出歩いている往来のようなもので、そのひとりひとりの思考の断片が流れ続けて、他のと緩衝一切なしでぶつかり合っている。ぼくのようなのはおっかなくて仕方がない。今のところ、どれだけ寝言めいたことを書いたとしてもぼく自身は大して嫌な目には合っていない。しかし、知っているひとが突如渦中に置かれてしまうのにはもはや耐えられそうにない。あんなもので消耗するのもいい加減うんざりなので、あまり見ないようにしたい。自分自身の使い方そのものは、だいたい今くらいでいいだろう。もはや絵とアップと告知、それから毒にも薬にもならない雑な思いつきしか書いていない。最後のもぐっと減らしていきたい。なぜなら140字でものを考えたくないから。ブログはこうして思っていることを、ひと通り気が済むところまで書けるし、いい意味で拡散力がないのもいい。誰かが読む前提だが、いたずらに人目には触れない、そんな媒体がやはり自分には向いている。ぼくにとってブログは地獄に垂れてきた蜘蛛の糸だ。

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