子ども用歯ブラシがよい
子どもの頃から歯磨きが下手で、歯並びの関係もあって汚れが取りきれず、今でもよく虫歯になる。小さな虫歯ができるたびに歯医者に行って削ってもらえばいいのだが、実はいつの間にか何箇所もできていて、痛みがないまま大きくなってしまったものさえあったりして、医者の方も一度に全部はやってくれないので、何ヶ月もだらだら通うことになってかなわない。 歯ブラシにかけている力もやたら強いらしく、普段から筆圧も強いから納得がいく。それによって歯茎が傷ついたり、下がったりしてしまう。ブラシ先の柔らかいものを使ったほうがいいと歯医者に勧められたので、そういうものを探そうと思ったものの、すぐに行けるようなドラッグストアの売り場を見ても大して種類が多いわけでもなく、妻のようにインターネットで日用品を探すセンスもない。そこでふと思いついたのが子ども用歯ブラシである。ブラシ先が柔らかく、おまけにブラシ自体も小さいときている。そういうわけで『アナと雪の女王』の若干インチキ臭いイラスト入りの小さな水色の歯ブラシを買ってみた。ちなみに売り場で物色している際に娘がそれを見ていたので、てっきり自分の歯ブラシだと思い込んだらしいが残念でした。娘はディズニー作品をキャラクター名でしか呼べないのだが、アナ雪のことは「おあふ」と呼ぶ。 果たして小さくて柔らかい歯ブラシは、歯の裏側や奥歯の側面までよく磨ける。自分としてはここまで細かく磨けたのは初めてだ。舌で撫でてみれば驚くほどツルツルである。子ども用歯ブラシを現役で使っていたであろう子どもの頃からうまくできていればなあ。
取り掛かるまでが不安
新しく仕事を始めるとき、取り掛かるまでの間がいちばん不安になる。うまくできるだろうかとか、どのくらいのペースで進められるのだろうとか、そういうことを考えるのだが、もちろんそれは取り掛かっていないから感触がわからないのであって、少しでも取り組んでみると、どんな感じかわかってあっさり安心する。そもそも取り組まずに置いているというせいで不安になっているのだから、ちょっとでもやってみればいいのだ。やってもいないうちからやる気がわくわけがなく、進めていくうちにやらずにはおれなくなる。だいたいぼくは単純なので描き出してしまえば乗ってきてずっと描いていける。というようなことに最近気づいた。
ハリーのことを全然わかっていなかった
年末あたりからあまり読み返してなかった「ハリー・ポッター」の後半6、7巻を読んでいたのだが、なんというか、刊行当時の十代の頭では全然理解できていなかった情緒や社会的要素といったものがようやくわかるようになって、一気にいろいろなものが押し寄せてきてなかなかの衝撃だった。完結から十数年経つというのに今になって改めてわかることが出てくるとは、やはり好きな本は読み返さないといけない。 なにがいちばん大きいかと言えば、ハリーたちの気持ちの揺れ動きが前よりわかるようになったところだ。基本的にはハリーの主観によって書かれる物語なので、彼の心理はもちろんだが、彼の目を通して描かれる他の人物たちのそれも、注意深く読んでいるとよくわかってくる。ロンとハーマイオニーの関係はもちろん結果としてはわかりやすいのだが、その過程、やたらとぶつかり合いながらもだんだん惹かれ合っているらしい様子などは、こんなに細かく描写されていたのかと驚く。 それを察知したハリーが、ふたりの親友の関係が新しい形を取り始めたことを、うれしさ半分不安半分の複雑さで受け取るところもまたいい。この関係がうまくいかなかった場合、また3人は以前と同じような関係を続けることができるだろうかと。 十代の頃はそれほど関心を持たなかったくだりである。だって異性の友達とかいなかったし、こういったケースに仮に自分を置いて考えてみる、といったようなことが全然出来なかった。ぼくにとって人間関係というものは種類が恐ろしく少なく(今もそれほど多様ではないが)、また自分の知らないケースへの想像力が恐ろしく欠如していた。だからこのときのハリーの不安もそれほど感情移入できるものではなかったのだろう。というかこんなところ当時読んだ記憶がない。そこで、当時の自分がいかに情緒的に乏しかったを思い知る。こんなにはっきり活字で書いてある心理描写にもピンと来ないのだから、実際のコミュニケーションでそれを読み取るなんて無理な話である。そして、もし当時から最低限でもその力があったなら、もっとハリーたちを身近に感じていたことだろう。ぼくはずっと彼らを本物の友達のようによく知っているつもりだった。多くのポッタリアンたちがそうだと思うが、自分もまた彼らの同級生であるかのように感じながら読んでいた。しかし、全然わかっていなかったのだ。せいぜい教室の反対側にいる、一度もしゃべったことのないクラスメイト程度である。 とても悔やんでいる。もっとちゃんと読んでくるべきだったとか、もっと人付き合いをするべきだったとか、視覚的な空想だけでなく人の気持ちを想像するべきだったとか、いろいろなことを悔やむ。もちろん今からでも遅くはない。ようやくこれだけのことを読み取れるようになったのだ。確実に進歩はしていると思う。そして、今からでもハリーたちのことを知ることもできる。後半だけと言わず最初から全部、何度も何度も読み返そう。
無駄のない線
元旦、というか大晦日の深夜に書いたきり日記記事を全然書いていなかったのでそろそろ。イラストはそれなりにアップしていて、キャプションついでにいろいろ書いているから、もっと全体をブログっぽく変えていったほうがいいのかなあ。 今年もおかげさまで初っ端からずっと絵を描いているのだが、仕事であれプライベートであれ、ブラシ先の設定に悩んでしまうのは相変わらず。こういう感じの線のほうが全体の密度がいいのではないかとか、雰囲気が出るのではないかとか、場合によってはここはできるだけ均一な線で描いてほしいという依頼もあるが(こう言われてしまうのはやはりぼくの手法が目に見えて定まっていないからだろう)、いずれももっといい絵にしたいからにほかならない。しかし、いい絵とは線がどうこうより当然ながら内容、技量、センスである。描きたいものと手法が合致しているのに越したことはないが、少なくとも先に手法を決めようとしても仕方がない。いやもうこんなこと何度も自分に言い聞かせるように書いていることなのでいい加減にしたいが、結局のところ道具ややり方はシンプルなものでいいということにいつも落ち着く。 シンプルと言えば、よく「無駄のない線」みたいな表現がある。無駄な線なんてないだろうと思うのだが、もちろんこれはそのひとの絵においての話であって、別に線をいっぱい描き込むこと自体が余計なことだというわけではないだろう。それじゃあまるで線をいっぱい描くのが損というようなことになってしまう。線の少ない簡潔な絵もたくさん描き込んだすごみのある絵も、かりに値段が一緒だったら線の単価は前者のほうが高いということになってしまう。もちろんそんなことは馬鹿馬鹿しい。どちらの絵も描き手にとっての労力はおそらく同じで、前者も別に簡単に描けるというわけでもなく、後者もまたそのひとにとっては最も描きやすいやり方だったりするのだ。効率ばかり考えて出来ることではないのが、この仕事の悩ましいところだろう。でも、線の単価は上がらなくとも、自分にとって余計なものだと思う要素を削っていったら、描くものそれ自体の価値自体は上がるんだろうな。
簡単に振り返る
年が明けてしまったが、今年なのか去年なのか微妙な時間帯に簡単に振り返ってみると、個人的には結構忙しくてあっという間な感じだった。とにかくたくさん描いたものだ。春から夏頃までが特に大変で、それ以降は少し落ち着いてはいたが今に至るまでやはりなにかとかかりきりだった。もちろん生活のためには常に仕事が必要だが、それにしてもあまりずっと仕事ばかりだと自分からなにか作りたいものを考えることを忘れてしまう。こうしてポートフォリオを見返してみても、自主的に描いたものの少なさに驚く(描いたもの全てを載せているわけでもないが)。仕事であれだけ描いていれば仕方がないことだが、今年はもう少し能動的に活動できるようにしたい。 目の前の仕事に取り組むのでいっぱいいっぱいで、経験や技術は積み重ねられるものの、どうも表現手法が伸び悩んでいるというのが、一年を通して感じたことである。仕事ごとに出せる限りのものを出しているつもりだが、さらにもう少しよくできるのではないかと思うことは少なくない。自分の期待するイメージと実際の技術との間にズレが生じるときこそ自分が成長している最中であるということはなんとなくわかっているのだが、わかっていてももどかしさを感じずにはおれない。そしてこの場合そのズレを埋めるのに必要なのが、もう数段階進んだ表現手法なのだろうと思う。とにかく求められたものを描くだけでなく、求められたものをどう描くかを、もっと考える必要があるだろう。発想を鍛えなければならない。 数少ない作業環境の変化と言えば、新しく昇降式デスクと、液晶ペンタブレットを導入したことだ。前の机は座高に対して若干低かったので、座った状態で天板の高さが満足なところに調整できるだけでもだいぶ楽になったのだが、立ったまま作業ができる高さまで上げることで、ひとつの姿勢で体がかたまることを防げる。もっとも、ついつい座りっぱなしになってしまうのだが。しかし以前のような疲れを感じなくなった。 液晶タブレット、通称液タブの方はついこのあいだ、12月に入ってから使い出したのだが、本当によく言われているようにもっと前から使いたかったと思うほどの感動を覚えている。ペンタブ自体を使い始めて10年ほどになり、自分では相当慣れているつもりだったのだが、直に画面にペンを走らせる液タブに切り替えてみて、普通のペンタブがとても描きづらいものだったというのを痛感した。もちろん長い間助けられてきて、自分のキャリアはペンタブによる描画抜きでは語れないのだが、やはり手元に描いたものが前方の画面に現れるという空間的な距離、ラグはどうしても人間には違和感を拭いきれないものだったのだろう。うまく説明できているかわからないが、液タブはもっと体感的に描けるような気がするし、描いているもののサイズや画面の中の密度も掴みやすい。こちらもこれまで感じてきた疲れが一気に解消された。力を抜いて描くことができるようになったので、必要以上にかけていた筆圧も弱まり、手も楽になった。 意識や道具が整ったところで、より一層好きなように好きなだけ描いていきたいと思う。
初歩的な間違い
インスタグラムで絵をアップするとどうも画質が著しく低くなるのを、これまでインスタグラムはその程度のもの(拡大して見られるほど鮮明な画像をあげるサービスではない)ということでしょうがないと思ってきたのだが、どうやら推奨サイズにあらかじめリサイズして投稿すれば、とても鮮明というほどではないにせよ、拡大してもある程度見られるくらいにはなるということがわかった(少なくともガビガビにならない)。 なんのことはない、推奨サイズを無視して大きな画像をそのままぽんぽんアップしていただけである。自分でもどうして推奨サイズをあまり意識してこなかったかよくわからないが(縦横比や幅を合わせることばかりに意識が行っていたのだろうか)、初歩的過ぎて恥ずかしい限りだ。一体何年インターネットやっているのだ。ツイッターその他のサービスではだいたいリサイズしなくとも大きなサイズでそのままアップすることができたので、以前はあったリサイズするという習慣がなんとなく抜け落ちてしまっていたのだろう。 今までアップしてきたイラスト全てをやり直したい気分である。ましてや最近はなかなか気合いを入れた「マンダロリアン」のレビューなどもアップしていたのに、あんなガビガビのままなのは気持ちが悪い。道理でほかのひとたちの画像はそれほど画質が落ちていないわけだ。とてももったいない気分だが、2020年最後の最後にひとつ勉強になった。大抵そのままアップできたり勝手にリサイズしてくれたりするようになったとは言え、推奨サイズは軽んじてはいけない。
The Mandalorian :Chapter 16 – Post Credit Scene
ボバ・フェットってそういう願望があったのか、と少し意外ではあったのだが、しかしよく考えてみればクローンであるという負い目から大きな野望があってもおかしくない。初めてマンドーの前に姿を現したときには『クローンの攻撃』でジャンゴが言っていたのと同じ「銀河に足跡を残したい」という言葉を口にしており、ある意味オリジナルであるジャンゴよりもその言葉は切実だったかもしれない。自分の複製が銀河中で戦い、やがては蹂躙し、征服するまでになったジャンゴに対し、それに匹敵、もしくは超えるくらいのことを成し遂げるには、ジャバ・ザ・ハット級の犯罪王になるくらいでなければ……というわけだ。おそらくジャバなど軽く超える気でいるだろうが、果たしてどんなクライムロードになるのか。『ザ・ブック・オブ・ボバ・フェット』、楽しみである。
The Mandalorian :Chapter 16
絶体絶命なところでXウィングがやってきたときに、まさかとは思ったがそのまさかであった。今シーズンでXウィングと言えば新共和国軍のパイロットのおじさんのイメージなのだが、どっちかなと思わせてのルーク・スカイウォーカー登場というのも小憎い。デジタル技術でマーク・ハミルの顔が若返っているわけだが、ギリギリまでずっとフードで顔を隠して戦うというのも、技術上の都合(あまり長々と見ていると違和感は出るだろうと思う)と偉大なジェダイがとうとう現れたという演出上の効果が一致していてとても自然だ。今シーズンはとにかくジェダイにたどりつくための手がかり集めで、アソーカ・タノこそゴールかと思われたのだが、結局彼女は元ジェダイでしかなく、本命登場のための振りだったわけである。本当に全てがルーク・スカイウォーカーそのひとの登場のための準備だったと思えるほどスマートな語り口だったが、もちろんマンドーと「子ども」の物語もいったんの終息を迎え、それがまた綺麗だった。一体あんな別れ方をして、シーズン3はどんなお話になるのか。
The Mandalorian :Chapter 15
メイフェルドのキャラもいいのだが、<スレーヴI>回でもあったと思う。まずあの独特の離着陸の仕方で内部がどういうふうになるのか。操縦席や乗員の座席は機体の動きに合わせて可動するというような設定はプラモデルを作ったことがあったのでなんとなくわかっていたが、実際に映像で見られてうれしい。部屋ごとぐるっと動くという結構大掛かりな様子だった。 そして終盤、帝国軍の追跡を振り切るために機体の裏側から放つサイズミック・チャージという爆弾。『クローンの攻撃』でもジャンゴが追ってくるオビ=ワン・ケノービの機体に向かって放ったが、これが爆発するときの音はプリクエル三部作の効果音の中でも特に好きなものだ(ほかにはポッドレーサーのエンジン音であるとか、ジオノージアンの声、ワット・タンバーの与圧服の音、ドラゴン・マウントの鳴き声などいろいろ)。同じ武器をボバがTIEファイターに放ち、同じ音、同じ破壊力を耳と目で感じられるとは。ボバ時代の<スレーヴI>が戦うところが見られるのが楽しい。 マンドーが教えられてきた掟では、人前でマンダロリアンのヘルメットを脱いで顔を晒してはいけないことになっているのだが、今回は帝国軍の基地に潜入するために変装をしたり、端末の顔認証のために人前で顔を晒すことに。そもそも自分がよりどころにする教義に従って「子ども」をその同胞のもとに返そうとしていた彼が、だんだん「子ども」を守るために教義が要求するルールを曲げ始めるのがおもしろいところ。すでに彼は自発的にそうしたくて「子ども」を救おうとしているという印象。もちろん異なる派閥に属していたボ=カターンや、父親の意志とともにアーマーを受け継いだボバといった自分がそれまで知っていたのとは少し違うマンダロリアンたちとの出会いによって、心境に変化もあったことだろう。SWシリーズお約束の「帝国軍トルーパーへの変装」が、マンドーの場合にはこういった葛藤もセットになるというのも本当にうまいこと出来ている。
The Mandalorian :Chapter 14
 ボバ・フェットのオリジナルかつ父親であるジャンゴ・フェットは、孤児だったところをマンダロリアンによって戦士として育てられ、戦士たちが滅んだあとは賞金稼ぎの道を歩んだ、という設定は以前からあったが、ディズニーによる買収やシークエル三部作制作決定とともに従来の映画外メディアで紡がれてきた設定群がいったん白紙化されてからは、果たしてジャンゴが正確にマンダロリアンなのか、それともマンダロリアンの装甲をまとっただけの傭兵に過ぎなかったのかが、フェットのファン、マンダロリアンのファンにはだいぶ気になるところだった(だろうと思う)。 個人的には新しい設定がなんであれ好きなように解釈するつもりでいたのだが、このたび晴れてジャンゴは旧設定と同様にマンダロリアンに育てられた孤児ということが明らかになり、このあたりは落ち着いたように思う(マンダロリアンの歴史についてはだいぶ変わっている)。マンダロリアンに育てられた孤児、というのは主人公マンドーとも共通しており、彼の背景や、マンダロリアンとは種族名であると同時に教義でもある(つまりは異星人でもなれる)というような明言は、ある程度ジャンゴへの伏線になっていたと思う。 いずれにせよボバ自身はクローンなので、ジャンゴのルーツがどうであれボバはボバ、とも考えられるのだが(ボバ同様ジャンゴの遺伝子から作られた無数のクローン兵士たちをマンダロリアンとは呼ばないように)、それでもジャンゴに育てられた彼は父親のアイデンティティを受け継いでいると自認していたらしく、これがわかっただけでもだいぶ熱い。クローンだが息子同様に育てられ、名前と個性を与えられながら、自分や父親と同じ顔をした兵士たちが大量に消費されていくのを目の当たりにしてもいる彼は、自分の存在や人生をどうとらえているのか。掘り下げたらおもしろそう。
書く日を決めるしかないのか
仕事や絵の更新はともかく全然ブログが書けない。サイトの形を新しくしてからそろそろ一年経つが、こんなに書けなかった年も珍しい。前のブログだと絵や仕事の報告の記事もカウントされるから数が稼げてたところはあるが。雑記はしばらく書かないと本当に書かなくなってしまう。 とは言えプライベートなノートの書き物はそこそこやっていて、今年は2冊ほど消費したのでまあまあ書いたと思う。誰に見せるでもないノートは思考の整理になって大変よい。多分そこでの書き物に満足しているから、こちらのほうが疎かになったのかもしれない。それから、今年はやはりなにかと日常について書きづらい。生活について思うところを書くのがどうにも躊躇われる。出来事を単純に書くのでもいいが、出来事となると結局子どものことになったりして、それもなんだかありのままを書きづらい。妻が職場に復帰したので出勤日の日中はぼくが子どもを見ているのだが、ぼく、子ども、犬で過ごしているあの時間も、別にやましいことはないが克明に書く気にもならない。そんなもので遊ばせて大丈夫?などといちいち言われては敵わない。結局ぼくも言われてもいないことや見たこともないようなひとを恐れるようになった。くだらない。しかし本当に平穏さを得たいなら、なにも書かないことが一番でもある。でもそれじゃあつまらないので、ぼくはぼくの書くことや書き方をもっと身につけなければならない。 気軽に書くブログというのを念頭に置いていたけれど、そんなことでは半年くらい放置してしまうことになるので、ここは無理にでも書く日というのを決めて、なにもないならなにもないなりに書くようにしたほうがいいのかもしれない。今がそうなんだけど。
The Mandalorian :Chapter 13

 
 脚本も監督もデイヴ・フィローニということで完全に彼のやりたいことを発揮した回。低い彩度の中で焼けた木々や寂れた家屋が並ぶ様子はもちろん黒澤映画風。アソーカの登場はもちろんだが、ジェダイだった彼女の登場によりこれまで知る由もなかった「子ども」の正体、バックグラウンドが判明するところも大きいと思う。アソーカにさえ会えればなんとかなるという一心でここまでやってきたものの、結局彼女は「子ども」を引き取るのを断るのだが、よくよく思えばもう彼女はとっくにジェダイをやめているので、実は「子ども」を育てる義理も資格もないのである。マンドーの言うところの「仲間のもとに返す」ことにならないのだ。そういうわけで再び新しい目的地を与えられてともに旅を続けるマンダロリアンとその小さな相棒であった。

The Mandalorian :Chapter 12
始まりの地に戻るということで、シーズン1初回で主人公の賞金稼ぎ稼業を説明するためのお尋ね者だったミスロルが再登場。借金返済のためカール・ウェザース扮するカルガ監督官にこき使われているが、その関係で今回はパーティの一員に。活躍というほどもこともないけど、なかなかいいキャラクターとして昇華していた。すでに一度出てきたキャラクターをうまく使うとおもしろい。しかし、ミスロルというのは種族名らしいので、ここまでのキャラクターになるなら個体名つけてもよさそうなのだが。まあそのあたりがあっさりしているのも本シリーズらしさでもある。 渓谷でのチェイスは本当にゲームっぽくて、自分がプレイしたことのあるやつだとPSの「レベル・アサルト2」なんかのステージを思い出した。チェイスではないが操作するのがTIEファイターなので渓谷との組み合わせに既視感がある。出来上がった映像がゲームっぽいというよりは、これまでSWの外伝ストーリーを映画以外で視覚化・映像化してきたものの多くがゲームなので、参照先がそれになるか、同一世界観で同じ発想をすると自然と似た絵になるのか。いずれにせよSWゲームはその世界観に奥行きを与えてきた。 秘密のラボでマンドーたちが発見するのはタンクの中で培養されているなにか。これがクローン的なもので、その研究に「子ども」の血液が必要であることから、恐らくのちに最高指導者スノークや復活を目論む皇帝の肉体となるものなのだろう。台詞で登場する「血液中のM値」のM値とは恐らく、肉体とフォースの結びつきに深く関係する生命体ミディ=クロリアンであって、つまりはクローンを造るのにフォースの強い者の血が必要というわけだ。説明の不足していた『スカイウォーカーの夜明け』への伏線を張ることで映画の補強もこなしてしまうとは、さすがである。
The Mandalorian :Chapter 11
アニメを観ていないひとは若干置いてけぼりになるのではないかという懸念もあるにはあるけれど、逆に関連設定を俯瞰していないひとのほうが主人公マンドーの主観に移入して作品を体験できるので、そちらのほうが貴重な気がする。CWを手掛けたデイヴ・フィローニが関わっていてマンダロリアンがテーマである以上(フィローニのトレードマークであるテンガロンッハットにちなんで帽子バースと呼ばせてもらう)、黒いライトセイバーやマンダロリアンの氏族などがある程度絡むのは仕方ないとは思うが、ある程度におさえてほしいところである。シーズン1でこのドラマ独自の雰囲気、世界観を作れたのだから、変にアニメの世界を持ってくることはないと、個人的には思うのだが、もしもシークエル三部作等の新作映画がなければCWがあのままSW拡張世界の先端であり続け、もっと言えばメディアミックスの中心であっただろうとも思うので、今更言っても仕方がない。とっくの昔にSWはCWによって生きながらえていたところはある。
帝王ザーグ
USディズニーストア から並行輸入の帝王ザーグ。買ってばっかりなのもよくないのだが、これは本当にかっこよくてトイ・ストーリーコレクションをやるなら絶対おさえたいと思っていたのだ。キャラもかっこいいしトイとしてもかっこいい(この作品においてそのふたつは同義なのがいい)。言うまでもなくダース・ヴェイダーのパロディキャラなのだが、それを越えたオリジナリティが十分に確立されていて、顔といいフォルムといい見事である。腕や腰、胸部の体型などになんとなくバズ・ライトイヤーとの共通点があるのも、実は親子という設定に則していて細かい。残念ながら右腕のシューターは飾りで、撃つことはできない。一応背中に弾薬となるボールがいっぱい収納されていて、ボタンを押すと弾倉が回転するようにはなっている。よくよく思えば背中の弾倉から伸びているチューブを通ってボールが発射されるというのも、先行のバズ・ライトイヤーの現実的なギミックに比べるとやや無理がある。そのあたりが主人公に比べてちょっと緩め。 パッケージはバズ・ライトイヤーのものと揃えた形、ただバズのよりはひとまわり大きい。下のほうにエンジンノズルらしきものが描かれているので、これも一応宇宙船やロケットを模しているのだろう。劇中パッケージ再現ではあるがこういうUSトイ感、それも作品の年代から90年代のUSトイの雰囲気なので最高だ。小さくて繊細な作りの玩具が増えていく中でこういう雰囲気を楽しめるのは貴重だと思う。トイ好きにはディズニーストアものをおすすめしたい。 目と口を光らせてしゃべる。特に口が光るのがいい。一連のトイ・ストーリーものの中では一番お気に入りである。 ポテトヘッドを忘れたがとりあえずこんな感じ。見ての通り結構な大きさ。特にレックスとザーグはそれなりに大きい。映画のようにそのへんをこそこそ動き回るにはかなりの存在感。まず物音がすごいと思う。  
レックス
ウッディとバズに続き、ディズニーストアで出ているレックス。やはりまずはオリジナルのメンバーを揃えた方が並べて絵になるし、このザ・恐竜な感じがよい。背中に変な黄緑色の吹きかけがしている以外はまあまあ満足。背中のボタンを押すと顎と腕が連動して動き、セリフを発する。吹き替えで観てる回数の方が多いせいか三ツ矢ボイスじゃないとなんとなく違和感だが、それだけあの声はこのキャラクターに馴染んでいるのだなあ。タカラトミーが出しているバージョン(シンクウェイ版だろうか)も手ごろな大きさだが、このDストア版のほうがグリーンの感じや光沢が映画のものに近い気がする。塗りなどに安っぽいところもあるけれど、そもそもアンディのおもちゃたちの大半は大味なUSトイの世界観なので、これくらいのグレードがむしろ正しい。
小学8年生付録のティラノサウルス
「小学8年生」10・11月号の付録、ティラノサウルス骨格のプラモデル。実は学年誌というのを買ったのは初めてなんだけど、小学生のあいだにこういうのを読んでおけばよかったなと思う。結構いろんなことが小学生にわかる形で簡潔に書いてあっておもしろい。時事問題についても、大人の読み物だとやたら複雑だったり入れ込みすぎたり懐疑的になったりするが、小学生の読み物だから全てがとにかくシンプルでフラットに書いてあってわかりやすかったりする。 背中を伸ばしたクラシックなポーズ。 同じくクラシックなタミヤのキットと。足とか体型を見てもわかるようにタミヤのこれは恐竜というより怪獣だよね。
The Mandalorian :Chapter 10
監督が『アントマン』で脚本が『アイアンマン』というのは個人的にとても刺さるところがある。ずいぶん緩めの話ではあったけれど、締めるところは締めるという感じで、ドラマチックでもあった。特に新共和国軍のXウィングとのチェイスや、その後のやりとりは、不時着した惑星で遭遇した巨大蜘蛛との戦いよりも見せ場としては惹かれる。帝国軍のパイロットだったら問答無用で撃ち落としそうなところを、Xウィングのパイロットは追いかけながら「撃たせないでくれ!」などと言って制止しようとする。しまいには十分容疑があるマンドーに対し、情状を汲んで見逃す(積極的に助けようとはしないバランスがよい)。前シーズンもそうだったが、健在な新共和国のディテールが垣間見えるところはこのドラマのおもしろいところでもある。新共和国も帝国残党ものちの後継組織とはえらい違いなのだが、30年も経つとああも劣化してしまうのか。まあそれはいいや。 緊張感溢れる交信ののちマンドーの正体を知って攻撃体勢に移るXウィングだが、映画ではお馴染みのSフォイル展開というモーションを、緊張を破り危険を知らせる演出に使うのには感嘆した。市民や味方でない者にとっては強力な火力を積んだ立派な軍用機であることを改めて思い知らされる。 実はカエルの奥さんも、サバック・ゲームをしているでかい虫も、前シーズンのカンティーナのシーンにも姿を見せていた。特にカエルはあとでこういうふうに使うつもりだったのか、既出の中からよさそうなものを選んだのか。大きなカエル、大きな虫、みたいな単純さがなんだかんだいちばんわかりやすくてすっと入ってくるデザインになるのかも。
The Mandalorian :Chapter 9
「シーズン2第1話」と通し話数で「チャプター9」のふた通り呼び方があって面倒なのだが、ぼくはチャプターとほうをメインにしたい。「タトゥイーンにマンダロリアン がいる」と言われたら当然カークーンの大穴に落下したはずのボバ・フェットを連想するのだが、それを逆手に取った展開が上手。現れたのは確かにボバのヘルメットやアーマーを身につけてはいるが全然違うシルエット。 ジャワ族からボバの装備を手に入れたこの保安官なる人物、ボバのアーマーを借りてきただけなのだが、塗装の剥げ具合やジェットパックのダメージ、彼なりの着こなし方から立派に別のキャラクターが確立されているのがすごい。ジェットパックのロケット弾で悪党たちをスピーダーごと吹き飛ばすシーンは、アイアンマンが初陣でテロリストたちを退治するシーンと構図がそっくりで、さすがジョン・ファヴロー監督作。全体的にも映画並みの高級感が溢れ、巨大なクレイト・ドラゴンと小さな人物たちが同居する画面の構成、マンドーと保安官がジェットパックを自在に使って巨獣と渡り合うアクションなども目を見張る。着ているひとが違っても、ボバ・フェットの装いとマンドーの共闘は感動を覚えずにはおれない。やっぱりボバ・フェットの生みの親のひとりでありジェットパック好きのジョー・ジョンストンにも1話くらいは監督してほしくなる。 ジャワがサルラックから逃れたボバ・フェットの第一発見者だったらしいことは昔のコミックと同じ。アイデンティティであるアーマーを自分から捨てることはなさそうなので、水やなんかと引き換えにジャワに渡したのだろうと考えられるけれど、いずれは取り戻すつもりでもあるような気がする。5年もの月日が経っていることを思えば、すでにジャワがそれを手放していることは知っているのかもしれず、鎧を追って砂漠を彷徨っていたのだろうか。いずれにせよ今やそれを取り戻すには、マンドーと対峙しなければならない。
ディズニーストア のウッディとバズ
お誕生日ディズニーパークからの帰り道、イクスピアリの中にある大きなディズニーストア で前から気になっていた『トイストーリー』のふたりをまとめて買った。とりあえず誕生日のトイはこれで決まり。『トイストーリー』はおもちゃが主人公なので、関連商品のおもちゃも劇中に登場する彼ら自身ということで、ほかの映画のグッズとはちょっと意味合いが違って、劇中の彼らそのものを手に入れるというような感覚で楽しい。これまでこの手の等身大グッズが出るタイミングというのは何度もあったわけだが(特に10年前の3作目のときに買わなかったのは惜しかった)、昨年4作目があったおかげでようやく自分で手にすることができた。 このキャラクターたちの等身大おもちゃといえば、1作目の頃からシンクウェイ(日本ではタカラトミーが代理)というメーカーが出していて(ミスター・ポテトヘッドやバービーなど映画以前から実際に存在していた物に関してはそれぞれのメーカーからそのまま出ている)、ぼくは1作目のタイミングで出たバズ・ライトイヤーだけはもらいもので持っていた。普通のバズとは違い、本来黄緑色の部分が黒、白い部分がクロムメッキになっている特殊なバージョンでかっこいいのだが、ウッディと並べるとなるとやはり通常版がびしっと合うということで、揃いで欲しかったのだ。由緒正しいシンクウェイもいいのだが、やや値段が高い(2体揃えるなら尚更かさむ)。それで、あるときディズニーストアを覗いたときにディズニーストア ブランドのものが出ていたことを知って、ずっと気になっていたのだ。造形はほとんど変わらず、機能としてはしゃべるセリフの数や種類がやや違う程度(ディズニーストアのほうがずっと少ない)。値段はそれぞれ3800円税別で、2体でやっとシンクウェイ版1体の値段を少し超える程度。もちろんよくよく観察するとシンクウェイよりも少しチープな感じもあるのだが、ぼくとしては全然申し分ない。しゃべるセリフの量など別に気にならない。お人形遊びでは自分でしゃべってきたからね。シンクウェイを選ぶ方が、もしかしたら王道かもしれないが、もう少し他のものを試してみたいというか、『トイストーリー』のものが少し欲しい、という程度なのでこれくらいでちょうどいいと思った次第。なによりディズニーパークの帰りにディズニーストア で買い物するというのが気分としてとてもいい。 まずウッディ。布で縫われたところが多いので安っぽさは結構際立つが、劇場の雰囲気は十分出ていて、なによりこの手に持ったときのくたっとなる感じがいい。顔もかわいい。ほんとは「おもちゃ」の状態なら口は閉じているのだが、かわいいからよしとしよう。劇中のようなおもちゃモードの表情だと少し不気味に思われるのだろうか。しかし1作目は不気味さもポイントだと思う。音声は英語でトム・ハンクスの声でしゃべるのだが、セリフのレパートリーが完全に4作目準拠で、やたらとフォーキー(4作目のキーキャラクター)絡みのセリフを発する(「君はゴミじゃない!」とか)。おもちゃとしてのウッディが欲しい身としては、キャラクターとしてのセリフではなくおもちゃとしての決まったセリフ(「おれのブーツにゃガラガラ蛇」とかのやつ、うろ覚え)を聞きたいのだが、前述のようにそのあたりはしゃべったらいいな程度なのでまあいいか(個体差かもしれないが背中の紐の接触が若干悪く声が出ないことも)。4作目はおもちゃとしてのしゃべる機能を奪われる話でもあるからこういう仕様なのかもしれない。ブーツの裏にあるのはボニーの名前で、これもシンクウェイ版ではアルファベットのシールが付属して自分の名前を入れられたりするのだが、あくまで4作目の関連商品なので仕方ない。ブーツの作りも若干安っぽく見えたが、調べるとシンクウェイ版と大して変わらないようなので、こんなところだろう。全体的には気に入っている。 本来ウッディが欲しく、ウッディが来るなら色違いでなく普通のバズも欲しいという感じでついでに近かったのだが、出来としてはバズのほうがかなりいいと思う。造形はやはり前から持っているシンクウェイ版とほとんど変わらない。若干プラスチックの質感が安っぽいが、やはり値段ゆえだし、これは90年代と今とではおもちゃ全般がそうなっている。シンクウェイでは関節の中に金属が入っていたくらいでだいぶ頑丈だったが、最新のシンクウェイ版もそうなのかどうかはちょっとわからない。ただその分こちらのバージョンは関節が柔らかく動かしやすいと思う。ボタン類は劇中同様全て押せて、ウッディに比べるとセリフの量も多く、なによりおもちゃとしてのバズのデフォルトのセリフになっている。左胸の赤いボタンで背中の翼が展開するのだが、この展開の仕方が、下側に縦向きに下がっていた翼が上にカーブして持ち上がる形で横に広がるという、つまり劇中と同じ展開の仕方をする。シンクウェイ版では翼がただ横向きに収納されていたものがそのまま飛び出すという形になっているので、これに関してはシンクウェイよりよくできている。そしてうれしいのはヘルメットの開閉が横のボタンでワンタッチで出来るところ。これもシンクウェイ版では手動だったので得点である。 手に取ってみるとウッディよりバズのほうがよくできているのだが、この違いは『トイストーリー』の源流にあるこのふたりの違いとして正しいものとも言える。バズのほうがハイテクな機能があって、わあすげえ!という印象を抱かせて当然なのである(その分ウッディには50年代に作られた貫禄、ヴィンテージ感がなければふたりは互角にならないのだが)。古いおもちゃと新しいおもちゃという違いを見せるのに、カウボーイと宇宙飛行士というモチーフにしたのは本当にナイスだと思う。新旧がわかりやすいし、なによりこのふたつはアメリカの子どもたちの遊びの変遷、ヒーローの変遷において象徴的な存在だったからだ。宇宙競争の激化や月面着陸の快挙によって、宇宙飛行士がそれまでヒーローだった西部劇のガンマンに取って変わったという史実的なムーブメントを、そのままアンディというひとりの少年が持っているおもちゃたちの交代劇に落とし込んだわけだ。 漫画「ピーナッツ」にとてもわかりやすいエピソードがある。おなじみチャーリー・ブラウンがカウボーイハットをかぶって座り込み、ため息をついていると、通りかかった子がどうしたのかと尋ねる。するとチャーリー・ブラウンが「みんな宇宙ごっこに夢中なんだ」というようなことを答え、彼が指し示した先ではほかの友達たちが金魚鉢ヘルメットをかぶってレーザーガンのおもちゃを撃ち合って遊んでいるというオチ。実際の漫画が手元にないので細かいところは違うかもしれないが、とにかく気の毒なチャーリー・ブラウンが例によって流行りに乗っかれずにひとりぼっちになっているという筋。この子どもたちの遊びの移り変わりがウッディとバズのバディ像へとつながっていくのだ。
お誕生日ディズニー
妻がぼくの誕生日にディズニーランドに行こうと言ってくれたので一家3人で行ってきた。ただディズニーランドに行くだけではない。前日から行って夜はディズニーのホテルに泊まり、そこで誕生日を迎えて、翌日はシーで遊ぼうという壮大な計画である。誕生日にディズニーランドに行くだけでもすごいのに、泊まりで続けてシーまで行くなんて普段の頭では考えられない。ぼくはもうすっかりレジャーとは無縁な日々をおくっていたので体や頭がついていくかと不安もあったけれど、遊びへの復帰としてこれほどのものはほかにないだろう。 天気は台風接近ということもあり両日とも雨だったが、心配していたほどではなく、ただひたすらぱらぱらしとしとと降っていた。雨のディズニーは初めてではないからなんとなく想像はできたし、思えば誕生日はいつも天気が悪い。去年も台風だったし、10年前19歳になった誕生日も土砂降りだった。そもそも生まれたときも台風で、そういう時期なのである。 予約を取った頃ちょうどオープンした新しい「美女と野獣」エリア。完全予約制かつ雨で人出がそれほどない中、ここはやはり多少混み合っていた。アトラクション自体の予約は取れなかったので外の街並みを素通りしただけだが、よく出来ていた。既存のランドの背景に比べて、どちらかといえばシーの方に近い気合の入れ方。あちこちの窓からボンジュール!と陽気な(それでいて中身がなさそうな)住民が挨拶してきそうなあの家々が再現されていた。
オーディオアニマトロニクスでなく本物のカラス
ぼくはそれほどこの新エリアに関心はなかったけれど(今後予定されているシーの拡張のほうが惹かれる)、これのおかげでディズニーランドにおけるぼくの地理感がちょっと狂ってしまって、方向音痴ながらディズニーパークの中ではそれなりに方向を覚えていると思っていたのだが(そういうふうに出来ている)、しばらく行っていなかったからなのか、一角がかなり大きく拡張されたからなのか、雨で視界がよくなかったからなのか、多分その全部だろう。ときどきわけがわからなくなった。人の流れが若干変わってしまったのかもしれない。「ベイマックス」等のアトラクションのためにトゥモローランドのランドマークとも言うべきロケットがなくなってしまったのは残念だ。 これはディズニーブランドのキャラクターを大幅に追加した「イッツ・ア・スモールワールド」もそうだけど、かつてあったような世界や技術への探究よりもキャラクターコンテンツに比重が寄ってきてしまっているのは、正直に言えば寂しく思う。ぼくもキャラクターは好きなので言えないが。ディズニープラスで配信されているディズニーパーク建造の歴史を紐解いたドキュメンタリー「イマジニア」なんかを観ていると尚更そう感じる。まあ、ぼくが遊びに行くようになってからはもうとっくにキャラクター主体になっているので、体験しえなかったものへの郷愁に過ぎない。とりあえず「ベイマックス」のアトラクションにはなんら惹かれるものがなかった。作中の舞台であるサンフランソーキョーの街並みが再現されているならともかく。 予想はしていたが、どれだけ地味なアトラクションであっても2歳の娘が急に楽しんで乗れるわけもなく、彼女のご機嫌をとりながら雨の中こっちへ行ったりあっちへ行ったりしているうちに、ランドでの初日は終わった。結局乗ったのはアリスのティーカップ(これを最初にしたのがまずかった)、「プーさんのハニーハント」(これはそこそこ喜んでいたがクライマックスの悪夢のシーンで怯えていた。ぼくも怖い)、そして「イッツ・ア・スモールワールド」くらい(まあまあお気に召したらしい)。それから閉園間際にぼくだけで急いで乗ってきた定番「ホーンテッドマンション」。実はハロウィンのシーズンに通常版の「ホーンテッドマンション」に乗れるのはなかなか貴重(感染症対策でハロウィンの模様替えやイベントは中止)。いつ頃からか、9月から年末年始までずっとジャック・スケリントンに乗っ取られるようになってしまったので(もちろんあれも好きだが、いろいろと明る過ぎて本来のホーンテッドらしさが全然ない。あれこそ別個で作ればいいのにな)、いい体験ができた。しかも夜になって乗ったからか、周囲はもちろん内部も一段と暗い気がした。 ディズニーに来てこれしか乗ってないなんて初めてで、そりゃ物足りなさもあったけれど、かえってなんだか贅沢な過ごし方をした気もする。身動きもある程度取りづらかったので、見に行っていない一角もいろいろある(ところどころ閉鎖になっているから尚更そう感じたかもしれないが)。こうして思い返すと、あそこも行っていない、あれも見ていないなというのが結構ある。そうしてまた行きたくなってくる。 ホテルはアンバサダーホテルに泊まった。去年友達の結婚式があったところだが、誕生日に泊まることになるとは思ってもみなかった。ディズニーのホテルは初めてディズニーランドに来た5歳のときにも泊まった気がするが、あれはどこだったのか全然わからない。部屋のテレビはディズニーチャンネルが通じているので寝るまでずっと観ていた。翌日のディズニーシーのチケットもフロントで取れてほくほくである(ホテルに泊まるとチェックイン日以外の日のチケットをフロントで取れるようだ)。ここではなにも心配する必要がないのだという、この頃は感じなかった安堵感。当然一時的なものでしかない。頭のどこかでそれはわかっていながら、しかしその一時の安心がなにより必要なのだ。
これは取っておこう。
  二日目、誕生日当日のシー。依然しとしと雨。初日よりは弱い。風のある雨じゃないのが本当によかった。続けて行くと顕著だが、ランドに比べてシーは歩くところが広く、視界も開けていて歩きやすい気がする。あまりこちらでランドのような人混みができているのも見たこともないし。ランドは結局ところフロンティアやトゥーンタウンのように見てまわるセット作りのエリア以外では、アトラクションの外側をそれほど作り込んではいないので景観的におもしろいものは少ないが、シーのほうはなんでもない建物を丁寧に作っていて、船や列車、街並みというものが見ているだけでも楽しく、前日よりは娘のご機嫌もとりやすかった。二日目は前日は買えなかったポップコーンバケットを買ったのも大きい。初日だって欲しかったのだが、どこ行っても「美女と野獣」と「ベイマックス」しか置いておらず、欲しいバケットがなかったので買いそびれてしまったのだ。こんなことならすでに持っているR2-D2を持っていけばよかった。 ポップコーンバケットと言えば、みんな本当にいろいろなものを持っている。そして、誰かが持っていたからといってそれがその日売っているとは限らない。大抵の場合おもしろい形のものはかつて販売されていたもので、各自マイバケットとして持参しているのだ。見た感じ結構年季の入ったものをぶらさげているひともいて、なるほど、来るたびに新しいのを買って集めるのも楽しいだろうけれど、同じものを長年使い続けるのも安定していてよさそうだ。なによりすぐにリフィルして食べられる。味とバケットの組み合わせで困ることもない(欲しいバケットなのにフレーバーが好きじゃないなど)。長年愛用の旅行鞄のように馴染んだりしたら素敵だろう。そうと決まれば次回はR2-D2(の中を綺麗にして)を最初から下げていくぞ。 というようなことを考えていたら、ディズニーパークに定期的に行く趣味というのも楽しそうだなあと思い、わくわくしてきた。特別なときに取っておいてもいいけど、とにかくいつまでも時折ディズニーに行く人間でいようと思うのだった。 シーの街並みにはいろいろなスタイルがあるが、中でもこのニューヨーク(それも20世紀初頭)の街並みは楽しい。広告や看板もなかなかよく作ってあり、いろいろなものがあるのでおもしろい。こういう作りが細かく切れ目がなく続いているので、ランドよりもかえって別世界観が楽しめると思う。なにより無理になにかに乗ろうとしなくても楽しいのがいい。この写真のコンサートホールは、前に友達と来た時に抽選が当たったので中でショーを観たことがあるが、結構本格的で感動を覚えた。 かと思えばこういう遺跡なども細かく、とにかく作り物に見えないように視界が限られているところがリアルさを感じる。決して全体像は見えず、また奥のほうがどうなっているかまでは目が届かない。キャラクターグリーティングの予約が取れたので、一家はここでピスヘルメットを被った探検隊仕様のミニー・マウスと対面した。ぼくはもうなにマウスの着ぐるみでもへいちゃらである(5歳のときは大泣きした)。娘は怖がるかなと思ったが、案外平気で(ものすごく気を使った距離離れていたのもありそうだが)うれしそうに手を振り続けていた。オーディオアニマトロニクスなどに比べたら、血が通っていて怖くないのかもしれない。 「マーメイドラグーン」というのも、前に来ているはずなのだが、なんだか今回はとても綺麗で楽しく感じられた。色合いへの反応の仕方が変わったのだろうか。娘の気を引けるものを探してあちこち見渡す中で感度がよくなったのかもしれない。海の底っぽい若干の薄暗さの中で色とりどりの魚や珊瑚がよく映えている。ここでもグリーティングの予約ができたので、娘はアリエルと対面。これはもう全然平気だ。人だし。多分人魚ということもわかっておらず、ちょっと派手なお姉さんくらいにしか思わなかっただろう。「ばいば〜い」と手を振っていた。 子どものときほど没入というか、その世界観に圧倒されるようなことはなくなりつつあるが、それでもやっぱりぼくにとって気分転換にはうってつけの場所だと改めて思った。2歳の娘を連れて、雨の中だったとしても、である。子どものときのように楽しめなくなってしまったのではないか、と寂しくなったときもあったが、大人になって見るところや感じるところが変わったのは悪いことではないだろう。セットにせよキャラクターにせよ、作り手の意図や機械の仕掛けについて想像したりというのは、今だからできることだ。少なくとも魅力を感じないなんてことが全然ない。あれこやこれやの悩み事を一瞬でも忘れられる場所があるということも思い出せてよかった。創造の意欲だってわく。わくだけかもしれないがわくだけでも重要だ。素晴らしい誕生日をありがとう!
雨具を拒否してポップコーンを肌身離さず歩き回る娘とそれを追う妻
「三体 II 黒暗森林」
型破りな中国のSF小説「三体」シリーズの第二巻「黒暗森林」のいち場面より。第一巻の「三体」もインパクトがあったけれど、それがまだまだ序章に過ぎなかったことを思い知らされる内容。前作がことが始まるまでを丹念に描いた序章だっただけに、今作は最初からことが始まっていてノンストップ。 文革で学者だった父親をリンチで殺されてしまったひとりの女性がのちに秘密のアンテナ施設に配属され、密かに外宇宙文明にコンタクトをとり、彼らに地球の存在を知らせ、招いてしまうことから全てが始まるという経緯やバックグラウンドを描いたのが第一巻。三つの太陽に囲まれその周回が不安定な過酷な環境(ずっと極寒の夜だったりずっと灼熱の昼間だったりで地球のように安定して昼夜を過ごせる時期が不定期に訪れる)で何度も文明再建を繰り返してきた三体文明は、安住の地を求めていたが、父親の運命をはじめ人類の愚かさに絶望していた彼女は三体文明の侵略を手引きすることを選び、やがて三体側に協力する地球側組織のリーダーとなる。第一巻では彼女が率いる地球三体協会を、巻き込まれ型の語り部たる科学者や敏腕刑事をはじめ当局側が追い詰めていくのが山場で、三体文明の艦隊がすでに故郷を出発し、文明の未来がかかった遠征の旅を始めたことが明らかになる。彼らが地球のある太陽系に到着するまで400年だという。 そして、400年後の侵略に備えて必死に準備を進めるというのが第二巻「黒暗森林」の物語。400年もあるのだからまだまだ時間はあるのだが、地球はまだ宇宙空間での戦闘はおろか宇宙船の技術もほとんど進んでいない。その上三体側から送り込まれてきた原子以下のサイズのコンピュータ的存在によって地球上のあらゆる動きが監視されており、一定の技術の発展が封じ込まれてしまっている。侵略への対策を講じようとしても、その内容は三体側に筒抜けの状態。音声も文書も監視されている。つまりふたり以上の人間がそれについて話し合うことができないのだ。しかし、地球人にもほぼ唯一といっていい優位性がある。それが思考である。三体人のコミュニケーションにおいては思考が全てオープンで、隠し事や嘘といった概念がない。監視に送り込まれてきた原子以下のスパイにも、人間の思考までは読み取れない。というわけで、地球では三体に対抗する作戦を、ひたすら自分の頭の中だけで考案する人間を4人選出し、今回の主人公はそのうちのひとりとなる。 選ばれた4人は全てが自由というほどではないにせよ、地球上のかなりの部分を自由に動かせる権限を持ち、その意図について説明する義務がない。ほかの人間にはその真意がわからず、それぞれが考える作戦の全貌を知るのは本人だけで、そこがこの計画の狙いとなる。400年後の侵略に備えるため、途中で冷凍睡眠に入って時を越えるのも自由。3人がそれぞれどんな作戦を進め、またそれがどのように三体側(に協力する人間)に暴かれておじゃんになるかが描かれる中、しかし主人公は……というのがおおまかな内容である。 こんなあらすじでそのすごさが伝わるとは全然思えないが、とにかく話のスケールや拡がりかたに圧倒される。そして大きな話が始まるまでに、その経緯や準備、伏線を丹念に積み上げていくところが丁寧で、だからこそあとに来る拡張する展開がおもしろい。上の絵は個人的な大詰め、読んでいて感動さえ覚えたシーン。読んでいなければなにがなんだかわからないと思うが、これを説明するのはちょっともったいない気がするので特に補足しないでおく。気になったら読んでみよう。とんでもないことが起こっているところ、はっきり言って膨大な数の破壊と死の場面である。しかし、とてつもなく興奮してしまう。その感覚はたとえるならゴジラが放射熱線を吐き出すシーン、あれが近いと思う。
ハッピーハッキングキーボード
 iMac純正のマジックキーボードが前から不満だった。スマートではあるかもしれないが、それゆえキー自体も薄く、指先が底に当たるような硬い感覚が非常にくたびれるのだ。ひとつひとつのキーをしっかり押している感じもあまりないので、打ち間違いも少なくない。それから、これは好みだが音がよくない。パチパチペタペタという具合で、ぼくが好きなのはもっとしっかりした打鍵音、カタカタ、スコンスコンというやつだ。なので、キーが厚めの、感触のしっかりしたキーボードが欲しかった。上の写真はHHKB、ハッピーハッキングキーボードのLite2というもの。Mac向けの刻印で英語配列のものにしてみた。iMacを買った際に普通に日本語配列のキーボードを選んでしまったのだが、友達が言うには英語配列も選べたらしく、どうして英語配列にしなかったのだと言われて以来悔しくてずっと欲しかったんだよね。英語配列は日本語配列よりキーが少なくてすっきりしているとか、Adobeソフトなどでよく使うショートカットキーも英語配列が前提になっているとか(そのほうが同時に打ちやすい配置にあるとか)、いろいろ利点はあるらしいのだが、単純に一度使ってみたかったのだ。慣れてしまえばどちらでも変わらないだろうし、実際使ってみるとやはり噂に聞いていたようにキータッチの感触やコトコトという音が心地よい。裏側の脚を出すことでキーボードに角度がつけられるのも打ちやすい。それによってキーボードが浮き上がって隙間ができるので、iMacの画面の下にすっとしまうこともできる(画面の下までにせり出しているスタンドの底面がその隙間にうまく入ってくれる格好)。少しでも多くなにか書きたいので、メールの返事でさえ楽しいくらいだ。この調子でたくさん文章を書きたい。
クラシック・エディター
 貼り付ける画像の縦横比が自由に変えられなくなった問題について。結局よくわからなかったが、プラグインで旧式のエディターを使えるようにたらなんとか解決した。ブロック式で記事を作る最新のやり方の方が確かに体感的で楽だったが、クラシック・エディターの方が自分はやりやすいような気がする。昔からあるホームページやブログのエディターの見た目でかえってこちらのほうが馴染みがある。で、画像も四隅をカーソルで掴んだり、数値を打ち込んだりして、縦横比を保ったまま大きさを好きに変えられるようになった。ツールを変えただけで、元のツールでどうしてああいう不具合が起こったのかは依然わからないのが少し気になるが、とりあえずはこのやり方でやってみよう。  ひと通り全ての記事の画像の大きさを、短い辺を640pxくらいで揃えてみた。どんと大きく絵を載せるのもいいのだが、ものによっては大きすぎたり近すぎたりで見えづらいものもあるし、携帯端末で見る分には変化はないのだが、パソコンのブラウザだと不揃いさが気持ち悪い。フルサイズの画像にアクセスできるようリンクさせた上で、まとまりのいい大きさに揃えると、記事やサイト全体がすっきりすると思う。ひと安心。
ちょっと手に負えない

 このサイトはワードプレス で作っているのだが、ワードプレス というのは自由度が高い代わりに自分で対処しきれない不具合もかなり起こる気がする。最近になってテーマ変えて、ようやく納得いける外観が得られたものの、テーマ変更の過程で画像の設定が変わったのか(実際どうかはわからない。タイミングとしてそれ以外変えたところが思いつかない)少なくない記事で画像の埋め込みが無効となってしまった。今、ひとつひとつチェックして直したところ。画像が消えずにいる記事も、画像の表示サイズが変わっていたり、貼り付けている画像そのものと指定の表示サイズが合っておらず画質が下がったりしていたので、結局それらも貼り直すことになった。修正はできたがどうも気持ちが悪い。思いつくワードを検索しても同じトラブルの例はなかなか見つからない(言葉を少しずつ変えてもずっと同じサイトがトップに上がってくるのは全く頭に来る)。基本的には非常にスマートで安定しているので、まだしばらくは使いたいところだけれど(1年も経っていない)、多少の制限があってももう少しこちらのやることが単純で済むような形を選びたいとも思える。もちろん手打ちのサイトはもうやる気しないが。なにかいいサービスはないかなあ。細かいところを気にせず、ひたすらに絵のアップとブログ、ちょっとした遊びのページが作れればそれでいい。

グレートバーガー

 少しずつ外食もするようにしているが、今年になってからまだ行っていなかったグレートバーガーに行った。グレートバーガーは、言葉で説明するのがすごく面倒なところにあるのだが、原宿の、神宮前の渋谷寄りの路地の中にある。あのあたりは入り組んでいてぼく自身とりあえず路地に入ってからなんとなく歩いて行ってたどり着くという感じなので、あまりひとに説明はできない。9年ほど前にオープンした際並んで食べて以来ファンである。ぼくが並んでまで食事をするということはありえないことなので、言うまでもなく付き合いで行ったのだが、それ以降まるで自力で見つけたかのように友人や家族、のちに妻となる女性と行ったりして、今に至る。一度場所を移動しているのだが、もとの場所から数軒先に移動したような具合。ぼくがこれほどひとつのお店に通い続けるというのはここ以外にはあまりない。

 行ってみたら満席で、ひとりだったので少しだけ待って空いたカウンター席についた。思えばカウンター席は初めてだ。すぐ目の前が厨房になっているので、いつもは離れた席から眺めていたバーガー作りが間近で見られて感動さえ覚えた。鉄板の上に何枚もパテが並んでじゅうじゅういっている。カウンター天板の奥側半分も調理台の一部となっているうような形なので、すぐ目の前にどんどん皿が並んでいく。それら全て見ていて飽きない。バーガー以外にもサンドやステーキ、パンケーキといったメニューがあるが、ここに来るのはやはり特別なことなので、ついついバーガーを頼んでしまう。でも、いつかサンドやステーキ、パンケーキも食べてみたい。どれを食べてもグレートなこと間違いなし。

いつもと変わらなかった

 元々夏だからといって遊ぶことも少ないので結局普段と大して変わらないまま8月が終わりそうだ。あれだけいつもとは違う夏になるとラジオがしきりに言っていたのに、悲しくなるほどいつも通りである。いつまで経っても自分が感じている疎外感はこういうところから来ているのかなどと思ったりするが、別に今更ひとと同じ趣味や習慣がないことに不安を覚えることはあまりない。

 できるだけ落書きをしようと思い、なんとなくでもごちゃごちゃ描く習慣が戻ってきたが、そうすることで自分の描きたいものや描いたほうがいいものが見えてきたような気がする。映画などのファンアートはもちろん楽しいが、やはり自分で考えたものがそれなりにかわいく出来上がると気分がいい。学生の頃からどこかひねったものを描かなければと思い込んでいたところがあるが、王道や定番、シンプルでわかりやすいものを描くほうが自分に合っているかもしれないとも思えてきた。自分が平凡に感じるものでも、描いてみるとひとには独特に見えることもあるらしいし(このパターンが大変多い)。あまり無理に奇をてらったり難しく考える必要はないのかもしれない。しかし、普通に書いたり描いたりしたものでもすぐに独特だと言われるのは、それはそれで寂しくもある。

 

外気

 しばらくぶりに徹夜をする。もう絶対に根を詰めたり煮詰まったりさせないよういくら心がけたところで、それは心がけでしかなく、実際にはどうしても悩んでしまい、おそらく誰も求めていないであろう細部にこだわって朝になってしまうのだ。このところ太陽が昇ってしまうと大変な暑さなので、ここで一度犬の散歩に行ってしまおうと思い、お腹を上に見せて寝息を立てている犬を叩き起こす。外へ出るとまだ涼しい。ふとマスクを外してみる。ダース・ヴェイダーではないので、別にマスクを外した途端に死ぬわけではない。なるべく着け、平気そうなら外すという判断を各自ができればそれでいい話だろうと思う。それでも、外出時は必ず着けるようにしていたので(元来ぼくは出かけたままの状態を切り替えることが苦手で、途中で暑かったら上着を脱ぐとか、寒くなったら着るとかいうのができないから、マスクも器用に扱えないだろう)、外にいながら鼻から口を覆っていないというのは変な感じで、ちょっといけないことをしている気にさえなる。たかだか数ヶ月でこんな感覚になろうとは、数年続いたら一体どうなるだろう。

 夏の早朝特有の湿った草木のような匂いがした。外の空気とはずいぶんいろいろな匂いが混ざっているなと改めて思う。なんだか強烈な感じさえして、自分はずっと室内やマスクを通した薄い空気で生きていたのではないかと不安になる。

 まだ人も車も来ないので、道にたくさんのムクドリがいる。前にも書いたようにこのあたりはとにかくムクドリが多い。カラスやスズメなどより頻繁に見かける。そして近寄ってもなかなか逃げない。大きくはないとは言え近づいても逃げない鳥というのは少し怖い。

 いつも散歩しない時間帯を歩くと、普段は見たこともないような大きな犬がいたりする。公園(と言っても田舎の同級生の家の庭ほどもない広さだが)ではおばさんがひとり太極拳のようなジェスチャーをやっている。太陽はまだ低いところをオレンジ色ににぶく光っているが、あれがあと数時間もすれば殺人的な光線を放つようになる。そうなる前に運動や犬の散歩を済ませようというひとがわりといて、狭い道を行ったり来たりしている。ぼくは目の奥がキリキリした。

 ぐるっと歩いてきて気分転換になっただろう、そうあって欲しいと願っていたが、帰ってきて犬の足を洗って、ソーダストリームで作った炭酸水を飲んでから再び机に向かうと、大して頭はすっきりしておらず、出かける前と同じ箇所を引き続き描いては消し描いては消しするのだった。

考えさせられる

 映画の感想においてだいぶ言葉を選ぶようになってしまったが、選ぼうとして考えれば考えるほど沼にひきずりこまれてしまうので、逆に使うことを自分に禁じている言葉を設定している。そのひとつに「考えさせられる」というものがある。

 これはぼく自身のスタンスであって、別にこの言葉を用いることや用いるひとをどうこう言うつもりはない。場合によってはこの言葉が最適であることもあるだろう。あくまでぼくとしては、この言葉に頼りたくないと思っている。

 大抵この言葉は、なにか強いメッセージが込められた作品に対し使われると思う。この言葉を用いることで、自分はその作品が訴えるところが理解でき、それについて考えを巡らせている、巡らすことができる人間であると表明することができる。そうしてその一言だけで作品の深さみたいなものを表せてしまい(表せていないのだが)、具体的になにをどう考えたのかは言わなくとも許されてしまうところがある。そこが危うく、ぼくの気に入らないところでもある。もっとも、具体的に考えたことが言えるのなら、わざわざ考えさせられたというようなことは言う必要がない。もちろん字数に限りがあり、それを思う存分書けないこともある。そういうときにこの手の言葉は非常に便利であり、つい使いたくなるのもわかる。ああ、ここで「考えさせられる」を素直に使えればこれで片付くのになあと思うことも少なくない。しかし、限りある字数の中でどうにかこうにか自分の言葉、表現を工夫したいと欲を出したり背伸びしたりしてしまうのがぼくの性分なのである。

 はっきり言えば、「考えさせられる」で締めてしまうと、なんだか考えてなさそうな印象があるんだよね。なにより「させられる」というのがひっかかる。まだ「考えたくなる」「考えずにはおれない」というほうが主体的でいい。「させられる」などと言うから考えてなさそうに見えないのかもしれない。受動的なニュアンスが強く、作品のメッセージをどこかで押し付けられたように感じているのではないかという印象さえある。つまりそれは消極的な態度と言えるのではないか。「考えさせられる」のであって自分から考えようとはしていない。まあ、こんな一言からそこまで拡大するのは意地が悪いとも思うし、依然としてほかのひとが使うのは一向に構わないが、自分がこの言葉に違和感を持ち避けたいと思っているその理由を考えていくと、こんなところである。

 で、わざわざここにこう書くということは、今後より一層この言葉を使えなくするためだったりする。ほかにもまだ自分から禁じている言葉はあるのだが、全部明かすと非常にやりづらくなるので教えてやらない。いずれもその一言を使うとそれだけで片付き、それっぽく聞こえる便利な言葉ばかりだ。しかし、便利な言葉に頼りすぎると、やがては表情に乏しい文章になるだろうと思う。知人のひとりはそれをジョージ・オーウェルの小説に出てくる「ニュースピーク」になぞらえていた。一言で反対のニュアンスを併せ持ち、いろいろな場面で使うことのできる魔法のような言葉。曖昧で具体性に欠くので角が立ちづらい言葉。だがそれを多用しすぎれば、語彙が減ってしまうことだろう。

Joker(2019)

 去年試写で観たきりだった『ジョーカー』がNetflixに来ていたので見返す。この映画を巡ってはいろいろな意見があると思うけれど、ひとまずぼくとしては無数にあるバットマン神話の数々の中の、いちパターンという程度であることは、初見時から変わらない。80年代の生々しい不景気なゴッサム・シティをはじめ絵的にかっこおもしろいところも多く、なによりのちにジョーカーへと変貌を遂げる主人公アーサーに扮するガリガリのホアキン・フェニックスの所作もいちいち見応えがある。

 今までは大富豪とその協力者である警察の視点からしか描かれなかったゴッサムそのものを、最下層の生活から描いたのは新鮮で、その象徴としてこれまでのバットマン神話ではブルース・ウェインにとって絶対的な存在だった「偉大な父」トーマス・ウェインを、低い視点から見上げて別の姿に描き出しているのがおもしろかった。主人公アーサーはつねに混み合った雑踏をさまようが、これもつねに高いビルの上から街を見下ろしているバットマンの定番ポーズとはわかりやすく対照的だ。

 またアーサーが、実はトーマス・ウェインと使用人との間に生まれたのではないかという疑惑(限りなくその可能性が高いことが示唆されるが結局本当かどうかははっきり明かされない)により、アーサーとブルース、ジョーカーとバットマンを「兄弟」として対比するというような試みもなされている。最終的にアーサーが悪として覚醒し、カリスマ的なピエロに感化された暴徒のひとりが、息子を連れて暴動の現場から逃れようとするウェイン夫妻に銃口を向けることになるが、これは間接的にジョーカーがバットマンを生んだというような構図になる。こういう、全く見慣れないルックやフォーマットによって、お馴染みの神話を構成し直しているようなところがおもしろい。

 ただ、そのためにあの犯罪界の道化王子たるジョーカーの誕生秘話として少しスケールが小さく感じられもするのだが(ましてやヒース・レジャー版の伝説的なバージョンと比べたら尚更だが、その比較はおそらく意味がないし、両者の違いこそがおもしろいところである)、そこはDCコミックのキャラクターの設定をところどころ借りながら、アーサー・フレックというひとりの男について描いた映画と受け取るのが妥当だろう。もしくは、いつものジョーカーがいつもの調子で語った嘘か本当かわからない身の上話のいちパターンだと思う程度がちょうどいいと思う(ラストシーンでカウンセラーと話しているところからその想像ができる)。タイトルに「The」がつかないのはそのあたりの余地のためでもあるのではないだろうか。ジョーカーそのものというよりは、ジョーカーのような男、ジョーカーという概念を指しているのだろうと思うことにしている。

ムクドリ

 犬の散歩をしていると道を挟んだ木と木の間に見事な蜘蛛の巣が張られているのを見かけて、家主が一生懸命糸を張ってるのをぼやっと見ていたら、ムクドリが飛んできてそのクモをぱくりと食べてしまった。一瞬の出来事で驚いたが、そりゃそういうこともあるだろうなと思い、なんだか久しぶりにああいうものを見たから少し興奮した。あんな空中にあれほど大きな巣を張っていればさぞいろいろな虫がかかったろうに、鳥からしたらとてもわかりやすく狙いやすい位置だったのだろう。

 それとは別に、セミが鳴いている木のそばにムクドリがおりてくるところにもでくわした。鳥がやってくると、それまでジリジリ鳴いていたセミがぱたっと鳴くのをやめてしまい、本当によく出来ていると思った。ムクドリはじっと木の上の、セミがいるあたりを伺っていたが、その少し先まで歩いていくと、今度は二羽のムクドリが取り合うようにしてセミをついばんでいた。クモの巣もセミの声もやつらが生きていくのに必要なものだけれど、裏目に出やすいらしい。

EE-3

まだそれほど事態が深刻になっていない頃、ディズニーランドに行った友達にパーク限定のボバ・フェットのブラスター(EE-3カービン・ライフル)を買っておいてもらったのを、このたびようやく受け取った。ディズニーランドはあのあと間も無く休園となったので、なかなかのタイミングだった。このブラスター・ライフルはボバ・フェットごっこにはもってこいのグッズでずっと欲しかったのだが、いかんせんディズニーランドに行く機会が少なかったので、ようやく手に入ってうれしい。このほかにもハン・ソロのピストルやストームトルーパー(もちろん帝国軍の)のライフルもあり、近年のSWグッズがビミョーな雰囲気なのに対して、ご覧のように昔のようなパッケージがグッド(「TRY IT!」)。ひとによってはこれを黒く塗装してリアルに仕上げるのだが、わざわざ本物の銃火器からかけ離れた色合いを施しているのだし、このボバ・フェット風の配色がかわいいのでこのままにしておく。

 やはりこれを持つだけでも格好がつく(?)。戦っていないときのボバはライフルを構えるというよりは、やや銃身を抱くようにしてたたずんでいるのだが、あのポーズも好きなところ。長年の仕事に全体がくたびれたような様子(決して弱々しいという意味ではなく)がかっこいい。ヘルメットとブラスターだけで終わらせてもいいのだが、こうなると両腕にはめるガントレットなども作りたくなってきた。もとより全身を作るつもりは全然なかったが、こんな感じでやがて全部を揃えてしまうのだろうか。いや、胸部プレートとかジャンプスーツは面倒くさい。

ラジオを聴くための機械

 小さなラジオ兼Bluetoothスピーカー。台湾のSANGEANというメーカーのWR-301というもの。ラジオとしてのかわいさに惹かれて買ったが、長らくスピーカーというものを持っていなかったので、パソコンで流れる音をこちらにまわすもよし、iPadで観る映画の音をここから流すこともできるというのが、少しうれしい。端末から直に発せられる音よりも柔らかい印象なのがいいし、音量を微調整できるので夜中も最低限の大きさにすればイヤホンを使わなくても済む(当たり前のことだが音を流す向きが変えられるのも大きい)。ラジオなんて今時はradikoなどを使った方が感度を気にせず常に綺麗な音で聴けるかもしれないが、どうしても音が鋭く感じられたり、インターネットとワンセットな感覚がせわしない気がしていたので、ラジオを聴くための機械としてのラジオがずっと欲しかったのだ。懐古的と言われればそれまでだが、シンプルに単体としてのラジオはどこかのんびりした気分で聴ける気がする。聴き逃したものをあとで再生できるというような機能もないが、かえってそれが刹那的でよい。聴き逃したならもうそれっきりでいいような気もするし(元々そうだった)、今なんて言ったのだろう、というようなものもあっさり聴き流してしまえる。それだけで気楽に思えるのである。ラジオを聴いたのは久しぶりだけれど、自分からは興味関心を持たない音楽や話題が勝手に流れ込んでくる感じはかえって新鮮である。自分から探そうとすればなんでも見つかる時代だが、興味がないものは探しようがない。だからこそテレビの映画放映も、ラジオの音楽も、知らないものと出会うためには必要だろうと思う。話題や会話も、しばらく聴いていると語彙のあるひととないひとの差が際立ってきておもしろいが、BGMのように聴き流せる他愛のないおしゃべりもあったほうがいいというのがわかってくる。なんとなくひとがしゃべっているというだけで気が紛れるし、その話題はそれほど深く考えるほどの内容でないほうが楽なこともある。これはFMしか聴けないのだが、もしAMが聴きたいことがあればradikoをBluetoothで流せばいいや。木のフレームがとにかくかわいい。

Bottle Cap Collection

 自分が欲しいと思うボトルキャップを、大貫卓也氏による「GET!!STAR WARS」キャンペーンのポスター風に。大貫さんは「ペプシマン」も手掛けているけれど、いかにも本国アメリカ発のキャラクターだとばかり思っていたペプシマンが、実は日本で生まれた独自のキャラクターだというのは驚き(アメリカでは知名度が低いらしい)。SWのキャンペーンにしてもとても舶来な感じで、アメトイ的なインパクトがSWとぴったり合っていたと思う。「スター・ウォーズを集めろ。」というコピーもそれだけでとてつもない強さを持っていただけでなく、アメトイではお馴染みの文句「COLLECT THEM ALL!」(大抵の場合パッケージの裏側にラインナップとともに書かれている言葉だ)を思わせ、一個だけでは終わらない世界観の広がりを感じられてわくわくする。

 ボトルキャップは子どもの頃の夏の記憶と深く結びついているだけでなく、玩具をコレクションするという趣味の起源と言えると思う。はっきり言って、自分にとって新しいSWに足りなかった最大の要因はこのペプシとのタイアップだろう。プリクエル三部作は毎回このボトルキャップのキャンペーンをやっていたせいもあり、どこかでやはりSWと言えばペプシであり、紺色で、夏で、ちょっと大人びた渋いおもちゃのイメージだった。懐古は危うさをはらむが、自分がなにと出会って形成されてきたかは忘れたくない。個人的にはサーフボードを持ったワニが気に入っている。

地獄から抜ける

 大好きで尊敬している人たちが貶められてしまうお馴染みのツイッター地獄には、とても悲しくなる。ちょっとしたことも誤解されたまま広められてしまい、文脈を理解しない通りすがりによってさらにややこしくなる。今更言うことでもないが、やはりあれは独白集であってコミュニケーションに向いているものではないのだろう。確かに連続投稿で書き続けることはできるかもしれないが、ひとつひとつはどうしたってケチくさい140字で、それは単体で広められて前後の文脈がわからない通りすがりの目に留まる恐れがある。そう思うとあそこで起こる揉め事はほとんど事故のようなものとも言えるのかもしれないが、それはどんどん連鎖して収拾がつかなくなる。だから地獄なのだ。昔で言うフォーラムなら熱心な管理者がいて明確なルールがあったが、SNSはそれとは少し違う。フォーラムがある程度閉ざされた建物の中の、文字通り会議室であるなら、ツイッターとはあらゆる人が出歩いている往来のようなもので、そのひとりひとりの思考の断片が流れ続けて、他のと緩衝一切なしでぶつかり合っている。ぼくのようなのはおっかなくて仕方がない。今のところ、どれだけ寝言めいたことを書いたとしてもぼく自身は大して嫌な目には合っていない。しかし、知っているひとが突如渦中に置かれてしまうのにはもはや耐えられそうにない。あんなもので消耗するのもいい加減うんざりなので、あまり見ないようにしたい。自分自身の使い方そのものは、だいたい今くらいでいいだろう。もはや絵とアップと告知、それから毒にも薬にもならない雑な思いつきしか書いていない。最後のもぐっと減らしていきたい。なぜなら140字でものを考えたくないから。ブログはこうして思っていることを、ひと通り気が済むところまで書けるし、いい意味で拡散力がないのもいい。誰かが読む前提だが、いたずらに人目には触れない、そんな媒体がやはり自分には向いている。ぼくにとってブログは地獄に垂れてきた蜘蛛の糸だ。

ブラシが硬かった

 多忙であることを強調したくはないのだが、この春先から連休をまたいで5月中までずっと息つく暇もないような状況だった(平日がだいたい全部締め切りというのが数週間続いていたわけだけれど、それは複数の締め切りが同じ日に重なるのを避けて分散させた結果でもあった。しかし、結局それでも同じ日に何件か重なることになり、全部が全部同じ点数かつ密度、というわけではないにせよ(ラフの期限や完成データの納品もごっちゃになっている)大変だった。別にまだ終わったわけではないが、ようやく日程が単純になりはじめたので、こうして書いている。ちょっとでも放っておくとすっかり書かなくなってしまうので、無理にでも書いておく必要がある。

 どうも前より描くのが遅くなっているような気がして、それがだんだん気分にも影響して、特に点数の多い仕事が重なっていることもあって実際よりも一層ハードルを高く感じるようになっていたのだが、原因は至って単純だった。主に使っているフォトショップのブラシの筆圧設定が非常に硬め(筆圧をある程度かけないと意図した太さにならない)に設定されていたこと、それからペンタブのペン先を弾力のあるもの(スプリングの入っているやつ)にしていたこと、この2点である。デジタルアナログ両方の要素によってしんどくなっていたらしい。とにかく描画に時間がかかり、なにより手が辛い。もちろん仕事が多いということで気が重くなっているのもあると思うが、とにかく作業面ではこれが負担だったようで、思い切って筆圧設定を軽くして、ペン先も普通のものに変えたみたら、すらすらつるつる描けるようになった。元はと言えばこのすらすらつるつるが軽すぎて嫌で、紙にペンで描くのと同じような抵抗が生じるようにして、できるだけアナログな雰囲気を出そうと考えていたのだが、こんなに負担がかかり、そしてそれほど雰囲気に違いが出ているようにも見えないのであれば、もうそういうこだわりはやめてしまっていいかもしれない。デジタルで描いているのにアナログに見えるように、なんていうのがそもそも小賢しく虫のいい話だったのだろう。デジタルで作っているならデジタルに見えていいのではないか。確かにアナログの雰囲気がありながらデジタルの手軽さで自由に編集ができるというのは便利だけれど、まず全然手軽にできていないし、アナログの雰囲気を再現することがそこまで重要だろうかとも思えてくる。せっかくデジタルで描いているのだから、もっと新しいものを目指してもいいのではないか。

 確かにデジタル環境でアナログのうような温かみと味わいのあるものを描くひとはいるが、そういったひとの作品は単なるアナログの再現にとどまっておらず、両方のよさを兼ね備えた全く別の新しいものとしての魅力を持っていると思う。なにで描いたのか一見わからない不思議さというようなものがある。対してぼくはと言えば、実際にインクとペンで描いたように見せたい、ということを意識しすぎていた。そして、その再現にこだわることが難しいのは言うまでもない。せっかく自由度の高いツールを持っているのだから、もう少し広く考えてみてもいいはずだ。タッチや絵柄というものは、必要に応じて、必要に迫られて形になっていくものなので、こうして仕事を進めるのに最適なやり方を模索していくことで、自然と自分のスタイルが出来上がっていくのかもしれない。

スター・ウォーズにひと区切り

  一度書いてアップしたのだが長ったらしい上にあまりにもまとまりがないので書き直す。まず一番に言いたいのはSWに少しくたびれてしまったということ。それから完全に飽きたわけではないにせよ、なんとなくぽっかりと穴が空いてしまったような気がして、他にかろうじて興味のあるものをかき集めてもその穴が埋められずに少しいやだいぶ落ち込んでいるということ。10代からずっとSWに夢中だったから、ここへ来てほとんど初めて気持ちが冷めて(今までも波はあったかもしれないがここまでテンションが下がっているのは初めてだろうと思う)どうしても元気が出ない。普段はSWの絵を描いたりすればある程度気持ちは持ち直すのだが、やる気も起きず、やってもあまり楽しくない。とりあえず今はどうもだめらしい。また盛り返すこともあるだろうけれど、少し距離を取るのも悪くないかもしれない。ほかのものを探究する良い機会だと思って。

 EP9に思うところが多いのも確かなのだが、終わり良ければ全てよしの真逆とでも言うような具合で、好きだったEP8とEP7への熱も冷めていってしまい、シークエル三部作とはなんだったのだろうという気持ちになってしまった。5年間楽しんできたこと自体は変わらないし、過ごした時間や感じたことに嘘はないと思うが、これ以上はもう無理して好意的に受け取ろうとする必要もないかなあと感じるようになった。今後もあるであろう新作についても、観ないなんてことはないだろうけれど(「マンダロリアン 」シーズン2だって観るつもりだ)、これまでのように積極的に追いかけることはないかもしれない。そして必ずしもそうしなくてもいいのだと思い至ったとき、なんだか気持ちが楽になった。やはり無理をしていたのかもしれない。大好きなSWを追おうという気持ちはいつしか義務感になり、いかに熱心なファンとして振舞うかばかりが目的にすり変わっていたのかもしれない。

 前線とは関係なく自分の好きな作品、お気に入りのキャラクターを大切にできればそれでいいと思う。設定の網羅だとか、膨大なコレクションなどというものは自分には全然向いていなかったし、ほかのひとが楽しめばいい。詳しくなくていいと気づいたとき、かえって自分としては視界が開けたような気さえする。ここまでテンションが下がったのも初めてだが、こういう距離感も初めてのことだ。もしかすると、今後の作品はずっと気楽な姿勢で観ることができるのかもしれない(公開日に必ず観るというのにも疲れていた)。

 好きなことには変わらないので、時折絵に描く気にもなるだろうし、いいものがあればおもちゃも欲しくなると思うが、今はそんな感じである。こんなことを書いて、わりとすぐにテンションが戻る可能性もあるが、こういう気分はかなり珍しいと思うので書き留めておく。ほかのものに興味関心を持つのもいいが、そろそろぼくは自分の創作に本腰を入れる頃なのかもしれない。自分の作る世界にSWと同じくらい夢中になれれば、そんなに楽しいことはないだろう。そういうわけでSWとの関係を次の段階へ進めたいと思う。とりあえずは自然な気分でいたい。

いざというとき

 先週末に妻が盲腸で救急搬送されて緊急オペ、入院となり、昨日退院となった。人生で初めて救急車を呼んだわけだが、苦しむ妻を前にとっさに判断できたわけでは全然ない。それどころかなんだか怖くて躊躇してしまった。このことは一生悔やむと思う。救急車があっという間にやってきて、すんなり病院も決まってお医者も見つかり、夜のうちに手術も済んで大事には至らなかったとしても、やっぱり自分を情けなく思う。覚えておかなければいけない。とは言え、一度やってみるとどういうふうにことが運ぶのかなんとなくわかったので、次回は(いや次回なんかないことを願うが)なにかあってもすぐに対応したい。でもなにが起こるかわからないのが不安である。いざ、というときに自分はなにができるのかと考えてみると、とても自分が頼りなく思える。もし心臓マッサージなんてしなければならないとき、できるのだろうか?自動車教習所で習って以来このことは結構怖い。今考えてもしょうがないことだけれど。しかしそのときもまた考えている余裕はないのだろう。考えるばかりでなにも行動できないのをどうにかしたく、また考えてしまう。

 着替えを持って行ったり、退院を迎えに行ったりで実に3ヶ月ぶりに電車に乗った。電車の中の広告はなんとなく少ないような印象。座席はひとりぶん空けてかけることになったらしい。高校は電車通学だったから、電車にこれだけ長い期間乗っていないというのは、中学以来ではないか。そう考えてなんだか妙な気分だが、別に久しぶりに乗ったからといって感慨はなかった。犬の散歩で毎日外に出ているので、青空は目にしているしだんだん強くなる日差しも浴びているのだが、高架上を走る電車からの景色はまた一段と明るくて、無数の瓦屋根がキラキラ反射しているのが、なぜか強烈な印象。人間がどんな暮らしをしていても空にはなんの関係もない。ただただピーカンだった。

10年前の基礎

 あまりの日々の慌ただしさで忘れそうになっていたが、そういえばこの4月で専門学校に入ってからちょうど10年だった。実家を離れて10年ということになる。早くも記憶が薄れ始めているのだが(不思議と高校時代のほうが鮮明に浮き上がってきたりする)、とにかく天気が悪くて寒い日の多い4月だった気がする。故郷を離れて心細い、などという眠いことは一切思わなかったが、それでもとにかく寒かった。どんよりした天気と、接着剤やら定着液やら、塗料の臭いといったものが学校の最初のイメージである。

 前期の授業はとにかく基礎演習の詰め込みで(2年制だったので余計に駆け足である)それまでの学校の宿題とは次元の違う作業量と時間との勝負だったけれど、それでも基本的には描いたり作ったりすることなので、その大変さが楽しくもあった。技術的には未熟極まりなかったが、それまでの人生これだけはなんとか人並みより少しは打ち込める、という分野なので、やめたくなるほど辛くはない。クラスで絵がうまい子、というのが大勢国中(?)から集まっているというだけあってどうしてもショックを受けることも少なくなかったが、だからやる気にもなるというものだ。しばらくして自分の描きたいものがだんだん見えてくると、あまりそのあたりは気にならなくなる。こうして思い返すと、課題量が多かった前期は非常に濃密で、余計な心配をしている暇もなかったし、都会に出て初めて見聞きするものの多さ、知り合うひとの数もあって、楽しかったと思う。要するに調子に乗っていた。

 学校に通っている頃よりも、実際に仕事を始めてからのほうが覚えることも、技術的に身に付くことも多いのだが(嫌でも身に付く)、学校の基礎的な準備がなければそれもすぐには成り立たなかったことだろう。正直言ってそれほどレベルの高いところではなかったし、感動を覚えるのは最初の方だけで、だんだん退屈するようになったというのが本当のところである。たった2年しかないモラトリアムの中で、いかにその後放り出される世界でやっていくかということばかり考えて焦っていたせいもあって、後半の方はもう落ち着きや余裕がなくなっていた。あそこで少し落ち着いて、前のめりになりすぎず、描くときは描いて遊ぶときは遊ぶ、みたいな余裕が持てればもう少しは楽しい時間が過ごせたかもしれないが、それも今だから言えることであって、どこかに勤める能力もなければこれといって財力やバックボーンもあるわけではない、ただ描くことくらいはギリギリなんとかできる、というような後のない(とそのときは思っている)状況では焦るのも無理はないだろう。そういうわけでだんだん窮屈さを感じるようになった学校だが、通っていなければいなかったでわからなかったこと、見えてこなかったものも多くあったと思う。いずれにせよ基礎的なものは大切だ。

 学校とは技術の準備をするところであって、決して完成させるようなところではないのだろう。ぼくがいけなかったのは、学校にいる間に完成に近づこうと焦ったところかな。できるわけないのにね。10年経ってもなにも完成していない。少しお金になるようになった程度だ。学校にいる間にもう少し落ち着いて、できる範囲でものを描く、というのをやっておけばなあと思うこともあるのだが、それもまた今だから思いつくことである。無駄遣いした時間なんてものはないと信じたいところだ。

家にいるのは苦ではないが

 元来外に出て活動するタイプではないし、夜な夜な友達と集まってどうのこうのという娯楽とも無縁な生活なので、まあ別にそこまで苦痛ということもないのだが(ましてや家の中でやりたいことがあまりにも多い。そして今は仕事がいっぱいいっぱいなのでどちらにせよどこにも出る余裕などない)、それにしても気兼ねがない状態で閉じこもるのとなんらかの圧迫を受けながら閉じこもるのとでは全然心持ちが違うわけで、つまりはだんだん息苦しくなってきた。別に犬の散歩や買い出しには出ているし、完全な制限を受けているわけではないことはわかっているが、これでもやっぱり人間なので、いろいろくたびれてくる。どこか行きたい場所というものが全然ないという点が、ぼくの場合は救いだろうか。外に出て打ち込む趣味が生きがいで、ここに通わないと調子が狂う、楽しみがなくなる、というような人々の辛さはぼくなどに想像できるものではないだろう。自分に置き換えれば、本など読んでいないで外で遊べぇ!と言われているようなものだ。辛い。

 日毎に思うようになったのは、こういう状況下では他人の行動についてあまり意見を発さないほうがいいということだ。少し前にはぼくも皆おとなしくしてくれないかなあと思っていたものだが、正直今もそこは変わらないのだが、それでもやっぱり上に書いたようにひとそれぞれ生活様式と判断基準が異なり、様々な条件下を生きるひとがいる中で、それらを牽制するような言動は、少なくともぼく程度の人間は控えるべきなのだろうと思い直す。思慮深いとは言えない行動は確かにあるけれど、だからといってビジランテ的な態度が精鋭化されるのは、それはそれでよくない。現在皆でやっているこの取り組みの目的は他人を牽制することでも、正しさを振りかざすためでもない。

 というように冷静であろうとするのだが、まあはっきり言ってことあるごとに苛立つような日々である。なにかが悪いというよりは状況全てに嫌気が差してくる具合で、もとより世のテンションについていけない性分なので余計に疲れる。こういうときに癒しになるはずの『スター・ウォーズ』も、なんだか興醒めなことばかりで追いかける気が失せている。「クローン・ウォーズ」ももういいかな?というような気分。さあ、どうなるのかなあ。

塗り絵企画「The Quarantine Coloring Book」に参加しています

 
 マイ・ケミカル・ロマンスのボーカルにして「アンブレラ・アカデミー」の原作者ジェラルド・ウェイと、その友人ユース・コードのサラ・テイラーによる、自宅(屋内)で過ごす人々のための塗り絵企画「The Quarantine Coloring Book」(「隔離塗り絵」)にイラストを提供しました。

 企画開始から1日1枚、参加アーティストの線画のフルサイズデータが無料で公開されており、7ページ目となる4月15日にぼくの線画も追加されました。

 線画のデータはウェブサイトから取得できます。ぜひ印刷して塗ってみてください。
 The Quarantine Coloring Book

 描き下ろしではありませんが、線画のみにした場合に比較的塗り絵に向いてそうなものを選びました。すでにインスタグラムでは塗ってくれた方がたくさんいらっしゃいますが、2枚として同じ配色はなく、自分が思ってもみなかったような色使いがされていて驚くとともに、感動を覚えます。塗るだけでなく、新たに模様な図案を描き込んでくれるひともいて、こちらも楽しませてもらっております。

 不安な日々が続きますが、少しでも気を紛らすのにお役立ていただければと思います。もちろん日本の方もよかったら塗ってみてください。ついでにツイッターかインスタグラムで見せてくれたらうれしいです。素敵な企画を考えてくれたジェラルドとサラ、どうもありがとう。

 

日常

 かれこれ一ヶ月以上都心に出ていないことになる。仕事をするにあたり打ち合わせはひとまず遠慮させてもらい、映画の試写にも足を運んでいない。一ヶ月くらい前なら非常に慎重であるという印象を持たれたかもしれないが(実際に打ち合わせなどをお断りした場合、少なからず先方との温度差を感じることはあった)、今では当たり前の姿勢になっているのではないかと思う。というかそう願うばかりである。自分ひとりが病気になるのはまだいいが(それも嫌だけど)、このような場合はそれだけでは済まない。ましてや家に奥さんと、それからこの世に生まれてやっと2年経とうとしている子どもがいることを思えば、ある程度の交際や移動の自由は自分で制限しなければならないと思っている。

 祖母にお別れの挨拶をするための帰省を断念したことは昨日書いたけれど、結局それはぼくの個人的な判断に過ぎないし、まさかそれを引き合いにこの週末出かけるひとにとやかく言える筋合いはないかもしれないが、それでも、どうか家にいてほしいと願うばかりである。

 このように不安な状況では、いつも以上に日々の情勢にストレスを感じてしまう。早く日常が戻ればいい、とぼくも思いたいところだが、しかしどうもこれは、日常と呼べるような状態が戻ったとしても、もはや元の世界には戻らないのではないかという気がする。都心に出るのをきっぱりやめた頃から感じていたことだが、大地震を境にものごとがすっかり変わってしまったように、今回もここを通り過ぎたあとにやってくる日常は、だいぶ様変わりしているのではないかと思う。少なくとも、ぼく自身には心境の変化があるというか、物事への視線が少し変わりつつあるような気がする。特異なテンションが引き起こしている気のせいである可能性もあるが。

 幸いにも今のところやることはあるし、遠くまで行かなくとも家の周囲だけで生活するには足りている。この状態があとどのくらい続くのかは全くわからないが(どうして5月や夏頃には収まると思えようか)、いずれにせよこれまで通りの日常をある程度は諦めなければならなくなると思う。大したことは考えられないが、あれこれとシステムを変えてやり過ごそう。

ばあば

 昨日、祖母が94歳で亡くなった。ソボと発音するのもオバアチャンと言うのもどうもしっくりこず、少々気味が悪く聞こえるかもしれないが30歳を手前にしながらも「ばあば」と呼ぶのが未だにしっくりくる。

 実家を離れる際に一応挨拶をしたが、その時点でもう孫のことを娘が連れてきた男などと認識するくらいで、その後10年の間に(実家を出て10年経つというのが驚く)すっかり変わってしまい、ぼくが最後にばあばと言葉を交わしたのは随分昔のような気がするが、それでも本当にいなくなってしまったというのには重みがある。お母さんと電話で話すときにも、どれだけ形式的でもそれを言うことをできるだけ忘れないようにしていた「おばあちゃんは?(元気?)」という挨拶はもはや必要でなくなってしまったのだ。

 多少迷ったものの、結局その顔を一目見てお見送りをするための帰郷は、しないことにした。ご周知のようにこのような時局なので、東京の端から房総まで移動すること、もっと言えば家から高速バス乗り場のある新宿までの移動が躊躇われたのだ。ついに一ヶ月以上都心に出ていないが、今になってその方面に出ていくのはちょっと慎重にならざるを得ない。理由が理由なので、そのために出かけるのはやむを得ないかもしれないが、理由がなんであれ人が長距離を移動して、また戻ってくること自体は変わらないとも言える。このことで、ぼくが現状をどれだけ重く見て警戒しているかは伝わるかと思う。それでも、多少がんばってでも行った方がいいのではないかと最後まで迷ったのだが、両親も事情と懸念は十分にわかってくれ、もとより無理しなくてよいということだったので、もしかしたら一生悔やみとして残るかもしれないが、諦めることにした。

 そういうわけなので、まだぼくの中ではこのことは両親から聞いた情報でしかなく、目の当たりにはしていないのだが、そのせいか余計にいろいろと思い出している。中でもふと思ったのは、元々おもちゃを買ってもらう条件として聞いていた「髪は染めない」「外国人に道を尋ねられたら決して知らんぷりはしない」という言いつけを、なんだかんだ今もまだ守っているということだ。髪は今日まで一度も染めることはなかった。後者については田舎で過ごす子ども時代にはなんのこっちゃという感じだったが、都会に出てからは実践しているし(せざるを得ない)、なぜばあばがそれについては特に強く言って聞かせてきたのか、今ではよくわかる。まあ大したことではない。どちらもフツーに生きていれば守れる言いつけである。これからもばあばサンタとの契約を守り、自分でおもちゃを買うのだろう。ばあば、おやすみなさい。

  

『マンダロリアン』第3話

あまりの素晴らしさに第3話の感想だけは以前の記事で書いてしまっているけれど、改めて。やはりこの回の良さは、主人公が常に顔を隠しているにも関わらず、その迷いや葛藤が伝わってくるところが大きいと思う。これは『ジェダイの帰還』のダース・ヴェイダーにも同じことが言えるけれど、ちょっとした仕草や間の取り方などで表情というのはすごく豊かになるようだ。C-3POなども、顔は固定だが感情表現がうまい。とは言えヴェイダーや3POには少なくとも目、鼻、口という基本的なパーツがくっついていることを思うと、非常にシンプルなマンダロリアンのT字バイザーにここまで表情をつけるというのは唸らずにはいられない。出発間近の宇宙船の中、「子ども」が遊んでいた操縦席のレバーを見てついに決断するシーンなど、あのT字の顔からあんなに表情を感じることができるとは思わなかった。それまでの揺れ動きが伝わっているからこそ、あの一瞬で一気に盛り上がる。

 ストームトルーパーたちを蹴散らして「子ども」を奪還するも、今度は商売敵に囲まれて絶体絶命。そこに駆けつけるのがマンダロリアンの同胞たち。たったひとりの仲間のために、「一族」が隠れているのを知られてしまう危険を犯して駆けつけてくれる。多くを語らない仲間たちだが、「我らの道」というたった一言があれば十分だった。言葉も表情も必要としない。とにかくT字の顔が印象的な回だった。

『マンダロリアン』第2話

 船が壊されたので直した、というだけのひと休み的な話だが、タイトルの通り「ザ・チャイルド」(日本語的にどうも不自然なので「子ども」と呼んでいいだろうか)が一体何者なのか予感させる第2話である。とは言え個人的にはジャワ回だと思う。

 おもしろいのはジャワがタトゥイーン以外にも入植していたということで(第1話の時点でも主人公が拠点を置く惑星ネヴァロの雑踏に姿があった)、彼らはオフワールド・ジャワという呼ばれる。オフワールドというからにはやはりタトゥイーンから外へ散らばっているということなのだろうけれど、気になるのは入植先でもサンドクローラーに乗っていることであり、当然あの大型車両を運べるだけの宇宙船が使われたということである。彼らがそんな船をかつて持っていたのか、あるいは他の種族から助けを借りたのか、ただでさえ素顔が隠されたジャワ族の謎が深まる。

 謎は多いままだが、今回はサンドクローラーの操縦席が見られたところがうれしい。宇宙船のようなハイテクさはなく、ラッパ型の伝声管まであるところがジャワっぽくていい。屋根の上に日除けがあったりしてデッキのようになっているアレンジも、タトゥイーンのサンドクローラーとは同型でも別物として工夫されている。『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』そのまんまのキャタピラや岩をかわすアクションも、お馴染みのモチーフに新鮮味を与えていると思う。

 ちなみにタトゥイーンのサンドクローラー自体は、かつてあそこに貴重な鉱脈があると聞きつけてやってきた夢想家たちが持ち込んだ作業・運搬車であり、結局なにも見つけられなかった彼らが引き上げる際に放置していったものを、ジャワたちが使っているという設定だ。それよりも前のジャワの生活はどうだったのだろうか。デューバックやロント、イオピーといった動物で廃品を運搬していたのだろうか。サンドクローラーを手に入れたことで廃品回収とその販売が効率化し、それによって得た利益や物々交換の末によその惑星に出ていく機会を得たのかもしれない。彼ら自身が宇宙船を持っていたというよりは、取引によって運んでもらったと考えるほうがジャワっぽいかもしれないが、ジャワたちが廃品から作り上げたオンボロの船、みたいなのもちょっと見たい気もする。 

 ジャワに奪われた宇宙船の部品を取り戻すため、マンドーは彼らの要求を飲むことになるが、それはマッドホーンという泥だらけの洞窟に住む猛獣の卵を取ってくること。当然親である成獣と一戦交えるのだが、凶暴な巨体に加え泥だらけの地形によって苦戦を強いられる。このマッドホーン、要するにサイなのだが、マンダロリアン(のアーマーを着た者)とサイ型クリーチャーという構図に見覚えがないだろうか。そう、『クローンの攻撃』でのジャンゴ・フェットとリークの戦いだ。惑星ジオノーシスの闘技場でジェダイたちとドロイド軍が衝突する中、ジャンゴ・フェットは処刑用の猛獣リークに追われているメイス・ウィンドウを奇襲しようとするが、かえってリークに襲われてしまう。角で突き飛ばされた挙句腹の下で転がされるのだが、このときジェットパックが損傷してしまったため、ジェダイ・マスターのライトセイバーから逃げることができず、最期を迎えることになるのだ。

 そういうわけで今回もマンドーにフェット関連のイメージを重ねているのだが、ジャンゴはたった一発急所に命中させてリークを始末したのに対し、マンドーはなかなかそうはいかず、苦戦の末に泥の中で意識を失いかける。ところが、死さえ覚悟したその瞬間、マッドホーンの巨体が宙に浮かび上がり、猛獣の動きが封じ込まれた。なにが起こったのかを示すのは、猛獣に向かって離れたところから手をかざしている「子ども」の姿だけだった……。

 ヨーダの種族であれば当然予想できることだが、「子ども」はフォース感知能力を持っていたことが明らかになる。それも相当強い。リークに襲われ、ジェダイ・マスターに殺されてしまったジャンゴに対し、マンドーはフォースの助けを借りてマッドホーンにとどめを刺したわけだが、賞金稼ぎとフォースに恵まれた子ども、不思議な組み合わせである上に今までにない関係が築かれていくようだ。

『マンダロリアン』第1話

 SW初のドラマシリーズは西部劇へのリスペクト満載で幕を開け、銀河の覇権を争う戦争とは無縁の小さな世界を描きながらも、ひとつひとつのディテールが世界観を広げていく。視界はごく狭いものなのに、最小限の要素でその背景が想像できるところがおもしろい。

 なんの説明もなく連発される謎の固有名詞はすでに出来上がっている世界観にいきなり連れて行かれるような感覚を起こさせるが、これはSW特有の雰囲気のひとつだ。報酬の支払いをめぐるちょっとした会話で銀河情勢の変化がわかるところもいいが、特に印象的なのは宇宙船に備え付けられた真空チューブなる機能。要するにトイレなのだが、トイレと言わないところもSWらしいし、SWにトイレが出てきたのも初めてだ。記念すべき瞬間と言えよう。

 主人公は戦闘民族マンダロリアンの生き残り、残党のひとりであり、戦士としての性質を活かして賞金稼ぎとして銀河の無法地帯を生き抜いている。帝国が敗北して同盟軍により樹立された新共和国の統治が始まって間もない時期、中心部コア・ワールドはともかく、外縁部では混乱が続いており、賞金稼ぎたちが忙しく働く一方で帝国の残党も暗躍していた。主人公はそんな帝国残党からとある標的の確保を、莫大な報酬と引き換えに依頼される。報酬はかつてマンダロリアンの鎧の材料となっていた貴重な金属ベスカーであり、これを集めることは同胞の復興にも繋がるのだった。

 この依頼が冒険の始まりであり、問題の標的というのは今ではすっかりお馴染みとなった「ヨーダと同族の子ども」。「ベビー・ヨーダ」の愛称でも呼ばれるが、現時点でのキャラクター名は「ザ・チャイルド」。主人公が通称「ザ・マンダロリアン」(略して「マンドー」)なので、名無しのふたりによる子連れ狼的冒険の始まりである。この子どもは単にヨーダの種族の幼体(と言っても50歳なのだが)かもしれないし、ヨーダ自身のクローンである可能性も囁かれている。主人公が依頼人である帝国残党の人物(ヴェルナー・ヘルツォークが演じるこの役名も単に「クライアント」としか呼び名がない)と打ち合わせをする際、部屋に入ってくるドクター・パーシングなる人物の服の肩に、『クローンの攻撃』の惑星カミーノで見られたクローニング・プロジェクトの紋章に似たものが描かれているのが根拠のひとつらしい。

 ザ・チャイルドを確保しに向かう道中、マンドーはアグノートのクイール、暗殺ドロイドのIG-11と出会うのだが、アグノートもIGドロイドも『帝国の逆襲』に登場したモチーフである。ボバ・フェットと同じヘルメットを被った新しいキャラクターを演出するにあたり、まずはかつてボバと一緒に画面に登場した要素を持ってきて説得力というか、イメージを支えようというわけだ。そもそも冒頭からカーボン冷凍が登場しており、ボバ・フェットのイメージを借りた掴みとなっている。ヨーダにしてもEP5で登場したキャラクターだし、この第1話はとにかくEP5からの引用で出来ている。しかし、それでいながら単なる焼き直しにはなっていない。ボバ・フェットとヨーダはEP5の二大キャラだが、直接の接点がない両者(のようなふたり)を出会わせたこと自体が新鮮で、お馴染みのモチーフを使って新しい物語を予感させている。

 ボバへのオマージュと言えば、マンドーが持つ先端が二股の槍のようになっているパルス・ライフルも忘れられない。『ホリデー・スペシャル』のアニメパートでボバが持っている武器そのままであり、アニメ同様襲いかかってくる怪物を撃退するのに使った(エフェクトはまるで違うが)。氷を突き破って下の水中から襲いかかってきたセイウチのようなクリーチャーは、『ホリデー・スペシャル』のクリーチャーのスケッチによく似たものが残っているので、これはほとんど実写化と思っていいくらいだ。

 ところでマンダロリアンというのはボバ・フェットと同じヘルメットやアーマーに象徴される戦士たちで、かつてジェダイ騎士団に滅ぼされたとされていた。ボバ自身はともかく彼のクローン元にして「父親」であるジャンゴ・フェットは以前の設定ではマンダロリアン戦士の生き残りだったが(正確にはマンダロリアンの紛争により孤児になったところを戦士に育てられた)、アニメシリーズ『クローン・ウォーズ』でマンダロリアン周辺の物語が一新される際にそのあたりの設定も変わり、ひとまずジャンゴはどこかで手に入れた装甲服を着て活動している賞金稼ぎ、ということになったらしい。これはCWの監督にしてこの第1話をはじめ『マンダロリアン』のエピソード監督、製作総指揮も務めるデイヴ・フィローニがジョージ・ルーカスに確認を取っているもので、ルーカスとしてはジャンゴを伝説の戦士たちの生き残りではなく、その戦士たちの名残を着ているならず者にとどめておきたかったのかもしれない。 

 とは言えジャンゴ自身がマンダロリアンであれば、筋が通る部分もある。ジャンゴの遺伝子をもとに生み出されたクローン・トルーパーたちはのちにジェダイ騎士団を滅ぼすことになるが、これは間接的にマンダロリアンがジェダイに復讐を果たしたという構図になってうまいこと繋がるのだ。ただ、それではマンダロリアンが悪の手先ストームトルーパーへと繋がっていくことにもなるので、戦士たちの名誉のためにも設定を改めたのかもしれない。いずれにせよフィローニが深く関わっているということで、本ドラマシリーズでもマンダロリアン戦士について掘り下げられることだろう。というかこれはシーズン1全話観終わってから書いているのでそうなることはわかっている。というわけで第2話感想に続く……。

Boba Fett Retro Kenner

『帝国の逆襲』での初登場に先駆けて発売されたボバ・フェットの最初のフィギュアはご覧のような配色。これはプリプロ版と呼ばれるバージョンの衣装がのちの映画版とは若干違っていて、それをより明るめの色でデフォルメしたもの。最大の特徴はガントレットが両腕で違う色になっており、特に左腕が『帝国の逆襲』(両腕緑)でも『ジェダイの帰還』(両腕赤茶)でも採用されなかった黄色になっている点。アンテナのような細いパーツの再現が難しかったのか、額に下げた状態で成形されているのがおもしろい。ボバ・フェットのコスプレイヤーは星の数ほどいるけれど、中にはこのオモチャのバージョンを実際の衣装で再現しているひともいて、なかなかかわいい。このフィギュアのような直立不動のポーズで写真を撮ったりするのだ。フィギュアとはスクリーンの中にしか存在しない架空の世界を現実世界に持ち出すことのできる素晴らしい媒体なのだが、そのフィギュアの格好をしようというのもそれはそれで理解できる。映画とはまた別の、トイだけが生み出す世界観というのがあって、そこに浸るにはトイを眺めているだけでは物足りないのだ。いずれにせよぼくがボバ・フェットが好きなのは色違いのバージョンがいくつかある上に、見方によってはそれがカラフルに見えるからだ。

レイが名乗るべきだったのは

『スカイウォーカーの夜明け』のラストシーン。通りすがりの老婆から何者かと問われたレイが名乗るべきだったのは、やはり「ただのレイ」でよかったのではないかと思う。物語の前半、惑星パサーナのアキ=アキ族の少女から名前を尋ねられたときも「ただのレイよ」と応えるのだが、その響きには「ただのレイ」として生きていくしかないのだという諦めを含んだ前向きさと、同時にどこか寂しさを感じとることができる。肉親がいなかった彼女はやがてそれがただひとり存在することを知らされる。パルパティーンである。彼女は血筋の宿命にしたがって邪悪な皇帝の後継者にされてしまいそうになるが、自分自身で道を選ぶ。シスと同じ力を持ちながらもジェダイたちの意志を受け継いだ彼女は、祖父を倒して宿命に打ち勝つのだ。

 スカイウォーカーやジェダイたちの意志を引き継いだという意味であっても、スカイウォーカーが血筋から概念や象徴へと変わったという意味であっても、レイがスカイウォーカーを名乗る必要性をあまり感じられない。ましてやついさっき祖父を倒して血筋を拒絶したところなのに、また別の血筋に乗り換えただけになってしまう。この物語はスカイウォーカーの伝説が幕を下ろすためのものではないのか。言ってみれば呪われたふたつの血筋が途絶えることで全てが終わるのではないのか。その上でそんなあっけなく、はっきりと、自信たっぷりにスカイウォーカーを名乗ってしまっていいのか。なにより「レイ・スカイウォーカー」という字面が、申し訳ないがずっこけてしまう(「レイ・パルパティーン」も相当だったが)。

 このお話、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』に非常に似ている。というよりあちらに先にやられてしまった以上、あれを超えられないように思える。母親しか知らなかったピーター・クイルはついに父親と対面するが、その正体は惑星そのものとして生きる神のような存在だった。自分も超人的な力を受け継いでいることを知って一時的に舞い上がるが、父エゴの邪悪な野望や母の死の真相も明らかになり、父子の繋がりを拒絶する。
 パワフルな親子喧嘩の中、ついに窮地に陥ったエゴが言う。
「お前は神なんだ。私が死ねば普通のやつらと同じになってしまうぞ」
それに対しピーターは、
「それのなにが悪い?」
 この一蹴の仕方が最高だ。もちろん作品の趣旨や条件が違うので簡単に比べることはできないが、少なくとも同じテーマでカタルシスと感動が大きかったのはこちらだ。フォースとひとつとなったジェダイたちに励まされ、祖父に立ち向かうレイにも感じることがなかったわけではないが、もうひとつぐっとくるセリフや、そのテーマがすっと入ってくる鋭さが足りなかった気がする。レイがスカイウォーカーたちに迎えられたのと同様、ピーターにもまた本当の父親と呼べる育ての親がいた。ヨンドゥ・ウドンタである。彼の最後のセリフがまたかっこいい。
「あいつ(エゴ)はお前の父親じゃない。ろくでなしの俺がいい息子を持てたぜ」
 そう言って彼はひとつしかない宇宙服をピーターに着せて彼を助け、自分は宇宙空間で息絶える。もしこのあとピーターが「ピーター・クイル・ウドンタ」なんて名乗ったら、ヨンドゥの死に様が台無しになるほどではないにせよ、ちょっと微妙だと思う。必ずしも血の繋がりだけが重要ではないということが示されたのだから、苗字をもらう必要なんかないのだ。そんな記号に頼らなくとも深い絆があることは十分表現されている。

 話を戻して、前半で登場した「ただのレイ」という自己紹介。これが最後にも生きてきたほうが綺麗だったように思う。老婆がフルネームを尋ねてきても、「いや、ただのレイだ」とはっきり言うのだ。前半では半分寂しさを含ませていたが、最後には胸を張って堂々と名乗る。スカイウォーカーの物語は終わったが、レイという何にも縛られないひとりの人間がここに完成し、未来が続いていく。そんなところでどうでしょうか。

濃い鉛筆で文章

 最近またツイートすることが増えてしまって、ブログを書くというのが疎かになっていた。せっかくある程度独立した空間が手に入ったのだから、あまり気にせずのびのびと書いていきたいけれど、ちょっとした思いつきをちょくちょくツイートしていくといつの間にかそれで溜まっていた考えが解消してしまう。絵と同じで文章も習慣で書かないと鈍ってくるらしく、最近どうも考えがうまくまとまらずに困る。いろいろと思いつくのであれば書き出していけばいいんだけど、なんとなくそれも億劫。

 去年一年を通してリング式のノートはちょっと書きづらいことがわかった。開きやすさはあるかもしれないが、ページの真ん中にリングがあるせいで左側のページを書く際に手が当たって非常に気になる。切り離せるという利点もあるが、その分切り離したくないページも間違ってちぎれてしまいそうな心配もある。というわけで今年はリングをやめて、普通に綴じているノートにしようと思う。これまでスケジュールに加えある程度の量のフリーページのついた手帳を一年通して使っていたが、なかなかいいのが見当たらないのと、結局フリーページを使い切らないうちにスケジュール部分が終わってしまうというもったいない結果が多いので、これらは別々にしていいんじゃないかと思っている。予定だけの薄めの手帳と、時期関係なく使い続けられるノートなり落書き帳なりをセットで持っていればいいわけだ。いずれも綺麗に使おうなどというのはとうに考えていない。ひとに見せる前提の、かわいらしく繊細で綺麗な、ところどころ素敵なスクラップなど貼り付けてあるノートは、ぼくの用途に適していないし、ああいう作品としてのノートを作ることにあまり興味がない。ノートは予定や仕事、思考の整理に使うものなので、体裁を気にしていると効果が出なくなってしまう。意識せずとも、そういう目的でありながら綺麗なノートが作れるひとはどんどんやればいいと思う。体裁を気にせず仕事に使っていたノートが、結果的に創造のプロセスを表したものとして自然に価値を持てれば、ぼくにはそのほうがいいと思う。

 筆圧が強めですぐ手がくたびれるので、それも直したい。なので最近は書き物を濃い鉛筆に変えている。ペンや万年筆もいいけど、どうしても硬さを感じてしまうし、紙によってインクの乗りが悪かったりするとストレスになる。このこともノートを選ぶときにネックになっていたことだが、基本的に鉛筆を使うようにすれば紙なんてなんでもよくなる。万年筆インクの乗りの悪さで使うのをやめていたモレスキンも、こうなるとまた手を出してもいいかもしれない。初めて書き物の習慣を覚えたのはモレスキンだし、なんだかんだ大きさや使い勝手が結構いい。

 鉛筆は削る手間はあるかもしれないが、とにかく先が柔らかくて手が楽だ。繊細な誌面にはならないかもしれないが、すでに書いたように別に汚くなってもいい。文字も落書きも同じ調子で書けるのがいいところだ。落書きの場合、やはり鉛筆のほうが線に表情が出て、アイデアが膨らむこともある。もちろんできるだけ濃い芯を使う。今は4Bを使っているが、濃ければ濃いだけ力を入れずに書けると思う。ただあんまり濃いと手や指が真っ黒になるし、文章を書く際に消しゴムなども入れづらいので、まあ4Bくらいがちょうどいいと思う。4B以上なんてデッサン画でしか使わなかったが、文章を書くときにこんなに楽だとは思わなかった。

Heavy Infantry Mandalorian

 『マンダロリアン』第3話より、重武装のマンダロリアン戦士。装備がなくともずっしりとした体型だが、声はジョン・ファヴローが当てている。帝国残党からの仕事(フォース感知能力を持つ「長寿種族」の子どもの身柄確保)を完了した主人公は、報酬として大量のべスカーを受け取る。マンダロリアン・アイアンとも呼ばれる鋼鉄で、マンダロリアン戦士の特徴的な鎧の原料だ。べスカーの入手は滅び去った戦士文明の復興の足掛かりとなるが、これを隠れ家に持ち帰った主人公は、かつて自分たちを滅した帝国から仕事をもらい、さらに帝国が自分たちから奪ったべスカーを報酬として受け取ってやがるということで、この重歩兵からやっかみを受けることになる。危うく喧嘩になりそうなところをまとめ役の戦士が制止するのだが、このとき発せられるのが「This is The Way」(我らの道)という合言葉。これを聞いた戦士たちはすぐに態度を改め、自分たちの目的と団結の重要さを再確認する。

 本国で配信された途端早くも傑作と呼び声が高かった第3話だが、全くもってその通り。子どもを帝国に渡して報酬を受け取った主人公が、賞金稼ぎとしてのプロ意識と個人的な感情とを天秤にかけ、そのうちに自身も孤児であったこと、そして賞金稼ぎである以前に気高い戦士であることを思い出し、ついに帝国残党のアジトを襲撃して子どもを奪還する展開、とにかく盛り上がる。ボバ・フェットでもお馴染みの装備を駆使してストームトルーパーをどんどん倒していくが、自分と同じように帝国から子どもの確保を依頼されていた賞金稼ぎギルドのメンバーたちからの攻撃も受け、絶体絶命。子どもを抱えたままもうダメかというそのとき、頭上から何人ものマンダロリアンたちがジェットパックで飛来する。仲間の危機にかけつけるマンダロリアンたちという絵だけで大興奮の展開だが、自分自身で帝国の残党やギルドを敵にまわしてしまったたったひとりを助けるために、安全な隠れ家を犠牲にして皆で外に飛び出してきたというところが熱い。主人公が隠れ家のことを気にかけると、重歩兵はただ一言「This is The Way」と応える。それは強い仲間意識からなのか、それとも子どもを守ることが戦士たちの共通理念なのか(隠れ家のシーンで子どもたちは「一族」の未来として大切にされていた)。いずれにせよ彼らは大きな犠牲を払ってでも、自分たちを危険に晒してでもそれが正しいと思ったからそうしたのだ。このドラマ、確実にマンダロリアン戦士をジェダイ騎士に次ぐ、いやそれに並ぶヒーローに押し上げるに違いない。そして戦士たちの合言葉はフォースの挨拶と同様の名台詞となるはずだ。

 たった3話の段階でここまで夢中にさせてくれるとは。なによりすでにあるSW世界の使い方が上手だ。小道具や種族はもちろん、主人公が子どもの頃クローン大戦の戦火に巻き込まれたということでプリクエル時代の要素を拾ったり、背景に『フォースの覚醒』に登場した宇宙船や種族を配するなどして、見事9部作全てがここに合流していると言える。これまで違う三部作ごとの世界観が融合する光景は主にアニメで見せられてきたが、映画と同じフォーマットである実写映像で目の当たりにするとなにかこみ上げるものがある。映画の世界観を補足し、統合し、また奥行きを広げてくれるのがスピンオフの醍醐味。『マンダロリアン』はその役割を果たしつつ、その上で新しい冒険活劇として仕上がっているからおもしろい。

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