行頭あけをしていないことについて
テンプレートの不具合
砲手
男の仕事は至ってシンプルだった。ボタンを押す、ただそれだけ。
朝、職場にやってきてタイムカードをパンチすると、パーテーションで区切られたわずか2メートル四方の自分の持ち場に入り、座席に座って操作盤に向かう。操作盤はボタンが2つとその中央上部にランプが一つついただけのもので、この3つの丸による三角形が、男の仕事の全てと言ってよかった。
ランプが赤く点灯すると、すぐに右側の赤いボタンを押す。この赤いボタンが、勤務中に最も頻繁に押すメインのボタンだ。ずっと押し続けているものだから、男がこの仕事に就いたときには真新しかったそれは、すでに真ん中のところが剥げてテカテカと光っている。ランプが消灯している間はボタンを押さないが、ランプが消えている時間は8時間の勤務時間中にトータルで10分もないだろう。
左側にある青いボタンは、赤いボタンが沈み込んで戻らなくなったり、押せなくなったり、ランプが点灯しなくなったり、なんらかの故障が見られた場合に押す。すると、操作盤に向かって右側の壁面に取り付けられているスピーカーから、どういう状況か尋ねる通信が入るので、スピーカーの下についているマイクに向かって現状を説明する。もし、青いボタンを押してもスピーカーからなんの反応もなければ、つまりスピーカーの不具合や通信の不調が見られた場合には、背後の扉を開けて、外の通路に向かって右手を挙げる。そうすれば、通路を巡回している監督がやってきて、状況を説明できる。ただ、この通路は全長200メートルほどあり、監督はひとりしかおらず、さらには100のブース全てからしょっちゅう挙手が起こるので、監督を呼ぶチャンスはほとんどない。そういう場合には、終業ベルが鳴るまで座って待機するしかない。もちろんなにもせず座っていた場合には、一定時間赤いボタンが一度も押されていないことがコンピュータに記録されるので、タイムカードの記録に関わらずその時間は無給となる可能性がある。この事態を避けるために、誰もがあまり強く赤いボタンを押さないようにしていた。
男は今日もスイッチを押し続けている。適度な力で、素早く必要な回数を押す。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
カチ、カチ、カチ、カチ。他の99のブースからもこの音が一斉に聞こえる。ひとつひとつは小さな音に過ぎないが、100のカチ、カチがひとつに合わさると、それなりの大きな音となる。耳をやられる者もいるので、監督も含め各々が耳栓やヘッドセットをつけてこの音の嵐から聴覚を守っていた。男もまたヘッドセットをつけ、それでいながら全くノイズを遮断しない程度にそれを緩めていた(なにも聞こえなくなるのもそれはそれで仕事に支障をきたす)。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
実はこのスイッチがどういった機能を果たしているのかは、操作者たちには一切知らされていない。通路を巡回する監督にも知らされているか微妙なところだ。彼らがわかっていることと言えば、このスイッチを押すことは重要な仕事であり、生きた人間が自分の判断でこれを押すことがなによりも全体のプロセスに欠かせないということ。とは言え、その全体のプロセスがなんのプロセスなのかは誰にもわからなかったし、男をはじめ操作者たちはほかの同僚とは全く言葉を交わすことがないため、情報や推測を交換することさえなかった。
しかし、誰もがそれで十分だと考えていた。男もそうだった。余計な交友は面倒ごとを招くことをよく理解していたし、ゆくゆくはこのシンプルな仕事にとって邪魔になる。彼らは皆同じような性格、特性を買われてこの職場に配備されていたから、もしかしたらいざ付き合ってみればそこそこ気の合う友人になれたかもしれない。だが、全員が全員、他者と一定の距離を保つことを好んでいたため、それは意味のない仮定と言えた。彼らはこの仕事のそうした無駄のなさを気に入っているのだ。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
最初のうちはあまりに単調な作業なので、勤務中にいろいろな考え事にふけろうと男も思っていたが、すぐにかえってそんな暇はないことを思い知った。ランプの点灯する頻度もそうだが、スイッチを押すのにはそれなりの集中力が必要だったのだ。考え事をしながらなどしていられない。そんな姿勢で挑めば、ランプの点灯とのタイミングを合わせられず、点灯していない間にスイッチを押してしまったり、点灯している間に押しそこねたりしてしまう。後者については前述の通りだが、前者もまた減給や無給となる恐れがあるから気が抜けない。そう、この仕事は案外気の抜けないものだった。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
他のことをなにも考えずに、ランチや夕食のことさえ考えずにスイッチを押し続けていると、自然とある境地に達するようになる。雑念が消え去り、ただ赤いランプと赤いスイッチにだけ精神や思考、感覚が集中していく。この場に、この世界に、この宇宙に自分とランプとスイッチしか存在しないのではないかという感覚になり、神経は指先の、指の腹の一点に集中する。男はこの感覚を気に入っていた。他のことを考えながらこの仕事をしようなど、愚かな考えだった。未だかつて経験したことのないクリアな感覚は病みつきになり、ある種の瞑想状態が自分を高次元に導いているかのように感じた。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
それはなにもこの男に限ったことではなかった。残りの99のブースで同じようにスイッチを押している人間全員が同じ感覚にどっぷりと浸り、不思議なゾーンに入り込んで目を輝かせていた。なにも考えないことを考えることの喜び、全くの無心で指だけが勝手に動いていく快感に、全員が魅せられていた。そして、これは彼らの雇い主としても申し分ないことだった。実を言えばこの雇い主さえもこのスイッチの意味をよく理解していない。スイッチの真の意味を知り、全体のプロセスというやつを把握しているのはそれよりももっと高いレベルにいる人間たちで、監督や雇い主などスイッチを押している操作者たちとほとんど変わらない末端と言えた。言うまでもなく、彼らには詳細を知る必要がないし、知らないほうが幸福というものだった。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
そんなことも男の知るところではないし、はなから興味さえなかった。いつしか男の興味はスイッチをいかに華麗に押すか、いかに素早く例のゾーンに入り込んでクリアな精神状態を得るか、それだけに集中するようになった。これがもし元々多趣味で交友の広い人間だったなら、周囲の者はその変わりように驚いただろうが、この男はもとよりこれと言った趣味もなく、友人も少なく、なによりもとの性格がこの仕事に適していたのだから、変化が際立つ心配もなかった。事情を知る者が今の彼の姿を見れば、彼が天職を得たと考えたことだろう。もちろんそんな観測者も彼の場合はいないのだが。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
もはや男には疑問などこれっぽっちもないし、この仕事をする上での弊害は一切ないと言えた。スイッチを押すという最終的な行為を生きた人間が自分の判断でしなくてはならないという必要に迫られてこのような仕事を与えられているということも、この際彼にとってはどうでもよかった。実は高度な戦略用人工知能が全てのプロセスを進めており、あとはスイッチを押すだけというところまで完了した際に、赤いランプが点灯しているなどということも、彼にとってはどうでもいいことだし、知る由もない。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
実はランプが点灯し消え、次に点灯するまでのほとんど2秒もない間に、コンピュータが「次の」標的を探し出して照準を完璧に合わせ、エネルギーの充填や砲身の冷却、各種システムの点検を終えていることも、男が知るはずもないことだった。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
そのコンピュータが一度に、軌道上に配備されている100基のレーザー砲に同じコマンドを繰り返し、地表の至るところにある100の標的に対しほぼ同時に照準が合わせられ、最終的に赤いランプが点灯していることも、男の預かり知らぬところだ。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
コンピュータが探し出して照準を合わせた標的には、なんの武装もしていない小さな村さえも含まれていて、そこに暮らす老若男女の住人たちは自分たちになにが降り掛かったのか知る暇もなく(光線さえ見えることはない)、一瞬で蒸発してしまうこと、一瞬後には農場の巨大なサイロから小さな子どもの遊んでいた玩具の車まであらゆるものが跡形もなく消えること、何世代にも渡ってその土地で人々が暮らしてきた痕跡さえも消え、その土地には最初からなにもなかったかのようになってしまうことも、男が知るはずもなかった。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
一体誰が男を、100人の無自覚な砲手たちを責めることができよう。彼らはなにも知らず、ただ無の境地で瞑想にふけっているに過ぎない。彼らの上司もスイッチの意味を知らないし、おそらくその上司も知らないだろう。途方もないほどの階層を上がっていって、ようやくランプとスイッチに関する機構の一部を把握する技師や管理者が現れるのがせいぜいである。彼らの誰一人として、この全体像を知らないし、スイッチが押された結果起こることを知らないのである。誰のことを責めることができるのだろうか。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
そうして彼らに真相を知らせることもできない。もし本当のことを知れば、その多くが精神的に破綻するのは目に見えている。100人の砲手たちははこれまでやってきたことの重みに押しつぶされ、これからすることに怯えて壊れてしまうに違いない。あるいは、重大な現実から逃避するためにより一層瞑想の世界に浸り、二度とこちらに戻ってこなくなるかもしれない。そのままスイッチを押すだけの機械と化してしまうかもしれない。もっとも、今もそれと大して変わらないのだが。
ランプが点灯する。
唐突に。
そこまで一瞬で考え至って、男の指が止まった。配属以来初めてボタンを押す指が動きを止めた。
ランプが点灯する。
まさか。
ランプが点灯する。
そんなわけがあるか。
ランプが点灯する。
馬鹿げている。
ランプが点灯する。
男は再びスイッチを押す。
子ども好きかどうかと言えば
仕事のやり方
幽霊の寝息
都会人と魔女
二度目のディズニーランドはご機嫌





油圧ショベル

幼稚園デビュー

Jet Alone

2歳児犬の散歩したがる


Evangelion Mark.44B

『シン・エヴァ』IMAXにて2回目
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(2021) 感想

子ども用歯ブラシがよい
取り掛かるまでが不安
ハリーのことを全然わかっていなかった
無駄のない線
簡単に振り返る

初歩的な間違い
The Mandalorian :Chapter 16 – Post Credit Scene

The Mandalorian :Chapter 16

The Mandalorian :Chapter 15

The Mandalorian :Chapter 14

書く日を決めるしかないのか
The Mandalorian :Chapter 13
脚本も監督もデイヴ・フィローニということで完全に彼のやりたいことを発揮した回。低い彩度の中で焼けた木々や寂れた家屋が並ぶ様子はもちろん黒澤映画風。アソーカの登場はもちろんだが、ジェダイだった彼女の登場によりこれまで知る由もなかった「子ども」の正体、バックグラウンドが判明するところも大きいと思う。アソーカにさえ会えればなんとかなるという一心でここまでやってきたものの、結局彼女は「子ども」を引き取るのを断るのだが、よくよく思えばもう彼女はとっくにジェダイをやめているので、実は「子ども」を育てる義理も資格もないのである。マンドーの言うところの「仲間のもとに返す」ことにならないのだ。そういうわけで再び新しい目的地を与えられてともに旅を続けるマンダロリアンとその小さな相棒であった。
The Mandalorian :Chapter 12

The Mandalorian :Chapter 11

帝王ザーグ




レックス

小学8年生付録のティラノサウルス
The Mandalorian :Chapter 10

The Mandalorian :Chapter 9

ディズニーストア のウッディとバズ



お誕生日ディズニー











「三体 II 黒暗森林」

ハッピーハッキングキーボード

クラシック・エディター
ちょっと手に負えない
このサイトはワードプレス で作っているのだが、ワードプレス というのは自由度が高い代わりに自分で対処しきれない不具合もかなり起こる気がする。最近になってテーマ変えて、ようやく納得いける外観が得られたものの、テーマ変更の過程で画像の設定が変わったのか(実際どうかはわからない。タイミングとしてそれ以外変えたところが思いつかない)少なくない記事で画像の埋め込みが無効となってしまった。今、ひとつひとつチェックして直したところ。画像が消えずにいる記事も、画像の表示サイズが変わっていたり、貼り付けている画像そのものと指定の表示サイズが合っておらず画質が下がったりしていたので、結局それらも貼り直すことになった。修正はできたがどうも気持ちが悪い。思いつくワードを検索しても同じトラブルの例はなかなか見つからない(言葉を少しずつ変えてもずっと同じサイトがトップに上がってくるのは全く頭に来る)。基本的には非常にスマートで安定しているので、まだしばらくは使いたいところだけれど(1年も経っていない)、多少の制限があってももう少しこちらのやることが単純で済むような形を選びたいとも思える。もちろん手打ちのサイトはもうやる気しないが。なにかいいサービスはないかなあ。細かいところを気にせず、ひたすらに絵のアップとブログ、ちょっとした遊びのページが作れればそれでいい。
グレートバーガー
少しずつ外食もするようにしているが、今年になってからまだ行っていなかったグレートバーガーに行った。グレートバーガーは、言葉で説明するのがすごく面倒なところにあるのだが、原宿の、神宮前の渋谷寄りの路地の中にある。あのあたりは入り組んでいてぼく自身とりあえず路地に入ってからなんとなく歩いて行ってたどり着くという感じなので、あまりひとに説明はできない。9年ほど前にオープンした際並んで食べて以来ファンである。ぼくが並んでまで食事をするということはありえないことなので、言うまでもなく付き合いで行ったのだが、それ以降まるで自力で見つけたかのように友人や家族、のちに妻となる女性と行ったりして、今に至る。一度場所を移動しているのだが、もとの場所から数軒先に移動したような具合。ぼくがこれほどひとつのお店に通い続けるというのはここ以外にはあまりない。
行ってみたら満席で、ひとりだったので少しだけ待って空いたカウンター席についた。思えばカウンター席は初めてだ。すぐ目の前が厨房になっているので、いつもは離れた席から眺めていたバーガー作りが間近で見られて感動さえ覚えた。鉄板の上に何枚もパテが並んでじゅうじゅういっている。カウンター天板の奥側半分も調理台の一部となっているうような形なので、すぐ目の前にどんどん皿が並んでいく。それら全て見ていて飽きない。バーガー以外にもサンドやステーキ、パンケーキといったメニューがあるが、ここに来るのはやはり特別なことなので、ついついバーガーを頼んでしまう。でも、いつかサンドやステーキ、パンケーキも食べてみたい。どれを食べてもグレートなこと間違いなし。
いつもと変わらなかった
元々夏だからといって遊ぶことも少ないので結局普段と大して変わらないまま8月が終わりそうだ。あれだけいつもとは違う夏になるとラジオがしきりに言っていたのに、悲しくなるほどいつも通りである。いつまで経っても自分が感じている疎外感はこういうところから来ているのかなどと思ったりするが、別に今更ひとと同じ趣味や習慣がないことに不安を覚えることはあまりない。
できるだけ落書きをしようと思い、なんとなくでもごちゃごちゃ描く習慣が戻ってきたが、そうすることで自分の描きたいものや描いたほうがいいものが見えてきたような気がする。映画などのファンアートはもちろん楽しいが、やはり自分で考えたものがそれなりにかわいく出来上がると気分がいい。学生の頃からどこかひねったものを描かなければと思い込んでいたところがあるが、王道や定番、シンプルでわかりやすいものを描くほうが自分に合っているかもしれないとも思えてきた。自分が平凡に感じるものでも、描いてみるとひとには独特に見えることもあるらしいし(このパターンが大変多い)。あまり無理に奇をてらったり難しく考える必要はないのかもしれない。しかし、普通に書いたり描いたりしたものでもすぐに独特だと言われるのは、それはそれで寂しくもある。
外気
しばらくぶりに徹夜をする。もう絶対に根を詰めたり煮詰まったりさせないよういくら心がけたところで、それは心がけでしかなく、実際にはどうしても悩んでしまい、おそらく誰も求めていないであろう細部にこだわって朝になってしまうのだ。このところ太陽が昇ってしまうと大変な暑さなので、ここで一度犬の散歩に行ってしまおうと思い、お腹を上に見せて寝息を立てている犬を叩き起こす。外へ出るとまだ涼しい。ふとマスクを外してみる。ダース・ヴェイダーではないので、別にマスクを外した途端に死ぬわけではない。なるべく着け、平気そうなら外すという判断を各自ができればそれでいい話だろうと思う。それでも、外出時は必ず着けるようにしていたので(元来ぼくは出かけたままの状態を切り替えることが苦手で、途中で暑かったら上着を脱ぐとか、寒くなったら着るとかいうのができないから、マスクも器用に扱えないだろう)、外にいながら鼻から口を覆っていないというのは変な感じで、ちょっといけないことをしている気にさえなる。たかだか数ヶ月でこんな感覚になろうとは、数年続いたら一体どうなるだろう。
夏の早朝特有の湿った草木のような匂いがした。外の空気とはずいぶんいろいろな匂いが混ざっているなと改めて思う。なんだか強烈な感じさえして、自分はずっと室内やマスクを通した薄い空気で生きていたのではないかと不安になる。
まだ人も車も来ないので、道にたくさんのムクドリがいる。前にも書いたようにこのあたりはとにかくムクドリが多い。カラスやスズメなどより頻繁に見かける。そして近寄ってもなかなか逃げない。大きくはないとは言え近づいても逃げない鳥というのは少し怖い。
いつも散歩しない時間帯を歩くと、普段は見たこともないような大きな犬がいたりする。公園(と言っても田舎の同級生の家の庭ほどもない広さだが)ではおばさんがひとり太極拳のようなジェスチャーをやっている。太陽はまだ低いところをオレンジ色ににぶく光っているが、あれがあと数時間もすれば殺人的な光線を放つようになる。そうなる前に運動や犬の散歩を済ませようというひとがわりといて、狭い道を行ったり来たりしている。ぼくは目の奥がキリキリした。
ぐるっと歩いてきて気分転換になっただろう、そうあって欲しいと願っていたが、帰ってきて犬の足を洗って、ソーダストリームで作った炭酸水を飲んでから再び机に向かうと、大して頭はすっきりしておらず、出かける前と同じ箇所を引き続き描いては消し描いては消しするのだった。
考えさせられる
映画の感想においてだいぶ言葉を選ぶようになってしまったが、選ぼうとして考えれば考えるほど沼にひきずりこまれてしまうので、逆に使うことを自分に禁じている言葉を設定している。そのひとつに「考えさせられる」というものがある。
これはぼく自身のスタンスであって、別にこの言葉を用いることや用いるひとをどうこう言うつもりはない。場合によってはこの言葉が最適であることもあるだろう。あくまでぼくとしては、この言葉に頼りたくないと思っている。
大抵この言葉は、なにか強いメッセージが込められた作品に対し使われると思う。この言葉を用いることで、自分はその作品が訴えるところが理解でき、それについて考えを巡らせている、巡らすことができる人間であると表明することができる。そうしてその一言だけで作品の深さみたいなものを表せてしまい(表せていないのだが)、具体的になにをどう考えたのかは言わなくとも許されてしまうところがある。そこが危うく、ぼくの気に入らないところでもある。もっとも、具体的に考えたことが言えるのなら、わざわざ考えさせられたというようなことは言う必要がない。もちろん字数に限りがあり、それを思う存分書けないこともある。そういうときにこの手の言葉は非常に便利であり、つい使いたくなるのもわかる。ああ、ここで「考えさせられる」を素直に使えればこれで片付くのになあと思うことも少なくない。しかし、限りある字数の中でどうにかこうにか自分の言葉、表現を工夫したいと欲を出したり背伸びしたりしてしまうのがぼくの性分なのである。
はっきり言えば、「考えさせられる」で締めてしまうと、なんだか考えてなさそうな印象があるんだよね。なにより「させられる」というのがひっかかる。まだ「考えたくなる」「考えずにはおれない」というほうが主体的でいい。「させられる」などと言うから考えてなさそうに見えないのかもしれない。受動的なニュアンスが強く、作品のメッセージをどこかで押し付けられたように感じているのではないかという印象さえある。つまりそれは消極的な態度と言えるのではないか。「考えさせられる」のであって自分から考えようとはしていない。まあ、こんな一言からそこまで拡大するのは意地が悪いとも思うし、依然としてほかのひとが使うのは一向に構わないが、自分がこの言葉に違和感を持ち避けたいと思っているその理由を考えていくと、こんなところである。
で、わざわざここにこう書くということは、今後より一層この言葉を使えなくするためだったりする。ほかにもまだ自分から禁じている言葉はあるのだが、全部明かすと非常にやりづらくなるので教えてやらない。いずれもその一言を使うとそれだけで片付き、それっぽく聞こえる便利な言葉ばかりだ。しかし、便利な言葉に頼りすぎると、やがては表情に乏しい文章になるだろうと思う。知人のひとりはそれをジョージ・オーウェルの小説に出てくる「ニュースピーク」になぞらえていた。一言で反対のニュアンスを併せ持ち、いろいろな場面で使うことのできる魔法のような言葉。曖昧で具体性に欠くので角が立ちづらい言葉。だがそれを多用しすぎれば、語彙が減ってしまうことだろう。
Joker(2019)
去年試写で観たきりだった『ジョーカー』がNetflixに来ていたので見返す。この映画を巡ってはいろいろな意見があると思うけれど、ひとまずぼくとしては無数にあるバットマン神話の数々の中の、いちパターンという程度であることは、初見時から変わらない。80年代の生々しい不景気なゴッサム・シティをはじめ絵的にかっこおもしろいところも多く、なによりのちにジョーカーへと変貌を遂げる主人公アーサーに扮するガリガリのホアキン・フェニックスの所作もいちいち見応えがある。
今までは大富豪とその協力者である警察の視点からしか描かれなかったゴッサムそのものを、最下層の生活から描いたのは新鮮で、その象徴としてこれまでのバットマン神話ではブルース・ウェインにとって絶対的な存在だった「偉大な父」トーマス・ウェインを、低い視点から見上げて別の姿に描き出しているのがおもしろかった。主人公アーサーはつねに混み合った雑踏をさまようが、これもつねに高いビルの上から街を見下ろしているバットマンの定番ポーズとはわかりやすく対照的だ。
またアーサーが、実はトーマス・ウェインと使用人との間に生まれたのではないかという疑惑(限りなくその可能性が高いことが示唆されるが結局本当かどうかははっきり明かされない)により、アーサーとブルース、ジョーカーとバットマンを「兄弟」として対比するというような試みもなされている。最終的にアーサーが悪として覚醒し、カリスマ的なピエロに感化された暴徒のひとりが、息子を連れて暴動の現場から逃れようとするウェイン夫妻に銃口を向けることになるが、これは間接的にジョーカーがバットマンを生んだというような構図になる。こういう、全く見慣れないルックやフォーマットによって、お馴染みの神話を構成し直しているようなところがおもしろい。
ただ、そのためにあの犯罪界の道化王子たるジョーカーの誕生秘話として少しスケールが小さく感じられもするのだが(ましてやヒース・レジャー版の伝説的なバージョンと比べたら尚更だが、その比較はおそらく意味がないし、両者の違いこそがおもしろいところである)、そこはDCコミックのキャラクターの設定をところどころ借りながら、アーサー・フレックというひとりの男について描いた映画と受け取るのが妥当だろう。もしくは、いつものジョーカーがいつもの調子で語った嘘か本当かわからない身の上話のいちパターンだと思う程度がちょうどいいと思う(ラストシーンでカウンセラーと話しているところからその想像ができる)。タイトルに「The」がつかないのはそのあたりの余地のためでもあるのではないだろうか。ジョーカーそのものというよりは、ジョーカーのような男、ジョーカーという概念を指しているのだろうと思うことにしている。
ムクドリ
犬の散歩をしていると道を挟んだ木と木の間に見事な蜘蛛の巣が張られているのを見かけて、家主が一生懸命糸を張ってるのをぼやっと見ていたら、ムクドリが飛んできてそのクモをぱくりと食べてしまった。一瞬の出来事で驚いたが、そりゃそういうこともあるだろうなと思い、なんだか久しぶりにああいうものを見たから少し興奮した。あんな空中にあれほど大きな巣を張っていればさぞいろいろな虫がかかったろうに、鳥からしたらとてもわかりやすく狙いやすい位置だったのだろう。
それとは別に、セミが鳴いている木のそばにムクドリがおりてくるところにもでくわした。鳥がやってくると、それまでジリジリ鳴いていたセミがぱたっと鳴くのをやめてしまい、本当によく出来ていると思った。ムクドリはじっと木の上の、セミがいるあたりを伺っていたが、その少し先まで歩いていくと、今度は二羽のムクドリが取り合うようにしてセミをついばんでいた。クモの巣もセミの声もやつらが生きていくのに必要なものだけれど、裏目に出やすいらしい。
EE-3

まだそれほど事態が深刻になっていない頃、ディズニーランドに行った友達にパーク限定のボバ・フェットのブラスター(EE-3カービン・ライフル)を買っておいてもらったのを、このたびようやく受け取った。ディズニーランドはあのあと間も無く休園となったので、なかなかのタイミングだった。このブラスター・ライフルはボバ・フェットごっこにはもってこいのグッズでずっと欲しかったのだが、いかんせんディズニーランドに行く機会が少なかったので、ようやく手に入ってうれしい。このほかにもハン・ソロのピストルやストームトルーパー(もちろん帝国軍の)のライフルもあり、近年のSWグッズがビミョーな雰囲気なのに対して、ご覧のように昔のようなパッケージがグッド(「TRY IT!」)。ひとによってはこれを黒く塗装してリアルに仕上げるのだが、わざわざ本物の銃火器からかけ離れた色合いを施しているのだし、このボバ・フェット風の配色がかわいいのでこのままにしておく。

やはりこれを持つだけでも格好がつく(?)。戦っていないときのボバはライフルを構えるというよりは、やや銃身を抱くようにしてたたずんでいるのだが、あのポーズも好きなところ。長年の仕事に全体がくたびれたような様子(決して弱々しいという意味ではなく)がかっこいい。ヘルメットとブラスターだけで終わらせてもいいのだが、こうなると両腕にはめるガントレットなども作りたくなってきた。もとより全身を作るつもりは全然なかったが、こんな感じでやがて全部を揃えてしまうのだろうか。いや、胸部プレートとかジャンプスーツは面倒くさい。
ラジオを聴くための機械

小さなラジオ兼Bluetoothスピーカー。台湾のSANGEANというメーカーのWR-301というもの。ラジオとしてのかわいさに惹かれて買ったが、長らくスピーカーというものを持っていなかったので、パソコンで流れる音をこちらにまわすもよし、iPadで観る映画の音をここから流すこともできるというのが、少しうれしい。端末から直に発せられる音よりも柔らかい印象なのがいいし、音量を微調整できるので夜中も最低限の大きさにすればイヤホンを使わなくても済む(当たり前のことだが音を流す向きが変えられるのも大きい)。ラジオなんて今時はradikoなどを使った方が感度を気にせず常に綺麗な音で聴けるかもしれないが、どうしても音が鋭く感じられたり、インターネットとワンセットな感覚がせわしない気がしていたので、ラジオを聴くための機械としてのラジオがずっと欲しかったのだ。懐古的と言われればそれまでだが、シンプルに単体としてのラジオはどこかのんびりした気分で聴ける気がする。聴き逃したものをあとで再生できるというような機能もないが、かえってそれが刹那的でよい。聴き逃したならもうそれっきりでいいような気もするし(元々そうだった)、今なんて言ったのだろう、というようなものもあっさり聴き流してしまえる。それだけで気楽に思えるのである。ラジオを聴いたのは久しぶりだけれど、自分からは興味関心を持たない音楽や話題が勝手に流れ込んでくる感じはかえって新鮮である。自分から探そうとすればなんでも見つかる時代だが、興味がないものは探しようがない。だからこそテレビの映画放映も、ラジオの音楽も、知らないものと出会うためには必要だろうと思う。話題や会話も、しばらく聴いていると語彙のあるひととないひとの差が際立ってきておもしろいが、BGMのように聴き流せる他愛のないおしゃべりもあったほうがいいというのがわかってくる。なんとなくひとがしゃべっているというだけで気が紛れるし、その話題はそれほど深く考えるほどの内容でないほうが楽なこともある。これはFMしか聴けないのだが、もしAMが聴きたいことがあればradikoをBluetoothで流せばいいや。木のフレームがとにかくかわいい。
Bottle Cap Collection
自分が欲しいと思うボトルキャップを、大貫卓也氏による「GET!!STAR WARS」キャンペーンのポスター風に。大貫さんは「ペプシマン」も手掛けているけれど、いかにも本国アメリカ発のキャラクターだとばかり思っていたペプシマンが、実は日本で生まれた独自のキャラクターだというのは驚き(アメリカでは知名度が低いらしい)。SWのキャンペーンにしてもとても舶来な感じで、アメトイ的なインパクトがSWとぴったり合っていたと思う。「スター・ウォーズを集めろ。」というコピーもそれだけでとてつもない強さを持っていただけでなく、アメトイではお馴染みの文句「COLLECT THEM ALL!」(大抵の場合パッケージの裏側にラインナップとともに書かれている言葉だ)を思わせ、一個だけでは終わらない世界観の広がりを感じられてわくわくする。
ボトルキャップは子どもの頃の夏の記憶と深く結びついているだけでなく、玩具をコレクションするという趣味の起源と言えると思う。はっきり言って、自分にとって新しいSWに足りなかった最大の要因はこのペプシとのタイアップだろう。プリクエル三部作は毎回このボトルキャップのキャンペーンをやっていたせいもあり、どこかでやはりSWと言えばペプシであり、紺色で、夏で、ちょっと大人びた渋いおもちゃのイメージだった。懐古は危うさをはらむが、自分がなにと出会って形成されてきたかは忘れたくない。個人的にはサーフボードを持ったワニが気に入っている。
地獄から抜ける
大好きで尊敬している人たちが貶められてしまうお馴染みのツイッター地獄には、とても悲しくなる。ちょっとしたことも誤解されたまま広められてしまい、文脈を理解しない通りすがりによってさらにややこしくなる。今更言うことでもないが、やはりあれは独白集であってコミュニケーションに向いているものではないのだろう。確かに連続投稿で書き続けることはできるかもしれないが、ひとつひとつはどうしたってケチくさい140字で、それは単体で広められて前後の文脈がわからない通りすがりの目に留まる恐れがある。そう思うとあそこで起こる揉め事はほとんど事故のようなものとも言えるのかもしれないが、それはどんどん連鎖して収拾がつかなくなる。だから地獄なのだ。昔で言うフォーラムなら熱心な管理者がいて明確なルールがあったが、SNSはそれとは少し違う。フォーラムがある程度閉ざされた建物の中の、文字通り会議室であるなら、ツイッターとはあらゆる人が出歩いている往来のようなもので、そのひとりひとりの思考の断片が流れ続けて、他のと緩衝一切なしでぶつかり合っている。ぼくのようなのはおっかなくて仕方がない。今のところ、どれだけ寝言めいたことを書いたとしてもぼく自身は大して嫌な目には合っていない。しかし、知っているひとが突如渦中に置かれてしまうのにはもはや耐えられそうにない。あんなもので消耗するのもいい加減うんざりなので、あまり見ないようにしたい。自分自身の使い方そのものは、だいたい今くらいでいいだろう。もはや絵とアップと告知、それから毒にも薬にもならない雑な思いつきしか書いていない。最後のもぐっと減らしていきたい。なぜなら140字でものを考えたくないから。ブログはこうして思っていることを、ひと通り気が済むところまで書けるし、いい意味で拡散力がないのもいい。誰かが読む前提だが、いたずらに人目には触れない、そんな媒体がやはり自分には向いている。ぼくにとってブログは地獄に垂れてきた蜘蛛の糸だ。