『マンダロリアン』第3話

あまりの素晴らしさに第3話の感想だけは以前の記事で書いてしまっているけれど、改めて。やはりこの回の良さは、主人公が常に顔を隠しているにも関わらず、その迷いや葛藤が伝わってくるところが大きいと思う。これは『ジェダイの帰還』のダース・ヴェイダーにも同じことが言えるけれど、ちょっとした仕草や間の取り方などで表情というのはすごく豊かになるようだ。C-3POなども、顔は固定だが感情表現がうまい。とは言えヴェイダーや3POには少なくとも目、鼻、口という基本的なパーツがくっついていることを思うと、非常にシンプルなマンダロリアンのT字バイザーにここまで表情をつけるというのは唸らずにはいられない。出発間近の宇宙船の中、「子ども」が遊んでいた操縦席のレバーを見てついに決断するシーンなど、あのT字の顔からあんなに表情を感じることができるとは思わなかった。それまでの揺れ動きが伝わっているからこそ、あの一瞬で一気に盛り上がる。

 ストームトルーパーたちを蹴散らして「子ども」を奪還するも、今度は商売敵に囲まれて絶体絶命。そこに駆けつけるのがマンダロリアンの同胞たち。たったひとりの仲間のために、「一族」が隠れているのを知られてしまう危険を犯して駆けつけてくれる。多くを語らない仲間たちだが、「我らの道」というたった一言があれば十分だった。言葉も表情も必要としない。とにかくT字の顔が印象的な回だった。

『マンダロリアン』第2話

 船が壊されたので直した、というだけのひと休み的な話だが、タイトルの通り「ザ・チャイルド」(日本語的にどうも不自然なので「子ども」と呼んでいいだろうか)が一体何者なのか予感させる第2話である。とは言え個人的にはジャワ回だと思う。

 おもしろいのはジャワがタトゥイーン以外にも入植していたということで(第1話の時点でも主人公が拠点を置く惑星ネヴァロの雑踏に姿があった)、彼らはオフワールド・ジャワという呼ばれる。オフワールドというからにはやはりタトゥイーンから外へ散らばっているということなのだろうけれど、気になるのは入植先でもサンドクローラーに乗っていることであり、当然あの大型車両を運べるだけの宇宙船が使われたということである。彼らがそんな船をかつて持っていたのか、あるいは他の種族から助けを借りたのか、ただでさえ素顔が隠されたジャワ族の謎が深まる。

 謎は多いままだが、今回はサンドクローラーの操縦席が見られたところがうれしい。宇宙船のようなハイテクさはなく、ラッパ型の伝声管まであるところがジャワっぽくていい。屋根の上に日除けがあったりしてデッキのようになっているアレンジも、タトゥイーンのサンドクローラーとは同型でも別物として工夫されている。『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』そのまんまのキャタピラや岩をかわすアクションも、お馴染みのモチーフに新鮮味を与えていると思う。

 ちなみにタトゥイーンのサンドクローラー自体は、かつてあそこに貴重な鉱脈があると聞きつけてやってきた夢想家たちが持ち込んだ作業・運搬車であり、結局なにも見つけられなかった彼らが引き上げる際に放置していったものを、ジャワたちが使っているという設定だ。それよりも前のジャワの生活はどうだったのだろうか。デューバックやロント、イオピーといった動物で廃品を運搬していたのだろうか。サンドクローラーを手に入れたことで廃品回収とその販売が効率化し、それによって得た利益や物々交換の末によその惑星に出ていく機会を得たのかもしれない。彼ら自身が宇宙船を持っていたというよりは、取引によって運んでもらったと考えるほうがジャワっぽいかもしれないが、ジャワたちが廃品から作り上げたオンボロの船、みたいなのもちょっと見たい気もする。 

 ジャワに奪われた宇宙船の部品を取り戻すため、マンドーは彼らの要求を飲むことになるが、それはマッドホーンという泥だらけの洞窟に住む猛獣の卵を取ってくること。当然親である成獣と一戦交えるのだが、凶暴な巨体に加え泥だらけの地形によって苦戦を強いられる。このマッドホーン、要するにサイなのだが、マンダロリアン(のアーマーを着た者)とサイ型クリーチャーという構図に見覚えがないだろうか。そう、『クローンの攻撃』でのジャンゴ・フェットとリークの戦いだ。惑星ジオノーシスの闘技場でジェダイたちとドロイド軍が衝突する中、ジャンゴ・フェットは処刑用の猛獣リークに追われているメイス・ウィンドウを奇襲しようとするが、かえってリークに襲われてしまう。角で突き飛ばされた挙句腹の下で転がされるのだが、このときジェットパックが損傷してしまったため、ジェダイ・マスターのライトセイバーから逃げることができず、最期を迎えることになるのだ。

 そういうわけで今回もマンドーにフェット関連のイメージを重ねているのだが、ジャンゴはたった一発急所に命中させてリークを始末したのに対し、マンドーはなかなかそうはいかず、苦戦の末に泥の中で意識を失いかける。ところが、死さえ覚悟したその瞬間、マッドホーンの巨体が宙に浮かび上がり、猛獣の動きが封じ込まれた。なにが起こったのかを示すのは、猛獣に向かって離れたところから手をかざしている「子ども」の姿だけだった……。

 ヨーダの種族であれば当然予想できることだが、「子ども」はフォース感知能力を持っていたことが明らかになる。それも相当強い。リークに襲われ、ジェダイ・マスターに殺されてしまったジャンゴに対し、マンドーはフォースの助けを借りてマッドホーンにとどめを刺したわけだが、賞金稼ぎとフォースに恵まれた子ども、不思議な組み合わせである上に今までにない関係が築かれていくようだ。

『マンダロリアン』第1話

 SW初のドラマシリーズは西部劇へのリスペクト満載で幕を開け、銀河の覇権を争う戦争とは無縁の小さな世界を描きながらも、ひとつひとつのディテールが世界観を広げていく。視界はごく狭いものなのに、最小限の要素でその背景が想像できるところがおもしろい。

 なんの説明もなく連発される謎の固有名詞はすでに出来上がっている世界観にいきなり連れて行かれるような感覚を起こさせるが、これはSW特有の雰囲気のひとつだ。報酬の支払いをめぐるちょっとした会話で銀河情勢の変化がわかるところもいいが、特に印象的なのは宇宙船に備え付けられた真空チューブなる機能。要するにトイレなのだが、トイレと言わないところもSWらしいし、SWにトイレが出てきたのも初めてだ。記念すべき瞬間と言えよう。

 主人公は戦闘民族マンダロリアンの生き残り、残党のひとりであり、戦士としての性質を活かして賞金稼ぎとして銀河の無法地帯を生き抜いている。帝国が敗北して同盟軍により樹立された新共和国の統治が始まって間もない時期、中心部コア・ワールドはともかく、外縁部では混乱が続いており、賞金稼ぎたちが忙しく働く一方で帝国の残党も暗躍していた。主人公はそんな帝国残党からとある標的の確保を、莫大な報酬と引き換えに依頼される。報酬はかつてマンダロリアンの鎧の材料となっていた貴重な金属ベスカーであり、これを集めることは同胞の復興にも繋がるのだった。

 この依頼が冒険の始まりであり、問題の標的というのは今ではすっかりお馴染みとなった「ヨーダと同族の子ども」。「ベビー・ヨーダ」の愛称でも呼ばれるが、現時点でのキャラクター名は「ザ・チャイルド」。主人公が通称「ザ・マンダロリアン」(略して「マンドー」)なので、名無しのふたりによる子連れ狼的冒険の始まりである。この子どもは単にヨーダの種族の幼体(と言っても50歳なのだが)かもしれないし、ヨーダ自身のクローンである可能性も囁かれている。主人公が依頼人である帝国残党の人物(ヴェルナー・ヘルツォークが演じるこの役名も単に「クライアント」としか呼び名がない)と打ち合わせをする際、部屋に入ってくるドクター・パーシングなる人物の服の肩に、『クローンの攻撃』の惑星カミーノで見られたクローニング・プロジェクトの紋章に似たものが描かれているのが根拠のひとつらしい。

 ザ・チャイルドを確保しに向かう道中、マンドーはアグノートのクイール、暗殺ドロイドのIG-11と出会うのだが、アグノートもIGドロイドも『帝国の逆襲』に登場したモチーフである。ボバ・フェットと同じヘルメットを被った新しいキャラクターを演出するにあたり、まずはかつてボバと一緒に画面に登場した要素を持ってきて説得力というか、イメージを支えようというわけだ。そもそも冒頭からカーボン冷凍が登場しており、ボバ・フェットのイメージを借りた掴みとなっている。ヨーダにしてもEP5で登場したキャラクターだし、この第1話はとにかくEP5からの引用で出来ている。しかし、それでいながら単なる焼き直しにはなっていない。ボバ・フェットとヨーダはEP5の二大キャラだが、直接の接点がない両者(のようなふたり)を出会わせたこと自体が新鮮で、お馴染みのモチーフを使って新しい物語を予感させている。

 ボバへのオマージュと言えば、マンドーが持つ先端が二股の槍のようになっているパルス・ライフルも忘れられない。『ホリデー・スペシャル』のアニメパートでボバが持っている武器そのままであり、アニメ同様襲いかかってくる怪物を撃退するのに使った(エフェクトはまるで違うが)。氷を突き破って下の水中から襲いかかってきたセイウチのようなクリーチャーは、『ホリデー・スペシャル』のクリーチャーのスケッチによく似たものが残っているので、これはほとんど実写化と思っていいくらいだ。

 ところでマンダロリアンというのはボバ・フェットと同じヘルメットやアーマーに象徴される戦士たちで、かつてジェダイ騎士団に滅ぼされたとされていた。ボバ自身はともかく彼のクローン元にして「父親」であるジャンゴ・フェットは以前の設定ではマンダロリアン戦士の生き残りだったが(正確にはマンダロリアンの紛争により孤児になったところを戦士に育てられた)、アニメシリーズ『クローン・ウォーズ』でマンダロリアン周辺の物語が一新される際にそのあたりの設定も変わり、ひとまずジャンゴはどこかで手に入れた装甲服を着て活動している賞金稼ぎ、ということになったらしい。これはCWの監督にしてこの第1話をはじめ『マンダロリアン』のエピソード監督、製作総指揮も務めるデイヴ・フィローニがジョージ・ルーカスに確認を取っているもので、ルーカスとしてはジャンゴを伝説の戦士たちの生き残りではなく、その戦士たちの名残を着ているならず者にとどめておきたかったのかもしれない。 

 とは言えジャンゴ自身がマンダロリアンであれば、筋が通る部分もある。ジャンゴの遺伝子をもとに生み出されたクローン・トルーパーたちはのちにジェダイ騎士団を滅ぼすことになるが、これは間接的にマンダロリアンがジェダイに復讐を果たしたという構図になってうまいこと繋がるのだ。ただ、それではマンダロリアンが悪の手先ストームトルーパーへと繋がっていくことにもなるので、戦士たちの名誉のためにも設定を改めたのかもしれない。いずれにせよフィローニが深く関わっているということで、本ドラマシリーズでもマンダロリアン戦士について掘り下げられることだろう。というかこれはシーズン1全話観終わってから書いているのでそうなることはわかっている。というわけで第2話感想に続く……。

Boba Fett Retro Kenner

『帝国の逆襲』での初登場に先駆けて発売されたボバ・フェットの最初のフィギュアはご覧のような配色。これはプリプロ版と呼ばれるバージョンの衣装がのちの映画版とは若干違っていて、それをより明るめの色でデフォルメしたもの。最大の特徴はガントレットが両腕で違う色になっており、特に左腕が『帝国の逆襲』(両腕緑)でも『ジェダイの帰還』(両腕赤茶)でも採用されなかった黄色になっている点。アンテナのような細いパーツの再現が難しかったのか、額に下げた状態で成形されているのがおもしろい。ボバ・フェットのコスプレイヤーは星の数ほどいるけれど、中にはこのオモチャのバージョンを実際の衣装で再現しているひともいて、なかなかかわいい。このフィギュアのような直立不動のポーズで写真を撮ったりするのだ。フィギュアとはスクリーンの中にしか存在しない架空の世界を現実世界に持ち出すことのできる素晴らしい媒体なのだが、そのフィギュアの格好をしようというのもそれはそれで理解できる。映画とはまた別の、トイだけが生み出す世界観というのがあって、そこに浸るにはトイを眺めているだけでは物足りないのだ。いずれにせよぼくがボバ・フェットが好きなのは色違いのバージョンがいくつかある上に、見方によってはそれがカラフルに見えるからだ。

レイが名乗るべきだったのは

『スカイウォーカーの夜明け』のラストシーン。通りすがりの老婆から何者かと問われたレイが名乗るべきだったのは、やはり「ただのレイ」でよかったのではないかと思う。物語の前半、惑星パサーナのアキ=アキ族の少女から名前を尋ねられたときも「ただのレイよ」と応えるのだが、その響きには「ただのレイ」として生きていくしかないのだという諦めを含んだ前向きさと、同時にどこか寂しさを感じとることができる。肉親がいなかった彼女はやがてそれがただひとり存在することを知らされる。パルパティーンである。彼女は血筋の宿命にしたがって邪悪な皇帝の後継者にされてしまいそうになるが、自分自身で道を選ぶ。シスと同じ力を持ちながらもジェダイたちの意志を受け継いだ彼女は、祖父を倒して宿命に打ち勝つのだ。

 スカイウォーカーやジェダイたちの意志を引き継いだという意味であっても、スカイウォーカーが血筋から概念や象徴へと変わったという意味であっても、レイがスカイウォーカーを名乗る必要性をあまり感じられない。ましてやついさっき祖父を倒して血筋を拒絶したところなのに、また別の血筋に乗り換えただけになってしまう。この物語はスカイウォーカーの伝説が幕を下ろすためのものではないのか。言ってみれば呪われたふたつの血筋が途絶えることで全てが終わるのではないのか。その上でそんなあっけなく、はっきりと、自信たっぷりにスカイウォーカーを名乗ってしまっていいのか。なにより「レイ・スカイウォーカー」という字面が、申し訳ないがずっこけてしまう(「レイ・パルパティーン」も相当だったが)。

 このお話、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』に非常に似ている。というよりあちらに先にやられてしまった以上、あれを超えられないように思える。母親しか知らなかったピーター・クイルはついに父親と対面するが、その正体は惑星そのものとして生きる神のような存在だった。自分も超人的な力を受け継いでいることを知って一時的に舞い上がるが、父エゴの邪悪な野望や母の死の真相も明らかになり、父子の繋がりを拒絶する。
 パワフルな親子喧嘩の中、ついに窮地に陥ったエゴが言う。
「お前は神なんだ。私が死ねば普通のやつらと同じになってしまうぞ」
それに対しピーターは、
「それのなにが悪い?」
 この一蹴の仕方が最高だ。もちろん作品の趣旨や条件が違うので簡単に比べることはできないが、少なくとも同じテーマでカタルシスと感動が大きかったのはこちらだ。フォースとひとつとなったジェダイたちに励まされ、祖父に立ち向かうレイにも感じることがなかったわけではないが、もうひとつぐっとくるセリフや、そのテーマがすっと入ってくる鋭さが足りなかった気がする。レイがスカイウォーカーたちに迎えられたのと同様、ピーターにもまた本当の父親と呼べる育ての親がいた。ヨンドゥ・ウドンタである。彼の最後のセリフがまたかっこいい。
「あいつ(エゴ)はお前の父親じゃない。ろくでなしの俺がいい息子を持てたぜ」
 そう言って彼はひとつしかない宇宙服をピーターに着せて彼を助け、自分は宇宙空間で息絶える。もしこのあとピーターが「ピーター・クイル・ウドンタ」なんて名乗ったら、ヨンドゥの死に様が台無しになるほどではないにせよ、ちょっと微妙だと思う。必ずしも血の繋がりだけが重要ではないということが示されたのだから、苗字をもらう必要なんかないのだ。そんな記号に頼らなくとも深い絆があることは十分表現されている。

 話を戻して、前半で登場した「ただのレイ」という自己紹介。これが最後にも生きてきたほうが綺麗だったように思う。老婆がフルネームを尋ねてきても、「いや、ただのレイだ」とはっきり言うのだ。前半では半分寂しさを含ませていたが、最後には胸を張って堂々と名乗る。スカイウォーカーの物語は終わったが、レイという何にも縛られないひとりの人間がここに完成し、未来が続いていく。そんなところでどうでしょうか。

濃い鉛筆で文章

 最近またツイートすることが増えてしまって、ブログを書くというのが疎かになっていた。せっかくある程度独立した空間が手に入ったのだから、あまり気にせずのびのびと書いていきたいけれど、ちょっとした思いつきをちょくちょくツイートしていくといつの間にかそれで溜まっていた考えが解消してしまう。絵と同じで文章も習慣で書かないと鈍ってくるらしく、最近どうも考えがうまくまとまらずに困る。いろいろと思いつくのであれば書き出していけばいいんだけど、なんとなくそれも億劫。

 去年一年を通してリング式のノートはちょっと書きづらいことがわかった。開きやすさはあるかもしれないが、ページの真ん中にリングがあるせいで左側のページを書く際に手が当たって非常に気になる。切り離せるという利点もあるが、その分切り離したくないページも間違ってちぎれてしまいそうな心配もある。というわけで今年はリングをやめて、普通に綴じているノートにしようと思う。これまでスケジュールに加えある程度の量のフリーページのついた手帳を一年通して使っていたが、なかなかいいのが見当たらないのと、結局フリーページを使い切らないうちにスケジュール部分が終わってしまうというもったいない結果が多いので、これらは別々にしていいんじゃないかと思っている。予定だけの薄めの手帳と、時期関係なく使い続けられるノートなり落書き帳なりをセットで持っていればいいわけだ。いずれも綺麗に使おうなどというのはとうに考えていない。ひとに見せる前提の、かわいらしく繊細で綺麗な、ところどころ素敵なスクラップなど貼り付けてあるノートは、ぼくの用途に適していないし、ああいう作品としてのノートを作ることにあまり興味がない。ノートは予定や仕事、思考の整理に使うものなので、体裁を気にしていると効果が出なくなってしまう。意識せずとも、そういう目的でありながら綺麗なノートが作れるひとはどんどんやればいいと思う。体裁を気にせず仕事に使っていたノートが、結果的に創造のプロセスを表したものとして自然に価値を持てれば、ぼくにはそのほうがいいと思う。

 筆圧が強めですぐ手がくたびれるので、それも直したい。なので最近は書き物を濃い鉛筆に変えている。ペンや万年筆もいいけど、どうしても硬さを感じてしまうし、紙によってインクの乗りが悪かったりするとストレスになる。このこともノートを選ぶときにネックになっていたことだが、基本的に鉛筆を使うようにすれば紙なんてなんでもよくなる。万年筆インクの乗りの悪さで使うのをやめていたモレスキンも、こうなるとまた手を出してもいいかもしれない。初めて書き物の習慣を覚えたのはモレスキンだし、なんだかんだ大きさや使い勝手が結構いい。

 鉛筆は削る手間はあるかもしれないが、とにかく先が柔らかくて手が楽だ。繊細な誌面にはならないかもしれないが、すでに書いたように別に汚くなってもいい。文字も落書きも同じ調子で書けるのがいいところだ。落書きの場合、やはり鉛筆のほうが線に表情が出て、アイデアが膨らむこともある。もちろんできるだけ濃い芯を使う。今は4Bを使っているが、濃ければ濃いだけ力を入れずに書けると思う。ただあんまり濃いと手や指が真っ黒になるし、文章を書く際に消しゴムなども入れづらいので、まあ4Bくらいがちょうどいいと思う。4B以上なんてデッサン画でしか使わなかったが、文章を書くときにこんなに楽だとは思わなかった。

Heavy Infantry Mandalorian

 『マンダロリアン』第3話より、重武装のマンダロリアン戦士。装備がなくともずっしりとした体型だが、声はジョン・ファヴローが当てている。帝国残党からの仕事(フォース感知能力を持つ「長寿種族」の子どもの身柄確保)を完了した主人公は、報酬として大量のべスカーを受け取る。マンダロリアン・アイアンとも呼ばれる鋼鉄で、マンダロリアン戦士の特徴的な鎧の原料だ。べスカーの入手は滅び去った戦士文明の復興の足掛かりとなるが、これを隠れ家に持ち帰った主人公は、かつて自分たちを滅した帝国から仕事をもらい、さらに帝国が自分たちから奪ったべスカーを報酬として受け取ってやがるということで、この重歩兵からやっかみを受けることになる。危うく喧嘩になりそうなところをまとめ役の戦士が制止するのだが、このとき発せられるのが「This is The Way」(我らの道)という合言葉。これを聞いた戦士たちはすぐに態度を改め、自分たちの目的と団結の重要さを再確認する。

 本国で配信された途端早くも傑作と呼び声が高かった第3話だが、全くもってその通り。子どもを帝国に渡して報酬を受け取った主人公が、賞金稼ぎとしてのプロ意識と個人的な感情とを天秤にかけ、そのうちに自身も孤児であったこと、そして賞金稼ぎである以前に気高い戦士であることを思い出し、ついに帝国残党のアジトを襲撃して子どもを奪還する展開、とにかく盛り上がる。ボバ・フェットでもお馴染みの装備を駆使してストームトルーパーをどんどん倒していくが、自分と同じように帝国から子どもの確保を依頼されていた賞金稼ぎギルドのメンバーたちからの攻撃も受け、絶体絶命。子どもを抱えたままもうダメかというそのとき、頭上から何人ものマンダロリアンたちがジェットパックで飛来する。仲間の危機にかけつけるマンダロリアンたちという絵だけで大興奮の展開だが、自分自身で帝国の残党やギルドを敵にまわしてしまったたったひとりを助けるために、安全な隠れ家を犠牲にして皆で外に飛び出してきたというところが熱い。主人公が隠れ家のことを気にかけると、重歩兵はただ一言「This is The Way」と応える。それは強い仲間意識からなのか、それとも子どもを守ることが戦士たちの共通理念なのか(隠れ家のシーンで子どもたちは「一族」の未来として大切にされていた)。いずれにせよ彼らは大きな犠牲を払ってでも、自分たちを危険に晒してでもそれが正しいと思ったからそうしたのだ。このドラマ、確実にマンダロリアン戦士をジェダイ騎士に次ぐ、いやそれに並ぶヒーローに押し上げるに違いない。そして戦士たちの合言葉はフォースの挨拶と同様の名台詞となるはずだ。

 たった3話の段階でここまで夢中にさせてくれるとは。なによりすでにあるSW世界の使い方が上手だ。小道具や種族はもちろん、主人公が子どもの頃クローン大戦の戦火に巻き込まれたということでプリクエル時代の要素を拾ったり、背景に『フォースの覚醒』に登場した宇宙船や種族を配するなどして、見事9部作全てがここに合流していると言える。これまで違う三部作ごとの世界観が融合する光景は主にアニメで見せられてきたが、映画と同じフォーマットである実写映像で目の当たりにするとなにかこみ上げるものがある。映画の世界観を補足し、統合し、また奥行きを広げてくれるのがスピンオフの醍醐味。『マンダロリアン』はその役割を果たしつつ、その上で新しい冒険活劇として仕上がっているからおもしろい。

フィンに期待していたこと

 『スター・ウォーズ』シークエル三部作の主役のひとり、フィンに期待していたこと。思えば『フォースの覚醒』で彼が登場したとき、ぼくたちはシリーズで初めて悪の手先であるはずのストームトルーパーが主人公になる瞬間を目撃したはずだった。トルーパーは悪者というだけでなく、取るに足らない存在の代表でもある。味方の死を目の当たりにして自分の置かれた状況に恐怖するトルーパーに焦点が当てられたあの瞬間、確かに未来を感じた。これが新しいSWの幕開けなのだと。その後命令に背いて民間人に武器を向けられなかったこのトルーパーは、捕虜のポー・ダメロンを助け出して彼と脱走を図り、FN-2187という識別番号を捨ててフィンという名のひとりの個人となる。

 帝国に代わって登場したファースト・オーダーは、各地から幼いうちに誘拐してきた子どもたちを洗脳教育して兵士に仕立て上げていたのだが、フィンも例外ではない。なによりフィンというキャラクターは、彼が特別ではないところがいい。スカイウォーカーの末裔でありながら悪に堕ちたカイロ・レンや、強いフォースを内に秘めながらもまだ何者かわからないレイといった二大キャラクターへの対比でもあり、観客が同じ目線で移入できる主人公なのである。

 そんなフィンが目覚めたのなら、ほかのトルーパーにもその可能性があるのではないか、というのがぼくの一番思うところである。元々トルーパーだったフィンには彼らの行動や思考パターンがよくわかるはずで、それは同時に彼らの弱さや苦しさも理解できるということ。それなら、彼には行く先々で敵として遭遇するかつての同胞を諭すということもできたのではないだろうか。しかし、実際の映画の中では、なんの躊躇いもなくかつて自分が着ていたのと同じ装甲服にライトセイバーを突き刺したり、ブラスターを撃ちまくっているだけでそういう機会は与えられなかった。

 フィンには単にファースト・オーダーを倒すだけでなく、最終的にはまだそこに囚われているトルーパーたちを救って欲しいと思っていた。それこそがフィンというキャラクターが現れた理由だとすら思っており、『スカイウォーカーの夜明け』で描かれるであろう大団円にはそういうものも期待していたのだ。

 結果から言って半分は当たっていたような気がする。フィン以外にもファースト・オーダーから脱走したトルーパーたちがいたことが明らかになるのだ。それもなんと中隊全員が民間人への攻撃を拒否したのだという。それが自分だけではなかったのだと知ったフィンは、脱走部隊のひとりであるジェナに語る。自分が突然正しさに目覚めたのは本能的なもので、自分ではそれをフォースだと信じていると。このフォース観は、とても良いと思った。理屈では説明できないが心に響いてくるなにか、直感的に感じるなにか。ジェダイでなくとも誰もがそういうものを持っているのだ(一応付け加えると、ぼくは個体のフォース感知能力に影響する共生微生物ミディ=クロリアンというルーカスの設定についてそれほど抵抗はない。ミディ=クロリアンは生き物全てが体内に持っているもので、確かにその数が多ければ多いほどフォースも強くなるという程度の差はあるが、生き物が皆フォースと結びついているということで、別にオリジナル三部作での「理力」のイメージと矛盾するほどではないと思う)。

 とは言えトルーパーへの言及はそこまでだった。ジェナをはじめ元トルーパーたちもレジスタンスの最終決戦に参加するが、ファースト・オーダーのトルーパーはあくまで敵として登場するまで。フィン以外にも離反したトルーパーがいたという事実は、より一層ほかのトルーパーたちも目覚める可能性があるということへの伏線になると思ったが、彼らにそのチャンスは与えられなかった。

 「銀河中で人々が立ち上がった」というセリフがあったが、どうせならそれを映像で見せて欲しいと思った。思い出したかのようにベスピンや森の月エンドア、今三部作の出発点となったジャクーが映され、その全ての空でスター・デストロイヤーが同じように墜落していく様子が描かれるだけだった。もちろんこれは『ジェダイの帰還』での「帝国敗北に湧く銀河各地の様子」へのオマージュだろうけれど、それにしてはなにか物足りない。イウォークの顔がぼくの思うイウォークじゃないというのは置いておいて、「人々が立ち上がった」という言葉に対応するような描写がないのだ。指揮系統が乱れて混乱する各地のトルーパーたちを集まった市民たちが圧倒するとか、それこそファースト・オーダーの間違いに気づいてフィン同様に目覚めたトルーパーたちが一斉に武器を捨てるといったシーンがあれば、『シスの復讐』での「銀河中でジェダイが一斉に死ぬシーン(トルーパーに殺される)」への対比となったのではないかと思う。トルーパーたちがヘルメットを脱ぐと、そこにはまだ幼ささえ残っている若者たちが顔を見せ、皆もフィンとなんら変わらない「さらわれてきた子どもたち」だったことがわかるというわけだ。

 そこでフィンやジェナのバックグラウンドが活きてくるし、そこに踏み出してこそ新しい神話だったのではないかとも思う。ましてや今回は皇帝に仕える赤いシス・トルーパーという兵士たちが登場したが、シスの名を冠するこの同情の余地のなさそうな兵士たちに対して、白い普通のトルーパーたちが相対的に人間的に描かれるというような展開を想像したひとも少なくないと思う。繰り返すがトルーパーたちも元は誘拐されてきた子どもたち、選択の余地がなく兵士になった子どもたちなのだ。ところが彼らは今まで通りのストームトルーパー像に忠実で、フィンも彼らを次々に撃ち倒していった。最後には彼らも救われなければいけなかったような気がしてならない。結局のところフィンが目覚めたのは彼が特別で、ほかのトルーパーはおバカなまま、というような印象で終わってしまったのが、ちょっと残念である。とても良いキャラクターで、特にEP9のフィンはヴィジュアル的にこれまでで一番かっこよかっただけにもったいなさを感じる。

ポートフォリオ移設

 とりあえず「Illustration」「Work」「Movie Review」「Star Wars」という主要なカテゴリーを新しいページに移設できた。残りも順次やるけど、とりあえず落ち着いた。ブログのカテゴリーを階層化できるので、それをそのままメニューにリンクさせることで、ひとつのブログ形式のサイトでありながら記事ごとをページのように構成できる、という具合。更新と管理がしやすい。メニューに表示させるカテゴリーはその都度変更できるし、基本的には全てのカテゴリーが一緒くたになった全体の一覧を見せなくて済む。仕事の記事や個人的な話、創作等が同時に並んでいる旧ブログは、単純な形だったけれど体裁がすっきりしなかった。

 とは言えテーマが完璧というところでもない。どうにもここを調整したいという部分が結構ある。しかし、あまりこだわっているときりがないし、そもそもガワのことを気にせずに中身をどんどん充実させたいという動機からページのリニューアルに取り掛かったので、ある程度で妥協する。テーマを有料版にするかどうかはなんとなく考えておく。有料版にしたところで絶対理想的な形になるということもないような気がする。

 なかなか個人サイトや個人ブログが流行らないご時世かもしれないけれど、すぐに反応が返ってくるSNSにはどこか常に見られているという緊張感もあるし、本来じっくり考えてまとめてたくさん書くというメディアでもない。長文を打った画面を画像にしてアップするという手もあるがそうまでしてツイッターで反応を得ようとは思えない。ちょっとした思いつきとメモ、本当に一言に過ぎないことをツイッターに、じっくり書きたいことはブログに書くという形が自分には合っていると思う。なにより自分自身のメディアを持ち続けることが大切で、ぼくの場合はブログが一番安定してその座にある。

 絵を見せるならSNSだけでも最低限用が足りるのかもしれないが、やはりこれを仕事にしているからにはしっかりサイトというものを持ち、作品をまとめておきたい。いずれにせよ、自分がなにもかもコントロールできるウェブサイトという、どこか秘密基地めいた領域は持っておきたいと思う。

新しいブログ

 ワードプレスによるサイトのリニューアルに伴い、サイトの更新がブログ形式になるということでブログそのものもこちらに移転する予定です。bloggerの方も残しはするけれど、年内で更新はやめるつもり。外部のブログでなく、メインサイトそのもので更新していくので、多少は見やすくなるかもしれない。なにより携帯端末から更新しやすくなるのがいい。bloggerはそのあたりが弱かった。レスポンシブデザインもちゃんとしているので、更新するにも閲覧するにも好ましい。たくさん書こう。

『ジョン・ウィック』(2014)


 ロシアン・マフィアの若頭が車欲しさに男の家を襲撃する。手下とともに男を袋叩きに、うるさい飼い犬は始末して、まんまと69年式のマスタングBOSS429を自分のものにするが、持ち帰った車を一目見た途端組織の古株が血相を変え、ボスである父親さえも激怒する。車の持ち主の名はジョン・ウィック。かつて組織のために働いていたこともある伝説の殺し屋で、車と犬は妻を亡くしたばかりの失意の彼にとってかけがえのない存在だったのだ。最強の男ジョン・ウィックを怒らせてしまったことに戦慄するマフィアのボス。しかし自分の息子がやらかしてしまったことだ、もうやるしかない。というわけで、マフィア対ひとりの戦争が始まるのだった。

 犬は愛らしいし、車はかっこいいけれど、それだけではない。どちらもジョンにとって亡くしたばかりの妻の存在に通じる大切なものだった。犬は死期を悟った妻がこっそり手配していた新しい家族であり、車には裏社会からの引退を決意させるほど愛した妻との思い出が詰まっていた。妻を亡くし、彼女が遺したものさえも奪われてしまったジョンにとって、裏社会への帰還と復讐は自分自身を取り戻すための唯一の道だったのだ。

 キアヌ・リーブスの不吉な佇まいとスマートなアクションがいいのと、やっぱり漫画みたいな設定が魅力。殺し屋ばかりが集う高級ホテル、裏社会だけで流通する独自貨幣、独自のルール、あからさまな隠語……。それらをひたすら高級に、重厚に、格調高く描くので、文句なしにかっこいい。中学生の頃観たらより夢中になったことだろう。まあ当時も『コンスタンティン』に夢中だったので似たようなものだが。裏社会の世界観も天国地獄といった異界と置き換えられそうだ。どちらも不吉な顔つきのスウェーデン人が君臨しているし。ちなみに『コンスタンティン』のサタン、ピーター・ストーメアは二作目に登場するがその話はまた今度。

『トイ・ストーリー4』(2019)

 もはや「トイズ・ライフ」と呼んだほうがいいくらいだった。シリーズを振り返ってみても、おもちゃの物語から、おもちゃの人生の物語へと展開していったように思う。そうして『トイ・ストーリー4』はウッディ自身の物語にも決着をつけた。残念ながらウッディやボー・ピープ、新しいおもちゃたち以外のお馴染みの仲間たちは、バズ・ライトイヤーも含めて完全に脇役で、ほとんど見せ場らしいものはないのだけれど、それを犠牲にしてでもウッディとボー・ピープの「生き方」に焦点を当てたことに価値と意義があったと思う。

 今回のお気に入りは、ウッディたちの敵役でもあるおままごと人形のギャビー・ギャビー。黄色いワンピースに黄色いリボン、黄色い靴が洒落たヴィンテージの人形だ。メイン機能である発声器が不良品なので背中の紐をひっぱってもしゃべることができず(人間が遊ぶ上でしゃべれないだけで、自由意志でしゃべることはできる)、おままごと人形の本領を発揮できずにアンティーク店の中で長いことくすぶっている。いつか店主の孫の女の子に遊んでもらう日を夢見て、ひとりで取り扱い説明書を見ながらお茶会の練習などをするなど健気さを見せるが、年代が近く発声器の作りも同じであるウッディと出会い、彼の発声器を奪おうと企む。全ては子どもに遊んでもらうため……。声を演じるのはドラマ「マッドメン」でお馴染みクリスティーナ・ヘンドリックス。ギャビー・ギャビー自体60年代製ということで「マッドメン」時代のもの。同じくヴィンテージの腹話術人形ベンソンたち(何体もいる) を従えているのだが、ベンソンの見た目も手伝ってなんとなくマッドメンたちを従えているようにも見える。こいつらがウッディを追いかけるシーンはとても怖い。不気味なおもちゃが登場するのも『トイ・ストーリー』の魅力。

 フォーキーも忘れられない。ウッディたちの新しい持ち主である女の子ボニーが、幼稚園の1日体験で作った工作人形。先割れスプーンとモールで出来た、まさに幼稚園の工作といった感じの見た目で、その成り立ちのせいか目覚めた瞬間から自分のことをゴミだと思い込んでいる。ちょっと目を離すと自分からゴミ箱に飛び込むので、今のボニーにはフォーキーがなによりも大切だとわかっているウッディは、彼がゴミ箱に入らないよう寝ずに見張るほど。このゴミとおもちゃの線引きの微妙さや危うさは、子どもの頃はもちろん今でも工作が好きなぼくもよく考えることだ。自分で作ったものには愛着がある。しかしそれは既製品ではなく、非常に脆い。一歩間違えると、ぼくの気分次第でゴミ同然となる。ボール紙で作ったボバ・フェットのヘルメットにしても、なにかの拍子にぼくの目にはゴミとして映ってしまうかもしれない。作ったものにはそういう危うさがあると思う。描いた絵にしてもそうだ。

 しかし、それは自作のものに限らない。前作の悪役、クマのぬいぐるみロッツォは、用済みになったおもちゃはゴミ同然だと豪語し、ウッディたちは焼却炉を目前に死さえ覚悟した。もう要らない、となってしまえば、どんなに出来がよく、値の張ったものでも、ゴミとなってしまう。いたずらな断捨離の犠牲になったものを思い出すといい。ついさっきまで必要に感じられ、価値のあったものが、ちょっとしたことでゴミ袋行き。全ては人間の気分、意識、見方次第である。こんなに気まぐれで恐ろしいものはないだろう。そこまでいくと、おもちゃの役割どころの話ではなく、物の価値とはという話になってくる。『トイ・ストーリー』シリーズはそこまで行ってしまったのだと思う。特に今作はほとんど付喪神的なものさえ連想する。遊ばれることなく長年放置されたギャビー・ギャビーの怨念じみた強迫観念もそうなら、子どもに遊ばれる以外の道を自分自身で選び取ったタフなボー・ピープもそう。少なくともぼくはもうおもちゃを処分できそうにない。おもちゃ以外の物さえも捨てるのが恐ろしい。もちろん、そういうわけにはいかないので、だからこそ手にするものを厳選するべきなのだろうと思う。

 そんなふうに、ときに大切にしてくれ、ときに身勝手な人間だが、それは必ずしもおもちゃが生きていくのに不可欠というわけではない。その可能性を、ウッディは再会したボー・ピープから教えられる。この陶器の羊飼い人形は、かつて3作目よりも以前、2作目よりも後の時点でバザーに出されるためにウッディたちの前から立ち去らなければならなかったのだが、その後も人間の都合で転々とし、最終的に彼女は自分が自分の持ち主になることを選ぶ。新しい持ち主のボニーがまともに遊んでくれなくなり、アンディとの楽しかった日々を思い出してばかりのウッディに、ボーはそれ以外の生き方を提示するのだった。

 ウッディが仲間のおもちゃたちとはぐれて冒険を繰り広げるというのは、一作目からのお約束の展開ではあるのだけれど、今回はそこに単なる話運び以上の大きな意味があり、とうとうウッディは自分の居場所を自分自身で決める。冒険を終え、バズやジェシー、ポテトヘッドやレックスたちと再会したウッディは、ボーに再び別れを告げ、仲間たちのもとに戻ろうとする。フォーキーとともにボニーのもとに戻り、また楽しい日々が始まるだろう。自分にそこまで出番はないかもしれないが、フォーキーを支え、ボニーの幸せを見守らなければならない。しかし、ウッディは立ち止まる。立ち止まって振り返る。振り返るとボーと目が合う。ボーが、はっと息を呑み、胸を高鳴らせるのが画面から伝わる。これが本当に陶器の人形だろうか、というほどの人間的な表情。大きく見開かれた目に紅潮した頰。ボーは本当にウッディのことが好きだったんだ、と心から思える。ウッディは最後の一瞬で、選ぶ。

 おもちゃを大事にしましょう、物を大切にしましょうというところに留まらず、迷える者が自分の人生を切り拓く様さえも描いて見せた『トイ・ストーリー4』は、まさにバグズ・ライフならぬトイズ・ライフだった。

『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(2019)

 2014年の『GODZILLA ゴジラ』の続編であり、『キングコング: 髑髏島の巨神』を含めた「モンスターバース」シリーズとしては3作目。サンフランシスコの戦いの後、ゴジラが姿を消してから5年。世界各地で怪獣を研究する秘密機関モナークだったが、テロリストの襲撃により南極で管理していた氷塊が崩壊、そこに眠っていたモンスター・ゼロことキングギドラが覚醒する。それを待ち受けていたかのように姿を現わすゴジラ。かつて太古の地球で王座を争ったゴジラとギドラの宿命の対決に呼応するように、モスラやラドンをはじめ世界中で怪獣たち(タイタン)が目覚め、まさに怪獣大戦争の様相を呈す……。

 着ぐるみでないデジタルで描かれた怪獣たちは、作り物としての怪獣というよりは生き物というニュアンスが強い。なので、なんとなく「大きな動物」を見ているような気分だった。前作もそうだったけれど、ゴジラの妙に人間臭い表情がおもしろいし、今回はギドラの3つの頭がちょっとしたトリオ漫才みたいなやりとりをするのがよかった。真ん中がリーダー格(長男?)なのだろうとは思っていたが、それぞれに性格が出ているのも、細かい描写ができるからこそ。もちろんそれゆえに恐ろしさや残忍さみたいなものもよく出ていた。残忍さと言えば、大好きなサリー・ホーキンス扮するグレアム博士が、ギドラに食べられてしまうのはショックすぎた。ゴジラを応援する気持ちに熱が入るというものだ。

 怪獣としてはモスラが一番のお気に入り。日本のオリジナル版を子どもの頃観たときは、ゴジラ以上にインパクトが強く(色のせいだろうか)、東京タワーに繭を張るシーンも絵としてパワーを感じた。例の歌を歌うとモスラが来てしまうので、以後親が脅しで歌うのを怖がった。その歌も今回はかっこよくアレンジされて壮大なテーマとして流れる。テーマと言えば伊福部昭によるゴジラのテーマも真正面からしっかり使われていて胸が高鳴った。多少のアレンジはあるが、それもハリウッド式の盛り上がりがあってよかった。どれだけギドラがパワフルであろうと、この曲をバックにゴジラが大地を踏んで雄叫びを上げれば、誰が本当の王かは一目瞭然である。

 人間たちが皆どこかぶっ壊れているのも、よかった。怪獣プロレスのインパクトが強すぎて人間たちの行動や物語は荒唐無稽に見える?いやいや、そもそもあの世界はぶっ壊れているのでそれでいいのだ。怪獣の存在を平気で受け入れ、畏敬の念を込めてタイタンとか呼んじゃったりして、次から次へと降りかかる災難に対処して適応していく神経の図太さ。あれくらい狂った世界では全くおかしくない。むしろぶっ壊れていなきゃおかしい。そもそもそのぶっ壊れたひとたちのキャラがまたいい。芹沢博士とマディソンちゃん、あなたたち本当に怪獣が好きですね。「全ての生き物に敬意を払っている」という芹沢のセリフもよかったな。やっぱり怪獣は生き物なんだ。

 ところで、次回はついにゴジラとコングの対決が予定されているわけだけれど、宇宙から来た雷を吐くドラゴンでさえ敵わなかったゴジラ。体内に原子炉があって、熱核反応さえ起こしてしまうモンスター・キングに、一見大きいだけのゴリラがどう挑むのだろうか。それだけで気になってしまう。コングも40年間でなにか特殊な変貌を遂げているのだろうか。電気を帯びてパワーアップとか?しかし、バカにはできない。コングはただのコングではないのだ。彼もまた王、キングコングなのである。

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