考えさせられる

 映画の感想においてだいぶ言葉を選ぶようになってしまったが、選ぼうとして考えれば考えるほど沼にひきずりこまれてしまうので、逆に使うことを自分に禁じている言葉を設定している。そのひとつに「考えさせられる」というものがある。

 これはぼく自身のスタンスであって、別にこの言葉を用いることや用いるひとをどうこう言うつもりはない。場合によってはこの言葉が最適であることもあるだろう。あくまでぼくとしては、この言葉に頼りたくないと思っている。

 大抵この言葉は、なにか強いメッセージが込められた作品に対し使われると思う。この言葉を用いることで、自分はその作品が訴えるところが理解でき、それについて考えを巡らせている、巡らすことができる人間であると表明することができる。そうしてその一言だけで作品の深さみたいなものを表せてしまい(表せていないのだが)、具体的になにをどう考えたのかは言わなくとも許されてしまうところがある。そこが危うく、ぼくの気に入らないところでもある。もっとも、具体的に考えたことが言えるのなら、わざわざ考えさせられたというようなことは言う必要がない。もちろん字数に限りがあり、それを思う存分書けないこともある。そういうときにこの手の言葉は非常に便利であり、つい使いたくなるのもわかる。ああ、ここで「考えさせられる」を素直に使えればこれで片付くのになあと思うことも少なくない。しかし、限りある字数の中でどうにかこうにか自分の言葉、表現を工夫したいと欲を出したり背伸びしたりしてしまうのがぼくの性分なのである。

 はっきり言えば、「考えさせられる」で締めてしまうと、なんだか考えてなさそうな印象があるんだよね。なにより「させられる」というのがひっかかる。まだ「考えたくなる」「考えずにはおれない」というほうが主体的でいい。「させられる」などと言うから考えてなさそうに見えないのかもしれない。受動的なニュアンスが強く、作品のメッセージをどこかで押し付けられたように感じているのではないかという印象さえある。つまりそれは消極的な態度と言えるのではないか。「考えさせられる」のであって自分から考えようとはしていない。まあ、こんな一言からそこまで拡大するのは意地が悪いとも思うし、依然としてほかのひとが使うのは一向に構わないが、自分がこの言葉に違和感を持ち避けたいと思っているその理由を考えていくと、こんなところである。

 で、わざわざここにこう書くということは、今後より一層この言葉を使えなくするためだったりする。ほかにもまだ自分から禁じている言葉はあるのだが、全部明かすと非常にやりづらくなるので教えてやらない。いずれもその一言を使うとそれだけで片付き、それっぽく聞こえる便利な言葉ばかりだ。しかし、便利な言葉に頼りすぎると、やがては表情に乏しい文章になるだろうと思う。知人のひとりはそれをジョージ・オーウェルの小説に出てくる「ニュースピーク」になぞらえていた。一言で反対のニュアンスを併せ持ち、いろいろな場面で使うことのできる魔法のような言葉。曖昧で具体性に欠くので角が立ちづらい言葉。だがそれを多用しすぎれば、語彙が減ってしまうことだろう。