紙に描く
ここ数年というもの、仕事でもプライベートでも紙に絵を描くということがまるで出来ていなかったが、最近なんとか感覚を取り戻せてきた。デジタルで描けるものの可能性は計り知れないが、やはり紙に直に描いて形に残せるのはいい。快感とも言えるかもしれないが、なにより安心する。デジタル描画がよくないわけでは決してないが、なにかこう、自分は本当に絵が描けるのかどうか、デジタルによる補正や無限に近い色彩、いくらでもやり直しのきく環境なしにはもう描けないのではないか、という不安が常にあった。それなら合間合間に練習しろと思うのだが、うまく描けないということもまた不安であり、不満がたまる。うまく描ける方法を取っていればとりあえずその場では気分がいいので、ついついそっちを取ってしまう。
しかし、今年になってからできるだけ、ちょっとしたものでも紙に描くようにしてみようと思ってみると(そこまで厳格なルールではない)、嫌でも描かなくてはならないので、だんだん慣れてきた。というかいろいろ思い出してみた。一旦思い出してみると、こんなに楽しいことはない。失敗や不安定なところもあるが、緊張感や偶発性みたいなものがあるし、直に触れるものが残るのは大きい。
ふと世間を見渡してみると、人工知能による画像生成が格段に進歩し、興味と不安の両方が掻き立てられているらしい。僕は危機感が薄い人間なので、その手のものに不安や警戒心はあまりないのだが(SFが好きな人間としておそらく期待の方が大きいのだと思うが、まあそんなふうに構えられるのも自分がそれによる被害を被らないうちだろう)、強いて人間の利点を挙げるのであればそれはこちらが物理的な存在で、物理的なものを作れるというところだろう。つまりはデジタルという同じ土俵にいるからこそ、人工知能(とそれを無神経に応用しようとする連中)とまともに対峙しなければならなくなるわけで、それを目の敵にしたり極度に恐れるのであれば、制作環境も発表の場もデジタルから実空間に移し、肉筆による作品を作り、それを直に見てもらう場に重きを置けばいいのではないか。平面的なものであるところの絵を、極力物理的な実物にできれば、付加価値は大きく、当然おいそれとコピーを生成するのも難しい。まだしばらくは人間の方が有利な領域である。
いや、そもそもぼくはこういう人間とロボットのどちらが優れているのかとか、どうしたら勝ち目があるのかとかいう話は、あまり好きではないので(もちろん技術の用法については考えるべきだが)、これは有利であるとか不利であるとかいうよりは、それぞれの特色と呼びたい。
別にぼくがまた紙に描き始めたのはそんな理由ではないのだが、至極当たり前で基本的なところに本質的なものを感じるのだった。まあ、デジタル描画の出力に、より一層きめ細かい技法や手触りのようなものを加えられたり、ロボットアームによるアナログ描画によって今現在自動生成されているようなレベルの絵画が描けるようになった日には、ついにロボットペインターが誕生するわけだが、それはそれでわくわくしてしまう。
ドンブラザーズショー

自分の中では「怪盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー」以来のヒット、「暴太郎戦隊ドンブラザーズ」。なにがどうおもしろいかという話は今更必要なかろう。わざわざ説明するのが野暮である。というか毎週見ているぼくにも説明が困難である。ひとつだけ触れるとすれば、戦隊の分類のところに注目したい。「暴太郎(あばたろう)戦隊」である。普通ここは、前述の怪盗戦隊や警察戦隊はじめ、宇宙戦隊であるとか百獣戦隊であるとか、そういう、一言でああそういうのがモチーフのやつらね、とわかるものが来るわけで(もちろん今作以外にもオリジナル用語が使われるパターンも時折あるかもしれないが)、あばたろうってなんだよ?とまずそんな疑問を抱きたくなるのだが、今にして思えば、いきなりタイトルにそんな聞き慣れない言葉が入っているところに、作品の性格というか、全てが表れているような気がする。疑問を差し挟む余地、いや、猶予を与えてくれない勢いで攻めてくるのがドンブラザーズなのだ。
そういうわけで、大変気に入って思い入れも強いので、シアターGロッソにショーを観に行った。変身前のキャストが出演する「素顔の戦士」公演は子どもの頃から憧れてもいたのだが、日曜朝の放送を観てからそのまま東京ドームシティに行ってショーを観るという、大変贅沢な楽しみ方もできた。本当にさっきテレビで観ていた物語の続きのようだった。娘も喜んでいたが、あれは毎週観ている子どもなら感動するだろうなあと思う。放送最終回直前のいい機会なので、特撮好きの友人も誘って行き、終わった後にちょうど東京ドームにレッド・ホット・チリ・ペッパーズを聴きに来ていた友人とも合流してご飯などしたが、ああいうのは娘の記憶にどういうふうに残るんだろう。いずれにせよ娘は家に帰ってきてからも大興奮で(アトラクションで散々遊んだ後なのだが)いまだかつてないほどドンブラ気分だったようだが、もう次の日曜で終わっちゃうんだよなあ。
ポコ抜糸する

退院してきたときは、お腹の縫い目にホチキスのような針がずらりと並び、点滴用チューブのジョイントが刺さったままで返されたので、非常に生々しく、だっこもしづらかったが、週明けに抜糸が済んですっきりした。傷もすっかり塞がっているし、あとは毛が生えてくるのを待つばかりである。
ポコ退院する

木曜に退院したポコ。手術は金曜だったから、結局一週間入院していたことになる。まだ勢いはないものの、普通に歩き回って食べて、とにかく寝ている。見知らぬ場所な上に、24時間看護体制の病室ではきっと照明が落ちることがなかったから、ぐっすり眠れていなかったのだろう。あらゆる不安を忘れて安心しきって眠っている姿は、こちらも気持ちがよくなってくる。
胆嚢を取るついでに調べた肝臓が、結局何事もなかったのが救いだった。とにかくこれで、腫瘍は取り除いた。頭の方もこれから効果が目に見えてくるらしい。ホチキスの針のようなものが何個も並んでいる大きな開腹の跡がかなり怖いのだが、これも月曜には抜糸する予定である。点滴用のチューブも短い範囲でくっついたままなので、早いところこれも取ってもらわないと、抱っこに気を使って仕方がない。チューブの途切れた先端を、胴体を包んでいるネットの背中側にひっかけていて、チューブが胴回りを半周している形になるのだが、これが当人が動き回るにつれてだんだんネットからはみ出てくるから、危なっかしい。
消滅銃の罠
船内をひと通り調べ終わったゼルが、首の後ろを手でさすりながら食堂兼調理場に戻ってきた。私はテーブルの上に並べられているまだ熱のある食事から目を離し、そちらを向いたが、相手の表情から状況は大して変わっていないことを読んだ。
「だめだ、乗員はひとり残らず消えたようだ」
ゼルはそう告げた。「脱出ポッドは残っているし、船外活動用の宇宙服も全てラックにかかっていた。ひとつしかないエアロックも俺たちがドッキングするまでちゃんと閉まったまま。外に出たということは、まずないだろうな」
「転送装置はどうだ」
私は思いついた先から口にしたが、自分でもその線は薄いことがわかっていた。
「この船には転送装置は積まれていない。船の大きさから考えても、一度に複数人を転送できるタイプの装置は無理だろうな」
船内コンピュータの名簿によれば乗員は全部で十四名。やはり全員が忽然と姿を消したとしか言いようがなく、残された貨物船は無人のまま宇宙空間を漂流していたことになる。
ログは一時間置きに自動的につけられており、最後の記録は標準時間で四十分前である。その内容は至って平穏なもので何事もなかった。それから私たちの乗るパトロール船が近くを通るまでの間に、船は無人となったのである。私たちが見つけたとき、船のエンジンスラスターは光を発しておらず、一切の動力を切った状態で宇宙空間を漂っていた。
多くの宇宙船がそうであるように、この船も調理と配膳は全自動で行われており、加熱するだけで出来上がる食事が、決められた時刻に全員分用意され、テーブルに並べられるように出来ている。そういうわけだから、まだ温かい料理がひとりでに用意されていること自体は別に不思議ではない。遠い昔、地球の海上で発見された無人漂流船で同じことが起きていれば不気味だったかもしれないが、私たちはその点を不審には思っていない。このまま食べる者がひとりも現れなければ、一定の時間が過ぎた後、手つかずの料理が自動的に廃棄されてしまうだけだ。
だが、私とゼルが調べた限り、他の船室の様子には首をかしげざるを得ない。いくら人類がまだ地球上を這っていた頃の帆船に比べてさまざまな機能が増えたとは言え、飲みかけのコーヒーをそのまま置いておいたりする機能はないだろう。もちろんまだ湯気ののぼるコーヒーである。そのほか、ベッドの上に開いたままにされた雑誌、つけっぱなしになっているテレビなどはまあ、自動システムにもできなくはなさそうだが、そう説明することがだんだん不自然に思えてくる。
つい先ほどまで乗員がいたと言ったほうが自然な状況なのである。捨てられ、しばらくの間漂流していたのではなく、つい先ほど乗員が消えてしまったと言ったほうが。
「だが船外に出た形跡がないとなれば、やはり船内のどこかにいるということになる」
私はくたびれてきて食堂の椅子に腰掛けた。目の前にはミートローフが置かれている。私はほどよく空腹を覚えていたが、この不気味な状況のためさすがに手をつける気にはならない。
「探しても見つからないのは、見つからないように隠れているからでは?」
ゼルが言った。
「跡形もなく消えるというのが現実的でない以上、その線が残るな」
私は胸の前で腕を組んだ。「でもなんのためにそんなことする?」
「海賊の襲撃にでも遭ったのかもしれない。それで、やり過ごすために隠れた」
「だが、それなら積荷が荒らされているはずだ。さっき見てきたじゃないか、コンテナは綺麗に並んでいたろ。まあ奥の方までは見てないが。それにその説では飲みかけのコーヒーやら吸いさしの煙草が残っているのがやはり変だ。海賊がやってきて、乗員が隠れ、用を済ませた海賊が立ち去るという流れで考えれば、あの火星煙草が火が点いたままでまだ半分も減ってないなかったのはおかしいだろう」
「じゃ、なにか別の理由があって咄嗟に隠れたのかも。いずれにせよ船をスキャンしないことにはなんとも言えないな。俺たちふたりじゃ隅々まで調べるのは無理だ。本部には報告してあるから、応援とスキャニング・クルーが来るまで待つしかない」
咄嗟に隠れた、というゼルの言葉が私にはひっかかった。
「もしかして、私たちから隠れているんじゃ?」
ゼルが目を見開いて私を指差した。
「最初にそれに気が付くべきだったな!」
「乗り込む前に交信にも応じなかったが、あの時点で大急ぎで隠れたのかもしれない」
綺麗に誰一人いないという異様な雰囲気のために気が付かなかったが、案外ことは単純かもしれなかった。
「やましいことがあるから俺たちから隠れたんだな」
ゼルは言いながら自分でうんうん頷いた。「こいつは密輸船なんだ」
「ただ」
私も納得しかかったが、まだ気になるところはある。「人数を考えれば、別に隠れることはないと思うがね。全員でかかれば私たちなど敵ではないだろう。それに、あんなふうにエンジンを停めて浮かんでるよりは、さっさとフルスピードで逃げた方がよさそうじゃないか」
「できるだけ穏便に済ませたいタイプなのかも」
ゼルが言った。「俺たちが一通り船の中を調べて、一旦自分たちの船に戻るかしている隙をついて逃げ出す気なのかも」
「そいつは厳しいと思うぞ。この種の船は一度エンジンを切ったらもう一度動かすのに多少の時間がかかる。それに、結局逃げ出すなら最初から逃げるのと変わらないじゃないか。むしろもうこの船は俺たちの船がドッキングしてしまっているんだ。無理に離脱しようとすればエアロックに負荷がかかって、自分たちの船のためにはならないだろう」
考えれば考えるほど謎だ。私は先ほどよりもくたびれてきた。空腹感もだんだん強くなってきており、目の前のミートローフに対して前ほど抵抗がなくなってきていた。
「つまんだらまずいかな」
そう言う私をゼルは眉をひそめる。
「全て証拠物件になる。触らないほうがいい」
「でも、このままじゃ冷たくなるだけだ。それに、食事の時間が終わってしまえばこいつは片付けられて、そのまま捨てられちゃうんだから、証拠として確保はできないよ」
「それでも、得体の知れない船の中でなにか食べようとは思わんな、俺なら」
そう言われると私の中でも再び抵抗が働いてきた。私は少しでも気を紛らわすため、手の届くところに置かれているミートローフの皿を全てできるだけ自分から遠ざけた。こうなったらさっさとロボットアームにこれらを捨ててもらいたいところだ。
そういう大して意味のなさそうな動作をしてから、ふと顔を上げると、食堂の壁に不思議な影のようなものを見た気がした。よく見るとそれは染みのようだった。なんとなく人の形をしているようにも見える。だから影だと思ったのかもしれない。
すると、私の中に恐ろしい考えが浮かんできた。
「暴動や殺人が起きたとは考えられないか?」
私の言葉に、ゼルがぎょっとする。
「考えられはするが、船内コンピュータが非常事態を記録するはずだ」
「ログが改竄されたんだ。大した作業ではないよ」
「暴動ったって、なんのために」
「船長への不満か、あるいは船員同士のいざこざとか。古くからあるやつだよ。それに突発的な殺人はどうだ。ある船員がカチンときて、ひとりをやってしまう。露見が怖くなって残りの十三人も始末してしまった」
「で、最後に残ったそいつはどこいったんだ」
「十三人も手にかけたわけだからな、良心の呵責に耐えかねて、十三体の死体とともにエアロックの外に飛び出した」
私がそこまで言うと、ゼルの顔つきが厳しくなった。
「エアロックが開いた形跡はなかったはずだぞ。だいたい、それならもう少し争った形跡があるはずだ。十三人もの人間を殺めるのも容易なことではないだろう。よほど全員を憎んでもいなければ無理だ」
「よほど全員を憎んでいたのかもしれないぞ」
私は言い返した。それほど自説にこだわりがあるわけでもないが、応酬が楽しくなってきたところもある。「それに、死体の始末はなにもエアロックを開ける以外にもやりようはある。細かく切り刻んでトイレから流したんだ」
「真面目に言ってるのか?いや、しかしな……なにが起こったにせよあまりにも全てが整然とし過ぎてるじゃないか。もう少し物が壊れていたり……」
ゼルがそこまで言いかけたところで、私はまた、先ほどの壁の染みに目をやった。思い切ってゼルにそれを示してみる。
「あの壁のあれ、なんだと思う?」
私に言われてゼルがその方向を見やる。
「染みか。それが?」
「ときに」
私は言う。「レーザーをどのくらい撃ち込めば相手を焼き尽くせると思う?」
「なに?」
「お前が持ってるその銃でさ、しこたま撃って相手を灰にできると思うか?」
私の言葉を聞いて、ゼルは自然な動作でホルスターに手を当てる。
「出力をいっぱいにしてもなかなか難しいだろうな。すぐにエネルギー切れになっちまうよ。中途半端に焼けた肉塊が残るだけだろう」
「だがとんでもなく強力な銃だとしたらどうだ。火炎放射銃でもいい」
私はふざけていないということを伝えるため、できるだけ真剣な表情で言った。ゼルの顔からも笑みが完全に消え去っていく。
「まさかお前、この壁の染みがその跡だとでも言う気じゃないだろうな」
「もちろん火炎放射じゃもっとあたり一面真っ黒になるだろうし、さすがに跡形もなく相手を消し去るのは無理だ」
私は立ち上がって壁に歩み寄る。やはり近くで見れば見るほどそれが人型に見える。
人影だ。
「消滅銃ってのを聞いたことは?」
私が尋ねると、ゼルは怯えたような顔をする。
「……そりゃあるけどよ、実在するのか?」
「消滅銃は太陽系全域で禁止になっているが、最後に残ったわずかな数が未だに暗黒街で出回ってるって話だ。もちろん使うやつはそうそういないから、力の象徴としてあっちの組織からこっちの組織へ、という風にまわってるだけらしいがね」
私は壁を間近で観察する。万一のことを考えて手では触れない。「撃たれた者は原子レベルに分解され、その影を周囲に焼き付けて消えてしまう。他に一切痕跡は残らない。この状況にぴったりだ」
「一体なんだってそんな物騒なものがこんな船にあるんだよ」
「そこでお前の密輸船説に繋がるんだよ」
「なるほど!」
ゼルは両手を叩いた。「誰かが積荷の中身を知って、それをこっそり手に取ったわけか」
「経緯はどうであれ、可能性はある。消滅銃が噂通りのものなら、ほとんどなんの抵抗も受けずに相手を消し去れるし、効率よくやれば短時間で13人くらいはすぐに消せるだろう」
そうなれば確かめなければならないことがある。「さっき見てまわった船室の壁かなんかに、これと同じような染みがないか調べる必要がある」
案の定、部屋や通路、操縦室等に、合わせて5つの染みを発見した。食堂にあったものほど人型に近いわけではなかったが、残りもおそらくどこかにあるのだろう。私たちはあえて全てを見つけ出すことはやめておいた。船内を隈なく探せば、どこかに隠れている犯人と鉢合わせする恐れがあったからだ。そして、そいつの手には恐ろしい消滅銃が握られているはずだ。
別に拠点を置いたつもりはないが、なんとなく食堂に戻ってきて、私たちは再び額を寄せ合った。ゼルはとても顔色が悪かったが、私の方も似たような感じだろう。だが同時にふたりとも興奮してもいた。
「ほとんど決まりだな」
ゼルは言った。「きっとそいつは貨物室の奥かどこかに隠れてるんだ。隙を見て捕まえられないかな」
「なに言ってるんだ!」
私は声をひそめる。「やつは消滅銃を持ってるんだぞ。今こうしている間にもここまで上がってこようとしてるかもしれん」
「だからこそ待ってるだけではだめだ。この状況を利用して先手を打つほかない」
「少なくとも応援を待った方がいい。俺たちだけでなにができる?」
「応援が来たところで装備は俺たちと変わらないじゃないか。だいたい、いつまでも待ってられないぞ。仲間が到着するのが先が、レーザーマンがその気になってここに来るのが先か」
ゼルの指摘ももっともであった。
「だったらどうするんだ?」
確かに私たちの推測通りなら、ここにいては危険である。自分たちの船に戻っても大して状況は変わらないように思えた。いっそドッキングを解除して距離を取ってしまったほうがいいかもしれない。と、そこで考えが浮かんだ。
「そうだ、やつを誘き出してエアロックから放り出してしまおう」
そう言うとゼルは怪訝な顔をした。
「それじゃ生け捕りにできないぞ。ここから逃げ出すのと変わらん」
「手柄にはなるさ。それに持ち主がくたばっても、消滅銃は残る。宇宙空間に流れ出たら回収すればいい」
私は言いながら自分でも納得した。その線がいい。「そいつを当局に渡せば昇進間違いなしだ」
「いや、売ってしまった方が金になるかもしれん。どっちにしろ俺はそんな物騒なもの触りたくもないや」
「じゃ、決まりだな」
私は言う。「こっちがふたりしかいなくて、ろくな武装もしていないことを相手に知らせて誘き出し、エアロックに誘い込む」
「でもこの船のエアロックは塞がってるぜ」
「我々の船の反対側の方のを使うんだよ。応援が来たときにもそこに着ける手筈だが、まだしばらくは猶予がある。もし先に応援が来たなら、それならそれでもいいじゃないか」
「よおし、やろう。さっきも言ったように怪しいのは貨物室だ。あそこをうろついて俺たちがいることをアピールし」
非常に乗ってきたところだったが、彼は最後まで言い終わらないうちに足元から崩れ落ちた。私には一瞬、ゼルが消滅銃で消されたのかと思ったが、彼はそのまま床に倒れていた。
ゼルが倒れることで、その背後に誰かが立っていたのが見えたが、思考が状況に追いつく前に、私の後頭部にも衝撃が走った。
「こんなマヌケな連中がこの宙域のパロトールだなんて、もっと前から知ってたらこの辺で暴れてたのにね」
哀れな制服姿の二人組が床に伸びているのを、三人の人間が見下ろしており、そのうちのひとりが言った。彼女はパトロールの片割れを気絶させるのに使ったスタンロッドを手で弄んでいる。
「でも案外真相に近づいてたじゃないか」
と、もうひとり。彼もまたスタンロッドを持っており、もうひとりのパトロールを背後から殴りつけたのだった。「俺たちが自分から隠れてるなんていうのは、その通りだったわけだし」
「密輸団ではないがな」
残るもうひとりの男が言った。「この船自体が海賊船だとは、夢にも思わなかったろう」
「でも壁の染みは笑えたな。あんなの怖がらせるために適当に吹き付けておいただけなのに、消滅銃だなんて」
男は笑った。「そんなものがあるわけないじゃんな」
海賊船を称した男が、笑っているスタンロッドの男をじろりと見る。男の顔から笑みが消える。
「あるの?」
相手はそれには答えず、床で伸びてる二人組を顎でしゃくった。
「縛り上げろ」
それが終わると三人は食堂から出て、パトロール船とドッキングしているエアロックに向かう。エアロックの手前には、先ほどまで海賊たちが身を潜めていた秘密の収納スペースへの入り口があるが、閉ざされた状態では周りの壁面と区別はつかず、標準的な仕様ではないから初めて船内に入ってきた者にその存在が悟られる恐れはまずない。彼らは部外者たちがそこを通り過ぎて自分たちの船の中へと入った後で、外に着けられた船の方に逆に忍びこむことができるのである。
「それにしたって船長」
海賊の女が言った。「こんな大仕掛けをしておいて、手に入る船がちとしょぼすぎやしない?」
「パトロール船もそれなりの値段で買うやつがいる。それにこのやり方なら俺たちはほとんど武器を使う必要がないんだぞ。スマートなやり方だ」
「毎度場所は変えてるから、船を覚えられる心配は当面ないしな」
船長でない方の男がスタンロッドを叩きながら言う。「でもそのうち幽霊船の噂くらいは流れるかも」
「俺だっていつまでも通用する手とは思っていないさ。だがしばらくは使える」
船長が言いながらエアロックの手前の扉を開け、三人は外部から接続されたチューブの中を通り、パトロール船の中へと足を踏み入れた。
すると、そこでは制服姿の人間が数人、銃を手に待ち構えていたのだった。
ポコ目覚める

月曜にさっそくお見舞いに行くと、すっかり目覚めて、病室の中を歩けるようになっていた。ものすごくゴツいケージに入れられていたが、これがICUというらしい。点滴のチューブなどが繋がっているので、なんとなく触る際におっかなびっくりになってしまうが、本人は特になにも気にしていない様子。長い夢でも見ていたのだろうか。自分になにが起こったのか、ほとんどなにもわかっていないかもしれないが、なにかがあったということは察しているだろう。ぼくらから離れ、全く知らないところで何日も過ごすという体験自体が特殊だから、そのことだけを不満がっているかもしれない。
犬、手術する

昨年の11月ごろに脳腫瘍が見つかったうちの犬。年末に治療計画を立て、年明けから週3で放射線治療に通っていた。1日置きに車で大学病院まで向かう日々。いい加減道も覚えてしまったし、車の練習にもなった。放射線を当てて腫瘍を小さくしていくのだが、結果は最後にもう一度スキャンしてみなければわからない。ただ、様子を見る限り効果は出ているのではないかと思う。
脳腫瘍の方はそれでいいのだが、実は放射線治療を始める前にもう一度全身を調べてみると、実は腹部にも腫瘍が見つかった。肝臓と胆のうの両方に、別々の種類の腫瘍が。もはや全身が腫瘍の入った袋のようである。これは脳腫瘍より単純な位置のため、開腹オペで取ってしまうということになった。胆のうの方は胆のうごと取ってしまい、肝臓の方は大きすぎるのでいきなり切除はせず、一部切り取って悪性なのかどうかを調べる。そういうわけでこの前の金曜日、放射線治療の最終日なので、そのまま開腹オペとなった。
結局のところ放射線治療よりもこちらの手術の方が不安が大きくなった。金曜に手術というのも、土日に面会できないので月曜までやきもきしてしまう。24時間看護体制で、なにかあれば連絡があるらしく、別になにも言われていないので、そのまま目覚めることがなかった、なあんてことはなさそうだが……。月曜にさっそく面会に行くけれど、見知らぬところに預けて二日も会いに来なかったので怒ってるか、それとも待ち遠しく思ってくれているか。
休み明け
そろそろ今年最初の締め切りが近づいているので、非常に緩慢とした調子で年末に入ってきた仕事に手をつけ始めたのだが、やり始めてみるとかえって楽な気持ちになった。余計なことを考えなくていい。毎年思うが、かえってさっさと平常のペースになった方が気楽である。どうにもぼくは世間的に休暇のシーズンがあるといろいろ趣味に没頭しなければと思ってしまうのだが、結局今回も大してなにもやらずに終わった。放置していたプラモデルの箱の山の高さは変わっていないし、久しぶりに「家業」の真似事でもしようと思って世界堂で買ってきたラドールの粘土も、会計時に入れられた袋から取り出してさえいない。その袋には非デジタルな作品を作ろうと思って買ったイラストボードまで入っている。あれもやろうこれもやろうと空想していた頃が一番楽しいものである。
とは言えそれらの作業というのも、結局はぼくにとって普段の仕事と大して変わらないものだ。それなら別に休みの間にこだわらなくともいいだろう。そもそも何故休みの間に仕事に似たことをやろうとしていたのか。ヘルキャット戦車のプラモデルを組み立て、Nintendo Switchでメダロットのソフトを遊んだだけでも十分である。
やりたいこととやめたいこと
今年はちゃんと日記をブログに書こうと思いつつ、もう五日も経ってしまった。年末中にサイトをいじってレイアウトを変えたのだが、気づいていただけただろうか。ワードプレスをやめて他のものを使ってみようかとも思ったのだが、WPにも最近ベータ版のデザインエディターがリリースされたようで、それを触ってみたら、結構思うようにいじれたので引き続き使うことにした。イラストや仕事がひと目で複数眺められるグリッドデザインにこだわっていたが、よくよく考えてみたらそれほど見やすくはないことに気づいたので、単純に1カラムで上から下へひとつずつ流れていく形に整えた。全端末で同じように見える。グリッドにこだわっていたのは、1ページに表示できるものが多く、過去のものが簡単には流れていかないためだったのだが、1カラムでも載せるものを絞ればその心配もないのではないか。とかくぼくは更新頻度が高すぎる気がする。ちょっとしたものはSNS上に任せて、サイトはもう少しまとめておきたい。
その代わり、ブログを書こうと思う。個人的な書き物は依然続けているが、やはりひとの目に触れるものを書く習慣はなくしたくない。机の上のノートは誰も読む心配がないため、ついつい(というより意図して)思うままを書いてしまう。不平不満はもちろんおぞましいことも書き連ねている。とてもではないが、綺麗にレタリングされた頭文字から始まり、素敵な装飾が描き込まれたり、洒落たコラージュが入ったような、見せるためのノートなどぼくには作れそうにない。ぼくにとってノートは思考や感情の整理のためのものだ。だから、やはり人目に触れる前提の日記も書く必要がある。
ほかにもやりたいことはあるのだが、それよりは今年やめたいことのほうが先に思い浮かぶ。ファンアートの類を減らしたいのだ。映画のレビューの仕事も多かったから、ファンアートはぼくの活動と深く結びついているところもあったし、興味関心を表現する手段ではあったのだが、しかしそれにしてもあまりにも描きすぎていたと思う。いいものもいろいろ描けたと思う。だが所詮はひとの作ったものを借りているだけで、うまく描けても自分のものにはならない。いつまでもなにかが満たされないのはそのせいだろうと思う。
映画は楽しいし、おもしろいものはおもしろいと言いたいし、イマイチなものはイマイチ、違和感があればそうはっきり言っていいものだと思うのだが、しかし、そればかりやっていても仕方がない。なにかを評してばかりいるのは気分的にもよくない。自分自身が作りたいものがどんどん遠くへと流れていく気もする。
ファンアートを完全にやめはしないだろう。好きなものを取り入れる方法はいろいろある。気が向いたらまたいくらでも描くだろうし、仕事で公認のもと好きなキャラクターを描く機会などが巡ってきたら、それはもう最高だ。そもそもこんなことはいちいち表明する必要もなさそうだが、こう書いておくことで実践せざるを得ないようにした方が、自分の場合はいいように思う。
やめたいことは結局はやりたいことに通じてもいる。ファンアートを減らすとなれば、あとはもう自分の思いつくものを描くしかない。そうすることで、もう少し新しいものを描きたいと思っている。なにかを見つけられればと思うと同時に、もうとっくにそれは自分の身についているとも思えたりもするのだが。
幼稚園の聖劇

娘の幼稚園でクリスマスの聖劇を観た。役どころは羊飼いに救い主降誕を告げる天使、の周りにわらわら現れる小天使ちゃんたちのひとり。
Father Christmas (1991)

自分にとってNBCと並ぶクリスマスの傑作『ファーザー・クリスマス』がプライムにあったので久しぶりに観たらやっぱりいい。
自分のサンタ像はこれなんだな。寒いのが嫌いで仕事の愚痴が多く、フランスで食べ過ぎてお腹を壊し、スコットランドで酔っ払い、ベガスで遊びほうける。ぼくにとってサンタとはこのくらい人間味があるキャラクターであって、ひたすら優しくにこにこしている全能のおじいさんでは決してない。真っ赤なキャンピングカーをトナカイに引かせるのも最高。
届け忘れたプレゼントを慌てて持っていくのがロンドンにある「大きな家」なのだが、その帰り際に「短足でずんぐりむっくりな犬」にじゃれつかれたりする。今年のクリスマスには特に観るべきだろう。
絶対ああいうところに

絶対ああいうところになにかを忘れてきている気がする。
初めてのタブレット

初めてのタブレットに感動する娘。
瑞丸、銀河皇帝と暗黒卿に謁見する。

先週の東京コミコンにて、パルパティーン皇帝役のイアン・マグダーミドと、若きアナキン・スカイウォーカー役ヘイデン・クリステンセンと写真を撮った。『クローンの攻撃』公開から20周年にあたる今年、このふたりが揃って来日し、ダブルショット撮影の機会があるというのはまたとないチャンスなので、普段あまりこういう撮影やサイン会に参加しないぼくも、さすがにチケットを取ってしまったというわけ。
すでにEP2が自分にとって重要な作品であることは散々書いているので、このふたりが自分にとってSWのアイコンと言っても過言ではないことはわかってもらえるだろう。最高議長とジェダイの英雄ととらえることもできるが、やはりここは皇帝と暗黒卿と表現したいところだ。このふたりの関係こそSWの歴史を支えている。
ちゃんと時間通りに待機列に並ぶことができるのかどうかから始まり、撮り直しなど無い中で写りのいい表情ができるのか、顔色は、体調は大丈夫なのか、ほんの一言でもなにか伝えられるのか、伝えるとしたらなにをどう言うのか、というような心配をしながら小一時間待った末、いよいよもう撮影ブースまであと一歩というところ、最後にちょっとでもマシに見えるよう身支度をしなさいと言わんばかりに姿見が置いてあり、その前に立つ。しかしもはや自分の見た目などどうでもよく感じられた。すぐ数メートル先にふたりはいるのだ。ブースに入ったあとも何組か並んでいたが、そんな時間はもうあっという間に終わった。すぐに自分の番となった。
この写真で言えば、向かって左側から入って、右側から抜けていくという流れになるので、まず最初にイアン・マグダーミドと出会うことになる。銀河いち邪悪な男の素顔は温厚そのもので、すぐにその手がぼくに向かって差し出された。温かい手であった。ああそうだ、なにか言わないといけない。なんとなくその場の流れは常に動き続けていて、うかうかしていればすぐに写真が撮られて終わってしまいそうだったが、ぼくの中では時間が止まったかのような感じだった。「My favorite is Episode 3!」と、頭に浮かんだいちばん簡単な言葉が口から出た。シェイクスピア俳優に向かって言うにはかなりお粗末な英語である。favoriteにisが続いて大丈夫なのか?favorite episode is 〜と続くべきなのではないか、など今なら思うのだが、しかしマグダーミドはにこにこ笑って「Thank you」と言ってくれた。最初にかけてくれた「Hello」もそうだったが、声の響きがまさにパルパティーンのあの感じである。クラっとする。『スリーピー・ホロウ』での役も好きだと言えればよかった。
振り返ると、今度はヘイデン・クリステンセンがいる。同じように挨拶とともに手を差し出してくれた。ほぼ無意識にしっかり握る。先ほどのカタコト英語の、「3」を「2」に置き換えて伝える。別にEP3のままでもよかった。ふたりが同様に活躍するのだから。けれど、ヘイデンにはEP2が好きだと伝えなければならないと思った。ぼくが初めて劇場で観て夢中になった作品で、彼が初めてアナキンを演じた作品なのだから。ぼくの言葉にヘイデンは「Of course I like it too」というようなことを言ってくれた(確かそんなニュアンスだった)。もちろん、彼もEP2が好きだろう。EP2とEP3、どちらもぼくにとって重要な作品だ。ふたりにとってもそうであることを願うばかりである。
それらはほんの短い、一瞬のような出来事で、ふたりにとってぼくは三日間の日程の中で会った大勢の中のひとりに過ぎなかっただろうけれど、しかしあの瞬間だけは、ぼくに向いてくれていたはずである。価値のある、幸福な時間だった。写真は記念として残るが、重要なのはあの時間だろうと思う。
ふたりに挟まれながらレンズを見たとき、あれだけどんな顔をすればいいのかと考えていたわりには、ほぼ無意識に、直前にふたりと言葉を交わしたときのままの顔でいた。いちばん自然な笑みになっているだろうと、直感でわかっていた。果たして、実際そうなっていた。妻も、一緒に行った友人も、いい顔だと言ってくれた。娘さえ「お父さん、こんなに笑った顔になるんだねえ」と言っていた。こんなに笑うこともあるのだ。もっと言えば、目は少し潤んでさえいた。妻はこの顔を、子どものようだと言っていたが、確かにあの時間、ぼくは20年前初めてEP2を観た10歳児に戻っていたのかもしれない。戻るもなにも、いつもそうだろう。
今こうして写真を見返していても、なんだか不思議な気分である。自分と彼らが一緒に写っているのが信じられない。信じられないわりには、そのときの記憶がまだまだ如実に浮かんでくるので、思い出して笑みが浮かんだりする。最高の思い出のひとつとなった。
15年間間違えていない電話
携帯電話を買ってもらったのは高校進学時なのだが、それからかれこれ15年間、思い出したような頃合いにかかってくるのが、Hさん宛の電話である。もちろんぼくはHさんではないので、これは間違い電話と言えるのだが、15年間複数の相手からHさん宛の電話が時折かかってくることから、相手は番号を間違えていない。つまり、ぼくの電話番号というのは、かつてHさんが使っていたものなのだ。
電話の内容は、興味がないのと、毎回「またか」という気持ちで聞き流しているので正確なところはわからないのだが、どうやらマンション購入やらローンやらの関係の話らしい。何度か相手の口上(こちらが相槌ひとつ打たなくともよくペラペラとしゃべるものだ)をじっと聞き取ろうとしたことがあるのだが、早い段階で自分の頭の中で聞こうとする、理解しようとするスイッチみたいなものが切れてしまい、ほとんどなにを言っているのかわからない。余計な言葉を削ぎ落としていくと、どうやらマンション物件を売り込もうということらしいのだが、いやまったく装飾過多のロココ調みたいな口調なので要点がわかりづらい。もっとも、わかったところでそれはぼくに向けた話ではなく、15年以上前にこの電話番号を使うことをやめたHさんに向けられたものなのだが、彼ないし彼女が電話番号を変えた理由もこの執拗な、毎度違う番号からかかってくるセールスの電話から逃れるためだったのだろう、大方は。そしてかれこれ15年経った現在に至るまで、代わりにぼくがそれを被ることになったのである。
全くHさんという人は一体なにをやらかしたのだろうか。怪しげな、少なくとも夜の9時頃に携帯番号からマンション購入についての要点のわかりづらいセールスの電話をしてくるような、あまり上品そうでない業者を通して、マンションを買ってしまったのだろうか。そのために、やはり時間帯を選ばず、こちらの言葉を待たずに言いたいことを延々まくしたてるような業者を通してローンを組んだのだろうか。いずれにせよあまり良い買い物ではなさそうである。Hさんが一方的になにかの被害に巻き込まれた可能性もあれば、Hさん自身が自発的にそのような取引を繰り返しては番号を変えるという日常を送っている可能性もある。とは言えかかってくるのは別に支払いの催促であるとか、債務の取り立てではなく、あくまでセールスの電話なのだから、まあ案外Hさんは一度なにかの折に微妙な窓口を通してマンション購入を検討してしまっただけかもしれない。ところがそれから延々と不要なセールス電話がかかってくるようになり、耐えかねて番号を変えたという、ただそれだけの話なのかもしれない。その後もその番号は業者の間を延々と巡り続け、今なお脈のありそうなひょうてk、いや、顧客のリストに載っているのだろう。いや、マジで迷惑な話である。
あるとき、あまりにもうんざりしたので、この番号はどこで知ったのかと、ペラペラと喋り続ける相手に尋ねたことがある。そのときの相手は「お客さまの番号は超一流ビジネスマンのリストに載っているのです。このお電話は本当に限られた、選ばれた方にしかおかけしておりません!」と言った。ぼくは超一流のビジネスマンどころか、ビジネスマンだったことはないので、まあこれもHさんがそうだというのだろう。そして、このことからHさんが本当の超一流ビジネスマンではなさそうだということはなんとなくわかる。超一流ビジネスマンはこんな軽薄な業者に番号を知られることなく生きているはずだから。ちなみに、このときの電話はこちらがHさんかどうかは確認せずに話が始まっている。そういう場合も結構多い。開口一番「いつもお世話になっております」という決まり文句を発することで、ぼくのような単純な人間の耳を引き留めてしまうという寸法である。こう言うからにはいつもお世話している相手だろうと思ってしばらく聞いていると、ずるずると話が続いてしまうのである。なんと狡猾なやり口であろうか。ほとんど詐欺である。で、こういうこちらが誰でも構わないというスタンスの電話も、まあ恐らくはHさん経由のものだろうと思う、内容的に。
最後にHさん宛の電話を受けたのは先週のことで、それは結構久しぶりではあったのだが、すかさず自分はHさんではない旨を告げるやいなや、「今お電話口にいらっしゃる方にもぜひご紹介したいマンションの情報がありまして」などと言う。つまりは相手が誰でもいいのである。そのときふと思った。これはもうHさんに向けられた電話ではない。今この番号を使っているぼくに向けられたものなのだ。15年間この種の電話がかかってきて、その都度この番号を前に使っていた人間を恨んだものだが、15年経ってみてようやくわかった。もうこの番号はぼくのものであり、かかってくる電話もぼく宛なのだ。向こうは相手がHさんかどうかなど、構いやしないのである。この番号を誰かが使っていればそれで十分であり、そいつに電話をかけることが目的なのである。だからやっぱり、これは間違い電話ではなかったのだ。
歯医者を変える
少し前から左側の前歯に鈍痛があったのだが、だんだん歯茎にも違和感(痛みというよりはムズムズした痒み)が出てきたので最後にかかった歯医者に行ってレントゲンを撮ったところ、根の先端が腐って膿がたまっていることがわかった。前に虫歯を治療をした歯なのだが、被せ物をしたところから菌が根へと広がっていったらしい。思えば副鼻腔炎をやったときの重たい感じに似ていたので納得である。もちろん神経も死んでいるので、穴を開けて中を綺麗にし、薬を入れてまた蓋をしようということになった。それで3回ほど通っていたのだが、いかんせんその歯医者、30分程度しかやりたがらないようで、いつも中途半端に中をひっかかれて帰され、その後がやたらと痛かった。それも2日くらいすると引いてしまうので、耐えられないほどではなかったのだが、先々週末、ついに強烈な痛みを覚えのたうちまわることに。ところがいつもの歯医者、日曜は休みである。2日ほど耐えれば次の診察日なのだが、とても半日も待てそうにないし、こうも痛いと他のことがなにも手につかない。寝ていても痛くて埒が明かない。治療を進めていたのになんで途中でこんなことになるのか。やはり毎回ちょっとだけやってすぐ仮蓋をしてまた来週という繰り返しなのがよくない。物事のプロセスがあるのはわかるし、今なにをしているのかもわかるのだが、今どういう状態になってきてこれからどういう見通しなのかも説明されないので甚だ不安である。だいたい前にかかっていたときもそういう不満があったので、今度歯がどうかしたら違う歯医者にしようと思っていたのだった。ところがいざ歯がどうかするときというのはそういう余裕がないので、ついつい最後にかかっていたところに行ってしまうのだ。今回の治療を始めて3回ほど通ったあとだったが、こうなっては仕方がない。というわけでその日やっている歯医者に行くことになった。
駅ビルに入っているその小綺麗な歯医者に行くと、時節柄か診察台に備えられている40インチはありそうな画面でエディ・マーフィ主演の『ホーンテッド・マンション』を流していた。随分久しぶりに観たが、レントゲンやCTの結果が画面に映し出される以外の合間に観ているだけでも、あまりおもしろくないのがわかる。アナハイム版とオーランド版(東京版と同じ)の折衷のような屋敷の外観も中途半端だし、肝心のゴーストのキャラクターもいまいちである。エディ・マーフィの振る舞いが笑えるのがせめてもの救いだが、それも別に全体の雰囲気に合っていない。そのあえてのミスマッチさでおもしろさを出そうとしたのかもしれないが、いまいち効果が出ていない印象。すだれ柳が沼に覆いかぶさっているような南部アメリカ(実際にロケ地もルイジアナだったらしい)のゴシックホラー感を出そうとしているのはわかるが、それならもう少し屋敷やその土地のバックグラウンドをより詳しく語るか描くかしたほうがよかった。自分の歯列のCT画像と、リック・ベイカーが担当したという骸骨だかゾンビだかが交互に映されるのはおもしろく感じた。
問題の歯の根の状態としては非常に炎症を起こしているので、いずれにせよこれが沈静化しないことには処置が難しい。ということは2日ほど耐えて元々かかっていた歯医者に行っても仕方がなかったどころか、もしかしたらこのまま処置を続けられて悪化したかもしれない。その日はとりあえず抗生物質と鎮痛剤をもらい、次の予約を取って終わった。本当はすぐにでも仮蓋を外して中の膿を抜いて欲しかったが、仕方がない。医者の言う通り、もらった分の薬を全て飲み終える頃には、痛みも腫れも引いていた。もちろんその間、元々の歯医者に行くのはやめた。もうよかろう。
そうして今週、治療に入る前に工程や最終的な処置についてかなり詳しく説明された。そもそも歯の根がどうしてそういう状態になったか、どういう作業をしていくのかというのを一通りの簡単なCGアニメにして見せてくれたのだが、それが非常にわかりやすい。以前のところでは口頭で簡単にしか説明されなかったので尚更である。なによりはっきりした病名を告げられたのも大きい。根尖病巣というらしい。前のところではそんな用語は一切出なかった。不思議なもので、名前がつくだけでどこか安心するところがある。
これが結構が大事だそうで、抜歯の一歩手前と言っていいらしい。ぼんやりと無難な感じで状況を説明するより、はっきりそう言ってくれたほうがずっといい。でないと自分の状態がわからずとても不安である。当面は前のところでやっていたように根の洗浄と消毒を症状がなくなるまでやるのだが、最終的には露出している分の歯を削り取り、その部分だけ差し歯にする。大事には違いないが根自体は残るのでいいだろう。どうしてそうするかと言えば、神経がなくなると歯自体の強度が下がり、そこに半端な被せ物を繰り返すだけではもろくなる一方であること、被せ物だけではまたそこから菌が入って同じ症状になりかねないから、というらしい。それらは全て動きのあるCGと、医師とは別にデンタルカウンセラーからかなり丁寧に説明されたので、何事にも理解の遅いぼくにもすんなり理解できた。
とは言え30代にして早くも一本差し歯になることになんとも思わないわけでもない。とにかくぼくは子どもの頃からよく虫歯になったものだが、これはもう体質的なものかもしれない。ものすごく歯磨きや飲食に気をつかっているわけでは全然ないが、おそらくそれだけでは防げないのではないかと思う。まあこれくらいで済んでよかったと思おう。そして歯医者を変えてよかった。
とりあえずはその日からも、歯の中から根に向かって器具を入れて膿やら残留物やらを掻き出して洗浄したわけだが、結局前の歯医者ですでに3回はやったことをまたほとんど最初からというような感じで、その3回の間に特に改善した様子もなさそうであった。その日診察台のディスプレイで流れていたのは『崖の上のポニョ』であった。
瑞丸、クルマを買う

夏にふと思い立って車を買った。先月の納車から丸1ヶ月が経った。1/64ではなく1/1スケールである。
前々からいずれは自由に移動したい、すべき、と思っていたのだが、いろいろな理由が重なってそのタイミングが来たようだ。微妙に遠い上に交通の便が悪いぼくの地元にも気軽に行けるし、目に見えて老いてきた犬をぽつねんと留守番させることもなく、一緒に出かけられる。子どもと犬がいると、鉄道にだけ頼るのはなかなか厳しいものを感じる。そういうわけで、真夏の午後にブルーシールのアイスクリームが載った飲み物を手にしながら、目の前の細い路地を赤いフィアット500がすうっと通り過ぎていくのを見て、いい加減に車を買おうという話が夫婦の間にのぼったのだった。
もちろんそれは、ぼくが免許を取る前から、子どもの頃からフィアット500に憧れがあったからなのだが、現実問題として子どもと犬のことを考えるとツードアのコンパクトカーでは手狭である。そこで妥協案としてあがったのは形のよく似たルノー・トゥインゴである。元々これは友達がいずれ乗りたい車として教えてくれたものなのだが、形と色さえ趣味に合えばぼくとしては不満はないので、すぐこれに決めた。件の友達より先に買うことになり、さぞ苛立たせたことだろうと思うが、その彼も最近購入を決めたらしいので、それもまたひとつのタイミングになったと思えばまあいいだろう、と勝手に思っている。
さて免許を取ってから4年が経っていたわけで、さすがに不安が大きくかなり緊張したのだが、ペーパー教習を受けてみるとこれがあっさり感覚が戻ってきて特に難しく感じることはなかった。それが9月の中旬頃のことなのだが、なんだか遠い昔のようである。もうちょっと年月が経っていたらあれほど早く感覚が取り戻せたかどうかわからないし、一度も運転しないまま二度も更新するのはもったいなかったので、そこもまたちょうどいい時期だったかもしれない。
それから1ヶ月、ちょっとした用事にもできるだけ乗るようにしていたら、すっかり最初のような重い不安はなくなった。全然不安がなく緊張もしないわけではないが、むしろそれくらいは残っていた方が正しいのだろう。とても調子に乗るような気にはなれないし、初めて行く道はやはり肩に力が入って耳あたりまで上がってしまう。大型車とすれ違うときに意味もなく肩をすぼめずにはいられないし。
とは言え先週末、初めて家から車でディズニーランドに行ったのは、なかなかよく走ったと思う。田舎の出のひとは皆そうだと思うのだが、両親がともに車を運転する環境で育つと、どうしても大人とは車を運転するものという頭になる。今日日いろいろな大人がいるだろうが、個人的にはこれでようやく大人になれたような気がする。と同時に、帰り道に後部座席で娘が寝息を立てているのを見て、チャーリー・ブラウンの言う「後部座席の安心感」というやつを、ぼくは二度と味わうことがないのだと気づいたりもするのだった。
ドラゴン退治
世界の隅々が謎に包まれていた大昔、とある王国がパニックに陥っていた。西の山脈を訪れた探検隊が、戯れに洞窟を調べたところ、そこで眠っていた巨大なドラゴンを起こしてしまったのである。そいつはかつて、のちに今の王国がおさめることになる領土を荒廃させるほど大暴れしたが、強力な魔術で眠らされ、半永久的に冬眠状態に入っていたのである。ところが、王国の繁栄とともにその存在は忘れ去れ、役人たちの立派な仕事ぶりによって、封印に関する記録さえも失われてしまっていた。1000年ぶりに目覚めたドラゴンは、まるで昨日やりかけていたことでも続けるように、眠らされる前にやっていた仕事を再開したのだった。
大勢の兵士たちがドラゴンに向かって差し向けられたが、当然ながら歯が立たない。集められるだけの投石機や、武装した象の戦車隊が送られたが、これも瞬く間に壊滅した。兵士が送り込まれるだけ、ドラゴンの足元には死体の山が増えた。夫を失った妻たちの怒りは凄まじく、毎日のように各地の役場が襲撃された。もちろんこれを取り締まる兵すらも残っておらず、毎晩のように各地の領主たちが城から逃げ出した。連日、村や町から荷車や馬車、人々の列が吐き出されていたが、やがて無人となった村はドラゴンが口から吐き出す、緑色に光る炎によって焼き払われた。ドラゴンによって焼かれた跡は不毛な地となった。
もはや王国は崩壊寸前である。国王は自らの無力さを嘆いたが、まだ逃げ出さずに宮殿に残っていた大臣のひとりが、こう進言した。前回ドラゴンを封印するのに使われた魔術は、魔術師に代々受け継がれているはずである。そうでなくとも、その魔術を記した書物さえ残っていれば状況は打開できるのではないか。それを聞いた国王は自ら筆を取り、東のはずれの村に住んでいると言われている、国で唯一の魔術師に手紙を書き、それを伝令に託した。宮殿でいちばん速い馬を与えられた伝令は、東に向かって出発した。
二日後、言われた村にたどり着いた伝令は、住民の半分以上がすでに避難してしまった村で、魔術師を探してまわったが、見つかったのは想像していたような豊かな白ヒゲをたくわえた老人などではなく、自分と変わらない年頃の青年であった。それでも他にそれらしい人物もいないので、伝令は青年を信じて国王から手紙を渡した。青年魔術師はもちろんそんなもの読まなくとも事情を察していた。彼はすでにドラゴンを再び封印する方法を探していたのだが、まだそれは見つからなかった。彼は別に封印に関わった魔術師の子孫でもなければ弟子筋でもなかったのだ。伝令は半ば失望したが、ともかく魔術師はドラゴン退治を了承しているのだから、それを国王に報告するため来た道を引き返して宮殿を目指した。
さて、青年魔術師には実のところドラゴンの退治方法がまるで見当つかなかった。彼もかつては名の知れた魔術師に弟子入りしていた身だが、いろいろと失態をおかして破門されて久しいのである。そんなことだから、手元には見習いが読むような教本くらいしか残っておらず、伝説的なドラゴンを封印した呪文が載った貴重な本など彼の小さな本棚にはなかったのである。教本のほかは料理本と、自己肯定感を高めるという触れ込みの自己啓発書が数冊くらいであった。元師匠に助けを求めたほうがいいだろうかとも思ったが、そんなことをするくらいなら、今から単身丸腰でドラゴンの足元に行ったほうがマシに思えたし、元師匠も今頃は同じ問題に頭をひねっていることだろう。国王からの依頼があろうとなかろうと、近隣諸国の魔術師たちがすでにドラゴンの封印方法をカビ臭い本棚から探し出そうとしているはずである。そう考えれば、別に自分がなにかする必要はないのではないか。あとはプライドの問題に思えた。今頃伝令から報告を受けた国王が、自分に期待をかけているに違いない。
一方、伝令は宮殿に戻る途中でドラゴンの襲撃に巻き込まれて死んでいた。国王のもとには魔術師がドラゴン退治を請け負ったという報告が届かないまま、宮殿はいよいよ恐慌状態に陥っていた。
そうとは知らない青年魔術師は、自分が王国の最後の望みだと信じることにして、とりあえず持てる装備を全て持って、襲撃を終えたドラゴンが必ず休息のために帰っていく西の山脈に向かうことにした。眠りから覚めたとは言え、その身体はまだ呪われており、封印の地である洞窟に繋ぎ止められているのである。青年魔術師は、知り得る限りの魔術を総動員して、ドラゴンが留守中の洞窟に罠を張ることにした。
その頃、魔術師社会の除け者である青年魔術師には知る由もなかったし、魔術に対して疎かった国王も思いつかなかったことだが、近隣諸国の著名な魔術師たちが密かに一同に介し、件の王国で暴れているドラゴンをなんとかしようという話し合いが持たれていた。当然、前回ドラゴンを封印したときに使われた魔術はすでに確認されており、あとはそれを改良してより強力にするだけであった。大魔術師たちは、青年魔術師同様に封印の地に向かって魔法をかけることにした。もちろん彼らは遠隔からそれができるので、西の山脈に向かう必要はなかったし、現地で青年魔術師がどんな罠を張ろうとしていても、それは丸切り無意味なので不都合なこともなかった。
数日後、都合三頭の馬の命と引き換えに、青年魔術師は西の山脈に到着し、ドラゴンの洞窟に向かった。それはすぐに見つかり、彼は発光クリスタルを取り出して洞窟の中を進んだ。
それと同じ日数をかけて、近隣諸国の偉大な魔術師たちは数人がかりで呪文を唱え続けていた。周囲を忙しく駆け回る弟子たちによって魔法陣が何度も書き直されたり書き足されたりし、複雑な魔術が進行していく。
西の山脈では日が暮れ始めており、ドラゴンが一日の仕事を終えて、大きな翼をはばたかせて山に帰ってきた。ドラゴンは今日、ついに王国の心臓部、宮殿とそれを取り巻く首都要塞を壊滅させてきたのである。青年魔術師はすでに存在しない王国からの希望にこたえるため、洞窟を進んでいたが、やがて、大きな地響きとともに家主の帰還を知った。罠を張るには遅すぎた。
同じ頃、ついに大魔術師たちの大掛かりな魔術を完成させた。それは遠く離れた西の山脈に向かって作用し、洞窟はおろか山脈そのものを紫色の炎で焼き尽くそうとした。もはやこれは封印の術ではない。魔術師たちはドラゴンを完全に滅ぼすつもりで、山とドラゴンとの絆を利用して呪いを完成させたのだ。
突如現れた紫色の炎によって、暗い洞窟が昼間のように明るくなり、青年魔術師は洞窟の広大さと、ドラゴンの姿をはっきり目にした。しかし、そのときにはすでに青年魔術師もドラゴンも、紫色の炎になすすべもなく飲み込まれたのであった。痛みも苦痛もほとんどなかった。青年魔術師とドラゴンは、最後の瞬間に違いの瞳を見ていた。山脈にいた生き物と言えば、彼らだけであった。
西の山脈は消え失せた。魔法陣の中心にいた大魔術師は、精神と肉体の全てを使い果たし、絶命した。それはかつて青年魔術師を破門した男であった。
数ヶ月もすると、領土のはずれや近隣諸国に避難していた人々が、荒廃と引き換えに平和を取り戻した故郷に戻ってきた。大魔術師たちの放った魔術は、ドラゴンの破滅的な炎とは異なり、かつて山脈があった場所に出来た広大な平野に、豊かな草原を生み出した。呪われた山脈がなくなった王国はここから復興するのである。人々は山脈もろともドラゴンを滅ぼした偉大な魔術師をたたえて、草原の中央、ちょうどドラゴンの洞窟があったのと同じ位置に、像を立てた。偉大な魔術師の弟子が同じ場所で眠っていることは誰も知らない。
自分の主成分
20年前の夏休みのひとコマを書き留めるため、一切の記録がない状態でいろいろ思い返していたら、自分でも思いがけなかった場面が思い出されたりして驚いた。これほど遠い過去について頭の隅々まで漁ってみたのは初めてかもしれず、結構頭が疲れた。というか痛くなった。
脚色というようなことはほとんどしていなくて、むしろ書かないでおいた部分も多い。このことまで書いていたらさすがに脱線しすぎて戻ってこれなくなる、というようなところが多いし、個々人のプライバシーに関わりそうな部分はもちろん伏せている。要点だけははっきりしたように思う。
いろいろ思い返しながら書き出しているうちに、だんだん記憶に没入していく感覚があり、「今」が希薄になっていく気さえした。案外、思い出そうと頭を絞ってみるとそれくらい思い出せるということだ。
そこで感じたのは、自分はあの夏休みの感覚からだいぶ離れてしまったのではないかという不安である。月並みな言葉で言えば、遠くに来てしまったみたいなやつ。もちろん過去のどの地点からも離れてしまっているのだが、あの頃見聞きしたもの、感じていたこと、思い切り身を沈めていた匂いから、とても離れてしまったのではないかと思う。未だにフィギュアのブリスターパッケージを破くように開けるのも、SWを好きでいるのも、絵を描き続けているのも、思えばあの感覚を繋ぎとめておきたいからなのかもしれない。それによって、かろうじて自分の中になにかが残っていればいいのだが。しかし一方で、さっさと思い出は思い出として一線を引いてしまったほうがよい、とも思うし、実はすでにそうしているのかもしれない。いずれにせよ、今回いろいろ思い返してみて、あの夏休みは自分を作った主成分のひとつだとわかった。
2002年の夏休み
あまりこういう実際の思い出話を書いたことがないので、今ここを書き出している時点で少し躓いているのだが、とりあえずやってみようと思う。これについては一度書き出しておいた方がいいと思っていたし、ちょうど20年というところで、書き留めておくにはいい機会だろう。
その夏休みになにがあったかを書くには、とあるひとがこの世を去ったことから書き始めなければならない。こういうふうに他人がいろいろと関わってくるので、思い出というのは書きづらいところがあったのだが、ぼくはひとりで生きているわけではないので、経験を書くためにはやはり他の人々にも登場してもらわなければならない。とは言え気恥ずかしさは否めないので細部は端折ったりごまかしたりするし、人物は皆登場順にアルファベットで呼称する(26人以上登場する場合はどうするのだ)。あくまでどういう夏休みだったかということを説明するだけのメモなので、ディテールは最低限にとどめたい。登場する人たちにも失礼のないようにしたい。
Aさんというのは、陶芸家であるぼくの父が焼き物を卸していた陶器店の社長B氏の奥さんで、この夫妻はぼくのとても古い記憶からすでに登場する。品物の搬入のたびに連れていかれたし、父がさらに遠方に用事があった際などは中継地点としてそこの家に預けられるといったこともあったらしい。幼少の時点で何日もひとりで預けられたこともあるそうな。確かにとても古い記憶をたぐり寄せてみると、長くて色の濃い板張りの廊下を四つ這いになって這いずり回っているという主観場面があるような気もする。そういう様子を父からよく聞かされたせいで自身も記憶している気になっているだけかもしれないが。
ディテールは最低限と言いつついろいろと思い出してしまうのだが、とにかくぼくはそこでよくしてもらった。ついでに弟も。Aさんはぼくらが訪れるたびにニコニコしながら出迎え、滞在中はずっと相手してくれたし、夫妻の息子さんのCと娘さんのDもこの生意気な子どもとよく遊んでくれた。Aさんは旦那さんの陶器店のうちひとつを取り仕切っているので、父が別に用事がある際はぼくもよくそこに連れていかれた。店の中の一角で陶器の包装紙の裏に延々と絵を描いている子どもを、Aさんが馴染みのお客さんに紹介するときの口上はよく覚えている。「そのお皿を作った先生のところのお子さんでね」
そんなAさんは2002年の7月に亡くなってしまった。詳細は省くがなんらかの病である。当時大人たちの会話から病名やその過程はいろいろ聞き取ったのだが、もう忘れてしまった。
思い返せば最後にAさんに会ったのはその前年、2001年の11月末頃のことである。映画『ハリー・ポッターと賢者の石』の公開を目前に控えた時期だったからよく覚えている(その公開日は12月1日だった)。B氏邸に向かう父の車が道中都内を通り抜けるとき、車体を幼いダニエル・ラドクリフたちの顔でラッピングされたバスを見かけたし、立ち寄ったトイザらスでは初めて所狭しと並んだハリポタのレゴを見て圧倒され、店内でかかっていた予告編にも見入った。買ってもらったのは品番4701「組み分け帽子」というほんの小さなセットだ。
さらには滞在中に、まだ持っていなかった「アズカバンの囚人」をAさんに買ってもらい、そこで読み始めたのだった。そんな状況下で読んだから前の二冊よりも楽しさは倍増だった気がする。今でも「アズカバン」はシリーズ中でも特にお気に入りの巻だ。
そういうわけでSWの夏が来る前には、ハリポタの晩秋があった(それぞれにぴったりの季節である)。そうして、これがAさんに会った最後となった。最後に交わした言葉は必然的に別れの挨拶だった。また来年の夏に、とかなんとか言ったのだと思う。またおいで。ぼくは靴を履き、振り向き様にさよならを言って、一足先に階段を降りていった父を追いかけ、4階建ビルの最上階を占める夫妻の部屋を後にしたのだ(前述した、ぼくが四つ這いで廊下を這っていた家からは移っている。父は前の家を「山の家」、新しく移ったこの川沿いのビルを「川の家」と呼んだ)。次にこの建物を訪れるのがお通夜だとは、このときのぼくには想像もつくまい。
その夜、お風呂からあがると、電話が鳴って、それを母が取った。相手はB氏であり、内容はAさんの訃報であった。直後、遅れてお風呂から出てきた父が母からそれを聞かされる。半年会っていないAさんが、さらにこの先ももう会えないのだということが、ぼくにはなんだか鈍く響いたが、それが知っているひとの死を聞かされた最初だった。もちろん始めはなんの実感もわかない。学校を休んで(親族ではないから忌引にはならないのだが、先生には母からことの重大さが説明されて欠席となったと思う)、父の車に乗ってB氏邸に向かっている間も、どちらかと言えば学校を休んで遠出をしているということのほうが大きくて、おかしなテンションにあった気がする。それが、だんだん目的地が近づいてくると、前はあんなに待ち遠しかったあのビルへの到着が、なんとなく重々しく感じられるようになってきた。端的に言えば緊張していた。そうして、いざ着いてみると、ビルの前にはすでに黒だかりが出来ていた。小さい頃会ったことのあるひと、毎年ここで会っていたひと、大勢の知らないひとたち。
恐る恐る奥へ進むとぼくが知っているのよりやや若いAさんの遺影があって、棺があった。やはりそれも、ぼくが亡くなったひとの顔を見た最初だった。眠っているように見えるが微動だにせず、知っているひとのようで知らないひとのようにも見える不思議な感覚。あれは今でも忘れない。もう朝方家を出たときとは全然違う気分で、悲しいやら恐ろしいやら、とにかくとんでもないことが起こったというショックを受けて、なにも言えず、考えられなくなった。前夜母に勧められて、思いつく限りいろいろな絵を描いた紙をまとめた封筒を、B氏に断って棺に入れると、その場から離れた。父と、ほかの何人かのひとたちと一緒に一旦4階へと上がっていく。そこでなにか振る舞われたのだろうが、もうあまり覚えていない。前年の11月にここを発つとき、まさかこんな形で戻ってくるとは思いもしなかった。
その後もとても下に戻る気分になれず、また父が無理をしなくていいと言うので、今考えればぼくは皆と一緒に下へ行ってお通夜に出るべきだったのだが、そうしなかった。誰かしらがついてくれたりもしたと思うが、やがては部屋にひとりになり、毛布にくるまってそれまで感じたことのない心細さでぼんやりテレビを眺めていた。そういえば初めてSWのVHSか何かを観たのもこの部屋だったはずだ。「ピーウィーのプレイハウス」を観たのも、フライシャーのベティちゃんを観たのもこの部屋だった(どれも渡米していたDによってもたらされた)。父を含めた大人のひとたちが何度か、なにかの用事で出入りしたが、それ以外はしばらく本当にひとりだった(この際初めて父親が泣いているのを見て、それもまたショックでもあった)。疲れて横になると、ずっと下の方からくぐもった音楽が聞こえてきた。
これがその年の夏休み前夜の出来事である。長くなったし、まだ夏休みが始まってもいないのだが、この経緯を説明しなければあとのことがいまいちうまく説明できない気がした。それから夏休みが始まって数日後、ぼくはいつの間にかひとりで一週間ほどB氏邸に泊まることになっていた。8月の頭に父が用事で再び訪れるまでの間である。
今思えば、毎日日記を書くべきだったが、ただでさえそんな几帳面さとは無縁な子どもだったぼくは、B氏邸での気ままな生活の中でそんな記録など一切していられなかっただろう。だから、全ては記憶に頼って書いていて、出来事の順序は大まかにしかわからないが、それでも大雑把にダイジェストでお送りするなら、まず思い出されるのはB氏がAさん同様によくしてくれたこと。今や最上階でひとりで暮らしているB氏は、ぼくを快く迎えてくれて、日々楽しく過ごさせてくれた。B氏とたくさん話をしたし、夜中までふたりしてケーブルテレビでわけのわからない映画をぼんやり観ていたこともある。朝になると階下の部屋で暮らすCとその奥さんのところで朝食を食べる。昼間は、Aさん亡き後B氏が出るようになった陶器店に行く。何日かそうやっていると、Dが現れてぼくを映画に連れ出してくれた。
そこで観たのがなにを隠そう『クローンの攻撃』だった。まともな映画館で映画を観るのも、SWを映画館で観るのも初めてだった。その少し前に金曜ロードショーで観た『ファントム・メナス』のストーリーも半分わかっていないような怪しい状態で観たわけだが、それでも夢中で見入った。ラストシーン、戦争が始まってクローンの軍隊が整列して輸送船に乗り込むところで高らかに「インペリアル・マーチ」がかかり、全てが繋がった気がして感動した。アナキン・スカイウォーカーがこの後ダース・ヴェイダーになるように、この兵士たちもこのままストームトルーパーへと変貌するのかと合点が行ったのである。Dが買ってくれたパンフレットはもちろんまだ手元にある。繰り返し見過ぎてボロボロで、テープで相当補強してある。
先にも少し触れているが、ぼくが基本的に好きだったものは大抵の場合このDからの影響が強い。ピーウィー・ハーマンもアードマン作品も彼女が持ち帰ったらしい原語版のVHSで観て夢中になった。字幕さえないが、それでも観ていて楽しかった。『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』以外のティム・バートン作品を教えてくれたのもそうで、『ナイトメアー〜』のメイキング本などのバートンの関連本を貸してくれたからこそ、ぼくはその世界観を知ることができた。バートンの絵本の影響で、絵を描くことにそれまでとは違う種類の楽しさを感じたりもした。で、SWにしても、もちろんそれ以前からペプシコーラのおまけやハズブロのフィギュアのせいもあって好きになりつつあったが、DがEP2を劇場で見せてくれたことは大きかった。ぼくが興味を持ったものはだいたいDがすでに知っていて、さらに掘り下げてくれたものだった。
EP2鑑賞を挟んでしまうと、もう残りの滞在中も頭の中はSWばかりだったが、7月の終わり頃、一帯で花火大会があった。ビルの前の川を挟んだ対岸で花火を打ち上げるので、屋上に上がると大変よく見えた(翌朝ベランダには無数の花火の玉の破片が落ちていて、うれしくなってそれをひとつ持ち帰った覚えがある)。
C夫妻とともにちょっとしたドライブに出かけた日もあった。そんな日々だから、ぼくも大人になったら、こういうふうによその子どもの面倒を見たりするのだろうか、とぼんやり思ったこともあった(実際にはそんな機会が来る前に自分の子どもが生まれたのだった)。ある夜はB氏に連れられてライブハウスなどに行ったりもした。子どもが行っていいところだったか、今や知る由もない。いろいろな大人を見た気がした。ぼくはどんな若者になるのだろうかと、いろいろな期待を抱いた。
今にして思えば、それらはB氏一家がAさんを失ったのと同じ月の内のことである。ぼくは妻と母がいなくなった家に転がり込み、夏を過ごしていた。本当は大変な時期だったはずだが、皆ぼくを退屈させないよう相手してくれて、当の子どもはいつまでも続くかのような楽しい日々の中、ほんの二週間くらい前にまさに同じ部屋で味わったあの言いようのない寂しさを思い出さないようにしていた。時折、なぜこんなに楽しいのにAさんがここにはいないのだろうかと、不思議な感覚があった。毎日B氏とともにまだお骨が載っている仏壇に線香をあげるたびに、Aさんはいないのだなあという現実を思い出した。線香と一緒に生前吸っていた銘柄の煙草が立てられていたのを覚えている。
間も無く父が再びやってくると、調子に乗った息子の姿を見るわけだが、滞在はまだもう少し続いた。その後街角で見つけたアメトイショップで、SWや『ナイトメアー〜』、その他諸々舶来作品のグッズで埋め尽くされた店内に感激して、小遣い握りしめて逡巡したりもするのだが、まあそれはいいだろう。
そういえば、鉛筆削りを使わず、カッターで削るやり方を教えてくれたのはB氏だった。これ以降ぼくは学校でも鉛筆削りを使うのがバカらしくなってしまい、その後専門学校に入ってデッサンの授業などが始まって本当にカッターによる鉛筆削りの技術が有用になると、心の中でB氏に感謝したものだ。もちろん他のことも感謝しきれないのだが。
これを書いている最中、気になってGoogleマップであのビルを調べると、すぐに見つかった。住所など知らないが、川の前、橋のふもとにあることだけは覚えているから街さえわかっていればそれほど難しくはなかった。果たして旧B氏邸の4階建のビルは、壁面を塗り替えられているだけで20年経った今もそこに建っているらしい。ぼくが悲しんだり楽しんだりしていた部屋も、ストリートビューから見えるし、入り口の階段を見た途端クラッとした。ぼくはよく期待を込めてそこを駆け登ったものだ。B氏たちはもうここには住んでいないし、お店の方もなくなっている。ぼくがそこで過ごしたのは、あの夏が最後となった。
ともかく、その夏休みはぼくに強烈な印象を残した。自分の中でのSWが始まり、落書きでなく、絵を描くことを覚えた夏でもある(傍目には変わらなかったかもしれないが)。ぼくが2002年の夏を特別視するのはこのためだ。もちろん、Aさんのことがあったのも忘れられない。
夏休み明け、ぼくが発表した自由研究はティム・バートンの経歴と、当時までのフィルモグラフィーのまとめだった。Dから借りた本を参考に、絵を交えながらB4くらいの新聞のようなものを作った。今とやっていることは変わらない。というより、そのときから始まったのだと思う。そして、今でもアメトイのお店で逡巡している。
Attack of the Clones (2002)

多分この月末(25日〜27日あたり?)で『クローンの攻撃』を劇場で見て20年が経った。今でも自分のSW観の支柱にはコルサントの摩天楼や闘技場のあちこちで煌めくいくつものライトセイバー、赤い砂漠を埋め尽くす軍勢、銀ピカの賞金稼ぎの姿がある。
当時は余計な知識が全然ないので知る由もなかったが、今になって考えてみればこのEP2にはジョージ・ルーカス個人にとって大切なものがいっぱい散りばめられているのではないだろうか。黄色いホットロッドのようなスピーダーで摩天楼の間をカーチェイスするくだり、エイリアンがうごめくダイナーや、ローラースケートを思わせる車輪で移動するウェイトレス型ドロイドなどは言うまでもなくルーカスの青春を描いた『アメリカン・グラフィティ』からの引用だが、昆虫型異星人(ジオノージアン)に囚われた友(オビ=ワン)を助けに銀色のロケット(ナブー・スターシップ)で駆けつけるなんていうのは典型的なパルプSFやスペースオペラのイメージではないか。惑星ジオノーシスの赤い砂の地表も、昔から地球にとって代表的な異星である火星のようだ。ルーカスは自分が親しんできたものを単なるノスタルジーで終わらせず、新しい形で新しい世代に見せる術を心得ていたのだと思う。少なくとも当時10歳のぼくには刺さっている。
2002年の夏休みというのは、EP2を観たことのほかにもたくさん重要な思い出が詰まっている。恥ずかしいくらい月並みな響きがあるが、特別な夏だった。あれほどの夏は二度とあるまい。それについては別にゆっくり書いてみたい。
「ネオソフビシリーズ バルタン星人」
「ネオソフビシリーズ バルタン星人」(NEOPLAYERONE製/円谷プロ許諾取得)
ワンダーフェスティバル2022夏で販売されたソフビのイメージイラストを制作しました。
袋に入れた際の台紙となる前提だったので、アイテム名やブランドロゴなども入れて少しデザインらしくなっています。ワンダーフェスティバル限定でのアイテムになります。
*フィギュアの原案を描いたのではなく、すでに制作されていたフィギュアに対し、あとからイメージイラストを描いたのみです。





おもちゃ好き、フィギュア好き、そして怪獣好きとしてとてもうれしく、楽しかったです。フィギュアのパッケージに携われたことも感動ですが、自分でも出来上がった絵を見て、やはりおもちゃが好きなんだなと改めて思いました。デザイナーズトイへの憧れや、自分のおもちゃを作るという夢があったことも思い出しました。
NEOPLAYERONEさんについては以下まで。
公式サイト: https://neoplayerone.co.jp/
インスタグラム: https://www.instagram.com/neo_playerone/
Yurucamp △

TVシリーズを2期とも観てからずっと楽しみに待っていた劇場版、初日に観た。お馴染みの面々が大人になってからのお話というのを聞いたときは、あのモラトリアムの中でキャンプに行くのが楽しいのに、どうかな?などと思ったのだが、モラトリアムを飛び出して時間を前に進めた(別に高校時代を描いた本編も時間は進んでいるのだが)からこそ描ける「ゆるキャン」だった。
キャンプするだけだった高校生時代から、キャンプ場を作るという大人ならではのスケールアップもよかったし、ほぼなにもトラブルの起こらなかったTVシリーズに対して、ある程度の障壁も立ち塞がるのも劇場版という感じ(もちろんゆるキャンらしいゆるやかな障壁である)。ああいうタッチの作品なので、時間の経過を感じさせるのは少し難しそうだったが、それでもメインキャラたちには大人びた気配があったし、元から大人だったキャラ(親とか)もそれなりに老けた感じになっていた。なによりすっかり老犬となった「ちくわ」はそれら全体の時間経過の象徴とも言えて、こいつは明らかに最期に近づいている感じがしてハラハラしたのだが、それだけの時間が経っているのだということがわかりやすい。クライマックスで志摩りんが高校時代に乗っていたビーノと再会するシーンも同様で、傷だらけでどこか古ぼけたビーノが、TVシリーズから随分遠くまで走ってきたという感じを伝えていてよかった。
高校時代の楽しかった思い出を振り返りはするが、その再現を求めるだけでなく、成長してできることが増えたからこそ、経験を活かして新しいことをやってみるという前向きな感じが、ゆるキャンらしさもあっていいなと思った。ちなみにイラストは今作と関係ない、TVシリーズからお馴染みのイメージ。コミックも読み始めたが、これは寝る時に布団の中で読むのがいい。
The Girls of Medarot

コミックを新装版で読み返し、アニメ版(もちろん無印の方)も全話観た。コミックはやはり絵がキレキレで、児童向けコミック誌の連載とは思えないほど大人びた内容(当時惹かれた理由もそこにある)。ロボットとの友情、人工知能の是非はもちろんだが、小学生が日常で抱く疑問、大人たちの不満、さらには生き物好き(特に爬虫類や昆虫だと思うのだが)の作者ならではの外来種問題への言及など、答えのない問いかけが多く、大人になった今の方が衝撃を受けるところが多かったように思う。いろいろな問題が出てくるが、最後の主人公イッキと相棒メタビーによる宣言、「オレ達はうまくやってみせる!」にかっこよさと希望を感じた。
アニメもまた基本キャラクターや設定はそのままに、独自のストーリーを描くのだが、ユーモアのセンスがすごい。こちらもまたメインターゲットの年齢層よりもやや高めを意識したようなノリが遠慮なく展開される(時代を感じるところも多いが)。コミック同様、メダロットは何者であるべきかという問題(友達なのか道具なのか、はたまた脅威なのか)、彼らはどこから来たのかという起源に迫っているところなどは、同様の問題に触れることをやめて永久のモラトリアムに入ってしまったポケモンでは絶対できないことだと思う。
本当にどのキャラクターも良いのだが、男の子たちを圧倒し続ける女の子たちが最高なので、それぞれのメダロットとともに描いてみた。
The Queen of Hope and Glory

在位70周年記念。実は2年前に亡くなったうちの祖母は同い年だったらしい。さらに同年の生まれにはマリリン・モンローもいたりする。エリザベス女王とマリリン・モンローとうちの祖母を並べるのも妙な話だが、同じ年に生まれた3人。全く違う人生だが、同じ時代を生きたのは確かで、特にその青春時代は大戦下である。まだ王女だった女王は女子国防軍に入隊して軍用トラックの整備にあたり、運転までこなしていたし、のちにマリリン・モンローとなるノーマ・ジーンは軍需工場で働いているところをスカウトされ、ピンナップガールとしてのキャリアを歩み始めることになった。一方その頃祖母はどんなふうに暮らしていたか、詳しく聞いたことはないが、やはり前述のふたりとは異なる視界だっただろう。同じ年に生まれながらもこんなにも違う、三者三様。そして、70年という月日にはさらに膨大な人生が流れていることだろう。在位70周年はその同世代の人生をも祝福しているように感じられる。女王陛下万歳、コーギーにご加護あれ。
「笑ゥせぇるすまん」

YouTubeの公式チャンネルでアニメ「笑ゥせぇるすまん」全124話イッキ見動画なるもの(通しで23時間くらい)が上がっていて、期限もあったのでできるだけ流しっぱなしにして全部観たのだが、これがとてもおもしろく、勢いで文庫版のコミックも全巻買ってしまった。藤子不二雄と言えば専らF派だったのだが、こんなにおもしろいとは。作者存命中にいくらでもその作品に触れる機会があったろうに、こういう追悼特集的なものをきっかけにその世界を知るというのは、若干後ろめたさのようなものを感じないではないのだが、しかし追悼特集もまた立派な入り口だろう。というかむしろそういうためにあるのではないのか。
一応断っておくがもちろんオリジナルのアニメ版であって、数年前の新しいやつではない。新版はNetflixにあったので、オリジナル版を見終えた勢いで試しに最初の方だけ観てみたのだが、新しいアニメだとやはり不気味さに欠けた(不気味さだけの問題ではなかったが……)。オリジナル版は平成初期の時代を感じるところも手伝って、怖さが独特なんだよな。原作タッチの再現度も高く、アニメオリジナルのエピソードもそれとわからないほどだった。ちょくちょく写真をコラージュするところもアバンギャルドだし(それゆえに時代をストレートに感じるのだが)、実際の東京の風景も出てくるので、景色が現在とで変わっているところなどは史料的だったりもしておもしろい。喪黒福造という怪人物の存在感を引き立てる画作りも印象的で、真っ赤な夕焼け空をバックに黒いシルエットが浮かんでいるシーンや、「新宿の目」という、それ単体で十分に怪獣的なモニュメントを背景に「商談」が交わされるシーンなどが気に入っている。
でも一番気に入っているのはやはり喪黒福造というキャラクター。得体の知れない怪しげな人物でありながらも、ところどころで人間味を見せるところがいい。お酒の大好きな客にはしご酒に付き合わされたときには、途中で顔を真っ赤にして目を回して倒れたり、捨てられそうになっていた不味い愛妻弁当を横取りして口にしたときは顔を紫色にして苦しんだり、チンピラに絡まれて形成不利と見るや走って逃げ出したりするなど、ちゃんと生きた人間であることがわかり、一気に親近感がわいた。彼も別に全知全能の無敵ではないのだ。ただ、人の心のスキマへの感度がめちゃくちゃに良く、悪意のない悪戯と善意からの嫌がらせが大好きなのである(最悪じゃん)。
丸っこいフォルムもいい。ガニ股でテクテク歩いてくる感じもかわいい。帽子を脱いだ丸い頭もいいのだが、後ろから後頭部が映るところがやたらとかわいく感じる。これはもう黒いドラえもんである。
メダロット

子どもの頃、ポケモンと並んで意外と好きだった『メダロット』。舞台は近未来で、古代遺跡から発掘された不思議なメダルを量産し、それを頭脳として開発されたロボット、メダロットが普及した世界。特に子どもたちの友達や相棒として人気で、そんなメダロット同士を対戦させるロボット・バトル、通称ロボトルが、ときにコミュニケーションとして、ときに喧嘩の代用として、そしてもちろんスポーツとして盛んに行われているという、まあ、ポケモンをロボットに置き換えたような感じだ。野生でうろうろはしていないが。
で、ポケモン同様ゲームを中心にそのアニメ化があったりしたのだが、ひとつ大きな違いはそのふたつのメディアに並んでコミカライズがあったこと。ぼくはこの漫画版が特に好きだった。ほるまりん先生の絵はシンプルな線なのにメダロットの立体感や光沢が感じられる。特に好きなのは手の描き方だった。余白の取り方もかっこいい。あとは組み立てキットなどのおもちゃが好きだったのだが、肝心のゲームは自分では持っておらず友達に借りるなどしてやっていた。同系統のゲームではポケモンに慣れていたせいか、若干難しく感じて、いつまでも借りているわけにもいかないので全然進まないうちに返していた。Nintendo Switchでゲームボーイ時代からのソフトが一式揃ったものがあるのでやってみようかなあ。
ホットヨガに行った話
春だからというわけではないが、ヨガに通うことになった。ホットヨガである。ニンテンドーのリングフィットなど使って部屋でもできる運動というのは多少やっていたのだが、いかんせん続かない。家の中という環境がダルすぎる。外に通えば嫌でもやらざるを得ないので、やってみることにした。
まずは体験に足を運んだのだが、ビギナークラスで体験予約を取ったはずが、よりによってちょうど特別なスケジュールを組んだ期間だったらしく、普段はビギナー向けをやっていた時間帯も変則的な内容になっていた。そういうわけで、なぜか「小顔&リンパマッサージ」の枠で体験予約をしてしまっており、そのことを当日の朝になって電話でスタッフが恐縮そうに知らせてきた。知らせてくれたのはいいが、それでどうすればいいのかをはっきり言わないので、思わず「それで?」と言いたくなったが、そこはぐっとこらえて相手の言わんとしていることを汲むことにした。ぼくももういい大人なので。つまりは「ぼくがそれでも構わなければ、ということですよね」
「ええ、まあ」
相変わらずはっきりしない応答である。要は受けようとしていた内容じゃないけどどうする?というだけのことなのだが、そこへ来て受けることになってしまった内容というのが基本的には女性向けなので、向こうも妙に気を遣ってしまっているのだろう。
それで結局そのまま受講ということにした。また日にちを改めるのが面倒だったし、どんな内容であれとりあえず行ってみないことには雰囲気が掴めない。なにより、ある頃からぼくはそういう、男性は自分だけというような状況が大して気にならなくなっていたところもある(もちろんそれが一般的に容認される状況であれば、だが)。専門学校のせいかな。自分が気にならなくとも周りがお気にする可能性もあるが、まあそこまでは考えまい。
いずれにせよ小顔であることに越したことはないので(ぼくは結構頭部が大きい)、小顔もリンパも大歓迎である。
で、大いに汗をかいてなんとなくシュッとした顔で帰ったら、妻がむきいいとなったのだった。最初の数ヶ月が無料になるということで、24ヶ月縛りで申し込んでしまったのだが、続くだろうか。
3月を振り返る
Spider-Man: No way Home (2021)

まだ冬は続く
新年
今年何枚描いたか
iPhone買い替える

Gilgamesh

絵本「ねことコーギーおばけやしきへいく」





新しいiMac




30歳になる

Star Wars Visions EP3

Star Wars Visions

レトロ自販機(うどん・そば)




とりあえず復旧
行頭あけをしていないことについて
テンプレートの不具合
砲手
男の仕事は至ってシンプルだった。ボタンを押す、ただそれだけ。
朝、職場にやってきてタイムカードをパンチすると、パーテーションで区切られたわずか2メートル四方の自分の持ち場に入り、座席に座って操作盤に向かう。操作盤はボタンが2つとその中央上部にランプが一つついただけのもので、この3つの丸による三角形が、男の仕事の全てと言ってよかった。
ランプが赤く点灯すると、すぐに右側の赤いボタンを押す。この赤いボタンが、勤務中に最も頻繁に押すメインのボタンだ。ずっと押し続けているものだから、男がこの仕事に就いたときには真新しかったそれは、すでに真ん中のところが剥げてテカテカと光っている。ランプが消灯している間はボタンを押さないが、ランプが消えている時間は8時間の勤務時間中にトータルで10分もないだろう。
左側にある青いボタンは、赤いボタンが沈み込んで戻らなくなったり、押せなくなったり、ランプが点灯しなくなったり、なんらかの故障が見られた場合に押す。すると、操作盤に向かって右側の壁面に取り付けられているスピーカーから、どういう状況か尋ねる通信が入るので、スピーカーの下についているマイクに向かって現状を説明する。もし、青いボタンを押してもスピーカーからなんの反応もなければ、つまりスピーカーの不具合や通信の不調が見られた場合には、背後の扉を開けて、外の通路に向かって右手を挙げる。そうすれば、通路を巡回している監督がやってきて、状況を説明できる。ただ、この通路は全長200メートルほどあり、監督はひとりしかおらず、さらには100のブース全てからしょっちゅう挙手が起こるので、監督を呼ぶチャンスはほとんどない。そういう場合には、終業ベルが鳴るまで座って待機するしかない。もちろんなにもせず座っていた場合には、一定時間赤いボタンが一度も押されていないことがコンピュータに記録されるので、タイムカードの記録に関わらずその時間は無給となる可能性がある。この事態を避けるために、誰もがあまり強く赤いボタンを押さないようにしていた。
男は今日もスイッチを押し続けている。適度な力で、素早く必要な回数を押す。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
カチ、カチ、カチ、カチ。他の99のブースからもこの音が一斉に聞こえる。ひとつひとつは小さな音に過ぎないが、100のカチ、カチがひとつに合わさると、それなりの大きな音となる。耳をやられる者もいるので、監督も含め各々が耳栓やヘッドセットをつけてこの音の嵐から聴覚を守っていた。男もまたヘッドセットをつけ、それでいながら全くノイズを遮断しない程度にそれを緩めていた(なにも聞こえなくなるのもそれはそれで仕事に支障をきたす)。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
実はこのスイッチがどういった機能を果たしているのかは、操作者たちには一切知らされていない。通路を巡回する監督にも知らされているか微妙なところだ。彼らがわかっていることと言えば、このスイッチを押すことは重要な仕事であり、生きた人間が自分の判断でこれを押すことがなによりも全体のプロセスに欠かせないということ。とは言え、その全体のプロセスがなんのプロセスなのかは誰にもわからなかったし、男をはじめ操作者たちはほかの同僚とは全く言葉を交わすことがないため、情報や推測を交換することさえなかった。
しかし、誰もがそれで十分だと考えていた。男もそうだった。余計な交友は面倒ごとを招くことをよく理解していたし、ゆくゆくはこのシンプルな仕事にとって邪魔になる。彼らは皆同じような性格、特性を買われてこの職場に配備されていたから、もしかしたらいざ付き合ってみればそこそこ気の合う友人になれたかもしれない。だが、全員が全員、他者と一定の距離を保つことを好んでいたため、それは意味のない仮定と言えた。彼らはこの仕事のそうした無駄のなさを気に入っているのだ。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
最初のうちはあまりに単調な作業なので、勤務中にいろいろな考え事にふけろうと男も思っていたが、すぐにかえってそんな暇はないことを思い知った。ランプの点灯する頻度もそうだが、スイッチを押すのにはそれなりの集中力が必要だったのだ。考え事をしながらなどしていられない。そんな姿勢で挑めば、ランプの点灯とのタイミングを合わせられず、点灯していない間にスイッチを押してしまったり、点灯している間に押しそこねたりしてしまう。後者については前述の通りだが、前者もまた減給や無給となる恐れがあるから気が抜けない。そう、この仕事は案外気の抜けないものだった。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
他のことをなにも考えずに、ランチや夕食のことさえ考えずにスイッチを押し続けていると、自然とある境地に達するようになる。雑念が消え去り、ただ赤いランプと赤いスイッチにだけ精神や思考、感覚が集中していく。この場に、この世界に、この宇宙に自分とランプとスイッチしか存在しないのではないかという感覚になり、神経は指先の、指の腹の一点に集中する。男はこの感覚を気に入っていた。他のことを考えながらこの仕事をしようなど、愚かな考えだった。未だかつて経験したことのないクリアな感覚は病みつきになり、ある種の瞑想状態が自分を高次元に導いているかのように感じた。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
それはなにもこの男に限ったことではなかった。残りの99のブースで同じようにスイッチを押している人間全員が同じ感覚にどっぷりと浸り、不思議なゾーンに入り込んで目を輝かせていた。なにも考えないことを考えることの喜び、全くの無心で指だけが勝手に動いていく快感に、全員が魅せられていた。そして、これは彼らの雇い主としても申し分ないことだった。実を言えばこの雇い主さえもこのスイッチの意味をよく理解していない。スイッチの真の意味を知り、全体のプロセスというやつを把握しているのはそれよりももっと高いレベルにいる人間たちで、監督や雇い主などスイッチを押している操作者たちとほとんど変わらない末端と言えた。言うまでもなく、彼らには詳細を知る必要がないし、知らないほうが幸福というものだった。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
そんなことも男の知るところではないし、はなから興味さえなかった。いつしか男の興味はスイッチをいかに華麗に押すか、いかに素早く例のゾーンに入り込んでクリアな精神状態を得るか、それだけに集中するようになった。これがもし元々多趣味で交友の広い人間だったなら、周囲の者はその変わりように驚いただろうが、この男はもとよりこれと言った趣味もなく、友人も少なく、なによりもとの性格がこの仕事に適していたのだから、変化が際立つ心配もなかった。事情を知る者が今の彼の姿を見れば、彼が天職を得たと考えたことだろう。もちろんそんな観測者も彼の場合はいないのだが。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
もはや男には疑問などこれっぽっちもないし、この仕事をする上での弊害は一切ないと言えた。スイッチを押すという最終的な行為を生きた人間が自分の判断でしなくてはならないという必要に迫られてこのような仕事を与えられているということも、この際彼にとってはどうでもよかった。実は高度な戦略用人工知能が全てのプロセスを進めており、あとはスイッチを押すだけというところまで完了した際に、赤いランプが点灯しているなどということも、彼にとってはどうでもいいことだし、知る由もない。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
実はランプが点灯し消え、次に点灯するまでのほとんど2秒もない間に、コンピュータが「次の」標的を探し出して照準を完璧に合わせ、エネルギーの充填や砲身の冷却、各種システムの点検を終えていることも、男が知るはずもないことだった。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
そのコンピュータが一度に、軌道上に配備されている100基のレーザー砲に同じコマンドを繰り返し、地表の至るところにある100の標的に対しほぼ同時に照準が合わせられ、最終的に赤いランプが点灯していることも、男の預かり知らぬところだ。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
コンピュータが探し出して照準を合わせた標的には、なんの武装もしていない小さな村さえも含まれていて、そこに暮らす老若男女の住人たちは自分たちになにが降り掛かったのか知る暇もなく(光線さえ見えることはない)、一瞬で蒸発してしまうこと、一瞬後には農場の巨大なサイロから小さな子どもの遊んでいた玩具の車まであらゆるものが跡形もなく消えること、何世代にも渡ってその土地で人々が暮らしてきた痕跡さえも消え、その土地には最初からなにもなかったかのようになってしまうことも、男が知るはずもなかった。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
一体誰が男を、100人の無自覚な砲手たちを責めることができよう。彼らはなにも知らず、ただ無の境地で瞑想にふけっているに過ぎない。彼らの上司もスイッチの意味を知らないし、おそらくその上司も知らないだろう。途方もないほどの階層を上がっていって、ようやくランプとスイッチに関する機構の一部を把握する技師や管理者が現れるのがせいぜいである。彼らの誰一人として、この全体像を知らないし、スイッチが押された結果起こることを知らないのである。誰のことを責めることができるのだろうか。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
そうして彼らに真相を知らせることもできない。もし本当のことを知れば、その多くが精神的に破綻するのは目に見えている。100人の砲手たちははこれまでやってきたことの重みに押しつぶされ、これからすることに怯えて壊れてしまうに違いない。あるいは、重大な現実から逃避するためにより一層瞑想の世界に浸り、二度とこちらに戻ってこなくなるかもしれない。そのままスイッチを押すだけの機械と化してしまうかもしれない。もっとも、今もそれと大して変わらないのだが。
ランプが点灯する。
唐突に。
そこまで一瞬で考え至って、男の指が止まった。配属以来初めてボタンを押す指が動きを止めた。
ランプが点灯する。
まさか。
ランプが点灯する。
そんなわけがあるか。
ランプが点灯する。
馬鹿げている。
ランプが点灯する。
男は再びスイッチを押す。
子ども好きかどうかと言えば
仕事のやり方
幽霊の寝息
都会人と魔女
二度目のディズニーランドはご機嫌




