「吸血鬼ドラキュラ」の話

 引っ越して気分は新たになったものの、この夏も大変暑かったのと、子どももいろいろと習い事のスケジュールを組んだり、家族揃って体調の如何もあり、さらには地震の懸念であるとか、よくわからない天候といったこともあって、例年に比べて全然どこにも遊びに行かなかった。子どもは退屈したかもしれないけれど、無闇に外に出れば冗談抜きで命に関わるような暑さだったし、幼少に一度くらいこういう夏休みがあってもまあいいだろう、と勝手に親としては思っている。でもまあ、引っ越してから2ヶ月、まだまだよそに泊まっているという感覚はわずかにあるから、こうして家にいるだけでもなんとなく前よりは楽しいかなあと感じる。
 それで、個人的には夏と言えば工作や読書に取り組むわけだが、今年もまたプラモはいろいろ作れたが(クーラーがきいて、ちゃんと窓を開けられるところで作業できるのは最高である)、読書のほうが全然捗らなかった。頻繁に電車を使う生活ではまだ読めていたような気もするが、こうも家にいると、他にもいろいろと娯楽があるので本は後回しになってしまう。よくないことだが買ってからシュリンクも破いていないコミックさえある(コミックが全然読めないことはまた別に書きたいと思う)。
 とは言え捗らなかっただけであり、読めなかったわけではない。むしろひとつを読むのに時間がかかってしまい、他がなにも進まなかった。なにかの拍子にすでに読んだことのある「吸血鬼ドラキュラ」を読み始めてしまったばかりに、夏中ずっとそれを読む羽目になってしまったのである。なんでまた、とは自分でも言いたくなる。おそらく年のはじめに「哀れなるものたち」を読んだり観たりした影響がまだ残っていて、どこかで「ドラキュラ」か「フランケンシュタイン」を読み返したいと思っていたのだろう。で、最近になってドラキュラの下僕レンフィールドを主役にした映画などの存在も知って(去年ソフト化されたらしいがまだ観ていない)、レンフィールドってそもそもどうやってドラキュラと出会うのだっけ、原作にはそのあたりの説明もあったっけ、などと思ったばかりについに創元推理文庫を開いてしまったのである。引越し後の荷解きでしばらく手に取っていなかった本が視界に入ってきたせいもあるだろう。
 しかし、初めて読んだ際に書こうと思っていた感想も結局書かずじまいだったし、久しぶりに読み返して記憶も鮮明になったので、この機会に改めて感想を書いてみようと思う。
 「哀れなるものたち」の感想でも触れたが、「ドラキュラ」は個人の日記や手記、手紙、新聞記事の抜粋、蝋管レコードといった様々な媒体を集めた資料として全体が成り立っている。19世紀の文学の多くが手記や書簡といった様式を取っていたというのもあるが(日本でも近代文学は私小説から始まり、手記や書簡といった体裁は王道なベースだったので、そういった様式は小説自体の成立に関わりがあるのだろう。あまりよくわかっていないので掘り下げない)、のちのモキュメンタリーを連想させるような作りでもあるし、なにかひとつの怪現象、怪事件を複数の人々やメディアの視点を通していろいろな角度で見せていく、そしてそれを繋げていく展開は、120年以上前の作品であることを忘れるくらいアクティブでおもしろい。そうして、ポップカルチャーにおける吸血鬼伝説はほとんど全てここから始まったのだということを意識して読んでいくと、いろいろと発見もある。
 のちの映像作品で付け足されたり、誇張されているところも多々あるのではないかと思っていたが、案外ドラキュラとそれを取り巻く視覚的な特徴というのは、すでにブラム・ストーカーの原作の中に多く登場するというのも、意外と言えば意外だった。山脈に囲まれた古城のイメージはのちに様々な映像で観るものより恐ろしげで圧倒さを感じたし、伯爵以外の城の住人として3人の美しい女吸血鬼たちが登場するのも、てっきりあのあたりは映画化にあたって華やかさと妖しさを出すために付け加えられた要素かと思っていたから、驚いた。それどころか女性の吸血鬼の危険な魅力はその後も物語上の重要なポイントとなる。そのほか、伯爵がコウモリや狼に変身でき、またそれらの動物を操ることもできるところなども、まさにイメージ通りの吸血鬼といった感じで、洗練された外見の中におぞましいケダモノがいるというようなドラキュラ伯爵のイメージは、そのまま原作の中に書かれていたのである。一貫して真っ黒な影のようだと書かれているのも印象的で、まさにそれは今日ドラキュラおよび吸血鬼の特徴として連想されるものではないか。原作を大幅にアレンジして怪物ものに仕立て上げた「フランケンシュタイン」の映画に比べて、「ドラキュラ」の映画化作品はかなり原作に忠実だったということだろう。
 というか、20世紀以降に作られた映像よりもよほど怖い印象さえあった。さる東欧の貴族からロンドンに屋敷を買いたいという依頼を受けて事務弁護士ジョナサン・ハーカーが、単身ドラキュラ城を目指して見知らぬ東欧の山々を馬車に揺られていくところなどは、まるで一緒に馬車に乗っているような臨場感があり、だんだんと日が暮れてあたりが真っ暗になっていく様子などはこちらまで心細くなる。ハーカーがドラキュラ城に足留めされて閉じ込められる日々などは、彼の憔悴や恐怖がよく伝わってくる。ドラキュラ城は伯爵本人の姿が見えないときのほうがよほど怖いのである。そういった、暗さ不気味さからくる怖さもあれば、伯爵に強要されたハーカーが、外部に向けて自身が無事である旨の手紙を書かされるところなどは、実際的な恐怖を感じる(何通か段階的に近況を知らされ手紙を書かされ、日付もそれぞれの内容に合わせて少しずつ違うという周到さである)。ドラキュラは怪物であると同時に狡猾な人物であるというのも怖さであり魅力である。最終的に伯爵がハーカーを閉じ込めたまま自分だけイギリス目指して城から出ていったときの絶望感といったらない。あの後どうやってハーカーが修道院までたどり着くのかは直接描かれないが(Netflixの「ドラキュラ伯爵」では経緯が多少アレンジされて描かれていた覚えが)、修道女によればハーカーは発見時に衰弱しきっていたということだから、あの後さらに恐ろしい目にあいながらなんとか脱出してきたのだろう(伯爵がいなくなっても城にはまだ吸血鬼が3人もいるし、森には狼がいるので、城を出て山を降りてくるだけでもとんでもない冒険だったはずだ)。作中いろいろな人物が出てくるが、ハーカーが一番苦労している気がする。
 そんなハーカーの帰りを、イギリスで待っているのが婚約者ミナである(途中で晴れてジョナサンと結婚して夫人となる)。本編を構成する書物の筆者として主なキャラクターをあげるなら、先のハーカー、ミナ、そして精神科医ドクター・セワードの3人に絞られると思うが、中でもこのミナが実は一番主人公という立場に近いのではないかと感じた。夫となるジョナサンは前述のように序盤とんでもない目にあうのだが、出だしの語り部な上その後も登場し続けるので主人公とされることも多いのだが、どちらかと言えばいわゆる最初の犠牲者(死にはしないが)といった色も強く、もしこれが探偵ものなら彼は失踪した被害者で、ミナは探偵と一緒に夫を助けようと主体的に行動するゲスト依頼者にあたるだろう。で、この話では探偵にあたるのは強いと言えばヴァン・ヘルシング教授なのだが、シャーロック・ホームズとは異なりこのヘルシング教授は主人公というより老師といったほうが近い。ヴァン・ヘルシングを演じたことのあるピーター・カッシングが当初は老オビ=ワン・ケノービ役の候補だったこともなるほど頷ける。
 そんなヘルシングの弟子、ドクター・セワードはと言えば、彼が語るパートは本編中でもなかなか多く(彼の場合は蝋管レコードによる録音である)、奇妙な患者レンフィールドの観察から吸血鬼現象との対峙に至るまで、まあまあ冒険のメインどころを占めている。しかし、恩師ヘルシング教授とともにかなり実際的な行動を取っていくものの、セワードの登場自体はやや遅く、また主人公としては知能や知識も多く、精神病院の院長というそれなりの地位もあるので、なかなか読者と同じレベルの人間という感じがしない。それでもドクター・ワトスン並みに探偵=ヘルシング教授に振り回されるので、移入はできるのだろうが、なんというか、ワトスンよりも全然高スペックに感じられてしまうところがあるし、ワトスンほど親しみの持てる人物像でもない。よって、主要人物には数えられはするが、主人公をひとりに絞る場合は外れるだろう。
 で、ミナ夫人である。帰りが遅い上に便りが全然ない婚約者を、ただ心配しながら待っているだけと思ったら大間違い。登場した時点でミナは助教員として働いており、速記術やタイプといったスキルの習得のための勉強もしていることも述べている。時代背景を考えれば非常に先端的な女性と言えるだろう。やがて彼女は衰弱しきって生還した夫の苦しみを取り除きたい一心で、その原因を追究し、吸血鬼との対決に身を投じていくが、彼女の日記をつける習慣や観察眼、そしてタイプのスキルといったものが、伯爵の情報をまとめるのに役立ち、ヴァン・ヘルシングが戦略を練る助けとなる。
 実際、伯爵に脅されて書かれたハーカーからの偽装手紙が届いた際には、確かに本人の筆跡だがとてもジョナサンが書いたとは言えないという違和感を即座に抱くあたり、ミナの感覚の鋭さはヘルシングを除いた登場人物たちの中では、おそらく随一と言えるのではないか。その後も何度かセワードや夫となったハーカーに語りのバトンを渡すことになるものの、ミナは最終的に吸血鬼との戦いにおいてより重要な役割を果たしていく。
 ミナの友人ルーシーもまた、一見時代の枠組みからはみ出そう、先へ行こうというエネルギーを感じさせる女性である。ミナとのやり取りの中でもとても砕けた物言いで、思っていることをおおっぴらに書いていることから、奔放な性格が窺える。そんなルーシーが3人の男性から同時にプロポーズされるところから、本作の人物相関図が形作られていく。ルーシーの本命は貴族のアーサーだが、彼の友人でアメリカはテキサスの大地主モリス、そして前述のドクター・セワードまでもが彼女に求婚するのである。
 ルーシーの涙を交えた丁重な辞退を前に、モリスとセワードの恋は終わるが、ふたりはルーシーとアーサーを祝福し、ふたりのよき友であろうということを決意する、とまあそんな感じのナイスガイたちなのである。ムカつくね。とは言え、全編通して彼らのなかなかに熱い友情を見せられることになり、やがては異性とか恋とかいったものを超越した(もちろん騎士道精神といったものがベースにあるのだが)他者への思いやりによる強固な連帯が、最終的に邪悪な吸血鬼を追い詰めていくことになるので、多少ニンニクみたいにくさいところはあっても決してバカにできないところだ。
 また、ミナがルーシーのそんな連続プロポーズの顛末や、本命アーサーとの進展について聞き出そうとするやり取りなどは非常に生き生きとしていて、ブラム・ストーカーの中にはギャルがいたんだろうな、という気がなんとなくする。
 そうこうするうちに、乗員が全滅し無人と化したロシア船デメテル号が嵐とともに入港し、密かに乗船していた伯爵がついにイギリスに上陸を果たす。この頃からセワードの患者レンフィールドの奇行が特に目立ち、脱走騒動なども起こるほか、ルーシーの夢遊病が悪化し、様子がおかしくなっていく。いずれも伯爵との接触によるものであり、途中でロンドンの動物園から狼の類が脱走したという新聞記事なども挿入され、伯爵の英国入りが各地に及ぼしている影響がいろいろな角度で伝えられていておもしろい。
 ルーシーの奇妙な容体を前に、セワードはアムステルダムから恩師ヴァン・ヘルシングを招聘するが、ヘルシングはすぐに患者の背後に邪悪な存在を察知する。すでにルーシーは伯爵に血を吸われ、自身も吸血鬼化の道を辿っていたのである。ふたりの必死の処置も虚しく、ルーシーは絶命するが、彼女の埋葬のあと、子どもたちを狙った女の人さらいや幽霊の話が、新聞を賑わすようになる。ヘルシングの指揮でセワードやモリス、それにルーシーの婚約者だったアーサーらが、吸血鬼と化したルーシー(だったもの)を退治する場面は、本作中盤の山場であり、後に伯爵本人を倒すシーンへの前哨戦でもある。これを機に、主要人物たちは吸血鬼の存在、伯爵の存在を知らされることになり、ハーカー夫妻がジョナサンの日記をはじめとする膨大な資料とともにパーティに加わり、こうして吸血鬼退治の同盟が結ばれるのであった。
 伯爵は故郷トランシルヴァニアの土を詰めた木箱50箱も例の不幸な船に積んで持ってきたのだが、それらを予め手配しておいた運送会社によって手際良くロンドンの各地に購入してあった屋敷に運び込ませていた。定期的に故郷の土の中で休養を取らなければならないという、吸血鬼特有の制約があるためだ(とは言え日中街中で活動もしているので、昼間必ず寝なければならないわけではなさそうだが)。故郷の土を帝都のあちこちに置くことで、文明社会を制覇するための拠点が整えたわけである。言い替えれば、このように工夫を凝らさない限り、おいそれと故郷の土地から離れられないということであり、長らく伯爵が閉ざされた古城でくすぶっていなければならなかったのも、そのせいなのだろう。 
 世界の中心であるロンドンに出ていくために、それはもう長い間計画を練っていたに違いない。木箱を運ばせる運送会社についても周到なのはもちろん、ハーカーを城に呼んだのも、ロンドンに地所を購入するための打ち合わせと手続きに加え、さらに遠征前の最終的な仕上げとして、これまで習得してきた英語や、イギリスへの知識と理解、作法などに粗がないかどうかを細かく確認する目的もあった(古くから続く貴族としてプライドが高い伯爵は、東欧訛りなど見抜かれるのをひどく嫌い、恐れていた)。いくつもの手紙や偽名、雇った代理人を通して、伯爵はロンドンでの隠れ家を次々用意していくのだが、それらのプロセスをあくまで徹底的に法的に隙のないやり方で進めている几帳面さが、狡猾な計画の一環だとしても、散らばった米粒を数えずにいられない吸血鬼のイメージとも結びつく気がする。
 乾きを満たすための吸血と、それによって仲間の吸血鬼(眷属なんて言うともう阿良々木君とかを連想してしまうのだが)を増やすという邪悪な野望を持って、伯爵はやってくるわけだが、しかしこの遠征を、一世一代の海外移住と思うと、なんだかあっという間に阻まれてしまったのは少し気の毒な気がしなくもない。伯爵のイギリスへの移住についてはそれはもういろいろな解釈があるのだが(東欧からの移民に対する恐怖や、疫病への不安の表れなど、作者の意図はともかくとして、時代背景やイギリスが島国であることを思えば、人々の中に元からあったそうした不安が「ドラキュラ」という作品を受け取る下地になっていたであろうことは想像に難くない)、それはそれとして、孤独な闇の生き物が故郷から遠く離れた文明社会にやってくるも撃退されてしまう、というふうに見ると、伯爵の影にも哀愁が感じられてくる。
 もしかしたらこれは、自分にとってもイギリスが外国であり、伯爵とは動機は違えど(当たり前だ)行ってみたいという憧れがあり、また同時に自分も地方から都会へ出てきた身であるというのも、どこかで繋がってくるのかもしれない。ドラキュラが必死にイギリス(都会)のことを知ろうとし、余所者(田舎者)だと思われないように装おうとするところも、どこか共感のようなものを覚えないでもないのだ。とにかく今回読み返してみると、ドラキュラがなんだかかわいそうだなと、ふと感じたのである。
 読んでいるとだんだん人間側が鼻についてくるのも大きい。伯爵を倒そうと団結するナイスガイたちが、伯爵とは別種の気味悪さを感じさせるくだりが時折ある。前述のように、彼らはどこまでいっても普通にいいやつらである。別に欠点や非難できるようなところはどこにもないのだが、それがぼくのような者にはムカつくのである。お互いのことを思いやる友人たち、知識と機転、勇気と高潔さで伯爵を追い詰めていく彼らがまあまあ憎らしく思えて来るのである。様々な情報が揃い、皆で伯爵に立ち向かう決心をしたとき、ナイスガイ3人、ハーカー夫妻、ヘルシング教授の6人が手を握り合って輪をつくるシーンなど特に不気味である。若者たちを鼓舞するヴァン・ヘルシング教授の説教にしても、おっしゃっていることはご尤もだがどうもくどくどしたところがあって、だんだん苛立ちを覚える。いや、わかっている。もちろん、わかっている。そんな、夜だけ活動して人の生き血を吸い、吸われた人を同族化して仲間を増やすようなアンデッドは退治して当然である。ただなあんか、使命とやらに燃える人間の、自分の正しさを疑わない態度というのはひっかかるんだよな。そういうわけでいつの間にか、ぼくは伯爵が勝利した世界というのを考えるようになっている。確かそういう二次創作的作品があったような気がする。藤子Fの短編にも吸血鬼と人間の立場が逆転した話があるが、さてはF氏も伯爵の勝利を妄想したのだろうか。
 そんな伯爵を追い詰めるには、彼が各地に設置した故郷の土入りの箱を、魔物の寝床にできないように浄化してしまうのが手っ取り早いということになり、男たちは行動に出る。その段階になると、それまで戦略を立てる上で重要な役割を果たしてきたミナは、「当然ながら」皆で守らなければならないか弱い女性として扱われ、ひとり拠点に残されるようになってしまう。夫ジョナサンは、自分が経験した恐怖や危険に妻を晒したくないので、特にそれを強く希望するが、その切実さは読んできたこちらにもよくわかる。しかし、せっかくここまで主体的に活躍してきたミナが、なんだかつまらない理由で封じられてしまったように思えてならない。時代を考えれば致し方ないのだろうが、ミナ自身までも「男の方に任せたほうがいい」などと自分の手記で述べていて、ほんとかよ、と言いたくなる。あれだけミナに親身だったヘルシングやセワードにしても、この先は女性にはとても無理だろうとさっさとミナを蚊帳の外に置こうとさえしてしまう。まあこのあたりが当時としては限界なのだろうかと思いきや、しかし彼らは決して作者の真意を代弁していたわけでもなさそうである。だんだんとミナは自分だってここまでやってきたのだから最後まで戦いに参加したい、なにか役割を果たしたいというような不満を募らせるようになるし、紳士たちが彼女を安全のために屋内待機させたばかりに、かえって伯爵からの接触を受けるようになり、ついには襲撃を受けてしまうのである。これによってミナは伯爵に血を吸われたばかりか、無理やり伯爵自身の血も吸わされ、吸血鬼化のプロセスが始まってしまうのである。ミナがひとりになる状況を作り出したのも、このような展開のためだったのだ。
 そこから物語は一気にクライマックスに突入する。各地の隠れ家にある木箱が潰された今、もはやロンドンに長居はできないと見た伯爵は、再び船で故郷を目指して逃走するのだ。一行も船と馬車の両方でそれを追跡する。ミナも旅に加わるものの、吸血鬼化は進み、伯爵との一種の繋がりができたために、意図せず伯爵に有利になるように働こうとさえするようになるが(教授に対して、伯爵をこのまま逃してやってもいいのではないかというような意見を口にするなど)、それでも以前と同じように誇り高い態度を貫き、伯爵とのペアリングを利用して逆に伯爵の状況や居場所を探ろうと努める。あのミナ・ハーカーに吸血鬼のスキルさえ備わったらそれはもうキャラクターとしてのステータスは抜群であろう。ジョナサンを主人公、ミナをヒロインとする見方は根強いかもしれないが、しかしもはやミナは主人公と言って差し支えないだろう。中盤以降のジョナサンの影は一貫した主人公としてはあまりに薄すぎる。
 それでも最終的に伯爵にとどめを刺すのは、序盤への対応からかジョナサンであった。城に幽閉されていた頃、礼拝堂の棺の中で「眠る」伯爵を発見し、吸血鬼相手では特に効果のない無意味な攻撃を加えていたが、今度こそ致命的な一撃を加えたのだ。ジョナサンによって伯爵の首がはねられたのと同時に、モリスがその心臓目掛けてナイフを突き刺し、ハーカーの仕事を仕上げる。再生不能となった伯爵は一瞬にして粉々になり、塵のように消えてしまうが、その瞬間、自身も吸血鬼化を解かれたミナは、ドラキュラの顔に苦しみから解放されたかのような穏やかな表情を見た気がしたのだった。全ては一瞬のうちに終わり、勝利の代償としてモリスが負傷のために息を引き取る。
 伯爵には確かにいろいろな要素が投影されているかもしれないが、いずれにせよ最後に彼の顔が平安を得る箇所は、救いであると思う。伯爵はただ倒されただけではないというのが、ものすごく奥深く感じられる。よくドラキュラとフランケンシュタインの怪物の二択で悩むことがあるが(別に悩まなくてもいいのだが)、どちらも大好きだが、どちらかと言えば、やはりぼくはドラキュラ派だなと感じた。
 以上、「吸血鬼ドラキュラ」を読んだ夏であった。
 結局、レンフィールドがどの時点で伯爵と接触してああなっていくのかは、直接の描写や説明がないのでわからなかったな。