33年間の主観

 もう2週間経ってしまったが、33歳になった。23を過ぎたあたりから年齢を重ねる感慨みたいなものが薄れ、今何歳かとっさにはわからなくなる、なんていうことが多くなったのだが、もうそこからさらに10年経ったわけで、30代という感慨もまた薄れてしまったから、また来年あたりからは今何歳かすぐ思い出せなくなるのだろう。
 去年は犬が死んで間もなかったから誕生日どころでなかったのだが、今年はまあまあ落ち着いて過ごせたと思う。しかし年々この時期に体調を崩しやすくなっているところもあり、やはり今年もまたここに来て夏の疲れがどっと来たように感じる。気温も下がったりまた上がったりで、こんなの調子悪くなるに決まっている。
 この夏は初夏の引越しの疲れがそれなりに後を引いていたが、それがある程度落ち着いて、新居でもまた仕事に追われ出すと、とある異変が自分の中に起こり始めた。これはまた学生のような世迷言がぶり返しているようなものだと思って聞き流してほしいのだが、なんとなく目の前のことや、日々のことに対して実感がすごく薄れて感じるようになったのだ。
 離人症という言葉を知ったのはここ10年くらいのことで、子どもの頃から悩まされていた不気味な感覚の正体がわかり、また自分だけのものではないこともわかってほっとしたものだ。正体とは言っても、医学的になんと呼ぶかということがわかったのであって、症状自体は未だ謎めいているのだが、ともあれ呼び名がわかっただけでも安堵感は大きい。で、そのように理解をしたおかげか、しばらくはその感覚に陥ることもなく、日々の移り変わりに気を取られて生きてきた。しかし、最近になってまた、自分が誰であるか、この日々はこれまでずっと続いてきたものなのかどうかに全く自信が持てなくなるというあの感覚がやってくるようになった。むしろ前よりもひどい気がするし、半ば慢性的にずっと頭の片隅をその感覚が占めているようにさえ感じるのである。
 ぼくの場合それがどんな感じであるかと言えば。まず断っておくと、それは別に記憶喪失とかではないということだ。自分が誰なのかを忘れるわけではない。自分がなんという名前でどんなやつで、どういう人生をこれまで送ってきたのかというのは、すごくよくわかっている。しかし、それは知識としてわかっているのであり、なにかフィクションのキャラクターについてよく知っているのと同じように、非常にひとごとというか、実感の伴わないデータのように持っているような感じなのである。この説明が一番難しいところなのだが、今できる表現ではこれが妥当で、精一杯のように感じる。ひとによっては、まるで自分を背後から、あるいは少し頭上くらいの高さから、客観的に見ているような気もするらしい。このように感じ方に個人差があるものだから、果たしてぼくが感じているそれが本当に離人症と言えるのかどうかわからないところもあるのだが、いろいろと読んだことを自分の感じてきたことと照らし合わせると、まあ大方そう見ていいのではないかと思う。
 自分自身のことについてはそういう感じで、もうひとつは自分がいるこの現実に対しての実感の薄さである。この説明も簡単ではないのだが、自分が誰かという認識が前述のようであるなら、自分がこれまで経験してきた人生についても同様で、それは本当に自分が経験したことなのか、なにか読んだり観たりして知ったことではないのか、昨日、あるいは先週、あるいは何年も前に見た夢なのではないか、とまあそんなふうについ数分前までに重ねてきた経験の数々が、全て薄っぺらく、嘘っぽく感じるのである。一番近い感覚で言うと、夢の中でそれが夢だと気づいた瞬間だ。夢の中でなにか取り返しのつかないような失敗をしたり、あるいは脅威を前にして危機に陥ったり、恐ろしい目を見たりしたとする。もうどうしようもなく絶望するのだが、ふとした瞬間に、これは夢だとなぜか急に思い至る。これは夢だから大丈夫だ、目が覚めたらなにごともない現実に戻るのだから、先ほどまでの体験や失敗も現実のことではないのだ、とどういうわけか気づくのである。この現象自体も結構謎なのだが、ともかくぼくにとっての離人症らしき感覚というのはそれに近い。つまり、「この」外側に本当の現実があるのではないか、本来の自分は寝てるかしているのではないか、というふうに感じるのだ。別に現実が受け入れられないわけでもないし、これは夢だと思いたくなるほどひどいことが起きているわけではなく、むしろその感覚に陥りやすいのは大抵なにごとも起きていないごく日常的な瞬間ばかりである。極度に緊張したり興奮したりするときにはあまりならない。それはきっと、目の前のことに熱中しているから、自分が生きるべきと感じる現実が確かなものとして感じられているからだろう。現実や人生に実感が持てなくなるのは、感覚が間延びしたときなのではないか。一気に緊張がゆるみ、刺激がなくなり、ぼんやりとしてしまったときに、あらゆるものへの実感が薄れ、自分について一歩、いや相当の距離を取って見るようになってしまうのだろう。せわしない仕事の合間に、疲れとゆるみが一気に来ることによって、これに陥るのかもしれない。
 というようなところまで自力で考えて、精一杯の理屈で理解することは、まあできる。しかし、どうしてもこの、昨日までの人生が嘘のように、夢のように思えるというのは、錯覚だとしても恐ろしい。いつか本当に自分の感覚が自分の身体を離れたまま、戻れなくなるのではないかということも思うし、本当にこれまでの日々は自分の経験したものだったのだろうかという、自信が薄れるところも怖い。究極的なことを言えば、証拠がないのだ。幼少の頃の写真?思い出の品?あのとき手の甲に出来た傷?そんなものは問題にならない。もしこれが夢の中であれば、そんなもの全て無意味である。自分の記憶が信じられず、昨日と今日の自分が繋がっているように思えない人間に、そんな形のあるものなどなんの証明にもならない。むしろ形のない証拠が欲しい。これは自分なのだと、昨日までの経験は本物で、この先も健康が維持される限りはずっとこの日々が、少しずつ変化しながらも続いていくのだ、自分というのは一貫して同じ主観と知覚によって成り立っている、ぼくはつい先ほどまでと同じ自分であると、心の奥底でなんの根拠もなく直感的に確信できればそれでいいのである。というかそうすることでしか自分に対して自分は証明できまい。33年の人生が、確かに自分自身のものだと、無理にでも確信しなければ、今にもこの主観はバラバラになってしまいそうだ。