「哀れなるものたち」原作・映画感想

 映画を観たのは1月だし、原作もだいたい同じ頃に読み終えたから結構前の話になってしまうのだが、しばらく読んだり観たりしたものの感想をさぼっていたので(SNSでは手短にその日のうちに書いているのだが)、もう6月で上半期も終わるということで改めて書き留めておきたい。とは言え、もうなんだか映画にせよ本にせよ、改まってしっかりとレビューを書くということには疲れてしまっているので、とにかく楽に、ゆるく書いておきたい。書くことへの抵抗が強くなるのがいちばんよくないので、そこを軽くしておきたい。ストーリーの進行も交えながら書くが、多少パンフレットや原作をぱらぱら見て確認する程度で、あまり前後関係を厳密には書かないので、そのあたりはご了承してもらいたい。
 原作と映画両方について一緒に書いていきたいが、例によって映画は安易な比較を避けるためかがらりと変えてしまっているところが多い。まず出だしから違うのが舞台であり、原作はスコットランドはグラスゴーであるのに対し、映画はロンドンである。本作は19世紀ゴシック小説のパロディ的な側面が強いので、舞台がロンドンというのはストレートでわかりやすいのだが、しかしパロディだからこそイングランドではなくスコットランド、ロンドンではなくグラスゴーと、少し座標のズレたところであるのがおもしろいと思っていたので、そこはなんだか少しつまらないように思った。作者の故アラスター・グレイ自身がグラスゴー出身というのも当然大きいだろうし、なにか重大な基盤がスライドされてしまった印象が拭いきれない。ましてやグレイはスコットランドの独立を支持していたそうなので、余計になんだかなあという気持ちになる(ちなみに生前のグレイと映画版の監督ヨルゴス・ランティモスは非常に良好な関係を築いており、グレイはランティモスのセンスを信頼していたようなので、まあぼくがとやかく言うことでもなかろう)
 ともかく、ロンドンにせよグラスゴーにせよ、時は19世紀末、ひとりの身重の女性が川に身投げする(映画ではテムズ川、原作ではクライド川)。異端の外科医ゴドウィン・バクスターは川から引き上げられたその女性を蘇生させることに成功したが、なんとそれはその女性がみごもっていた胎児の脳を彼女自身に移植させたことによるものだった。かくしてここに成熟した肉体と純真無垢のまっさらな精神を持つ不思議な女性ベラが「誕生」し、ゴドウィンとともに暮らす中で語り部であるマッキャンドルスと出会い恋に落ちたかのように見えたが……とまあそんなところである。
 言うまでもなくメアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」色が強い。特に映画ではモノクロによる陰影が効果的に使われ、ベラの蘇生(誕生か)シーンは例によって高圧電流を用いたものとして描かれるが、閃光の中でエマ・ストーンが目を開けるシーンなどは若干「メトロポリス」っぽくもある。原作が19世紀のゴシックものをリスペクトしているのに対し、映画の方でも20世紀初頭のサイレント映画や怪奇映画を視覚的に踏襲しようというような趣旨を感じる(当然それらの映画は19世紀末の文学を原作にしたものも多い)。蘇生されているひとよりも、させている方が顔ボコボコのウィレム・デフォーでよっぽど怪物らしいのもフランケンシュタインのパロディとしておもしろい(本来創造者である博士の名前が怪物の呼び名として定着していることのいじりにも思える)。
 成長するにつれ、ベラは強い知的好奇心を発揮するようになり、やがてゴドウィンとマッキャンドルスを置いて、あまり品行のよくないプレイボーイのウェダバーンと駆け落ちまがいの旅に飛び出していってしまう。ベラがこの旅で目にする外の世界というが物語の主なところなのだが、彼女のこの驚異的な成長速度というのは、最初から成熟した身体だったからこそ感覚の類が発達しており、脳の発達も大急ぎでそれについていった、というような説明が原作でなされていたような。なるほどお。
 このあたりの成長過程、最初は喃語に毛を生えたような、気に入った言葉を不明瞭な発音で繰り返す幼児そのものだったのが、少しずつ言葉が増えていき、どんどん言葉遣いというものが習得され、いつの間にか他の登場人物とほぼ同じレベルで話しているというような移り変わりは、映画ではエマ・ストーンの演技力の光るところなのだが、なんとなく「アルジャーノンに花束を」を連想したりもした。これは知的障害のため思考や語彙に限界がある主人公が、試験的な治療によって急激に知能を発達させていく話だが、最初は誤字脱字も多くディテールや情緒も乏しい一人称の文章(日本語版では漢字も少なくひらがなだらけ)だったのが、展開が進むにつれ治療が成果を出し、どんどん洗練されていくという、小説ならではの仕掛けも印象的な名作である。原作でのベラの急激な成長もやはり彼女の一人称を通して同じように演出されるので、これを読んだときの印象に近いし、映画でのエマ・ストーンの演技もそんな文章の効果をよく反映させている。ゴシック版アルジャーノンといったところだろうか。
 ベラとウェダバーンの船旅はリスボン、アレクサンドリア、パリと巡っていくのだが、道中基本的にふたりはずっと性交渉にふけっている。もちろんウェダバーンはそのつもりでベラを連れ出してきたのであり、それまでに遊び捨ててきた大勢の女性たちと同様に彼女を扱うつもりだったのだが、ここでベラの特異な性質が明らかになる。端的に言えば底無しに欲求の強い女性だったのである。さらに彼女はその間も船で知り合った上流階級、知識階級の人々との交流を通してより知能を高く、知識を増やしていくものだから、いつの間にかふたりの立場は逆転していく。ベラの欲求を満たすために疲労し、睡眠もろくに取れないため意識を朦朧とさせていくウェダバーンの方が、手玉に取られるようになっていくのである。原作ではウェダバーンが肉体的にも精神的にも衰弱していく様子が、彼自身の手紙を通して詳しく書かれており、また彼が船旅を通してベラの正体を不審に思い、独自に推理していく様子もわかるのだが、映画の方ではこのあたりがベラの視点だけで描かれるので端折られており、あとでウェダバーンがベラの正体に勘づいてゴドウィンを追及する展開などは、映画ではやや唐突に感じたりもする(ただしこれは記憶を頼りに書いているので、もしかしたら映画でもそれらしい描写を入れていたかもしれない。すでに本編の配信が始まっているのだから観ればいいだけの話なのだが)。
 ちなみにこの駆け落ちのような旅だが(すでにマッキャンドルスを相手として心に決めているベラにはただ結婚前の旅行というだけでそんな意図はないのだが)、これもまた「フランケンシュタイン」、というかその作者メアリー・シェリーと重なるところで、実は彼女もまたのちに夫となるパーシー・シェリーと駆け落ちして大陸へと渡っており、さらに娘とシェリーの関係に反対して駆け落ちに至らせた父親の名はウィリアム・ゴドウィンという。ベラの「父」ゴドウィンの名はこのメアリーの父親から来ており、このことからもメアリー・シェリー自身のことがベラに反映されているのは明らかで、本作は見かけ以上に「フランケンシュタイン」との繋がりが深いというか、ほとんどリスペクトが骨格となっていると言っていいだろう。
 のちにベラは自分の「出自」や、それに伴って胎児を失っていることを知ることになるが、実はこれもメアリー・シェリーと通じるところであり、彼女は最初に生まれた子どもを生後間も無く亡くしているのだ。エル・ファニングがメアリー・シェリーを演じた映画『メアリーの総て』では、この様子が詳しく描かれており(もちろんある程度の脚色はあるだろうが)、作中ではこの若くして経験した喪失が、科学によって死を克服しようとした男と、彼に造られた命の物語である「フランケンシュタイン」執筆の要因のひとつとなるという解釈がなされている。
 ベラは赤ちゃんを失いながらも、実は彼女自身の脳が赤ちゃんのそれなので、彼女は母であると同時にその子どもでもあるのだが、これは彼女がひとりでフランケンシュタインの怪物と作家メアリー・シェリーの両方を体現していることと結びついていく気がする。
 ベラの旅はパリでクライマックスを迎える。すっかり疲弊したウェダバーンは彼女から帰りの旅費をむしり取ると単身でロンドンに帰ってしまい、ベラはといえばその場で見つけた娼館で働くことを決めてしまうのだが、彼女なりに自力でお金を稼ぐ手段を考えたまでであり、娼館での仕事を通して、つまりは男たちを相手にする中で常に自分自身が主体的に行動することを心がけ、自分の価値といったものを自分で決めていくことになる。また彼女はそこで働く同僚の女性たちの健康にも目を向けるようになり、さらには貧しい界隈の人々を救うにはどうしたらよいかと考えるが、その答えは最初の地点にあった。父代わりのゴドウィンと同じように医師になればいいのだ。映画ではこの娼館でのくだりが原作より長く、密度も濃く描かれ、この間に彼女は同僚とともに社会主義の集会にも参加する様子もわかるが、原作ではそれよりも前に船の上で世界(というよりヨーロッパ文明)を取り巻く政治の情勢について詳しく知ることになる。ちなみにメアリー・シェリーの父ウィリアム・ゴドウィンはアナキスト、母メアリー・ウルストンクラフトはフェミニズムの先駆者なのだが、そんなふたりを両親に持つメアリーが反映されたベラが、当時としては最先端の思想に影響されていくのも宿命的な流れだろう。ロンドンに戻りゴドウィンと再会したベラは、本格的に医療の道を歩むことを決意するが、それは19世紀末の医学界という、当然ながら男たちの世界に真っ向から挑む決意でもあった。異様な姿をしたマッドサイエンティストとその創造物という、ある種典型的な怪奇ものとしての要素を備えて始まった物語は、こうして実際の19世紀ゴシック物語では到達し得なかった、現代的な視点に達する。まるで本当に100年以上前に書かれたかのような雰囲気の中に常にそういった視点が流れているところが、本作の魅力のひとつだと思う。そしてそこにもやはり、当時としては先鋭的だった思想の先駆者を両親に持ち、自身も18歳という若さでその後サイエンス・フィクションとして発展していく一大ジャンルの始祖になったメアリー・シェリーへの、深いリスペクトがあるのではないかと思う。
 その後、新たな目標を前にベラとマッキャンドルスが結婚しようとするところで、家を飛び出したきり行方不明になった妻を探す将軍が登場し、ベラの正体や彼女の持つ性質の由来などが明らかになるのだが、ここはまあ一種答え合わせといったくだりなので詳細を伏せるとして、ともかくベラはベラになるべくしてなったのだということが示され、次の段階に進む前にその時代の抑圧や支配を象徴するかのような恐ろしい元夫との決着をつけることになる。この将軍というのは単に「生前」のベラを抑圧していた夫というだけでなく、大英帝国による植民地支配の暗黒面をこれでもかと体現するような人物であることが、原作に収録された資料で示される。これもまた本当の19世紀文学では英雄に近い扱いで登場するか、そうでなくとも決して邪悪な人物として描かれることのない人物だろう。
 この将軍との一悶着があって、ゴドウィンの死があり、映画は終わりへと向かう。原作ではあっけなく死んだ将軍が、映画ではなんらかの脳外科手術を施されたらしく、ゴドウィン邸の庭で暮らすいろいろな生き物とともに這いつくばって動物のように振る舞う姿が描かれるのだが、ここなどはトッド・ブラウニングの「フリークス」のラストに登場するアヒル女を彷彿とさせた(傲慢な人間が変わり果てた姿にされ、動物のような唸り声をあげている)。まあ皆で平和に暮らしているから幸せなのではないか。ベラとマッキャンドルス、ベラ不在の間にゴドウィンがベラと同じような方法で蘇生させたらしい二号機とでも言うような女性フェリシティ(これが映画版の追加要素としてはなかなかおもしろい)、ゴドウィンの助手プリム夫人(原作では大方彼の母親らしいことが示唆された人物)が、穏やかに暮らし、自信に満ちたベラが自分のためだけでなく世界にも明るい未来をもたらすであろうことを予感させて映画は幕を閉じる。
 のだが、原作はこれで終わりではない。むしろこの映画の内容は3つのパートに分かれている中のひとつでしかない。もちろん映画化されている内容だけでも十分お話は成り立つし、抜群の視覚センスや美術、優れた俳優とストーリー構成から成る映画自体が傑作であることは間違いない。ないが、原作にはもうひとひねり、いやふたひねりあって、おもしろい仕掛けがあるのだ。
 原作では映画に相当する部分はマッキャンドルスの手記ということになっており、20世紀も後半に差し掛かった時代に発見された文書として、「編者」アラスター・グレイによって紹介されているという体裁なのである。さらにこのマッキャンドルス文書には彼の妻ベラ・ヴィクトリアによる、注釈というには長い補足文書が付されており、小説ではそのままそれが後に続いていく。なんとベラによれば今まで読んできた夫の手記というのは全くの作り話であり、自分は死体と胎児の脳で造られたのでもなければ、ゴドウィンもここで書かれているような人物ではないという。そこでは彼女の実際の出身や生い立ち、ゴドウィンとの関係やマッキャンドルスとの馴れ初めの本当のところが語られ、読んでいくうちに、なんだそうなのか、と思えるほどに説得力のある現実的な内容なのだ。確かにこれで「本編」においてマッキャンドルスがあまりに人がいい理由がわかるような気がしてくる。これは彼が周囲をおもしろおかしく、また自分自身のことは都合よく語ったフィクションなのだと。さらにベラは夫がメアリー・シェリーやブラム・ストーカー、ロバート・ルイス・スティーブンソンらが書いたような怪奇小説から引用して自分とゴドウィンの物語を仕立て上げたとまで言っており、本当にメタ的にパロディ元が挙げられてしまう始末。夫はどうしてまたこんな荒唐無稽な話を書いたのか、皆目見当もつかず理解できない、ここで書かれているようなことは全くおぞましいことだと、「現実」のベラ・ヴィクトリアは言ってのける。こうしてマッキャンドルスの思わせぶりな手記の内容は妻によって否定され、この物語そのものの正体が明らかになるのであった。
 だがまだ終わりではない。なんとさらに付録の文書は続く。「編者」グレイによる、夫妻双方の文書に対しての補足文と資料である。それはマッキャンドルスとベラが主張する内容や年月日に対する裏付けを淡々と記したものであり、グレイ自身は「だからこうだ」というようなことは一切言わないが、淡々とした記述や付された資料などから、自然とそれは読み取れる。たとえば、マッキャンドルスの手記の中でゴドウィンがベラを蘇生させた日、実際にグラスゴーでは大きな空電のような音を大勢が耳にしており、停電さえ起こっているといったようなヒントが羅列されていくのである。それはどちらかといえば、マッキャンドルス文書の方の裏付けとして取れるようになっているが、もちろんそうだろう。ベラの言っていることが本当で、マッキャンドルスの話がでっちあげなら、わざわざグレイが資料をつける必要もあるまい。
 資料ではベラのその後もわかるのだが、彼女は男たちによる医学の権威から疎まれながらも医療に貢献し続け、ゴドウィンから受け継いだ慈善クリニックを運営するが、間もなく始まった世界大戦によって息子たちを失い、失意の中この世界の混乱を憂うことになる。彼女はたびたび世界大戦の原因について持論を展開しては、「権威ある男たち」から「自分のせいで世界大戦が起きたと主張する常軌を逸した老女」として一笑に付されてしまうのであった。彼女は、ゴドウィンによって胎児の脳を与えられて目覚めた日から数えれば66歳、肉体が誕生してからであれば92歳まで生きたらしい。
 こういう、別々のひとが書いた手記や日記、手紙や新聞記事などの資料による構成というのもまた、19世紀末の小説の様式のひとつのようで、実際にストーカーの「ドラキュラ」なども、いわゆる地の文というものがなくひたすら誰かの書いたものや記事によって構成されている。だからやっぱり、構成そのものもそういったパロディになっており、その上で、あとに収録されている文書が前の内容を否定するというすごいひねりが、本作に大きなオリジナリティを与えていると言える。これはもう現代に書かれた新しい19世紀ゴシック小説と呼んでいいだろう。
 手短に簡単に済ませようと思ったのに結局長々と書いてしまった。これは実は前の日の夜から書いているので時間もかかりすぎだ。でも結局思ったことを、お話の内容も交えて書いていくとこうなってしまうし、ぼくはどうしても自分はこれだけ知っている、これだけのことに気づいた、ということを言わずにおれない(それでいながら肝心な部分に思い至らなかったりするのだからだらしない)。この癖はなおしたいところではあるが、まあ長い文章を考えながら書くというのは楽しい作業だ。久しぶりに「フランケンシュタイン」も読みたくなった。あれは有名なユニバーサル映画とは実は全然趣が異なり、メアリー・シェリーのとんでもないパワーを感じる作品だったことを(そう言っている時点でそのときのシェリーの年齢、あるいはその年齢の女性に対しての先入観があることを否めないのかもしれないが、それでもやはり率直にすごいと思う)、今回ベラというキャラクターを考えながら思い出した。気が向いたらそれについても書き留めておきたい。