選ばなかったトンネル

 夜でさえも空気がべとつくような蒸し暑さの中(こういう書き出しはムカつくが)家のそばのコンビニに行ってみると、がらんとした駐車場の車止めのブロックの上にずらりと若者たちが腰掛けて飲み食いしながら語り合っていた(かどうかはわからないが談笑していた)。ひとつのブロックにひとりかふたりという具合である。別にそんな光景に眉をひそめるほどには歳を取っていないし、田舎でよく見た光景だから(さすがにこんな大人数は初めて見たが)それ自体どうということはないのだが、しかし田舎で見た光景ではあっても自分ではやってこなかったことだと思い至る。
 どうしてぼくはああいう場に混ざってこなかったのだろう。まず地理的な問題、要するに思いつきで家から行き来できる距離にコンビニがなかった。次に時間的な問題、そういう距離なので深夜に居合わせることなどない。学校の帰りに友達と立ち寄ることはいくらでもあったが、そんなのはせいぜい夕方5時か6時のことで、比較的遅くまで遊ぶことがあってもコンビニの駐車場でどうこうみたいなタイミングはついになかった。そしてなにより交友の問題。別に友達がいなかったわけではないが(本当だよ)、大所帯の一員になったことがないし、結局のところ皆住んでいるところがバラバラ過ぎたのが大きい気がする(そうであってくれ)。
 そもそもあれなんだよな、本来そういうことがしたくなる年頃には、さっさと家に帰ってパソコンでスカイプなどするようになっていたんだな。皆の住んでいる方向が違いすぎる高校時代などはそのほうが手っ取り早い。結局のところ、ああいう大勢でたむろするなどというのは皆が同じような場所に密集して暮らしている都会の中の田舎か、中途半端な都市ではないとだめなのだろう(そうであってくれ!)。
 とは言え似たような光景は目にしているのだから(もしかするとそう思い込んでいるだけかもしれない。本当の田舎のコンビニというのは夜など本当に閑散としている)、ああいうグループセラピーをしていた人たちは同郷でもいくらでもいただろう。とにかくぼくにはその機会がなかった。
 機会がなかったことは、なんとなく羨ましく感じる。いや、この歳になって余計にそう感じるのかもしれないが、夜遅くまで友達とつるむというのは当時から妙な魅力を感じた覚えがある。前述のようにそういうことが全くなかったわけではないのだが、だからこそその数度しかなかった機会を貴重に思っていて、あの人数で、コンビニの駐車場で、誰に邪魔されるわけでもなく宙にぶらさがったような時間を過ごすというのは、ぼくが経験したわずかな夜遊びの上位互換に位置付けられ、だからとんでもなく楽しいのではないかと思ってしまうわけだ。
 まあ実際はどこにも行くところがなく、仕方なくああやって過ごしているだけかもしれない。それでも、なんとなくああいう時間を自分も過ごした方がよかったのではないか、過ごしてみたかったのではないか、などと思ってしまう。
 決して今からああいうところに混ざりたいなどとは思わない。そういうことではない。自分が若かった頃にあまり楽しい思いができなかったというひとが、大人になってから立場を利用して若者と遊んでいるというような場面は、自分が学生の頃に何度か目にしたものだが、当時からそういうのはすごくみっともないと思ったものだ。そういうやつは往々にして若者たちと対等な関係を築けず(というより築かない)、だいたい露骨な下心が見えた。世代を超えて良好な関係が築けるひとというのは相手と対等な関係になれるひとだ。そして対等というのは決して馴れ馴れしい間柄というわけでもない。
 それはともかくとして、とにかくいい歳として機会のなかった未体験ゾーンを取り戻したいがために子どもたちに混ざり、それだけでは飽き足らずケチな先輩風を吹かせて遊んでいるようなのは論外である。だからぼくの願望というのは未来にはなく、後悔という形で過去に触手を伸ばしてしまう。そうしてそれもまたみっともないことだ。一体いつどの時点でそんなことができたと言うのだろうか。ただ単にぼくにはそういう機会はなかったと言うほかないのに。
 このことに限らず、ぼくには自分もあの頃こうしていれば、あんなことが出来たら、みたいな無意味な後悔がいろいろある。勉学のこともそうだし、絵ももっとちゃんと訓練していたらうまくなったんじゃないかとか、可能な範囲でいろいろなところに出かけていけばよかったとか、漠然とやりたいと思ったことをどうにか形にするための具体的な模索や努力をしていればとか、なんかそういうことをよく考えてしまう。まあそれは考えるなんていうレベルのことではなく、ぼんやり思っているだけなのだが。特にそれは、同世代のひとが学生時代に多様な体験をしてきたというような話を聞くたびにふつふつと募ってくる。そうして決して取り戻すことのできない時間を思うことで募ってきた不満をどの方向に流していっていいかわからなくなる。無意味なことだとはわかっているし、客観的に見ればぼくなどがそんなことを思うのは贅沢な話なのかもしれない。それでも自分としてはやはりもうひとつ違うものがよく見えてしまう。
 それにしてもやはり無意味である。ただただ気持ちが落ち着かなくなるだけで、なにより重要な目の前のことに一切集中できなくなる。過去のことをくよくよ思い、未来のこともやはり心配に思い、今現在を全然見ていない。危険どころか退屈で無意味な時間旅行だ。今に集中しなければいけない。そして今というのは、なんと言ってもこれまでの自分の選択の上に成り立っている。だから後悔というのは場合によっては今を否定することになり、今に害を及ぼしてしまうのかもしれない。
 そのときそういう選択をしなかったのであれば、それはもうそれきりの話なのだ。スティーブ・マックイーンはいちいちトンネルを選び直したりはしないし、そんなことは誰にもできない。ましてや選択の場面さえ訪れなかった、当時の自分が思いつきもしなかった行動などはもはや自分に関係さえないことだ。それはもう他人の人生であり、ぼくが思い悩むことではない。そういうひとがいるのか、すごい、と思えばいいだけのことだ(ぼくが言うとなんとも嫌な感じに聞こえるのだが)。自分にもできたかもしれない、などといつまでも思っているからなにもかも妬ましく思えてしまうのだろう。結局のところ、自分の歩みを認めることが他人をも認めることになるのかもしれない。だからいくらでも車止めに座って楽しく過ごしてくれたまえ。