観ないとなあと思っているうちに、気づけば日本上陸から結構経っていたが、このたびようやく観ることができた。ちょうど同じように観ないとなあと考えていたらしい友人と一緒に行けたので非常にちょうどよかった。
まず印象的なのは、舞台ならではの魔法の表現で、とにかく目を見張るような仕掛けの数々が繰り出されて、驚くばかりだった。変な知恵がついているのでついつい舞台の下がどういう造りになっているのだろうとか、どこから吊るしているのだろうとか、照明の外の影に黒子がこれくらい潜んでいるなとか、いろいろ考えるのだが、まあでもそれもまた楽しくはある。それを考えたり気づいたりして興醒めするなんてことはなく、むしろその仕掛けの造りそのものを含めた「魔法」に豊かさを感じた。マグルには創意工夫があるのだ。
また改めて「ハリー・ポッター」の世界を観るだけでなく、自分で想像することの楽しさを思い出しもした。こんなことは原作を読んで以来のことである。その世界観は映画によって視覚化されて久しく、もはやあらゆるヴィジュアルは映画を元にしているが、舞台では観客が想像で補完するところが少なくない。スクリプト自体が原作の延長上にあるから尚更映画のバージョンにはとらわれず、原作から続く作品を舞台化したようなところがあるから、なにか懐かしささえ感じた。
たとえば実際に真紅の蒸気機関車は出てこないとしても、他の小道具がそれに見立てられたりする。なにからなにまで視覚化されていないから、ここはこういう景色なのだ、今はこういう状況だ、と勝手に想像できる。ここへ来てまたいちからハリー・ポッターの世界を想像するということが新鮮でならなかった。
映画からヴィジュアルを引き継ぎながらも新しい姿を見せてくれたものとしてはディメンターや嘆きのマートルといったキャラクターがいる。特にディメンターはぼくのいる2階席の目の前に降りてきたその姿がすごい迫力で、恐ろしくも美しいとさえ感じた。映画のディメンターはデジタルなクリーチャーだったと思うが、あれは実体のある俳優と衣装で表現するべきだったキャラクターだとよくわかる。見てはいけないものを見てしまったと思わせるような、不気味な亡霊そのものの姿だった。一体どこから吊り下げられているのだろうと思い上を見上げると、一番上の天井に1メートル四方くらい(もっと小さかったかもしれない)の開口部があり、出番が終わったあとのディメンターを、目をこらしてよく見ているとその穴の中にすうっと吸い込まれていった。ぼくは最初2階席に足を踏み入れた際、思っていた以上に高いことにそれなりの怖さを感じたものだが、あんなもっと上の穴から降りてくるのはどんな視界だろうか。想像もできない。途方もなくいろいろな仕掛けが張り巡らされた大掛かりなショーに思える。
相変わらずハリーには苛立たされるが、それでもスクリプト本だけを読んだときの印象とはまるで違った。こんなにおもしろい話だったのかと驚いたくらいだ。正直本だけでは、7巻まで続いたハリー・ポッターの物語に付け足したセルフのファンフィクションといった印象があったが、しかしそれは舞台としてオリジナルのお話をやるからこそ後日譚のような内容だったのだと今ならわかる。別にこれはポッターサーガをさらに展開させるための話ではなく、メディアを拡張するための、世界観や設定をフル活用した外伝なのである。
日本人のキャストがやっていることなど忘れるくらい、壇上の人々は確かにハリーやロン、ハーマイオニー、そしてそのほかのお馴染みのキャラクターそのものに感じられた。これもまた映画から離れたメディアだからこその幅といったものだろう。
ハロウィーンのシーズンに観られたのもよかったと思う。夏の間に観ようかとも思っていたが、かえってグズグズしていてよかった。物語のクライマックスは、赤ん坊のハリーが両親を殺され、自身にかけられた死の呪いを襲撃者に対してはね返したあの日、つまりはハロウィーンの夜だからだ。逆転時計(タイムターナー)を繰り返し使用して歴史の改変や乱れた世界線を冒険してきたハリーの息子アルバスと、マルフォイの息子スコーピウスが、彼らの両親たちとともにその運命的な事件を見届けることになる。それまでの展開で、登場人物たちはどんなにそれが好ましく思えても、過去の出来事へのいかなる干渉も、元の世界を狂わせることを学んでいるから、たとえ目の前でポッター夫妻が殺されようとしても、誰もなにもすることはできない。その後、ハリーが辛い子ども時代を送り、癒えることのない喪失を最初から抱えたまま成長を余儀なくされるとしても、その上に成り立った世界を守るためには、なにもしてはならないのである。
ハリーが、自分にはどうすることもできないと呟くと、息子アルバスは答える。父さんはできないのではなく、あえてそうしないのだと。観客はポッター家に向かうヴォルデモー(舞台では本来の発音に従い破裂音のTの音を口にしない形がとられている。いいんだけど、とんでもない違和感である)の姿を目撃し、夫妻の最後の叫びを耳にするのだった。
考えてみれば当たり前なのだが、スクリプトを読んだだけではあの臨場感や台詞の間、登場人物たちの表情、トーンなどはわからないのだから、印象が違って当たり前である。自分が物語が起こっているのと同じその場にいたら、それはもうおもしろいと感じるに決まっている。
舞台のおもしろさ、ワイヤーと照明による巧みな魔法、ハリー・ポッターを想像する楽しさを思い知らせてくれた夜であった。