短編小説「アカウント」

 昨年の3月31日、朝まで小説の推敲と出力に取り組んでいた。その日が締め切りで当日消印有効だった小説賞に応募するためである。残念ながら、というか当然ながら特に成果はあげていないので、一年を記念(?)してここに公開したいと思う。読み返してみるとどうしてもなにかの真似のようなところが散見され自作の創作物特有の恥ずかしさを感じるが、一応ひと通りのお話を書き上げたという事実がぼくにとってはなにより重要である(どうにも気休めのように聞こえるかもしれないが)。
 400字詰原稿用紙にして152枚、大した長さではないが達成感はあったし、文章の創作をする楽しさというのも久しぶりに感じられた(厳密には一般的な短編の目安よりは長く、中編と呼ぶには短いと思う)。内容は応募時のまま、一切手を加えていない(1年前の推敲が最後である)。
 説明したいことはいくらでもあるのだが、不出来さや恥ずかしさへの言い訳にしかならないので特にあらすじのようなものは割愛する。ただ少し補足するなら、決して未来を予想したつもりなどはあまりない。むしろ現実とは違う方向を進んできた現代を考えた向きのほうが強いと思う。ぼくには鋭い洞察などないし、案の定ここでモチーフにしているものはこの一年間でだいぶ変化しているので、すぐには古びない現実的な未来像などとても想像できそうにない。
 というわけで、お時間あるときに読んでいただければうれしい限りです。

* * * *

「アカウント」

 いつにも増して最悪の寝覚めである。眠ればすっきりするとばかり思っていたが、全くそんなことはなく、むしろ眠る前よりも不安が増大していて、頭が押しつぶされそうなくらい重い。すかさず不安の元を確かめるべく、枕元を探って端末を見つける。手のひらから少し飛び出る程度の大きさの端末を手に持ち、まだはっきりしない頭と、かすみがちな目をこらして操作する。期待を込めて、しかし恐怖しつつアプリケーションを起動するが、すぐに落胆する。
 画面は昨夜最後に見たときと変わらず、黒い背景に、ピクセルで描かれたイルカのキャラクターが眉を八の字にして目を閉じ、こちらに頭を下げている姿と、アカウントが停止されている旨を告げる緑色の文字列が表示されている。もちろん僕のアカウントのことである。キャラクターとその警告文の下には、もう何度も読み返している対処方法や問い合わせ先が小さな文字で書き出されている。
 二日前に初めてこの恐ろしい画面を見てからというもの、できることは全てやった。アプリケーションを起動し直したり、端末自体を再起動するといった馬鹿らしいほど初歩的なものから、やや複雑な操作まで。しかし、当然だが最終的には運営会社に問い合わせるよう指示される。トラブルシューティングのフォーラムでも同じことだった。同じ事例の報告を見つけるも、回答者たちはアプリケーションや端末OSのバージョンを問うてくるだけでなんら有益なアドバイスをせず、結局は運営に問い合わせるしかないだろうという結論を下す。直に助けを求めているのが自分ではなくとも、全く腹が立つばかりだった。とは言えひとつだけ確かなことは、なにかしらの操作で回復できるような誤作動の類ではなく、本当に僕のアカウントは停止されているということだった。
 手順に従って問い合わせてみると、すぐに返答が戻ってきた。こういうものは待たされるものだと思っていたので、少し希望が垣間見えた気がしたが、その内容はあまり芳しくなかった。同様のケースは時折起こるもので決して珍しいものではないが、原因がわからないのでその分回復にも時間がかかってしまうという。しかし、逆に言えば僕の方に問題があってアカウントが停止されたわけではないということだ。そこは安心していいだろう。だが、運営側が意図して停止したわけではないからこそ、その解除が難しいというのは、全く厄介なことに思えた。
 そのアカウントというのは、交流用の通信サービスを使うためのもので、それは僕の、否、同時代を生きるあらゆる人々の生活にとって最も重要なツールのひとつと言ってよかった。テキストや画像、映像、音声の投稿、プライベートでのメッセージや通話、ホログラム通信、ヴァーチャル・スペースへのアクセス等、およそ交流や共有に関わる一切の機能がこのアプリケーションに集約され、そこを軸としながらさらに多岐に渡る機能が束られていた。現代を生きる上では必須ツールなのである。ちなみにそれは唯一無二のサービスであり、似たようなサービスの乱立が許されていたのはもう四半世紀も前の話である。最も利用者が多く、機能が優れて使いやすく、洗練されたものを中心に、様々なサービスがひとつにまとまっていったらしい。
 だからそのアカウントの停止というのは、ネットワーク上での死を、少なくとも仮死状態を意味すると言っても過言ではない。だからこそ、僕は今朝死んだような気分で目覚めたのである。
 一体いつになれば復帰できるのか、運営会社からの連絡がない以上は皆目見当もつかない。今の段階でこんなことでは、先が思いやられる。まさか一週間もかかるなどということがあるだろうか?もはやライフラインになっている重要なサービスを、なんの措置もないまま停止されていて、僕のような標準的な高校生が生き延びられるのだろうか?
 朝食などとても喉を通る気がしなかったが、それでも習慣的に食卓へ降りていくと、すでにコーヒーやトースト、ソーセージの焼ける匂いが漂っていた。母がコーヒーを飲んでおり、父が上機嫌で端末を操作している。僕が席に着くと、
「おお、息子よ。今な、最高に笑える猫の動画を送っておいたぞ。それを見て少しは元気に……あーっと、そうだった、アカウントが停められているんだったな、すまんすまん」
 即座にテーブルをひっくり返してやりたくなったが、ぐっとこらえる。僕ももう十七歳である。
「あらかわいそうよ。動画なんて直にそこから見せてあげればいいじゃない」
 母が父の端末自体を指しながら言うと父は、
「いや、もうフィードが流れていってしまったからどれだかわからない。さっき送ったメールのリンクを開くしかないんだが」
「じゃあそこから見せてあげなさいよ」
「いや、そもそも停止中のアカウントにメールが送れないようだな。送信エラーになってメール自体が消えてしまった。というわけでもう動画は見せられん。アハハハ」
 快活な笑い声は僕を心底苛立たせた。しかし、相手は父親である。僕は歯茎から出血しそうな勢いで奥歯を噛み締めて苛立ちを飲み下すと、
「どういう動画なんですか、お父さんの口から聞くだけでもいいですよ」
「それがな、猫がな、後ろ足で立ってだな、ンフフフ」
 自分で言いながら笑い出す、最悪な語りである。「ドアノブを、前足でつかんでだな、ククク」
「自力でドアを開けるわけですね」
 僕が先を引き継ぐと、
「いや、それがな、そうはいかなくてな、アハハハハ」
 普段ならまだ我慢できるが、日々の生命線とも言うべき大事なアカウントが停止されている今の僕にはいかんせん余裕がない。僕がアカウントを使えなくて苦しんでいるというのに、父はなんの問題もなくアカウントを利用して毒にも薬にもならないくだらない猫動画で大笑いとは、全くどうしてこんな不公平が起こるのだろうか。
「はあ、呆れた。お父さんのことは放っておきなさい。なに飲むの、オレンジジュース?」
 母が聞いてきたので僕は首肯する。母が「アルフレッド、オレンジジュース!」と明瞭な発音で壁に張り付いているロボットスピーカーに呼びかけると、「タイプAのグラスに適量のオレンジジュースを注ぎます」と電子音声の返事があった。まもなくキッチンで幅を取っている巨大なドリンクサーバーが音を立て、濃い黄色の液体がグラスに注がれた。母がそれを取り、テーブルに置いた。
「アル、アルフ、アルフレッド、言いづらいのよ、あなたのつけた名前は」
 母が父に向かってこぼした。
「なにを言う、執事と言えばアルフレッドじゃないか」
「私はジャービスの方がよかったわ」
 そんな両親のやりとりは、耳に入らず頭上をかすめるようにして流れ去っていく。オレンジジュースさえもあまり口にする気になれなかったが、僕はそれを一息に飲み干した。ほんのわずかだが、マシな気分になった。

とは言え学校に行くのは憂鬱で仕方がなかった。近隣地域で生まれ育ち生活しているということ以外には、ほとんど共通点を持たない雑多なティーンエイジャーを一箇所に押し込んでいる公立の学び舎において、それでも彼らを最低限統合するのはそう、共通の話題というやつである。そして共通の話題というやつの仕入れ先は、昨夜のテレビなどではもちろんない。
件のネットワーク上においてトレンドとなったものを掴んでいなければならない。世界的に拡散された話題であれば、他のメディアでも取り上げられるからなんとなく知ることができるが、問題は公開範囲が制限された身近な人間たちのやりとりである。制限された独自のスペースで繰り広げられるのは言わば帰宅後の学校生活とも言うべきものだが、当然ながらその時間の濃度は昼間よりも高い。教室では憚られた話題から真剣な語り合い、宿題の相談、痴話喧嘩、いないやつの悪口、大っぴらな対立、校内秘密結社の会合と、学校生活の内情の全てがそこにある。もはや昼間の学校生活の方がネットでの交流の延長上にあるようなものだ。
 だからこそ、アカウントが停止していてサービスが利用できないということは、それらに参加できないばかりか、成り行きを見ることさえできないということであり、それはつまり、帰宅後のあらゆる話題を知らないということだった。
 すでに三日、僕は学友たちの社交場に参加していない。それだけの時間があればそれ以前に僕が知っていたことなどすっかり上書きされてしまっているだろう。事実、昨日から僕はもう教室での話題にほとんどついていけてないのだった。帰宅後の交流に参加していないということは、教室での交流にも参加できないということで、それは教室での僕の存在感そのものが希薄になるということだと、徐々に気づいていた。
 別に皆から無視されるとか、ないがしろにされるとか、そういう露骨で程度の低い対応をされるわけではない。僕が話しかければクラスメイトは返事をするし、普遍的な会話はいくらでもできる。しかし、どこか同じ風景は見ていないというような違和感を覚えずにはいられなかった。もっと核心的な部分で物事を共有できていないような感じだ。それはそうだろう。生活の半分を占めている世界を共有できていないのだから。三日も。
 だからおそらく、このままいけば僕の方が参って皆から距離を置いてしまうのだろう。クラスメイトたちは僕をいないものとして扱ったりは決してしない。何事もなく普通に接するはずである。彼らにとってなにか決定的なことが起こったわけではないのだ。きっと僕のアカウントが停まっていることすら、誰も気づいていまい。この非常事態を意識しているのは僕だけなのである。いずれにせよこのままでは僕はいてもいなくても変わらない、悪いやつではないが別に誰の興味の対象にもならないというようなやつとして教室の片隅に居続けることになるのではないか。それはもう、いないようなものである。
だいたい今朝の父を思い出してみたらいい。すでに家族間でさえ、「世界」に参加できていないということが障壁になっていたではないか。母は父をたしなめていたが、僕がいつまで経っても何にもついていけない状態でいたら、今に苛立ち始めるのではないか。
 こうなっては居ても立ってもいられない気がしてきた。サービスの運営側がどうにかしてくれるのを待つだけでなく、なにか自分でできることをしたほうがいいのではないかなどと、無意味な焦りを感じはじめたその日の昼休み。
「ちょっといいかしら」
 と、背後で声がした。
 級友たちとの間に見えない膜のようなものを勝手に感じてしまう身としては、昼食とそれに続く昼休みは苦痛に近い。普段から誰ともつるまずにフラフラと気ままに過ごしている人なら問題ないだろうが(そしてそういう人たちだって帰宅後はネット上のコミュニティに参加していることだろう)、僕はその道の初心者である。三日前まで昼食の相手に困らなかったタイプの人間にはまだまだこの時間は辛い。
 だから声をかけられて驚きもしたが、どこか安堵した気持ちもあった。見知らぬ異国で、懐かしの母国語で突然話しかけられたかのような感じだろうか。見知らぬ異国にまだ行ったことがないから本当のところはわからないが。
 振り返るとひとりの女子生徒だった。しっかりと視線が合ったので、僕の勘違いではなかったようだ。これでもし彼女が呼んでいたのが誰か他のひとだったなら、今日はもう適当な理由で早退するところだった。
「僕?」
「そう、あんたよ」
 僕は人のことを「あんた」などと呼ぶのが嫌いで、決してそう呼んだことはないし、自分がそう呼ばれるのはもっと嫌だったのだが、この際そんなことは構わない。今の状況を思えば話しかけられただけでもありがたいくらいだった。
 だから不快感はなかったにせよ、ある種の違和感があった。僕は相手の顔をまじまじと見つめたが、不思議なことにその顔にはあまり見覚えがないのだった。どこかよそのクラスの人だろうかとも思ったが、同時に見慣れた教室の風景に馴染んでいる雰囲気もあって、ゆっくりと記憶をたぐり寄せてみると、確かにこのクラスの生徒であることがなんとなく思い出された。僕は無意識に彼女の姿を視界の中に捉えた記憶が、わずかにだがある。説明が難しい感覚だが、そのようにして記憶を経由しないと思い出せないほどの印象の薄さとでも言おうか。むしろ他のクラスにこんな人はいないはずである、よってこの教室の人間だ、というような逆算をする方が早い。そんな微妙な印象だった。
「あんた、朝から見ていたけど。いえ、なんなら昨日くらいから思ってたんだけど」
「はい」
「アカウントが凍結されているでしょう」
 ひやりとした。今の僕が最も知られたくないことを言い当てられたのと、凍結という言葉からの連想で、首筋に冷たいものを当てられたような気がしたのだが、なによりもまずその声音がなんとも冷たい響きだった。
 なにも驚くことではない。ちょっと勘のいい人間なら、僕がもはやなんの話題にもついていけていないことはすぐわかるはずだろう。よほど僕のことを観察していることになるが。
 凍結という言葉のインパクトも大きい。僕は自分で今の状態をアカウントが停止されたものと捉えていたが、そうか、凍結とも言えるのか。意味は大して変わらないものの、凍結というのはなにか取り返しがつかない状態に思えてくる。なにより冷たさがある。
 冷たさ、死。
「どうしてそう思うんですか?」
 アカウントとはなんのアカウントか、などととぼけても無駄だろう。高校生がアカウントと言ったらあのアカウントしかないわけで、同様に利用頻度があるとは言えショッピングやクレジットカードのアカウントのことなど話題に出すはずもない。そして、今やそれらもまた件のアカウントに統合されつつある。というわけで、余計なことは考えず純粋に最初に浮かんだ疑問を口にしてみると、
「そんなの見ていればわかるわよ。まさかあれで隠してたつもり」
 冷たい響きであるのと同時に、話し方に抑揚さえ感じられない。脈絡からして最後は疑問形だったようだが、しかし語尾に「?」がついたようには聞こえない一本調子である。
「隠そうというわけではないですが、なにごともないように装ってはいましたね」
「そういうのを隠してたって言うのよ」
 相手は言った。「ひとついいことを教えてあげましょうか」
 僕はだんだん周りの目が気になってきた。この人とあまり長く話しているのはよくない気がする。素早く周囲に視線を走らせてみるが、昼休みの喧騒は僕と、その話し相手のことなど気にも留めていない様子だった。いや、だからそれがもうよくないのではないか。この人と話しているせいで、教室から遠ざかっている気さえしてきた。
 適当にやり過ごすこともできたのだろうが、一方で僕の不安を見抜いた相手の言うことに、決して興味がないわけではなかった。
 単純に話し相手が欲しかったのかもしれない。
「なんですか?」
「あんたと同じ境遇の人間は少なくない。この校内にも何人もいる」
 どういう境遇のことを言っているのだと、言いたくもなるが、僕も馬鹿ではない。脈絡から考えれば今のこの情けないアカウント凍結状態のことを指しているのだろう。
「心当たりのないアカウント停止が?」
 僕が調べた限りでは、サービス全体で大規模な不具合が生じているというようなニュースは一切なかった。ただ、同じような事例がないわけではない。日々ある程度の人間が似たような目に遭っているということはなんとなくわかっている。なるほど、そういうひとが同じ学校にいないとも限らないわけか。
「私はそういうひとを何人か知っているから、あんたもそうだろうということがわかったのよ」
 見ればわかるのだろうとは思ったが、すでにそれとわかる特徴が出ているのだとすればかなり不安である。
「いいことって、それですか?まあ確かに気休めにはなりますね」
 見透かされるとわかっていながらも、つい意地を張ってしまうのが僕である。「それで、そのグループセラピーに参加しろとでも?」
「まさか。あんたと違って皆孤独を楽しんでいるひとばかりだから、そんなもの必要ないわ。ただ伝えておこうと思って。じきに慣れるから大丈夫」
 そんなふうに言われてしまうと途端に強がったのを後悔する。ただでさえ、同じ話題を話すということに飢え始めているのだ。このチャンスを逃す手はない。しかし、そんな惨めさは共有したくないとも思うのだった。
「あなたもアカウントが停められているんですか?」
「いいえ」
 さらに突き放された気がした。そうとしか思えない口ぶりだったが、別にそうだとは一言も言っていないのだった。
「でも、あんたの今の状態はよくわかる」
 依然平坦な口調でそう言う。「そろそろ話し相手が欲しくなっているということもね」
 やはりお見通しである。もはや僕は抵抗や駆け引きをする気をなくした。
「それも経験上わかるんですか?」
「まあね。でも、誰かと話そうなんて思わない方がいい。だいたいなにを話そうと言うの」
「そりゃあ、同じ大変な目に遭ってるならいろいろと……」
 そこまで言いかけて気付く。ああそうか。別に境遇が同じだからと言って特に話すこともないのだ。お互い大変ですね、で終わってしまうのだ。状況を解決する方法を一緒に探すとかではない限り、別に言葉を交わしても意味がないように思えた。それくらい、基本的な共通言語はそのネットワーク・サービスによって構成されていて、その基軸を失ってしまえば、話せることなどほとんど残っていない。親世代のように、昨日観たテレビの話などすればいいのだろうか。考えただけでも馬鹿げている。それくらいなら今いる友人たちとも話せることだ。問題は、身近な世界観を共有できていないことにあるというのに。
 皆孤独を楽しんでいるひとばかり。先ほどは軽く聞き流してしまったが、つまりはそうするほかないということだ。
 そして、同時に思い至ることが。
「しばらくは、耐えるしかないということよ」
 冷たい声はそう告げた。
「辛抱すれば、アカウントは回復できると?」
「いいえ、さっきも言ったように、辛抱すればじき慣れるということ」
 絶望的な通告に思えた。それではまるで、かなりの期間このままだとでも言うようではないか。いや、きっとそうなのだろう。残念ながら彼女の周囲にいる「そういうひと」たちは、長いことその状態なのだ。そうでなければ孤独を楽しめるようにはなるまい。
 僕はシャツの下で気味の悪い汗をかきだし、気分が悪くなってきた。なんということだ。これは長期戦を覚悟しなければならないのか。同様のケースに見舞われているひとが何人もいて、僕だけがその中で例外ということは考えづらい。
「あまり気に病まないことよ。別に死ぬわけではないのだから」
 言っている内容とは裏腹に、とても慰めているようには聞こえない冷たい声音でそれだけ言うと、彼女は僕の前から立ち去った。昼休み終盤に差し掛かった騒がしさの中を、すうっと進んで、どうやら自分の席に戻るらしい。その位置にそんなクラスメイトが座っていたことにも、僕はこのときまで気がつかなかった。
 僕はさらに異常なものを目にした。自分の席に戻っていく彼女は、クラスメイトたちの間をすり抜ける際、一切の回避というものをしなかったのだ。だから間をすり抜けたというのは正しくない。誰一人、なにひとつ障壁とせず、透けていくかのように見えたのである。

 アカウント停止三日目の学業の時間は、そんなふうにして終わった。かなり絶望的な気分にはなったとは言え、しかしあの存在感の希薄な、冷淡な話し方をする女子生徒のことが気になりはした。それはそうだろう、誰にも言い出せずにいた僕の窮地を理解しており、納得できるかどうかは別として、それなりに対処法も示してくれた。何かを知っている風の態度も気になる。少なくともあの短い時間に、僕は久しぶりに上辺だけでない会話を交わしたように思えた。
 自身も早く切り上げたがっているらしい担任教師が駆け足で帰りのホームルームを済ませ、一斉にいくつもの椅子の足が床を擦れる音が響き渡る中、もはや一緒に帰る相手もいない僕は、教室の後ろ側をまわって出入り口を目指し、その途中でさりげなく例の女子生徒の席を背後から見やった。あのあと何度かこっそり確認したが、やはりそこにあんなクラスメイトが座っていたなんて、今まで思ってもみなかった。しかし、今ではもうその場所ははっきりとわかった。
 すでに彼女はそこには座っていない。ホームルームが終わると同時に、やはりあの不思議な足取りで教室を出ていた。帰り際に二、三言葉を交わしたい気もしたが、すでに席が無人なのは好都合でもあった。きっと彼女自身がまだそこにいれば、あの勘のよさだ、僕がその椅子の背もたれの外側に貼ってある、氏名の印字されたシールを読んでいることをすぐに察しただろうから。フルネームをよく覚えていなかったり、漢字がわからなかったりするクラスメイトの氏名はこうやって確認するのが一番である。本人に聞くのは恥ずかしいじゃないか。
 彼女のことはZと呼ぶことにしよう。僕は帰宅後落ち着いてから、端末でブラウザを開き、覚えたばかりのZのフルネーム漢字五文字を検索バーに入力した。
 初めて会った相手、なんとなく気になった相手についてはこのようにして検索するに限る。大半の人間が実名でアカウントを利用している中で、その人となりを調べるのは容易なことだ。ごく稀に未だ匿名でサービスを使う者もいるが、その場合あらゆる場面で「信頼」を得ることができず、いろいろと制限を課せられてしまいがちだ。匿名が使えないわけではないが、利便性と生きたアカウントを求めるのであれば、結局実名で利用するしかなくなるのだ。
 さて、Zはどういった人間なのか。僕は検索ボタンを押した。間もなく画面に現れた検索結果には、Zのフルネームがいくつも並び、いずれも例のネットワークのアカウントへと通じていた。が、どれを開いてみても僕のクラスメイトのZとは同一人物に思えないものばかりだった。どのアカウントも写真がかけ離れている。同姓同名はそれほど多くないらしく、やがて苗字だけ同じ、名前だけ同じといったひとばかりが表示されるようになったので、どうやらそれで終わりだったらしい。
 ブラウザをいくつか切り替えてみたり、漢字を覚え間違えた可能性も考えて別の漢字をあててもみたり、念の為ローマ字表記でも入力してみても、結果は同じだった。僕のアカウントは停止されているから、サービスのアプリケーション内での検索機能は使えないし、かりにそこで検索しても結果は変わらないような気がした。
 何度か同じことを繰り返して、確信に至る。
 Zはアカウントを持っていない。
 僕は昼の会話を思い出す。
 あなたもアカウントを停められているんですか?という僕の問いに、
 いいえ。
 しかし彼女は別に嘘はついていない。元よりアカウントそのものがないのだから、停止されることもない。安っぽいトンチのようだが、うまくごまかされたというわけだ。
 しかし、そんなこと可能なのだろうか?今の世の中でアカウントを持たずに、つまりは現代で必要かつ可能な限りのコミュニケーション・ツールが集約されたサービスを使わないで生きていくということが、可能なのだろうか?山奥で独りで暮らしているわけではない。ましてや人の世を雑に圧縮したかのような高校生活の中にいるのだ。確かにアカウントの取得や利用は任意だが、今の世の中ではそれがないことには不便極まりない。もはやそれはネットワークの利用だけに限らず、生活を送る上で様々なところに紐づけられている。家庭ごとに差異はあれど、端末を持つことさえできれば世界中ほとんどの人間が、子どもの内から生涯ネット上で使うことになるアカウントを作成するはずである。
 ネット上に存在証明がないということは、この物理的な実世界でも実存が不確かになりかねない。
 僕はそこで合点が行った。いやだからこそだ。だからこそ、彼女は教室において、学校において、あれだけ希薄な存在感で生きているのだ。クラスメイトが顔と名前さえ覚えていない印象の薄さ。人混みに突っ込んでも誰にも何にもぶつからずに通り抜けられるほど透けているような存在。吹いたら飛ぶどころか消えてしまいそうな儚さ。もはや生きているという気配さえ弱いのではないか。それはあの平坦で冷たい口調へも通じていくようだった。
 ネットの海に錨を降ろしていないせいで、アイデンティティが不安定なのだ。
 彼女が元からそういう性質の人間で、そのためアカウントを持たない道を選ぶことが合っていたのか。それとも、アカウントを持たないことで、結果ああいうふうになったのか。かりに後者だとすれば、僕もこのままネットワーク上に存在を回復できなければ、いずれはああいうふうになってしまうのだろうか。僕は思わず身震いした。
 なんとしても、アカウントの停止を解除してもらわねばならないが、いち高校生の僕には現状どうすることもできない。それなら、せめて自分の存在を維持するために、わずかでもできるだけのことをしたいと思った。気休めにしかならないだろうが、なにもしないで不安に苛まれていたら、変になってしまいそうだった。

 アカウントを使わず、つまりログアウト状態で出来ることも、あるにはある。公開範囲になんの制限もかかっていないユーザーの投稿するものが代表的だ。たとえば著名人や企業、公的機関のフィードである。不特定多数の人間に見られることが前提、見てもらわなければ困るというようなものは、ログインせずとも閲覧することができる。ただ、閲覧する上での設定がなにもできないので、膨大な数の広告が表示されて快適とは言えないし、ある程度の期間内のものしか見ることはできない。一週間よりも過去のフィードには制限がかかってしまうのだ。常に最新の内容しか見ることはできない。まあ、それで十分なところはある。
 フォーラムやチャット・スペースへの参加はどうか。そのスペースが全公開としてオープンになっていれば、やはりそれは参加できる。混沌としていた過渡期の教訓を生かし、徹底的に匿名性を排して、実生活とネット上とが確固とした同一の個人によって完全に結び付けられている世界でも、匿名での遊びが一切許されていないわけではない。実在する個人としての認証が得られない以上できることは非常に限られているが、チャット・スペースで他愛のない会話をするくらいなら、まだ可能である。その場限りのインスタントなコミュニケーションは、ある種のガス抜きとして作用してもいて、結構人気が高い。トラブル・シューティングのフォーラムもそのひとつだ。もちろん、匿名の状態でトラブルを起こしたとみなされれば、すぐに端末そのものがアクセスを拒否され、その解除には気の遠くなるような手続きが必要だとか、その状態が続けば端末そのものにも負荷がかかるとか、そんな話である。実はアカウントの停止よりも重い処置かもしれない。
 そしてもちろん、限られた人間だけの内輪のルームは、アカウントがなければ参加することはできない。僕にとってはこれが一番重要だ。これができないからこそ、学校での人間関係やその内情へのアクセスを遮断されてしまっている。残念ながらそこを覗くことは今は諦めるしかない。
 誰か友達に事情を話して、どういうことで皆が盛り上がったのか、誰と誰の間にどういうことがあったか、フォーラムやスペースの内容を個人的に教えてもらうというのも手だが、しかし僕の場合もうそうするにはタイミングが遅すぎたような気がする。本来ならすぐに身近な相手に相談すべきだったが、すでに三日も周りに合わせてよくわからない話題ににやけながら頷くという愚行をしでかしてしまっている。今更事情を言えば、わかっていないことに頷いていたのかと思われるだけでなく、すでに部外者になったにも関わらず限られた場所での話題を盗み聞きしていたことを責められかねない。
 基本的に、また常識的に考えても制限されたルームの内容を参加していない人間に明かすのはマナー違反かつルール違反である。サービス全体で定められ、また浸透している規則だ。これもまたかつての過渡期にトラブルや混乱が起こった原因なので、徹底して対策が講じられている。今では考えられないが、昔はあらゆる内輪のやりとりがいくらでも複写されて外部へと拡散されていたらしい。それに加えて匿名アカウントが野放しだったのだから、不確かな情報も錯綜していた。社会的混乱は必須だったのだろう、結果的にそれらのパニックは三ヶ月戦争という悲劇に繋がることになる。
 だから現代を生きる人間は、基本的に自分たちの「物語」を部外者に明かすことを極端に恐れ、避ける。逆に言えば、それをなんの資格もなく盗み聞こうという人間は糾弾されることになる。よくよく考えれば思い至ることなのに、僕はこのことを見落としていた。不安に苛まれている間にごまかせないほどの時間が経ってしまった。
 教室で皆がその話題でおおっぴらに盛り上がれるのは、あくまでその場の全員が参加しているという前提に立っているからだった。それに、直接的な言及を避け、固有名詞を伏せたり、同じものを見たり聞いたり読んだ人間にだけわかる漠然とした調子で話すことが自然と身についているので、一応の建前は成り立っている。だからこそ実際に知らなければその話題についていくことが困難なのだが。いずれにせよ僕の孤立は防げそうもない。
 だいたい僕にはこういう緊急事態に際して頼れるような友達が、実はいないのだった。この方法を、もし取れるとすればと考えたとき、誰に言い出せばいいかといろいろな面々を思い浮かべてみたが、だがこのときになってほとんど初めて、僕にはそんな相手がいないことを思い知った。誰ひとりそこまで気を置ける相手ではなく、信頼もできそうになかった。
 フォーラムでどれだけ盛り上がり、話題と時間を共有しようとも、思えば誰とも個人的な関係を深められていない。ありがちなことだが、実際そこに気付いてみるとそれなりに悲しい。
 だが、ほんの半年前なら、僕にもそういう相手がひとりだけいたのだ。僕は専用アプリケーションを通さず、ブラウザからログアウト状態のままある名前を検索する。Zの場合と違い、今回は目当ての人物が他の同姓同名を押しのけて画面の一番上に表示された。これはもちろん、僕が、というよりこの端末がその人物との接触を記憶しているからそう表示されるのである。
 彼の投稿が並ぶフィードの一覧を開くと、半年前から変わることのない見慣れたテキストや画像の羅列が映し出される。彼は公開範囲を特に設定していなかったので、ログアウト状態でも一週間分の内容は見ることができる。半年間更新がないので別に見るものはないのだが、このアカウントの持ち主がこの世を去ったばかりの頃、こうして特に用もなくこのフィード欄を眺めていたものだ。間もなく僕は騒がしい日常に戻っていったので、しばらくは感傷的な時間を過ごすことが減っていたが、このたびこうしてなにもすることがなくなってみて、久しぶりにこの習慣を思い出した。他に見るものもないのなら、せめて懐古と内省の時間を過ごしたいと思う。

 Kとは小学校の頃からの付き合いだった。
 元はと言えば僕が彼の家の庭にあるというツリーハウスに行きたがったことから始まる。Kのツリーハウスはそれはもう同級生たちに人気スポットだったが、僕が初めてそこを訪れたのは、ブームが一通り過ぎた後だった。僕はなんにでも乗り遅れるたちであった。
 初めてKのツリーハウスを訪れた日のことは、すでに記憶の四隅が白んでイメージの輪郭がぼやけはじめているものの、まだそこで交わした会話ははっきりと覚えている。
 Kは樹上に固定された木造の小屋の中に様々な物を持ち込んでいた。その一年以内に刊行された漫画雑誌数冊、あちこち塗装が剥げて金属が露出しているダイキャストのミニカー数台、やはり年季の入ったアクションフィギュア、旧式のゲーム用端末。
 ほとんど屋外のような環境でぞんざいに扱われているそれらコレクションの中でも、僕が衝撃を受けたのは、ずっと返さないでいるらしい学校の図書室の本だった。その頃から僕はとてもお利口な良い子だったので、Kのそんな蛮行にかなりショックを覚えるとともに、危険な魅力をも感じたものだった。
「こんなことをして大丈夫なんですか……?」
 借り物、それも図書室の本がずっと部屋に置きっぱなしになっているなんて、気持ち悪くならないのだろうか。
「平気だよ。どうせ誰も気にしちゃいない。というか、誰も気づいてすらいないよ」
 言いながら彼は本の裏表紙の側を開き、そこに貼り付けられているオレンジ色のポケットから貸し出しカードを取り出して見せた。小学生にできるだけ手間のかかる作業を経験させるためのアナログなシステムだが、それを見て僕は言葉を失う。貸し出しカードが入ったままということは、Kはこの本を借りてすらいないのだ。
「まずいのでは」
「こういうのはだめか」
「いえ、だめってことはないですが」
「この本が図書室にあったことさえ誰も知らないよ。万が一騒がれたら、こっそり返しておけばいいだけさ」
 Kはそう言って、壁に背を預けてよりかかる。壁がかすかにギイと音を立てた。「でもこれを見せたのは君だけだ」
「そうですか」
「うん。ここにはいろんなやつが来たけど、そいつら全員に見せてたら、さすがに誰かが言いつけるかもしれないからね」
「では、僕を信用してくれるんですね」
「まあね。というか、交換条件といこう」
 僕はKの言うことがすぐには理解できなかった。
「この本のことを秘密にするなら、これから好きなときにここに来ていい」
 衝撃を受けてはいたが、別に僕はその本のことで彼を咎める気などなかったし、かりに僕が学校に言いつけたとしても、Kは大して気にもしなさそうな気がした。
 だから交換条件だなんて、そんなものは僕をツリーハウスに招くための口実に過ぎなかったのだろう。Kは僕を友達として認めたのだ。
「どいつもこいつも、最初は喜んで遊びにきたのに、あっという間に飽きちゃうんだもんな。わかりやすすぎて、うんざりするよ」
 Kはそんなふうに不満を漏らした。僕はなんだかハラハラしたが、別に彼が非難したのは僕ではない。
「君は、皆よりも随分遅れて遊びにきたわけだけど、後悔してないかい?もうすっかり誰もよりつかなくなったところだってことがわかってさ」
「まさか!」
 僕は言った。「僕は、前からこういう場所に憧れていたんです。にぎやかじゃなくても、全然いいんです。少なくとも、皆よりは長く飽きずに遊べると思いますよ」
 それを聞いてKは笑った。
「なるほど。正直でいいな。他の連中はなにかと口実をつけてここに遊びにきて、同じように適当な言い訳をして遊びに来なくなった。はっきり飽きたと言えばいいものを、そういうことは言いたがらないんだな。そこへ来て、君は正直でいいよ」
 僕は耳が熱くなるのを感じた。
「それじゃあ、ここは今日から俺たちの秘密基地としよう」
 彼は言った。急展開である。僕はなんと答えたものか迷った。
「あ、嫌なら、別にいいんだけど」
 僕の反応が微妙なせいか、Kはそこでちょっと気まずそうにした。
「まさか、嫌ではないです」
 僕は急いでそう言った。その勢いで、「そうしましょう、うん。さっそく去年キャンプに使った寝袋を持ってきますから、今夜からここで寝ます」
「それはちょっと困るな」
 こうして僕とKはよく遊ぶ友達となった。やがてそれは親友と呼べるような関係となり、その友情は僕らが出会ってからおよそ七年後、彼がこの象徴的なツリーハウスから落ちて死ぬまで続いたのだった。

 僕はしょっちゅうツリーハウスに通い詰めた。自分の端末を持つようになって、学校の外へと世界が広がってからも、気心の知れた友達としてKとの付き合いは続いた。選択肢の少ない地方都市にあって、合わせたわけでもなく自然と同じ高校まで進むことになったが、まさかその先でこんなことになるとは思ってもみなかった。
 最初は実感がなかった。と言うのも、遺族の意向でその葬儀は執り行われなかったからだ。死に顔を見てもいなければ、別れとなる儀式もなかったため、とても信じられなかった。
 何日経とうがどこにも彼の姿がないという現実は、確かに喪失感を与えはしたが、やはりそこまで衝撃的なものにはならなかった。知人はおろか親類の死さえ経験していない僕が、小学校以来の友人を亡くしてもそこまで落ち込まずに済んだのは、そういった実感のなさに加え、周囲の情報が目まぐるしく移り変わり続けていたおかげでもあったろう。
最初のうちは皆もKのことを話し、故人を偲び、さらにはその死の真相をあれこれ憶測したりもしたが(一応事故死とされているが謎な部分も少なくなかったのだ)、何回か月曜日が巡ってくるにつれて、話題は他へと移っていった。僕もそれを薄情だなどとは思わなかった。僕もまたそういった移り変わりに引っ張られ、そのおかげで辛い現実を直視し続けなくて済んだというところだ。
 Kの人間関係はなにも僕との関係だけではない。彼は僕などよりも社交性があり、わりと誰とでも気持ちよく過ごせる人間だった。小学生の頃、ツリーハウス目当てだった同級生たちがすっかり遊びに来なくなったときも、内心の失望はおくびにも出さず、周囲とうまくやっていた。要領の良さは成長するにつれてより洗練され、中学の頃にはクラスの人気者というよりは重要人物というような立場にあった。決して無難ないいヤツ、ではない。それなりに頭も切れるからなにかしらの相談事を持ちかける者も少なくなかった。彼との古くからの繋がりがあったからこそ、僕は主要な輪の中に入ることができたのだった。
 そう思えば、別に今回のアカウント停止よりも前から、僕は周囲とのズレを感じ始めていたのかもしれない。Kという重要なコネクターを失った時点で、僕は教室から遠ざかり始めていたのかもしれない。
 Zがネットに錨を降ろしていないように、僕もまたKを失うことでゆらゆらと不安定になっていたのかもしれない。こんなふうに思うのは身勝手かもしれないが、Kさえいてくれれば、アカウント停止というこの状況もここまで孤独にならずに済んだだろう。
 あっという間にKのフィードを遡ってしまい、ログアウト状態では読める範囲が終わってしまった。僕は仕方なく画面を再びトップにスクロールした。そこで、ふとあることに気がついた。
 Kのアカウントには未だ喪章が表示されていないのだ。
 一定期間ログインも更新もないアカウントには、運営側から予め登録されている緊急連絡先に宛てて、本人の安否を確かめる通知が送られるようになっている。一般的な緊急連絡先と同様、基本的には家族であり、次が学校、勤務先など、物理的に接触できる関係者を予め登録しなければならない。そこで関係者がその死を証明できれば、運営はそのアカウントを故人として設定し、喪章を模した黒いマークが表示されるようになる。それ以降そのアカウントの動きは完全にロックされるが、それはアカウントの停止とは異なり、生前の公開設定において閲覧できる者であれば、墓標として故人の遺したフィードの内容を以降も見ることができるのだった。
 だが緊急連絡先はあくまで安否の確認のためのもので、決してアカウントの管理を引き継げるものではない。アカウントの持ち主が関係者として設定した相手に必ずしもその管理を任せたいかどうかはわからないからだ。なので、その場合は別に非常時管理者の設定が必要となる。それを設定しておけば、安否の確認や本人死亡の報告もその人によってなされ、アカウントを通してフォロワーや閲覧者たちに対する報告や挨拶、アカウントをそのまま残すのかどうかなどの管理が一任され、運営によって単に故人と設定されただけの場合よりも、アカウントのその後の運命に余地が与えられる。もちろん管理の引き継ぎがあった場合も故人として喪章が表示されるようになる。なりすましを防ぐためだ。
 Kは僕の知る限りは健康的な高校生だった。いろいろな場合を想定する周到さがないとは言い切れないが、喪章の表示がない以上は非常時管理者が設定されていないばかりか、故人設定もなされていないことは確かだった。つまり状態としては半年放置されているだけで、「生きた」アカウントなのだ。
 僕は気になって、安否確認がなされる放置期間について検索してみた。
 それは最後のログインから一年後だった。思っていたよりも長いが、それなりに猶予は与えられているのだろう。なんだかんだ言っても、これは任意で使うアカウントである。
 一年も猶予があるなら、まだ故人認定がなされていないのもわかるが、それならKの遺族の方からまだその死を運営側に報告していないのは若干気にはなった。アカウントの放置や悪用を防ぐためにも、そうすることが自然に思えるが、まあ非常時管理者が設定されていなかったため、単純な故人設定によってアカウントがロックされてしまうことを懸念しているのかもしれない。ある程度手続きを踏めば、故人からの指名がなくとも親族であればアカウントの管理を引き継ぐことも可能だそうだが、そのあたりのことで時間がかかっている可能性もある。
 それにKの死後間もない頃の混乱と慌ただしさを思えば、それらの始末に手がまわらないまま放置してしまっているとしても、なんら不思議はない。
 昔に比べて整備されているとは言え、いろいろな事情やタイミングの重なりによって結局安否不明のまま放置されて漂流しているアカウントは、決して少なくもなければ珍しいものでもない。Kのアカウントがそのうちのひとつでもおかしくはなかった。
 だがそこで、Kにまつわるある噂を思い出した。耳にしたときは馬鹿らしくて聞き流していたが、彼のアカウントの現状からは自然とその噂話が連想された。
 Kが死んでひと月ほど経った頃のことだが、どこかのチャット・ルームの参加者一覧に、わずかの間だけKの名前が表示されたことがあるというのだ。
友人の死に対して実感が薄かった僕ではあったが、しかしネット上で幽霊を見たなどという話はまともに受け付ける気がしなかった。実感が得られないとは言え、当然思うことがないわけではないから、そんな話を聞いて苛立ちさえした。いかにも皆の好きそうな話ではないか。馬鹿らしいやら腹立たしいやらで、そのときは無視していたが、どうだろう。Kのアカウントは今、文字通り無防備な状態で放置されている。故人として設定され利用や管理に制限がかかることもなく、もしログインさえできれば、そう、チャット・ルームに入室することも可能な状態なのである。
 チャット・ルームの幽霊とやらは、いい加減な話ではないのかもしれない。
 不気味な話だが、しかし僕はなんだか可笑しくなってしまった。ため息をつくように、力の無い笑い声が口をついて出た。
 なんという皮肉だろうか。
 これでは生きながらアカウントを失っている僕よりも、死んでもアカウントの残っているKの方がまるで生きているみたいじゃないか。

 自分自身の存在が不安定になろうが、時間は容赦なく進み、翌日。状況に動きはないが、金曜日であることがせめてもの救いだった。別にまだそこまで辛いわけではないが、やたらと神経を使って疲れているので、週末の休みがやってくるのは幸いだった。
 昨日気づいた教訓から、僕は以前のようにクラスメイトたちの談笑の輪に入るのを避けることにした。少なくとも、現状ではそうしたほうがいいだろう。わけのわからない話題に適当に頷いているだけなのは非常に危険だった。いずれごまかしがきかなくなり、実は僕が話題に参加する資格がないことがバレれば、糾弾されることになる。少なくとも今の段階ではそれ以外に僕はなにも責められるようなことをしていないはずだ。理不尽にも手違いによりアカウントを停止されてしまった被害者としての立場を取っておくためにも、下手なアクションは避けなければならない。
 やはりこの非常事態が始まったときに即それを周囲に知らせるべきだった。だが、もう遅い。
 すぐに言い出せなかった以上、隠し通すしかないのだ。オーケー、やってやろう。耐えて見せる。そのためには一時的なものと思って、孤独を受け入れるしかない。
 じきに慣れると、Zは言っていた。結局彼女の忠告を聞き入れることになるのか。
 家族を除けば、唯一彼女だけが僕の状況を知っていることになるが、なんとなく彼女が周囲にそれをバラす心配はないように思えた。確証はないが、彼女がほかのクラスメイトたちに接触し、なにか授業や係といった用事以外で言葉を交わす場面は想像しづらかった。僕が抱いた印象が間違っていなければ、幽霊のような彼女は誰の視界にも入っていないはずだ。
 生きながらアカウントを持たない幽霊。
 当然ながらそれは、死して尚アカウントが残ったまま、バーチャル上の幽霊となったKのことも思い起こさせた。
 そうなると、今の僕はさながらゾンビのようなものか。
 午前中の休み時間、次の授業の教室がある別棟を目指して、二階から空中にかかっている渡り廊下を歩いている際、ちょうど前を同じ方向に向かってZが歩いているのを見つけた。歩くというよりは揺れ動いていると言ったほうが相応しい様子だが、やはり反対側からやってくる者をよけるというようなことをしない。というより向こうからよけていく印象を受けた。かと言って皆が意識してZを避けているというようなわけでもない。相手に気づかないままそれをよけるなどということはできまい。やはりそれは、Zが透けているとか、ふわりとなににもぶつからず通り抜けているとか、そういう印象だった。
 もうそこには驚かない。それよりも軽く衝撃を受けたのは、僕が容易に彼女の姿を認められるようになったことの方だった。
 昨日、確かに僕は意識して教室での彼女の席を確認したが、そのときだってよく注意してようやく認識できたようなものだった。端末で彼女のことを検索したときだって、最初は彼女のあの存在感ゆえに、検索結果でさえも僕の頭が勝手に見落としているのかと思ったほどだ。
 それが、今日は自然とその姿が視界に入るようになっている。
 自分でも気づかないうちに、僕は彼女のことを意識して探していたのだろうか。もちろん意識にあることは認める。そりゃそうだろう、こんな特殊なクラスメイトがいたことにショックを受けているのだから、そう簡単には忘れられない。一度その存在に気づいていしまったからには、もういないものとは思えないほどのインパクトがあった。
 僕がそんなふうにあれこれ考えている間に、気づけばZが立ち止まってこちらに振り向いていた。あっちはあっちで僕の存在に対して敏感になっているのかもしれない。そもそも、彼女の方から僕の異変に気づいて接触してきたことを思えば、当然だろう。
 僕がすでに彼女自身と同類の気配を帯びているのなら、尚更である。
「やあ」
 平静を装って挨拶してみる。無意味なことはわかっている。だが、できるだけ愛想や表情を維持しなければ、やがては今目の前にいる相手と同じように自分も冷たく無表情になってしまうのではないかという恐怖があった。
「案外平気そうでやっているのね」
 Zはひんやりと言った。「今日あたりは休むんじゃないかと思っていた。そうすれば月曜まで休みだから」
「むしろ今日一日やり過ごせばあとは休みだと思って、来ましたよ」
「どうやら無理しておしゃべりの仲間に入るのをやめたようね」
 唐突にそんなことを言われてやや驚いたが、彼女がすでに僕を観察していたことを思えば、今日そのことに気づかれても不思議はなかった。
「ええ、一時的に孤独を受け入れることにしました。今の状況で過度にコミュニケーションを取るのは危険ですので」
「忠告に従ってくれてうれしいわ」
 全然うれしそうじゃない顔と声音だったが、機嫌を取ることができたと思うことにした。
 僕は迷う。昨日の発見を彼女に確認すべきだろうか?でもなんと言うのだ。あなたはアカウントがないのですね、どうしてですか?などと聞くのだろうか。それこそ一番恐ろしいことのように思えた。その決定的な事実に触れてはいけないと、頭のどこかで本能的な警告が発せられていた。
 迷っていたら察知されそうだったので、すぐにほかのことを口にした。
「ところでその、Zさんは日々をどう過ごされているんです?いや、変な意味ではなく、あの、学校で孤独に過ごすというのはどんな感じなんだろうと思いまして。ご覧のように僕は新参者なので、参考までに聞かせてもらえるとうれしいのですが」
 孤独の新参者というのも我ながら変な気がした。孤独に対して参じるというのはどういうことか。いや、ほとんど考えないで発している言葉だ、仕方がない。だが気にするべきはそこではなく、
「私の名前を覚えているのね」
 ぎくり。というか、ひやり、とした。その声は今日一番の冷たい調子で聞こえた。
 しまった、つい名前を呼んでしまった。
「クラスメイトの名前を覚えているのは当然でしょう」
 言いながら恥ずかしくなるごまかし方だ。僕が彼女の存在に昨日初めて気づいたことなど、彼女自身がいちばんよくわかっているだろうに。
「教科書でも盗み見たのかしら。それとも椅子の後ろとか」
 僕はまたしても冷や汗をかきはじめている。こんなに冷たい声音で鋭い指摘をされると、本当に折れた氷柱を突き刺されているかのようだ。
「それなら、当然私のことを検索したのでしょうね」
 やはりこの人にはごまかしがきかない。言うつもりもなかったことがこうも簡単に言い当てられるとは。
 僕はあっさり認めることにした。
「ええ、こう言っては失礼ですが、非常に奇妙な印象を受けましたから」
「なにも出てこなくて残念だったわね」
「でも、どうして?どうしてなにも出てこないんですか?」
 こうなっては本人に確かめるのが一番だと思い、素直な疑問を口にしてみる。
 それを聞かれたからと言って、彼女の表情は別段変化しない。
「なにもないからに決まっているじゃないの」
 そう言った。至極当然であるように。
「なにか、事情がおありなんですか?いえ、僕が立ち入っていいものではないかもしれませんが」
「別になにもないわ」
 同じ返答を繰り返すZ。「事情も理由もない。あんたが目にしたままが事実よ」
「でも……」
 僕は言い淀む。なにを聞いたらいいかわからなくなってきた。僕がなにも言えないでいると、
「ひとついいことを教えてあげましょうか」
 それは昨日も言われた言葉だった。相変わらず語尾の音程が変わらないので、それはこちらに確認しているのではなく、宣言に近い。
「あんたが思っているほどアカウントは重要なものではない。なくても案外生きていけるのよ」
 生きてはいけるかもしれないが、生きているだけではないのか。そう思ったが、もちろん言わないし、そう思ったことを悟られまいと努めた。
「アカウントを持つ理由そのものが、私の場合はなかった。そのタイミングがないまま、ここまでやって来た。これまでのわずかな人生、どの時点でもそれが私に必要だと思う場面がなかったから」
 では、やはり最初から彼女はこういう人間だったのか。アカウントを失うことで印象の薄い人間になったのではなく、最初からだった。
 彼女はその機会すらすり抜けて来たのか。いや、機会の方から彼女をよけていったのかもしれない。教室や廊下で誰ともぶつからないのと同じように。
 少しだけほっとするが、それもまた表情に出ないようにした。
 これで、僕が彼女のようにおぼろげな存在になってしまう可能性は減った。全く同じようにはならないだろう。
 失礼かもしれないが、安心した。
「それで、最初の質問に答えるけれど」
 彼女は続けてそう言った。口調こそ冷たいが、決して話すのが嫌いではないのかもしれないと思えて来た。
「孤独に過ごすというのは、なにも特別なことではないわ。ただひたすらに、自分の時間を生きるだけよ」
「それが簡単にできれば、いいんですけれどね……」
 僕は力無く笑う。彼女には想像もつかないだろうし、またくだらないと思われるかもしれないが、僕はまだまだ「皆」というあの漠然とした概念に未練がある。これから味わうことになるであろう寂しさというものにすでに恐怖しているのだ。
 いや、寂しさならすでに感じている。もうそれは始まっているのだ。
 Kがこの世を去った日から。
「まあせいぜいがんばりなさいな」
 そっけなく、Zは言った。「私はそれについて努力をした経験がないから、助けになってあげられないわ」
「経験があれば、助けてくれたんですか?」
 別に期待があったわけではない。意味もなく、反射的に僕は言い返した。
 Zは凍りついた無表情のまま、僕の目をじっと見つめた。
 二秒ほどそうしていたかと思うと、くるりと身体の向きを変え、元々目指していた方向に向かって歩き出した。周囲の生徒たちの数はまばらになり、別棟への教室移動は大方済んでいる。休み時間ももう終わりかけているだろう。僕はZの後に続いて渡り廊下の向こう側を目指した。
 その背後から、じっと視線を受けていることなど、気づける僕ではなかった。

 再び昼休み。もはや教室に居座っていても仕方がないので、僕は購買部で買ったものを中庭で食べて、お昼を済ませた。電子決済を現在停止中のアカウントと紐付けておかなくて本当によかった。もちろん全てを一緒くたにしている人は少なくなく、その方がシンプルでわかりやすいのだが、万が一に備えて重要な機能をいくつかに分散するのは、昔から重宝されている方法のひとつである。僕のような場合だけでなく、もっと大規模な通信障害が発生することだってあるのだ。なにかひとつが駄目になったばっかりに、全ての機能が停止したら悪夢である。
 ベンチに腰掛けたまま、ぼんやり頭上を見上げる。小さな荷物が固定された配達用のドローンが、午後をまわった日差しを反射させながら飛んでいた。
 Zとは午前中に渡り廊下で会ったきり話していない。だが、あれからというもの、僕は異様な感覚を経験したのだった。
 下駄箱や階段、廊下など、いたるところで奇妙なものを見た。心の中ではそれを無視しろという叫びがあるのに、残念ながら頭はしっかり目で見たことを理解していた。
 これまで全く見たこともない、記憶になかった生徒たちがやたらと目につくのだ。
 たとえKと親密だったからと言って、彼と同じように僕も顔が広いということは、ない。しかし、それでも学年にはだいたいこういう顔ぶれの生徒たちがいる、くらいのことは把握しているつもりだ。入学して間もない頃などではない。すでにこの同期生たちで一年以上学校生活を送っているのだ。今更初めて見る顔が、それもひとりやふたりではないだなんて、学校の規模から考えても不自然である。
最初は、普段事情があってオンラインでの授業参加が多い生徒が登校してきたのかと思ったが、それにしてもその数が多いし、それほど重要な行事があるとも聞いていない。それにそんなことでは説明がつかない奇妙さがあった。
 厳密には初めて見る顔、と表現するのは適切ではないのかもしれない。そのほとんどは顔として捉えることができないほどに、印象が薄かった。
 ほとんど顔がないと言ってもよかった。
 別にのっぺらぼうというわけではない。だが、今こうして思い返してもそれらがどういう顔つきだったかを、もうすでに思い出すことができないのだ。顔に焦点を合わせることができないというか、像を結ぶことができないというか。とにかく、それらの印象は昨日初めてZを認識したときのものに近い。厄介な表現になるが、それを顔として捉えられないのに、しかし同時に知らない顔だと断言できる気がした。
 あんな人たちを知っているはずがない。
 そもそも、どうして僕があのひとたちを認識できるようになったかだ。
 僕は昨日のZの言葉を思い出す。
 あんたと同じ境遇の人間は少なくない。この校内に何人もいる。
 あのひとたちもまた、アカウントに問題を抱えているのか、なんらかの理由で存在感が薄らいでいるのだろう。
 Zのように。そして、アカウントを停止された僕もまた無関係ではない。
 恐ろしい話だった。
 だからひとりきりになって、ようやく気が休まる思いだった。すぐ近くにも何組か生徒たちのグループがいるが、このあたりにはあの不気味な見知らぬ生徒たちの姿はない。
 孤独に耐えようという決意をしてみると、思いのほか気が楽になったところがあった。話し声や笑い声から距離を置き、誰に気を遣う必要もない時間。こんな感覚はほとんど初めてのような気がした。
 僕は自分が孤立しているということを周囲に悟られまいと思っている。あくまで、前向きな態度で単独行動をしているに過ぎないという印象を与えておく必要があった。ひとりでいるということは、場合によっては敵対行為としてとられる恐れがあるのだ。つい最近まで皆の輪の中に身を置いていたなら、尚更そこが際立ちかねない。
 だから、教室にいるよりは、こうしてどこか開けた場所や人目につかない場所で過ごす方が、都合がよく、気楽であった。
 と思っていたのだが。
「おい」
 配達ドローンが頭上を飛び去っていくのを見送ったところで、もっとずっと低いところから声がした。ドローンが消えていった方角とは反対側に立ち、座っている僕を見下ろしている人物がいたのだ。
「はい?」
 突然のことだったので、かなり間の抜けた調子で反応する僕を、彼は睨みつけてきた。
 日差しの方から急に視線を手前に移したため、視界がぼんやりとしていたが、だんだん相手の顔がはっきりしてきた。しかし、またしてもその顔にはまるで見覚えがなかった。
 僕は手で目の上に日さしをつくり、相手の顔をじっと観察する。これほどまでに敵意をむき出しにした表情でありながら、これほどまでに印象が薄い顔というのも不思議である。本当に、こんな人は見たことがない。今日初めて会う転校生なのではないかとさえ思った。
 もちろんそこで、なにも思い至らないほど僕も鈍感ではない。この男子生徒はZに比べるとだいぶ表情が豊かなようだが、この奇妙な印象の薄さは、彼女と同類のものだ。今日目にしてきた、あの顔のない生徒たちとも。
 そして、おそらくは僕とも。
「なんで俺に敬礼するんだよ」
 彼は言った。その表情とは裏腹に、やはり口調は平坦である。
 一瞬なんのことを言っているのかと思ったが、どうやら僕が眩しさを和らげるために手でひさしをつくっていることを指しているらしい。
 確かに敬礼に似ていなくもないが、そう思おうとしない限りそうは見えないような……出会い頭に取ったポーズだからそう思われたのだろうか。
 僕は手を下ろし、今度は睨みつけていると誤解されないよう、多少は眩しさをこらえて、目を細めないようにした。
 相手は依然僕を睨みつけているが、僕の方から積極的に敵意を示す必要はないだろう。その理由も今のところはない。
「僕になにか?」
 そう言ってみたが、相手はなかなか口を開かない。とにかく睨み足りないという具合だった。
 やがて、
「お前、さっきZさんと話していたな」
 などと言い出した。
 Zの名前を他の人の口から聞くのが初めてだったので、なにか新鮮な響きがあった。彼女は僕の幻覚や妄想の産物ではなく、もちろん幽霊でもなく、しっかり実在していたことがわかりほっとする気持ちがあったが、しかし目の前の彼もまたそれと似たような存在感の人間のようなので、あまり安心もできなかった。
 それにしても、Zと話していたことがなにか問題なのだろうか。いや、僕も最初のうちは彼女と言葉を交わすことがあまりいいことには思えなかったのだが、しかし第三者から露骨にそのことを咎められるのは予期していなかった。
「話していましたが、それがなにか?」
 言い終えてから、なんとなく挑発的な言い方になってしまったことに気づいて、焦る。あまりこういう状況に慣れていないので、相手を刺激しないように言葉を選ぶのに難儀する。以前なら、なにかの間違いで僕が因縁をつけられることがあれば、Kがさっと間に入って全てを丸くおさめてくれたものだが。自分だけではまるで対処できる自信がない。
 つくづく自分がKに護られていたことを思い知る。
「随分仲良さそうに話してたよな。一体なにを話してたんだよ」
 Zと同じように、やはり疑問符がつかないイントネーションなのでどうも聞き取りづらいが、言わんとしていることはわかった。
 仲良さそうだったかな。Zは言うまでもなく終始無表情でにこりともしなかったはずだが。
 なんか、この人違う二人組を見て勘違いしているのではないか、とさえ思えた。
「少し話し込んでいたのは事実ですが、先方のプライバシーもありますから、内容を口外するのは憚られますね」
「Zさんと、そんなに個人的な話をしたのか」
 静かだがただならぬ剣幕。なにかを誤解されているようだが、一体どう説明したものだろうか。どんなふうに言っても怒らせてしまいそうな気がする。
 だいたいのことは察せられた。要するに彼はZが気になって仕方がなく、彼女と「親しげに」話していた僕が気に入らないのである。
 納得してもらえるかわからないものの、本当のことを言ってしまったほうがいいかもしれない。しかし、午前中のあの会話の内容を話すということは、必然的に前日のやりとりにも言及する必要があり、それは同時に僕が現在アカウントを停止されていることを説明することにもなる。
 Zはあの様子だ、僕の現状をいたずらに吹聴するようなことは多分しないだろう。やはり根拠があるわけではないが、そこは信用できる気がした。第一、彼女にはそんなことをする必要もなければ、そんなことをして得もない。
 だが、この彼はどうだ。最初から僕に敵意を向けてきている彼に、僕が今弱い立場にあることを教えるのは賢明とは言えない。Zさんに近づいた男を陥れるため、できることはなんでもするかもしれない。
 昨日初めてZから同じ境遇の人たちがいるということを聞いたときには、同じ悲劇に見舞われた者同士、連帯できるのではないかなどと思ったものだったが、今ではそれが無意味どころか危険であることがわかる。Zがそれを推奨しなかった理由はそのあたりではないか。いずれにせよ僕のアカウントが停止されているという事実は、今のところ学校では彼女以外に知られてはいけないのだ。
「大したことではないですよ」
 僕はできるだけなんでもないような調子で言った。「ちょっとした、そう、授業のことで話していたんです。前の授業で、あの、間違って僕のところに彼女のノートが返されてきてしまったので」
 相手がもしも僕たちと同じクラスの人間だった場合には、通用しない話だ。僕はこれ以上未知のクラスメイトがいませんようにと、心の中で半ば祈りながら相手の反応を待ったが果たして、
「本当に」
 と、ようやく表情を少しだけ緩和させて確認してきた。
 語尾が上がらないので、わかりづらいが、おそらく「本当に?」と聞いてきているのだと思う。
「ええ、本当にそれだけです」
「それのどこがプライバシーに関わる話なんだ」
 おっと、と思ったがすかさず、
「ですから、大事なノートが僕なんかのところに渡ってしまったということ自体が、彼女にとっては心外で恥ずかしいことかもしれないので、そう言ったんです。まあ、どうしてもとおっしゃるなら説明しても差し支えない程度のことでしょう。Zさんはそこまで狭量な方ではないと思いますから。でも、僕が話したということはご本人には黙っておいてくれませんか?あなたの中だけで留めておいてください」
「わかった」
 わかってくれた。すでに先程までの剣幕は消え去っており、その表情はニュートラルな状態になりつつある。しかし、怒りの兆候がなくなるとより一層印象の薄い顔になった。一度でも目を離したらもう思い出せなくなりそうな感じだった。
 それにしても、我ながら適当なことをぺらぺらと話したものである。かえって嘘っぽく聞こえるのではと思ったが、納得してくれたならいいだろう。喉が渇いた。
「あの人とは関わらない方がいい。孤立を深めることになるし、今にお前も幽霊になるぞ」
 などと、ここで彼が言い出してくれた方がおもしろかったのだが、実際には全然そんなことはなく、
「そうだ、彼女はそんな狭量なひとじゃない。わかった、そういうことなら、黙っておく。でもな、今度気安くあの人に話しかけたら、後悔することになるぞ。気を付けることだ」
 などと言うので、僕の思った通り話はシンプルかつ単純らしかった。
 とは言え、Zと関わるなという意味では大して変わらない。
「お前、どうしてあの人に気がついたんだ」
 続けて彼はそう言った。どうして、とつくからには、やはりこれも質問なのだろう。
 その口ぶりからは、やはり彼にとってもZの存在感が特殊であることがわかる。
 この話の方向はよくない。僕はすっとぼけることにした。
「同じ教室で過ごしているクラスメイトに対して、気がつくもなにもないでしょう」
 僕のそんな言葉に、相手は若干怪訝な顔をしたが、
「ふうん。まあいい」
 と、案外それで納得したらしい。「いや、話はそれだけだ。じゃあな、素敵な午後を」
 彼が方向転換して立ち去ろうとするので、僕はその背中に向かってひとつ質問してみた。
「あなたと彼女は、どういうご関係で?」
 よせばよかったのだが、一応はっきりさせておきたくなったのだ。それに、一方的に絡んできて勝手に立ち去るというのは気に入らない。
 反射的に振り向いた彼は、もはや表情を変えることなく、Zとそっくりな無表情で、
「お前には関係ない」
 と言い捨てて、足早に立ち去ってしまった。
 最後にまた怒らせただろうか。やりすぎたかもしれないと思ったが、結果的には追っ払うことができたのでよしとしよう。恐怖はあったが、なんとなく最後はすっきりした。彼には悪いが、ここ数日間の重たい気持ちがほんのわずかに軽くなったような気さえした。
 純粋に、誰かと直に言葉を交わすことが楽しかったのかもしれない。たったあれだけのことでも。
 僕は再び上空を見上げる。先程と同じものと思しきドローンが、アームで抱えていたはずの荷物を空にした状態で逆方向に飛び去っていくところだった。

 午後の間は、教室を注意深く観察して過ごしたが、昼休みに話しかけてきたあの彼の姿を見つけることはなかった。もうすでにどんな顔だったか思い出せなくなっているので、断言はできなかったが、僕の下手なごまかしが通用したようだし、やはり同じクラスではないのだろう。夏休みも明けて久しいというのにクラスメイトの顔ぶれを今更こんなふうに再度確認するとは、我ながら可笑しく思う。
 Zと視線がぶつからないように気をつけたが、幸いそんなこともなかった。一度ちらりと視界にとらえたことがあったが、そのときは窓の外の方を向いていたので、顔は見えなかった。別に見なくても想像はつく。きっとあの光の宿らない目と無表情でいたに違いない。
 そういうわけで、昼休みにかけられた脅しに屈したつもりはなかったが、特に彼女と言葉を交わす機会もなく、放課後となった。これで週末が始まると思うと、ようやく気が楽になった。少なくとも二日の間は周囲に神経を使う必要がない。
 それに、現状をどうにか動かすためにできることが多少あるのだ。どれくらい期待できるかはわからないが、なにもせずに待っているよりは気が紛れるように思えた。Zから教わった対処法だけではやはり気が滅入る。
 昼休みに因縁をつけられたあとの残り時間や、午後の授業の合間を使って調べたところによれば、サービスを運営している会社の支部を直接訪ねるという方法があるらしい。支部は世界中至るところにあるが、このような地方都市にもしっかり存在していた。
 実はこの手段はまだトラブル・シューティングを漁っていた頃になんとなく目にしてはいたのだが、いかんせん物理的な行動が億劫に感じられたのと、一通りの問い合わせはネット上で済んでいるから後回しにしていたのだった。だが、ここまで来ると試してみない手はないように思えたので、具体的なことを調べてみるに至ったのである。
 直に足を運んでその場で対応を依頼した方が案外早く話が通って解決するといった、読んだだけで笑みがこぼれてしまいそうな報告も書き込まれていたのだから、もう期待で胸が膨らんでしまう。
 土日は営業していないという役所や郵便局みたいなところもあるので、これはもう今日のこの時間を使わなければならないと思った。幸い営業そのものは遅くまでやっているようだった。
 自転車通学の僕は、学校を出るとそのままその支部の建物を目指してペダルを踏み始めた。できるだけ早く行って、さっさと用事を済ませてしまおう。学校から見て、目的地は僕の家と同じ方向にあったので、途中までは帰り道と同じであることも、都合がいいように思えた。それにそのあたりは知らない界隈というわけではなかった。
 Kの家があった方向である。きっと途中で通りかかるはずだ。Kの急死を受けて一家はすでにこの土地を出て行っており、以来半年間空き家として放置されている。敷地の中で死人が出ている影響で新たな住人が移ってくる見込みもないのではないか。庭の木に造られたツリーハウスもそのままである。
 ツリーハウスは僕たちにとってお約束の場所ではあったが、小学校を卒業してからはさすがにそこに集まることは次第になくなっていった。時折、Kとふたりで登ったこともあって、木に登るというのは中学生にはなかなか気分転換にもなったのだが、そもそも体格が小屋に合わなくなっていたのと、制服が汚れるなどというつまらない懸念もあって、自然と足が向かなくなった。
年頃になるとお互いの家などよりも市街地で遊ぶようになったし、端末による通信があったのでわざわざ休日に会う機会も半分以下に減っていた。アプリケーションを通した膨大で濃厚なコミュニケーションを思えば、当然だろう。
 だから、Kがなぜ最期のときにツリーハウスにいたのかが不思議ではあった。まあ、自宅の庭にあるのだから、この年になっても気分次第で出入りしていたとしてもなんらおかしくはないのだが。
 そうして、その日に限って足を滑らせるかなにかして、木から落ちたわけだ。
 登るにしても降りるにしても、それぞれの感覚は今でも如実に思い出すことができるくらい、手足に染み付いている気がした。僕でさえそうなのだから、Kなど目を閉じていても登り降りができたのではないか。それは言い過ぎだとしても、落ちるのはおろか、怪我をするようなヘマはしないように思えた。
 とは言え、だからこそ注意がおろそかになることもある。実際に、一番そこで遊んでいた頃にKや僕がなにか怪我をすることがどれくらいあっただろうか。確かに思い返してみると、枝や棘といったもので手を傷めたことがいくらでもある。木の上で遊んでいるのだ、それくらい文字通り自然なことだろう。それでも落ちそうになるとか、足を滑らせるようなことはあまりなかったはずだ。
 そこで、ふと蘇ってくるイメージがあった。Kが、一緒に遊んでいた女の子の手から棘を抜こうとする場面だ。ツリーハウスは僕とKの秘密基地ではあったが、それでも一切ほかの子どもを混ぜて遊ばないということはなかった。Kは思うところがあっても、来る者を拒まない。いくらでも他の子も一緒に遊んでいたものだ。
 そうこうするうちに自転車はその旧K邸の前に差し掛かった。
 住人がいなくなって半年、垣根の枝葉は全く不揃いで、道路に向かって異様に飛び出しているところがあるかと思えば、ぽっかり穴が空いたようにスカスカになっている部分もあり、とにかくみっともない感じだった。その垣根の向こうから、木の上に固定された小屋が覗いていた。それは記憶よりも高くも見えたし、また低くも感じられた。
 通りかかっただけというのもあるが、あまり仔細に観察したいとも思えないのだった。なんと言ってもそこはKが命を落とした場所だし、僕は元来空き家というものが一種の亡骸のように思えてならなかった。住人が去って生命の気配がなくなった建物は、営みの外枠だけが残る、中身がなにもない抜け殻のように感じられた。
 まあ、ここで遊んでいた当時から、家の方はあまり人の気配がない印象ではあった。Kの両親はほとんどの場合仕事で家を留守にしていたらしく、僕もほとんど会った記憶がないのだった。
そうだ、思えば僕は、あれだけ親しかったにも関わらず、Kの家族というものには、高校に至るまで会う機会がなかったのではないか。
どういうわけか今まで考えたこともなかったが、そんな記憶がすぐには呼び起こせない。それとも、わずかに会ったことがあるのを忘れているだけなのだろうか。
Kの葬儀はなかったことに加え、彼の家族はいつの間にか街を出ていってしまっていたから、最後に会う機会もなかった。葬儀がないせいでショックが大きくなかったとは言え、僕もその頃はやや混乱していたので、細かいことをよく覚えていないのだが。
果たして、どんな人たちだったのだろうか。
唯一それらしい記憶と言えば、ここに遊びに来るようになってすぐの頃、一度だけ庭で大人を目にしたことがあったくらいだ。女のひとが新顔の僕にも親しげに、明るく挨拶してきたのを覚えている。どんなひとだったかはもう思い出せない。今日学校で目にしたあの奇妙な生徒たちとは違ったニュアンスで、イメージが形にならない。おそらくあれがKの母親だったのではないか。
また庭の一画に自動車が停められているのを見たこともあったが、それもやはり、初めてここに遊びに来たときくらいではないか。
 
 すでに僕は旧K邸の前を通り過ぎて、先を目指してペダルを漕いでいる。庭まで入っていって記憶を探りたい気もしたが、今はあまり時間がない。
 ペダルを漕いでいる足と、頭の中との繋がりが断たれてしまったかのように、それぞれが別々の働きを続けていく。記憶の隅々をひっくり返しても、この急に募ってきた違和感を払拭できるほどのものが見つからない。せめてKの家族の存在を示す、片鱗のようなものが他にも見えてくれば。
 もうひとつ思い出せたことがあるとすれば、かつて目にしたKの家のごくわずかなディテールである。このイメージの中では、家にまだ人の生活の気配があった。ツリーハウスに登ったとき、そこからはちょうどKの家の二階部分が見えたのだが、そこの窓際になにかのぬいぐるみがこちらに背を向けて置かれていた。それだけを覚えている。
 Kのものではないとは決して言い切れない。けれど、なんとなくそれはKの下に弟か妹がいることを予感させたものだった。もちろん、それなら一緒に遊んでいてもおかしくはないが、そんな覚えもないのだった。
 それも僕の記憶が曖昧になっているだけで、一緒に遊んでいた中に、実は弟か妹がいたのだろうか?案外、あの手の棘を取ってやっていた女の子が妹だったのではないか。いや、いずれにせよ高校までの間にその存在を耳にしたこともないし、話題に上ったこともない。僕が知る限り、Kは僕と同じ一人っ子のはずだ。さすがにそこすらも僕の記憶違いだったらいよいよ自信がなくなってくる。
 とにかく、Kの家族に関するイメージは、庭で挨拶してきた母親らしき人と、停まっていた自動車、そして二階の窓際に見えたぬいぐるみだけだった。
 

 そのビルは寂れた商業地区や田畑、新興住宅地で構成されている地域にあって、かなり異彩を放っていたが、今ではどこの街でもこのようなコンクリート造りの無骨な箱のような建物が必ず置かれていることだろう。
 混み合っているのではないかと身構えていたが、案外ロビーは閑散としていた。備え付けられている公共の端末に身をかがめて操作をしているひと、記入台の上で用紙に書き込みをしているひと、そして座席に腰掛けて順番を待っているらしいひとがそれぞれひとりずついるだけだった。他に誰もカウンターを占めているひとがいないあたり、座っているひとは手続きの結果を待っているだけかもしれない。
 本拠地とは異なる国の、いち地方に置かれた小さな支部とは言え、世界的なネットワーク企業の施設としてはやや地味で、薄暗い印象すらあった。
 出入り口付近に置かれている装置のボタンを押すと、整理番号が印字された券が吐き出されたので、それをもぎ取って一応座席に腰掛けた。すぐに電子音声によってその番号が読み上げられた。
 カウンターの向こう側にはオレンジ色の制服を着た女性が座っており、にこやかに挨拶してきた。人に笑顔を向けられたのは、家族を除けば久しぶりのような気がして新鮮だった。彼女の背後の壁面には書類が入っていると思われる薄い引き出しが縦横にずらりと並んでおり、脇には気送管が何本か天井へと伸びていた。
 僕は自分のアカウントの現状と、それについて問い合わせをしてこういった返答を受け取っているが、まだ進展が見られないので、念の為に直接こちらに出向いた旨を説明した。
 相手は慣れた手つきで背後の引き出しから用紙を数枚取り出して、カウンターの上に載せた。
「それではこちらにご記入ください」
 僕は受け取った用紙を記入台に持って行き、書き始める。すでに端末を通して行った問い合わせの内容を繰り返すことになったが、できるだけ状況を丁寧に書いておく。受け取った用紙全てがだいたい同じような内容のものだった。
 書き終わった用紙をカウンターに持っていくと、女性がすぐに確認してくれた。
「身分証をお持ちですか?」
 と聞かれたので、
「学生証でいいでしょうか?」
「はい、問題ありません」
 財布から学生証を取り出して渡す。職員は学生証の内容と用紙の記入を照らし合わせ、学生番号を職員記入欄に書き込んだ。
「コピーを取らせていただくのでしばしお待ちください」
 言いながら立ち上がり、学生証を持って後方のドアの向こうに消えた。ほどなくして戻ってくると、やはり笑顔で学生証を返してきた。それから手元のコンピュータに素早いキータッチでなにか入力し、今度は大きなスタンプを取り出して、扱っていた用紙全てにそれを打ち付けていく。さらにはそれぞれ複写になっている部分にも同様のスタンプを押していき、複写ページを僕の方に向けて、
「こちらにもサインを」
 と言った。僕は全てに署名した。
 ようやく工程が終わったらしく、彼女は用紙を複写も含めて一部ずつ丸めて、カウンターの下から取り出したプラスチック製の筒に押し込むと、それを気送管に入れた。空気が圧縮される音がして勢いよく筒が天井の先へと消えていった。続けて残りの書類も全て同じように送り出されていった。
 複写の方は僕の控えではないのかと思っていると、女性がにこやかに言った。
「では係の者がご案内します」
 どこからか、カウンターの女性と同じオレンジ色の制服を着た男性が現れ、やはりにこやかに挨拶した。
「どうぞこちらへ」
 僕は一旦女性の方を向くと、彼女の仕事は終わったらしく、微笑むだけだった。僕は男性の後に続き、エレベーターに乗り込んだ。
「どうぞ気を落とさないでください」
 扉が閉まってエレベーターが上昇を始めると、彼は言った。「お客様のような年代で、アカウントのご利用が停止されるというのは、それはもう耐えがたいことかと思います。ご不便をおかけして申し訳ない限りです」
「はあ」
 これからどこへ行ってなにをするのだろうかという疑問が大きかったので、相手の言っていることに反応するのがだいぶ遅れた。
「すぐこちらに伺えばよかったのですが、なんというか、横着してしまいました」
 などと返事をした。
「とんでもございません。本来であれば最初にお問い合わせをいただいてからすぐに対応しなければならないところを、何日もお待たせしてしまうとは。ただ、どうかご容赦ください、オンラインでのお問い合わせはまとめて中央に集められるので、どうしてもそこからそれぞれの対応に移るプロセスに時間がかかってしまうのです。その点、お客様がこちらに直にお見えになったのは、全くもって賢明なご判断でした。失礼ながら、お若いのにしっかりしておられる」
 先ほど記入した用紙みたいにペラペラな、立板に水の口調だったが、僕は単純なのでそんなふうに言われて決して悪い気はしない。さすが世界的なサービスに従事しているだけあって、プロフェッショナルな対応だ。
「こちらは随分と古典的な手法を取られているんですね」
 僕は言った。社交辞令じみてはいたが、率直な感想ではある。
「ええ、お客様の重要なデータを取り扱う上で、この方が確実かつ安全だというシリコンバレーの判断です。お客様は覚えておられるかわかりませんが、さきの大停電の際にも、この手法を採用していたためにほとんどの情報を守ることができました。中途半端にデジタルにこだわった企業や機関がどのような末路を辿ったかは、ご存知の通りです」
 エレベーターが停まり扉が開くと、男性が僕に先に降りるように促した。
「こちらです」
 示された方向に廊下を進む。廊下の両側にはやたらたくさんドアがあるが、この建物、外観の印象よりも内部が広いような気がした。
 どの部屋からもコンピュータの分厚いキーが弾かれている音や、なにかの用紙が印刷されているような音、先ほども下で聞いた気送管の圧縮音、なにかの電子音や話し声などが、ややくぐもった感じで聞こえてくる。
 男性職員はとあるドアの前で立ち止まり、軽くノックした。中から返事があり、職員がドアを開けながら僕に入るよう促した。
 それほど広くない小部屋だった。中央に木製の机が置かれ、向こう側に女性がひとり腰掛けている。こちらは制服ではなく、スーツ姿だった。机の上にはなにもない。その手前には椅子がもう一脚置かれている。照明は明るいが、窓がないので少し閉塞感があった。表にはなんの表示もなかったが(ここに来るまでに見たどのドアにもなかったが)、ほかにあまり調度品がないところを見ると、ここは事務室というよりはちょっとした打ち合わせに使うだけの小部屋なのだろう。
「どうぞ、おかけください」
 こちらの女性も愛想よく微笑んでいたが、先ほどまでの職員たちよりは表情にバリエーションがあるように思えた。どうもZという人間を知ってからというもの、ひとの表情が気になる僕だった。
 カウンターのひとよりは年配に見えるが、うちの両親よりは少し若いように思える、そういう感じのひとだった。
 僕は勧められるままに椅子にかける。硬くて、わずかに軋んだ。
「なにかお飲みになりますか?お茶かコーヒーくらいしかないのですが」
「あ、ではコーヒーを。ミルクや砂糖は要りません」
 僕が言うと、女性は僕を案内してきた男性職員に向いて、
「コーヒーをふたつ。どちらもブラックで」
 と言いつけた。男性は短く返事をすると、廊下へ出ていった。
「このたびは本当にご迷惑をおかけしました」
 彼女は丁重に頭を下げた。「調査の結果、お客様に一切問題はなく、完全に当社の技術的な不手際によって起こったことだとはっきりしております。もうご心配は要りません。すでに手続きは進んでおり、お客様のアカウントを復旧するための処理が始まりますので。まだもう二、三日はかかるかもしれませんが、どうかご辛抱いただければ、全て元通りになります」
 僕は胸を撫で下ろした。あと二、三日なんて全然問題ではなかった。解決するということが確定したのなら、それ以上は望まない。
 直接ここに来て本当によかった。こうも簡単に話が進むとは思わなかった。全く、この数日の杞憂はなんだったのだろうか。言うまでもないが、やはりオンラインだけでは解決しないことがある。人間と人間が顔を合わせなければ話が進まない場合もあるのだ。
「よかったです、安心しました。停止さえ解除していただければ、僕としてはなにも言うことはありませんから、どうぞもうお気になさらないでください。ご丁寧に対応いただきありがとうございます」
「ただ、形式上しなければならないことがわずかに残っておりまして」
 と相手は言った。「大変心苦しいのですが、少しだけ質問させていただき、ご回答を記録してもよろしいでしょうか?いえ、本当に形式的なことで深い意味はありません」
「いいですよ、コーヒーもまだですし」
 ふたりして笑い声を上げた。
 女性は机の引き出しから用紙を取り出し、ボールペンを手に質問を始めた。内容は自分で記入する形のアンケートでも十分ではないかと思えるくらいなんでもないものだったが、僕は律儀に答えていった。こんなものほとんど思考する必要もない。直感的に思ったことを答えていったが、
「今回のアカウント停止についてどなたかに話されましたか?」
 そう聞かれたところで、迷いが生まれた。どうしてそんな質問がするのかという疑問が浮かぶ。そしてもし話していたらなにか問題でもあるのだろうか。
「家族には相談しているんですが、いけなかったでしょうか?」
「ああ、ご家族であれば問題ありませんよ、大丈夫です」
 と言われた。問題ないって、どういうことだ。しかしこの質問はそれで終わり、次へ進んでしまった。僕は次の答えを口にしながら、なんとなく緊張を覚えていた。
 嘘は言っていないはずである。自分から話したのは家族だけだ。しかし、Zはどうなるのだろうか。少なくとも、僕は自分から彼女にアカウント停止のことを話したりはしていない。全ては彼女の方で察知してきたことだ。
 もし、家族以外の者にも知られていると答えた場合にはどうなるのだろうか。そんな疑問が頭に居座り続けていたところへ、
「アカウント停止中に、不正なログインを通してサービスを利用していませんね?」
 と聞かれた。反射的に僕は、はい、と答える。こちらは確実にやっていないと胸を張って言えたが、答えるのにタイムラグがあってはいけないと頭の中で誰かが警告していた。
 形式的なことだと繰り返されていたが、なんとも身構えてしまう内容だった。まだ若干の緊張は解けないでいる。
「最後に、なにかこちらにおっしゃっておきたいことはありますか?利用上のご相談でも構いませんが」
 特にない、と答えてさっさと切り上げたい気もしたが、一方で気になることを確かめるいい機会にも思えた。
 先ほどの質問の中で感じてしまった緊張を和らげるためにも、相手と少し会話を交わした方がいいようにも思えたのだった。
 僕は、半年前に急死した同級生のアカウントが、喪章を表示させることなく放置されていることを話し、彼のアカウントがそんなふうに放置されていることになんとなく不安を感じるということを相談してみた。
 相手は興味深そうに頷き、少し考えてから、
「なるほど。おそらくそれは、ご家族からその方が亡くなったということを申告なさっていないのでしょうね。かつ、非常時管理者も設定されておらず、さらにはまだこちらから安否をご確認するほどの未更新期間を満たしていないのでしょう」
 と、僕が推測した通りのことを説明してくれた。やはりそうなるのか。
「彼は確実に亡くなっているのですが、やはり僕がここでお伝えするだけでは駄目でしょうか?」
 僕の言葉に相手はわかりやすく困ったような表情になった。
「そうですねえ、規定ではご遺族の方や非常時管理者候補の方からの申告でなければいけませんね。申告の後で、さらに死亡したことを証明する書類を揃えていただく必要があるので、そうすぐにできることではありません。死亡が確認され、申告者がご家族の場合にはそのままアカウントは故人設定に切り替わり、非常時管理者候補の方の場合は、生前に故人さまと取り決めた認証コードによって認証申請をしていただき、問題なければそのまま管理権限を引き継ぐことができます。この段階でまだ引き継ぎが行われていないということは、ご友人は非常時管理者を設定していない可能性が高いでしょうね」
「では、現状では未更新期間というのが満たされない限り、動きはないと」
「そうなりますね。未更新やログアウト状態が一年間続かない限り、こちらからは動くことはできません。いちばんは、ご家族に直接対処をお勧めするのがよいかと。これは私の個人的な推測に過ぎませんが、ご子息が突然亡くなってからすぐの頃は大変な時期だったかと思います。きっと、アカウントのことなどは後回しにして、それがそのまま今に至るのではないでしょうか。もちろん、そういう場合には当社への手続きなど一番後回しになっても仕方がありません。なんと言っても我々は単なる通信サービスですから」
「ええ、僕もおそらくそういう事情だろうと思っていました。わかりました、それじゃ近いうちに僕が」
 と言いかけながら気がつく。
 あ、駄目じゃん。僕はだから、Kの家族を知らないのだった。ここに来るまでの道中も考えていたように、どうしても接触した記憶がない。ましてやその連絡先などわかるわけがない。
 Kの家族が彼の死後、暗い記憶と結びついてしまったこの街を出ていったことは知っているが、どこへ越していったかはこれまで聞いたことがない。
 遺族に直にアカウントの放置を思い出させるというのは、一番手っ取り早いように思えたが、しかしこうなってはすぐに実践できそうもない。
 Kの両親がこの街で勤めていたところに移住先を聞いてみるとか?いや、そもそもどこでどんな仕事をしていたのかも知らなかった。
「どうかされましたか?」
 僕が言葉をつかえているのを不審がったのか、女性は笑顔こそ崩していないが、その目には困惑の色があった。
「あ、いえ、なんでもありません。ちょっと、いろいろ思い出したことがありまして」
 適当に言い繕うと、
「さぞお辛かったでしょうね。私などにはとてもおかけできる言葉がありませんが、どうか気を強く持ってください」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます。じゃあ、折を見て僕の方から遺族には伝えてみます」
 できもしないことを、つい言ってしまった。
「ええ、ぜひそうしてください」
 女性はそう言って席を立ち、僕をドアまで送った。エレベーターまで送るつもりはないらしく、僕が廊下に出ると、自分は部屋から出ないまま丁重に別れを告げて、ドアを閉めてしまった。僕は廊下にひとり立たされることになった。
 またあることに気がつく。
 コーヒーもらってないぞ。

 廊下といくつも並ぶドアに変わり映えがないので、一見来た道がどっちだったか戸惑ったが、ずっと先の方にエレベーターホールらしきくぼみの存在が感じられたので、そちらに向かって歩き出す。ドアの前を通り過ぎるたび、中から様々な音が聞こえてくる。僕が先ほど通されていた小部屋以外に、おそらくいろいろな広さのオフィスがあるのだろう。
 不可解なこともあったが、とりあえずはここに来た目的は達せられた。ここ数日間の心配事も一気に霧散したかのように、すっきりした。まだ少しかかるらしいが、とにかく理不尽なアカウント停止はこれで解除される。そうなれば、またクラスメイトたちの談笑に心置きなく参加できるわけだ。
 世界に再び参加できる。そう思うと、身体が軽くなったような気さえする。
 確かに僕はKの死によって、繋がりのひとつを失ったかもしれないが、アカウントさえ使うことができれば、自分の力でコミュニティに参加することができるはずだ。大丈夫、誰も僕を除け者にしたりはしないだろう。
 それに、ネットワークが使えるようになれば、Kの家族を知る者をいくらでも見つけられるだろう。そうなれば連絡をつけることも可能だ。全て解決するではないか。
 エレベーターで元の一階まで降りてくると、ロビーにZがいた。
 ぎょっとしたが、やはり学校で感じたように、僕がすぐにそれを彼女だと認識できるようになっていることの方が意外に思える。
 この誰でもなさそうなひとが、即座にZであるとわかるようになっている。いや、そこはやはり、誰にもあてはまらないからこそ消去法で彼女だと結論づけているのかもしれない。
「直談判に来たのね」
 ここに来たことは彼女の親切な忠告とは関係ない行動なので、こんなところにいるのを見られては快く思われないかもしれないと思ったが、その平坦な口調から機嫌のよしあしを読み取ることはできない。まあ、少なくとも上機嫌ではなさそうだが。
「学校でどう過ごすべきかはわかりましたが、外では他にできることもあると思いましてね。結局のところこれは、大人にどうにかしてもらわなければならないことですから」
 僕は調子よく言った。たとえZの唐突な出現を受けても、上の階で感じた喜びはまだ続いているのだ。「でも、来た甲斐はありましたよ。実はアカウント停止解除の手続きが進みまして、あと数日もすれば全て元通りだそうです」
「そう」
 さすがに意外な表情をするかと思ったが、相変わらず反応は見られない。「そうだといいわね」
 やや気になる物言いである。僕が自分の仲間にならなかったので、ケチをつけているのかもしれない。だとすれば案外人間らしいところがある。
「と言うと?」
 一応聞いてみると、
「ここは仕事がとても遅いのよ。ここで数日と言えば、それは平気で半年を意味する場合もあるわ。あなたも見たでしょう、ここではできるだけ古めかしい様式が取られている」
「ええ、でも、それはデータの取り扱いに万全を期すためだと」
「そんな口上を簡単に信じるほど馬鹿ではないわよね、あんたは」
 ないわよね、は確認ではなく断定である。
「いや……」
 そうかもしれません。
「アナログを採用しているのは、できるだけ仕事を遅らせるためよ。方法が方法だから、時間がかかる言い訳になる。でも本当は、できるだけなにもせず、そして都合のいい部分をコントロールするためにそうなっているの」
 どういうことだ。仕事を遅らせる?コントロール?言われてもすぐにはピンと来ない。
 それは、先ほどまでここで見聞きしていたことが全てひっくり返ってしまうような話だった。
 確かにこの施設は奇妙な印象もあるが、いや、落ち着け。
 彼女は適当なことを言っているだけではないか。やはり僕が早々にアカウントを回復してしまうのが、気に入らなくてそんなことを言うのだ。
 僕はなんでもないような顔をして言い返した。
「随分とお詳しいですね。というか、あなたはどうしてここにいるんですか?アカウントもないのに、なんの用が?」
「ここは母親の職場なの」
 そう言った。「人間の繋がりというのはね、あんたが思っているよりも重層的よ」
 驚きはしたが、確かに考えてもみればあり得ないことではなかった。Zがアカウントを持たず陽炎のように生きているとしても、だからと言ってその家族もそうだとは限らない。案外彼女には流行に敏感で、購読者が大勢ついたアカウントを持つ妹がいるかもしれない。想像はしづらいが。
「そうなんですか。だからいろいろご存知なんですね」
「ええ。でも今言ったような話は決して口外しないように。本来は私も知っていていいことではないから。勘のいい人間なら気づくことでしょうけれど、こういうことはネットなんかに書くと、アカウントの凍結じゃ済まないわよ」
 平坦な口調なので聞き逃してしまいそうだったが、さらりと重大なことを言われたような気がした。
 だいたいそれなら、そんな余計なことはなにも聞きたくなかったのだが。これではなにかの共犯にされたようではないか。
 もしかして、それが狙いなのか?
「でも、それなら尚更意外です。お母様がこちらにお勤めなのにアカウントを作る機会がなかったというのは……」
「なにもおかしなことはない。私がアカウントを持っていないのは母の方針なのだから」
「……どういうことですか?」
 至って素直な疑問が口から出た。
「ここで働いているからこそ、自分の子どもをそのシステムから遠ざけているということよ。子どもを守るためにね」
 あまりにも、僕が前提としているものから逸脱した話だったので、すぐには理解が追いつかなかった。
 今週の僕がそうであったように、アカウントが使えないというのは程度の差こそあれ日常生活に支障をきたすことだ。
 それを使えなければあらゆることがうまく回らなくなっている世の中で、子どもをそこから遠ざける?
 守るって、一体なにから……?
 いや、本当は僕も奥底の方ではその言わんとしていることがわかっていたのだと思う。
 だから、疑問よりもなにかぞっとするような感覚があった。自分の内側のどこかが、小さな鉤爪にひっかかれたかのような。
 これ以上なにも聞きたくないという思いと、会話を続けてこの言い知れない不安を軽くしたいという衝動が一度にやってきて、とにかく僕はもう一度Zになにかを言おうと、必死に頭を巡らせながら口を開きかけているところへ、
 エレベーターの扉が横にスライドして開いた。
 中には先ほど上の階で話した女性がいて、少しだけ驚いたように、目の前にいるZと僕とを見比べた。
「あら、あ、ああ、なるほど。確かに同じ学校の制服を着ていると思っていたんですよ。そうでしたか、うちの娘をご存知でしたか」
 と言った。手続きの担当者とユーザーという関係に、母親とその娘の友達という関係が加わったせいか、先ほどのような至極丁重な態度は若干和らいでいた。だが、その明るい声音に、妙な響きがあった。
「もう帰れるの」
 Zは母親に向かって言った。家族間でもその起伏のない口調が変わらないことに、僕は若干安堵した。これでもし彼女が豹変して感情豊かにでもなっていたら、パニックを起こしてしまうところだった。
「ええ、今日はもう大丈夫。ちょうどね、この方の手続きをしていたところなのよ」
 言いながら、Zママは僕の方に向き直る。「娘のお友達だとは思い至らず、失礼しました。この子、あまり学校のことを話してくれないもので」
「あ、はい、いや」
 途端になんと言っていいかわからなくなった。声が出ても言葉として形にならない。
 上でコーヒーもらってないんですが、とか、先ほどの男の人はどこに行ってしまったんだ、とか、もはやそんな疑問は気にならなくなっていた。
 それよりもなぜか不安でならない。いや、これはもう恐怖と言っていいかもしれない。僕ははっきりと恐ろしさを感じていた。この場所に、この母娘に。
 一体なんだというのだ。表面上はなにも問題ないはずなのに、なぜか圧を感じる。包囲網みたいなものの気配を感じる。
 僕はさりげなくさっと周囲を見回した。先ほどのカウンターの中には、もう営業時間も終わりに近いためか、すでに係の女性の姿はないし、ロビーには利用客の姿もない。カウンターの反対側では、制服を着た男性がふたり、低い声で言葉を交わしており、時折こちらをちらっと見ている。その片割れは先ほど僕を上階に案内し、Zママからコーヒーを言いつけられたままついに戻ってこなかった職員だった。
 僕の考えすぎでは、気にしすぎではないのか。そうだ、もう何日も友達とまともに話しておらず、フォーラムやチャットにも参加していない。いつも見ていた他の無数のアカウントの更新や、制限された内輪の話題、人工知能が自動生成し続けているミームさえ目にしていない。きっと、僕の神経も多少参ってきているのだ。だから、なんでもないことがものすごく気になってしまうのだ。
 意識してそう思うようにしなければ、とても耐えられそうになかった。とにかく、早いところここから出よう。もう用事は済んでいるのだ。
「今日はご丁寧にありがとうございました。僕はこれで失礼します」
 僕は母親の方に頭を下げてから、娘の方に向いて、「また学校で」などと普通の挨拶をした。
「お宅はどちらの方向になりますか?私たちももう帰りますから、よろしければ車でお送りしましょうか?」
 Zママがそんなことを言い出した。
 冗談ではない。
「あ、いえ、まだ少し寄りたいところもありますから、ありがとうございます」 
 早口に言って辞退する。自転車で来ていることを言えばいいだけなのに、全然別の言い訳が口をついて出るあたり、かなり焦っていた。
 Zママは微笑んだ。
「そうですか。金曜日ですものね、いろいろありますよね」
「そうよお母さん、男の子もいろいろあるのよ」
 母親は温かみのある笑顔とはつらつとした響き、娘の方は無表情と冷たい声音で、それぞれそう言った。
 その不気味さを直視する勇気はもはやなく、僕はそちらに背を向けて、建物の外に出ていったのだった。

 もちろん、まっすぐ帰宅した。
 本来なら喜ばしい成果があったはずなのだが、家に着く頃にはひどく疲れ果てていた。
「おかえりなさい」
 リビングでは両親が各々の端末に見入っており、僕に気づくと母が顔を上げて言った。
「遅かったから、なにか食べてきたのかと思ったんだけど?」
「ああ、いえ、書店でいろいろ見ているうちに時間が過ぎてしまっただけなんです。少し疲れたから休みます」
 僕は適当に返事をしたが、疲労感は表に出ているだろうから嘘には見えないはずだ。
 別に隠す必要もないし、両親は僕のアカウント停止のことを知っているのだから、正直にどこに立ち寄ってきてなにをしてきたかを話してもよかったのだが、しかしそれを説明する気が起こらないくらいくたびれていた。
 別にあとで気が向いてから話せばいい。
「そう。まあ、明日休みだし、適当にやりなさい」
 そう言って、母は再び端末に目を落とした。
 僕はずるずるとした足取りで自室に入り、ドアを閉めた。
「アルフレッド、照明を3に」
 力を振り絞り、壁に設置されているパネルに向かって言い放った。電子音が鳴って、天井の照明が少し暗めに調節されて点いた。
 ベッドに横になる。どうも家に帰ってきたという実感がなかった。両親の様子も別に変わりないし、部屋もいつも通りだ。しかし、まだあのコンクリートの箱のようなビルの中にいる気がした。長い廊下とおびただしい数のドア、正体不明の電子音となにかが印字されている音、行き交う気送管の圧縮音。不自然な笑みが貼り付けられたスタッフは、滑らかに耳心地のいい言葉を並べるがその本心は一切読み取ることができず、また具体的にどのような手続きがなされて、ものごとが処理されているかは全く見えてこない。そしてZとその母親。
 よくあそこから無事に帰ってこられたものだ。それが俄かには信じられなくて、家に帰ってきた気がしないのだろう。まだ精神の一部をあの廊下に置いてきてしまったような気さえした。
 それにしても、Zの母親があそこで働いているとは。家庭の方針で交流用アプリケーションから遠ざけられていたなら、彼女がアカウントを持たずに生きてきたのも、まあ納得である。その理由は不穏極まりない響きがあったが、それもまだ本当のところはわからないではないか。あのときはかなり混乱したが、やはりZが僕に難癖つけたくて言っているだけかもしれない。
 Zがまだ僕のことを母親に話していなかった様子であることは察せられたが、このあと詳しいことを話すとしたらどうだろうか。
 あのふたりが親子であるなら、僕が上階の小部屋で言った、家族以外にはアカウント停止のことを話していないという回答が嘘であることが露見するのではないかと、帰り道に気づいたのだ。いやだから、別に僕の方から話してはいないのだが。
 考えても仕方がない。どうも母娘の間に会話が多いようではなさそうだったし、今それを心配するのはやめよう。
 そういうふうに思考を巡らせていたら、疲れは取れなくとも眠気のようなものはいったん引いていった。僕はいつもの習慣で端末を手に取り、意味はないとわかっていながらも、一応、問題のアプリケーションを立ち上げてみる。依然としてアカウントが停止されていることを告げる画面が表示され、できることはなにもなかった。
 わかっている。手続きがようやく前進したのはつい先ほどのことだ。Zママの言葉を信じれば、まだ二、三日はかかる。僕は一旦端末をベッドの上に放る。だが、思い直してもう一度手に取り、端末本体に記録されている連絡先の一覧を開いてみた。登録してある件数はそれほど多くない。基本的にほとんどの通信は今アカウントが停止されているアプリケーションを通じて行うので、主要かつ多様な連絡先はその中に記録されている。端末デフォルトの通信機能は最低限のもので性能も高くなく、実際には件のアプリケーションがごく稀にトラブルを起こして使えなくなった場合などに備えた補助的なものだ。今時は通常であればほとんど誰も使わないだろう。
 案の定、端末側のアドレス帳には家族のほかは古くからの友人知人(Kも含まれる)が数人、病院や公共機関の連絡先が入っているだけだった。わずかな知人の中にKの家族と思しき人物はもちろんいない。おそらくアカウントの停止が解除され、交流用アプリケーションの方の連絡先を確認できたとしても、そこにもそんな人はいないのではないかと思う。Zや、彼女のファン、その他の同類たちの出現によりどうも自分の対人記憶力というものが頼りなく思えてきているが、それでもやはり、Kの家族として分類できそうな人物など、全然記憶にないのだった。
 やはり、誰かKの家族を知っているひとを当たるしかなく、そうするにはアカウントの回復を待たなければならない。今のままではクラスメイトにおいそれと話しかけられないのはもちろん、他の学年や校外などの関係を当たるからには、あれが使えないと話にならない。
 一応、ほとんど見込みはなさそうだったが、それでもなにかヒントになるリンクでも見つけられないかと思い、僕は故人のプロフィールページにブラウザからアクセスしてみた。入力や表示は任意だったが、バイオには家族構成の欄があったはずだ。そうだ、それだ。今まで見ようと思ったこともなかったので忘れていた。そこから連絡を取ることができるのではないか。
 でも駄目だった。ログアウト状態で閲覧できる範囲のことを忘れていた。確かにその項目はあるようだったが、今の状態ではその内容を見ることはできなかった。
 今できることはないのだ。諦めて寝るか宿題でもやろうかと思ったそのとき。
 すっかり見慣れているはずのKのフィード欄に違和感を覚えたのだった。
 なにかがおかしい。半年間動きのないこのページを、僕はすっかり記憶しているのだが、その記憶と目の前のものとで若干辻褄が合わない。
 配列に若干のズレが生じている。
 おそらく僕はすでにこの現象の原因に気がついている。それがあり得ないことだから納得できていないだけだ。しかし、事実はこの目で見ている通りである。
 Kのフィードが更新されているのだ。
 息が止まる思いだった。実際、呼吸をほんのわずかだが忘れたかもしれない。
 ついにKの亡霊が現れたのか、と即座にあの噂話が思い起こされたが、同時に今Kのアカウントは完全に無防備で、誰か他の人間に乗っ取られてもおかしくない状態にあることも、僕は十分わかっていた。ゆっくりと呼吸が再開されるにつれ、頭はそちらの方に切り替わっていった。
 放置されているアカウントが乗っ取られるケースがあるとすれば、大抵の場合それはスパム広告を拡散するためであって、そういうのはソフトウェアや人工知能が無作為に行うものだ。死人になりすまそうなどという意図が働くはずもない。
 このとき僕が目撃したKの最新のフィードは、見るからに怪しげな広告のリポストでもなければ、生前のKを模したような投稿でもなかった。
 ただ一文で。
「土曜の午後に木のところで」
 と、書いてあるだけだった。画像もGIFアニメも音声も映像もスタンプも絵文字もなし、テキストオンリーのシンプルな一文だった。
 なんだこれは。かなり漠然としているが、日時と場所の指定のように思える。僕は大急ぎで周囲を見まわし、机の上に転がっていた鉛筆を取ると、最初に目に止まった紙類、なにかのレシートの裏側にそれをそのまま書き留めた。我ながら素早い判断だったように思う。結局、その投稿はそれからしばらくした後、消えてしまったのだ。僕の端末では画面の複写はできないから、このようにメモするしかなかった。戦前の悪夢的な過渡期の教訓で、今現在画面の複写ができる端末や、端末画面を外部から撮影できる機材はごく限られた場所でしか使われていないのだ。
 文面を読み返してみる。不審ではあるが、スパムのようなテンプレートの雰囲気はない。意味のある文章である以上は、誰かが目的を持ってKのアカウントにログインし、書いたものだ。
 一体誰が誰に向けて発したものなのか。
 このなにひとつ具体性のないメッセージに、ひとつだけ僕は思い当たるものがあった。
 木のところで。文脈からして場所を示したその言葉が、決め手である。
 Kのフィードを通して木などと言えば、それは自然とあのツリーハウスが連想された。僕とKの関係が始まった舞台であり、その後も膨大な時間を過ごした重要なスポットである、あの木だ。木というのがあのツリーハウスのことであるとすれば、これは僕に向けられたものだと考えられないだろうか。
 その理屈はまだ弱いかもしれないが、そういうこととは関係のない気持ち的な部分で、僕はそう思いたかった。根拠はないが、そう解釈したかったのだ。かりに僕宛てのものでなかったとしても、今このタイミングでこれを目撃してしまったことには、なにか意味があるはずだと。
 土曜というのは、これは今日が金曜日であることを思えば、明日のことだと考えていいだろう。別にそれなら明日と書いても変わらないように思えるが、そこはできるだけ選択の余地がある言葉を選んだのだろう。
 そのあたり、やはり誰に読まれてもいい表現で、誰かを呼び出しているように思える。
 明日、半年前までKが住んでいた家の敷地にあるツリーハウスの付近に行けば、なにかがあるのかもしれない。
 午後、というのは午後一時に行っておけば間違いないだろう。それから数時間、そこで待つことになってもいい。
 どうせ今の僕にはすることもないし、Kの家はそれほど遠くはない。大した手間にもならないから、結局はただのいたずらだったとしても一向に構わないじゃないか。
 うまくいけば、以前から言われているチャットの幽霊の正体だってわかるかもしれない。
 今ひとつだけはっきりしているのは、この謎の書き込みによってKのアカウント放置期間はリセットされたということだ。

 翌日の土曜日はよく晴れていた。僕は朝起きたときから少し緊張してそわそわしていたが、家族は別にそれを気に留めなかった。正午を過ぎて、午後一時になる少し前に適当な口実で家を出た。自転車はあえて使わなかった。小学校の帰り道に立ち寄ったあの最初の日のように、徒歩で向かった。あちこちひび割れて草が生えてきているようなアスファルトを一歩一歩踏み締め、まだ僕が確かに地上に立っている感覚を噛み締める。ネットワークのアカウントがどんな状態であれ、僕は確かにここに存在しているのだ。
 しばらくして、旧K邸のあの荒れた垣根が見えてきた。
 一応周囲を確認して、近くに誰もいないことを確認する。僕がひとりで道を歩いているだけでも目につくのだ、空き家となっている敷地に入っていくところを見られるのはいいことではない。だが、心配は要らなかった。近辺には一切人影がない。周りにある田畑で農作業をしている人さえおらず(もっとも、そのほとんどは人手がなくなって放置された荒地となっており、今やソーラーパネルが敷かれている)、自動車もちょうど来ていないタイミングだった。僕は素早く垣根が途切れている出入り口から敷地の中に足を踏み入れた。一度中に入ってしまえば、すぐ前を通りかかるだけではこちらの姿を見られまい。
 一応用心してそうっと敷地内を伺ったが、まだ誰も来ていないようだった。
 まずは庭にあるツリーハウスが目に入る。久しぶりに近くで見たが、元々が自然と混ざり合っているものなので、それほど変化を感じなかったが、少し枝が増えている気もした。それなりに大きく太い木の上に、箱型の小屋があり、小屋は様々な色と大きさの材木を合わせて造られているので、かつてはパッチワークのような印象を受けたものだが、すでにどの材木も色褪せ、若干の濃淡はあるがほとんど同じような色に均されていた。
 あの小屋の出入り口のあたりから、地面に向かって落ちたのか。僕は両方の地点を見比べ、高さを目測する。このくらいの高さでも、頭から落ちて打ちどころが悪かったりすれば、死んでしまうものなのだろうが、やはりどうも実感がなかった。
 僕は背後を振り返る。家の方はツリーハウスに比べて変化が際立っていた。前から寂れた印象はあったが、たった半年の間に、まるで数年の時間は感じられるほどに荒れ果てている。人間が生活しなくなっただけで、こうも家というのは崩れてしまうものなのだろうか。
 二階の窓の方に目をやる。雨戸が締め切られていて、そこにツリーハウスの木から枝が伸び切ってもう少しで届きそうだった。
 やはり、僕にはあの母屋の方に上がった記憶がないのだった。
「どうやらあれで通じたみたいね」
 突然声がして、先ほど通ってきた敷地の出入り口の方を振り向く。
 もはや言うまでもなさそうだったが、立っていたのはZだった。
 午後の日差しの中で見るZは、なんだか昨日までとは違う印象があった。いや、相変わらず印象そのものは薄いのだが、あの輪郭のぼやけた感じがまるでなかった。そのときになってやっと、僕は彼女が私服姿であることに気がついた。それくらいにその服装もまた制服と大して変化を感じないほど薄い印象だったのだが、それでも。
 今日はあの幽霊のような感じでは、決してなかった。
「あまり驚かないわね。お見通しだったかしら」
「いえ」
 僕は答える。「今の今まで、誰が来てもおかしくないと思っていましたよ。もちろん筆頭はあなたでしたが」
 昨日の昼休みの彼のことも思い浮かんだが、思い浮かんだだけで特に意味はなかった。
「でも、もし僕があれを読んでなかったらどうしてたんですか?それどころか、違うひとがあれを見て、ここに来ていたかもしれませんよ」
「もちろん誰が来たかどうかはこっそり確認するつもりだったわ。あんたがあれを読むかどうかは、まあ一種の賭けね」
 いつも通り淡々と言う。
「どうして昨日のあの時間を選んだんです?」
「あんたが事務局から家に帰った頃合いを計算したの。家の場所までは知らなかったけれど、だいたいこっちの方向だとわかっていたから。母から、あんたがKのアカウントのことで相談をしてきたと聞いたから、家に帰ったら意味もなくあの画面を見るかもしれないと思ったのよ」
 Zママ、守秘義務みたいなものはないのだろうか。家族間の会話でこそ慎重になってほしいものだが。しかし、だとすれば僕のアカウント停止をすでにZが知っていることなど、なんら問題ではなさそうだった。母娘の間では自然と共有された話題だったことだろう。
「母さんはそれほど生真面目な職員ではないわよ。仕事はちゃんとするけれどね。あの歪なシステムの中でも、できるだけ迅速にことを運ぶように努力しているわ」
「確かに、仕事はちゃんとされてそうでしたね。それじゃあ、Kのアカウントにログインできたのも、お母様のお力によってですか?」
「それは違うわ」
 平坦に、しかしきっぱり否定した。「母はそういう不正は働かない。あれは私が勝手にやったことよ」
「勝手にって、それじゃ一体どうやって……」
「まあ、知識があればそれなりにできることよ。と、言えれば格好がつくのでしょうけれど、ログインに必要な情報は生前にKから聞いていたわ」
 彼女は言う。「もちろん聞き出してから、彼を手にかけたわけではないわよ。彼があそこから落ちたときのことなど、私は知らないもの」
 彼女がKのアカウントにログインしている時点で、そういう可能性も考えないわけではなかったが、しかしKの体格を考えれば、Zにそんな大仕事ができるとは思えなかった。たとえ木の上から突き落とすとしてもだ。
「彼とあなたにそんな接点があるとは思いませんでした」
 僕は率直な感想を口にした。
「昨日も言ったでしょう。人の繋がりは重層的だって」
「でも、補助認証はどうしたんですか?単純なパスワードだけでは急に違う端末からログインは出来ないでしょう」
「その場で彼に立ち会ってもらいながらやればわけないわ」
 そいつは一体どういう関係なのだろうか。僕の想定をはるかに上回っていた。
「別にそれ自体に深い意味はない。単に彼は私がアカウントを持ったことがなく、その世界を知らなかったから、見せてくれたというだけのことよ。つまるところ、彼は私の端末を予備として設定してくれたというところね。日々彼のアカウントを通していろいろなものが見られたわ」
「なるほど」
 僕は言った。「確かに彼の性格を考えれば、そういう手の差し伸べ方もあるかもしれませんが、それにしてもあなたにそこまでするというのはどうにも」
「まだ気がつかないようね」
 Zは冷たく言い放った。「あんたは初めてここに来たときのことを覚えていないの」
 周囲を示しながらそう言う。言葉の音程に変化はない。覚えていないの、は問いかけのようでもあるし、僕がそうであるという断定のようでもあった。
「よく覚えていますよ。Kとその小屋の中で」「いいえ違う」「え?」
 Zの声の響きは、二日前に出会って以来最も力強く感じられた。
「私もそこにいた」

 結局、僕が長年抱いてきた記憶のイメージというのはかなり頼りないものに成り果てていたらしい。四隅が白んでくるどころか、少しでも印象の薄い要素がどんどん欠落していき、思い出す際に手間のかかるディテールは単純化され、第三者に説明するときのために全体の筋がシンプルになるように、出来事の順序を入れ替え、話として伝わりやすいように、無意識に編集してしまっていたのだ。
「母があなたに、Kの家族に連絡を取るよう勧めたらしいわね」
「ええ、アカウントの放置を思い出させるにはそれがいちばんだと」
 もっとも、Zが密かにそれを使っているのであれば、正当な処理はしないほうがいいのだろうが。
「あなたはKの家族には多分会ったことないわよ」
「そんな気がしていたところでした」
「それどころか、Kの家にだって行ったことはないわ」
 僕は耳を疑った。なにを言っているんだ?
「なにを言うんですか。じゃあここはなんだって言うんです。あの家は」
 言いながら、背後に建っている今はもう廃墟に成り果てたそれを示す。
「あれは私の家よ。家だった。私はあの家で育ったの」
 などと言うのだった。「このツリーハウスもね、私の父が造ってくれたものよ」
 急に僕は吐き気を覚えた。確かにいろいろなことを勘違いして覚えていたり、記憶違いはいくらでもあるだろう。
 だが、これは。
 これは僕のあらゆる前提がひっくり返ってしまう。僕の世界が覆ってしまう。
 だが、一方で急激に浮かび上がってくるイメージもある。記憶の上にかぶさっていた砂や埃がざーっと払い落とされていくような感覚。
 何度も繰り返される日常のいち場面。小屋の中で子どもたちが座って、菓子類を広げてゲーム機で遊んでいる。
 ひとりは僕だ。そしてKがいるのだが、彼は横に座った女の子に向かってゲーム機の操作を教えている。
 いや、僕はとっくにその女の子のことを思い出していたではないか。
 Kが手に刺さった棘を取ってやろうとしていたあの女の子だ。あの姿はゲームを教わっているそれと容易に繋がるのだった。
「Kが私の家にツリーハウスがあることを知ったのは、単なる偶然だった。そうしたら彼は、私がこんなにいいものを持っているのに、皆が知らないのはもったいないと、そう言っていたわ。そのうちに友達を何人も集めて遊びに来てくれた。彼は別にこれを乗っ取ろうとか、そういうつもりでは決してなかった。ただ、私が寂しくないようにと行動してくれた。あのときは楽しかった」
 だからこそ、彼はあっという間にツリーハウスに飽きて、遊びに来なくなった皆に対して憤った。そして、おそらくそのことで余計にZに惨めな思いをさせたと、自分のことも責めたようだった。
「やがて、彼があんたを連れてきた。彼はあんたのことを相当買ってたわよ。信頼できるって」
 僕の身勝手な記憶においても、確かに彼はツリーハウスに遊びに来ていた連中に対して不満を漏らしていた。あの場面はその名残だったのかもしれない。
そうして、あのとき彼はこうも言っていた。ここは今日から俺たちの秘密基地としよう、と。俺と君ではなく、俺たちと。
Zの言うように、あの場には彼女がいたのだ。
「でも、僕の方ではあなたのことを覚えていないとは、結局はその信頼を裏切ったことになりますね」
「仕方がないわよ。私は印象が薄いもの。幼い頃の記憶の中では形を保てないでしょう」
 冷たさを帯びた口調ではあるが、僕は少し安堵した。
「私はあんたのことをよく覚えている。あんたは物腰が丁重で、親切だった。今じゃかえって気障ったらしいけれど」
「しゃべり方のことなら、あなたも相当ですが」
「それに」
 彼女は続けた。「あんたはとにかくツリーハウスそのものに夢中だったわ。あれじゃ私のことを覚えていなくても無理はないわね。あんたが初めてここに遊びにきてから少しすると、私は両親の仕事の都合でここを出ていかなければならなくなった。それきり、あんたとは会っていないんだから、忘れてしまっても仕方がないことよ」
母親のみならず、Zの父親もまたあの会社に勤めていた。夫妻は多忙となり、その後も何度か転勤を繰り返した。Zはそれについてまわっており、数度の転校を経験していた。通信技術が発達し、必ずしも直に出勤や登校をする必要がない今の時代にあってそんな境遇だったのは、彼女がオンライン環境から遠ざけられていたことを考えれば、無理もなさそうだった。
 それに、企業の内部ではかえって古典的な方法が重宝されていることを、僕も目にしたではないか。建物中に内臓のように張り巡らされている気送管が思い浮かんだ。
「教室での存在感が薄いのはそのせいかもしれない。確固たる存在を主張する間もなく、いろいろなところを転々としていたから。その上あのアカウントも持っていなければ当然ね」
 僕は半ば呆然としつつ、改めて廃墟となった旧K邸もとい旧Z邸を眺める。
 だからここまで荒れているのだ。誰も住まなくなって数年は経っているように見えたのは、事実そうだからだ。
 Kの家族が去ってからの半年間ではやはりこうはなるまい。Kと僕が遊んでいた頃からどうも人の気配がなかったり、多少寂れているように見えていたのも、そのせいだったのだ。留守にしているどころか、元より誰も住んでいなかったのだから。
当たり前のことだが、ここがZの家だったのなら、同時に昨日会ったZの母親もここに住んでいたことになる。そこで僕は思い至った。
ここで一度だけ見かけたあの女のひとは、昨日会ったZママだったのだ。僕が娘の知り合いだと知ってから、その声音や笑い方には、営業用のそれとはまた少し違う響きが感じられたものだが、あの妙な感じは、この庭で全く同じ声音を聞いたことがあったからなのだろう。
あのとき抱いた違和感は、思いがけない記憶が刺激されたせいだったのか。Zママの方でも僕のことを覚えていなかったようだが、もし僕が娘のツリーハウスで遊んでいたひとりであること、そしてそいつが相談した放置アカウントというのが、もうひとりの遊び相手のものだと知ったら、どんな反応をするだろうか。それとも、もう娘はそのことを教えたのだろうか。
窓際のぬいぐるみの正体もわかった気がした。あれはZのものだったのだろう。ツリーハウスの上から真っ直ぐ見えるあの部屋が、彼女の自室だったのだ。 
 そして、僕はそこをKの家だと思い込み、彼と空き家の庭で遊び続けていた。新しい住人が移ってこないのをいいことに、ずっと。
「そこまで遊び倒してくれたなら、造った父も本望でしょう。父の方はプログラマーで、元来日曜大工ができるようなタイプではなかったから、これが最初で最後の作品よ」
 Zの両親は彼女が中学生の頃に離婚しており、それを機に母娘は再びこの街に戻ってきた。
「前と同じ家に住むことはなかったけれど、このあたりは母の勤め先にも通じているし、懐かしくてよく見に来たわ。まさか、あれから一度も誰も住んでいなくて、ツリーハウスのそのまま残っているとはね。そういえば、あんたたちふたりが馬鹿みたいに騒ぎながら自転車漕いでるのを何度か見たわよ」
「それは人違いでは」
 そうしてZとKは高校で再会するわけか。Kは僕などとは違って、ひとの顔を忘れたりはしない。ましてやかつてそんな接点があった相手なら、どれほど時間が経ってようともそれと気づき、なんの屈託もなく接触することだろう。すっかり印象が薄く、存在がおぼろげになってしまった相手であっても。
「いろいろ思い出話をしているうちに、あなたのことも話したわ。彼の話から、あなたが未だにここを彼の家だと思いこんでいるらしいことがわかった。どうして本当のことを教えないのか、理由はついに聞けずじまいだったけれど」
 おそらく、僕が聞かなかったからだと思う。Kもまさかそんな勘違いをしているとは思わないから、改めて指摘する発想もなかっただろう。勘違いが正されるタイミングが訪れないうちに、成長してそこで遊ばなくなったから、ついにそのままとなったのだろう。
 しかし、タイミングならいくらでもあったのではないか。だって、日が暮れるまでここで遊んでいれば、必ずKが本来の家に帰る場面に立ち会うではないか。何度でも一緒に帰っているはずだ。
 しかし、なにも覚えていない。僕の記憶の中では完全にここが彼の家だった。彼が家に帰ろうとする場面などは、頭の中で勝手に書き換えてしまっているのだろうか。自分の記憶が信頼できないばかりか、不気味に思えてくる。
 考えてもみれば、僕はあまりに細部に無関心だった。Zの言うように、本当にツリーハウスに魅了されていて他のことはあまり気にならなかったのだろう。
見ようともしておらず、意識にさえない。
「本当の家を知らないなら、彼の家族にも会ったことはないわよね。でも気にすることはないわ。幼い頃に短期間しか付き合いがなかった私が言っても慰めにはならないけれど、私も彼の家族については知らないもの。多分誰も知らないのではないかしら。彼はそのことを一切話さなかったし、彼の死後、お葬式もないまますぐにいなくなってしまったあたり、外との付き合いというものを避けるような人たちだったのかもしれない」
 確かに、僕の方で一方的に思い込みをしているだけでは成り立たないところがある。きっと、Kの家の方にもなにかがあったのだろう。今となっては知る由もないが、わからないままでいいようにも思えた。
 Zと再会したKは、やがて彼女の境遇を慮り、彼女の端末から本来はアカウントがなければ見られないものを見られるようにした。
 Kの意図は小学生の頃から変わっていなかっただろう。
Zが寂しくないようにしただけのことである。
「母はいい人よ。そして私にアカウントを作らせない考えもよくわかる。これはKもわかってくれていたわ。だからこそ、折衷案として自分からはなにも発信しない、見るだけという半分の権限を分けてくれた」
「お母様は、もちろんご存知ないんでしょうね」
「ええ。でも、薄々勘づいているかもしれない。頭がいいもの。いずれ私が自分の判断で行動するようになることくらい、前からわかっていたはずよ。それに、多少は言いつけに背くという経験も必要だわ」
「でも、あなたは僕に孤独を推奨していた。あれは本心ではなかったってことですか?」
「孤独はいいものよ。でも、それだけじゃまかり通らない。あのアカウントで全てが解決するわけでは、もちろんない。あれのせいで以前にはなかった寂しさを感じることもあったけれど、私が確かにそこにいるという感覚を得ることもできた。少なくとも私は、Kのおかげでなんとか自分を世界に繋ぎとめていられたわ。そんな気がするのよ。とてもじゃないけど、あのままじゃ消えてしまいそうで怖かった」
それはそうなのだろう。僕だってこの数日は不安で仕方がなかった。
 なにごとも極端なのはよくない。KはZにバランスというものを与えたのかもしれない。
「でも、Kはもういない。彼のアカウントを使い続けるのも、もう難しいわ」
 そこで、Zは一歩僕に歩み寄ってきた。
「Kがいない今、私は誰かに認識してもらわないといけない。そうでないと、自分でも自分の存在を信じられなくなる」
 Zはまっすぐに僕を見つめている。
 僕も見返した。その顔をこんなふうに見るのは、これが初めてだった。
 左目だけが二重で、右の頬にひとつだけほくろがあった。
 この人はこういう顔をしていたのか。
「昔のことを覚えていないのは、構わない。その代わり、これからは私を認識してくれたら、うれしいわ」
 全然うれしくなさそうな口調だったが、すでに僕には違う響きを持って聞こえるようになっていた。
 彼女だけではない。廊下で見かけた顔のない生徒たち、中庭で絡んできた彼、皆急に現れたわけではないのだ。ましてや、僕が幽霊の仲間になりかけたからでもない。
 僕が皆を認識しはじめたからだ。そこにいることを認め、意識したのだ。
「ひとつ気になることが」
 僕は言った。
「なにかしら」
「僕のアカウントが停止された理由をご存知ではないですか?」
 僕の問いに、Zは。
 彼女は微笑んだのだった。
 口角が、注視しなければわからないほど微妙に動き、その瞳にほんのわずかだが光が宿る。
僕はあえてその変化に反応せず、
「それからもうひとつ」
と、付け加えた。
「Kがあんなことになってすぐの頃、彼のアカウントでチャットに入室しませんでしたか?」
「いいえ」
 彼女はすぐ元の表情に戻って、首を横に振ったのだった。
「それは知らないわ」

 月曜日は雨だった。きっと廃墟の庭に建つツリーハウスも雨に打たれていることだろう。小屋が朽ちていくのは時間の問題だが、剪定する者のいない木の枝葉はどんどん育ち、伸びていくのかもしれない。
 学校に行くと、金曜日よりもさらに多くの知らない生徒が目につくようになった。しかし、顔が像を結ばないというようなことは、誰に対してもなかった。それぞれが様々な顔をしていた。
 廊下で一度、金曜の昼休みに中庭で会ったあの彼のことも見かけた。向こうは僕に気づかなかったが、僕にはすぐにわかった。彼もまた前より具体的な顔つきをしている。僕にはそう見える。
 Zを真正面から認識することで、僕の視界にはある変化が起こっているらしい。視界というよりは、意識かもしれない。
 それにしても、Zとの関係がやや変わってくるということは、再びあの彼の怒りを買うことにもなるのだろう。あの脅しに従って、彼女と話さずに過ごすということは、僕にはもうできない。
 僕とKが、そしてZとKがそうであったように、僕とZもまた友人になったからだ。それも再び。
 なので、僕はいずれ近いうちに、改めて認識できるようになったあの顔に、再び睨まれることになる。今からでもどう対応するか考えておかなければならない。
 確か、後悔させるとか言っていた。
 彼は、Zと接点のある人間全員をあのように敵視するのだろうか?全員にあのような警告をし、ときにそれを実行してきたのだろうか?
 そこで、ある可能性に思い至るのだが、まあ、そのことは追々考えるとしよう。
 教室に入り、自分の席に着いたちょうどそのとき、鞄に入れてあった自分の端末から聞き慣れない電子音が聞こえてきた。
 まだ朝のホームルームまでは時間がある。僕は端末を取り出して、スリープモードを解除し、画面を映した。
 特別な通知が届いていた。開くと、黒い画面に緑色のテキストが並び、中央ではピクセルで描画されたイルカのキャラクターが上機嫌に宙返りして、手に見立てたヒレをこちらに向けて振っていた。
 そこには、僕のアカウント停止が解除され、全ての機能が利用できる状態に回復されたということが書かれていた。
 僕は迷わずログインした。