敬体の練習

 近頃日常的に使う言葉が雑になっていくように感じる一方で、いろいろと児童向けの仕事も増え、絵本などはだいたいですます調なので気を遣わなければならないことも多くなった。もちろん仕事のメールでは誰が相手であれ敬体なので、そのような言葉遣いを日常的に使っていることは使っているのだが、いかんせんそういうのは定型的な物言いばかりになるのであまりすっと出てくるような言葉とも言い難い。ほとんどの人が読み飛ばしているであろう箇所についても、こういうとき敬語ですんなりと表現するにはどうしたらいいか、と手が止まってしまうこともしばしばである。それにこのブログにしたっていつも同じ常体で書いていて、なんだかあまり体温を感じられない文体になっている気がするのです。ですから、ここはひとつですます調で書く練習をしたらどうかと思ったわけです。そうすることでなにかいつもは見えない表情みたいなものがぼんやり浮かんできたら、それはそれでいいなあと思うのです。
 とにかくぼくの日々というのは心配事の連続で、ひとつ片づいたと思えば、またすぐに新しい心配が持ち上がってきます。なにより腹立たしいのは、心配事が向こうからやってくるように見えるときもあれば、わざわざ自分で心配事を見つけているような場合もあるということです。心配事を見つける。つまりは、一見客観的に見れば大したことではないのにも関わらず、ぼくの方でどこかに不安要素を見出し、心配事に仕立て上げようという努力みたいなことを、不本意ながらやってしまうようなのです。全く我ながらどうしようもねえと思うほかありません。よく、悩みが多い人はもはや悩むことを趣味だと思う方がいいなどと言われることがありますが、確かにその方がいいかもしれないなと思う一方、いやそんな悲しい趣味は嫌だなと、素直に思ってしまいます。
 心配事や悩み事の悪い面というのは、そのような事態に直面して頭を悩ませ心を痛めているのが(頭も心もあればですが)あたかもこの世で自分ひとりかのように感じてしまうところにあるのではないでしょうか。少なくともぼくは必ずこの回路を通ります。自分に限ってこんな厄介なことが起きる、自分だけこんな目に遭う、自分だけ不利なのではないか、そういうふうに考えを巡らせていけば余計に不満が募っていくのは目に見えています。大抵はこの悪循環が、悩みの内の大半を占めているのかもしれません。地上に生きていれば皆同じように悩むことがある、それはそうなのでしょう。しかし、だからと言って自分の目の前の問題が解決するわけでも、軽減されるわけでもありませんし、ましてやもっと辛い人間がいるのだから自分はまだマシな方だ、などという比較で一時の安心を得るのは大変下品なことのように思えます。悩みは決して相対的なものとは言えないでしょう。ぼくの抱えている悩みが、人に言わせれば本当に大したことのないものだったとしても、ぼくの中ではもう揺るぎなく悩ましい問題なのです。そしてそれは、ぼく自身しかそう感じ取ることができないのでしょう。
 あと出来ることと言えば、悩んでいたときの自分というのをもう丸切り他人のように観測することくらいでしょうか。相対的なものではないなら、とことん絶対的に固定した上で距離を取ってみるしかないのかもしれません。たとえば、時間が解決するとはよく言ったもので、あれだけ苦痛に感じたことも不貞寝して朝になってみると、意外に感覚的な距離が取れているというか、もう朝になっちゃったのだからしょうがない、というような動かしようのない法則を前に諦めがついていることもあるのです。問題の解決は別として、時間が経てば経つほど、気持ちは平静を取り戻すようです。ことの直後に苛立っていたのが嘘のように思えることさえあります。逆に言えば、気持ちを落ち着かせるにはそれ相応の時間が必要ということでもあるのですが、今のところこれが一番特効薬に近いのではないでしょうか。解決のしようがない、常に頭の片隅にこびりついているタイプの心配事もありますが、それも結局日常の流れの中で当たり前のものになってしまい、感覚が麻痺していると言えばそれもそうですが、無意識にも折り合いをつけて不安と共生していると言い換えることもできるでしょう。確かなことは、心配事は絶えることがなく、また時間も絶えず、容赦無く流れ過ぎていくということです。そうですやろ。