
シーズン1のときから大好きだったドラマ「アンドー」。『新たなる希望』の直前を描いたスピンオフ映画『ローグ・ワン』の、さらにスピンオフドラマということで、S1を観る前は正直それほどの期待度はなかったのだが、ふたを開けてみればこの10年間でいちばん夢中になったと言ってもいいくらいのものが、そこにはあった。なにごとも予断はよくない。
S1はタイトルロールのキャシアン・アンドーが、いかにして初期の反乱運動に関わるようになったかという経緯を軸に、『新たなる希望』や『ローグ・ワン』に至るまでの銀河帝国の圧制下とはどんなものだったのかが描かれ、一般の市民生活や帝国の悪夢的な官僚機構といった、これまで神話として描かれてきた戦いとは離れたディテールが掘り下げられたことに目を見張った。膨大な固有名詞(決して無意味なものはない)が盛り込まれた日常会話、既存のプロダクトを改造して作られた銀河生活の家具調度、会話だけで伝えられる事件、焦点を細かく絞ればいくらでもおもしろさを挙げられる気がするが、全体を見渡してみて簡潔に所感とするなら、ドラマチックという言葉が合うだろうか。誰一人として不要に思えるキャラクターがおらず、良いやつから悪いやつ、なんでもないやつ、変なやつ、全員にバックグラウンドを感じることができ、ひとりひとりが煌めく無数の星のように思える。それこそSW拡張世界の魅力だろう。それに関連して俳優の顔ぶれが良いというのもあって、このようなドラマのためなら、メインどころにマスクを被ったエイリアンのキャラクターが少なくてもよしとしようという気になる。作品にはなにをどう描こうかという目的があって、その目的に即した最適なフォーマットを使ってしかるべきだ。本作にとっては人間の顔というものが重要だったのである。派手な特殊効果は要所要所に取っておき、人間同士の掛け合いや緊張感、丁寧に紡がれた言葉により、今まで観たこともなかった、それでいて頭のどこかで想像し求めていたSWが描かれる。それはSF小説を読んでいるような楽しさでもある。
そんなS1は、母親の死と故郷の星の蜂起を見届けたキャシアンが、ついに反乱ネットワークに加わる決意をして終わる。S2はそれから1年後、EP4から4年前から始まり、すでに彼がエージェントとして任務をこなしている様子と、同時に少しずつ反乱同盟軍の骨格が出来上がっているらしいこと、帝国側でも不穏な企みが進行している気配などが描かれ、じっくりと丹念に重ねられていく物語は、ある一点へと目指していく。シーズン全体が『ローグ・ワン』の冒頭へと突き進んでいき、その向こうにはもちろん『新たなる希望』がある。
S2はとにかくたくさんの死が描かれる。それも英雄的な死などではない。不運な遭難があり、不憫でしかない犬死にがあり、理不尽な暴力があり、容赦のない虐殺がある。『ローグ・ワン』のときにも「希望」の前にたくさんの犠牲があったことが示されたが、それよりももっと無惨な犠牲の数々が描かれる。善人も悪人も等しく死ぬ、基本的には。本作の前では『ローグ・ワン』でさえも神話的に位置づけられ、単なる時系列を越えて、映画へと繋がる道筋や背景が内容的にも積み上げられていく。そしてそれは、SWの原点を支えることにもなる。
S1が、キャシアンが反乱活動に加わる経緯を主に描いていたのに対し、今回いくつもある視点の中で主軸に位置付けられていたのは、モン・モスマが反乱軍に合流する過程だろう。旧三部作でのこのキャラクターの出番は短く、『ジェダイの帰還』で第二デス・スターの攻撃に備える反乱軍のブリーフィングに、ひっそりと姿を見せるだけである。本当にひっそりという言葉が似合うような雰囲気で、レイア姫のような堂々とした感じとは違う、どこか悲しげで疲労さえ感じさせる、しかし位の高い指導者であることはわかるといった登場の仕方だ。彼女はその後勝利を祝うラストシーンにさえ姿を見せない。このひとは一体何者なのか。「アンドー」の2シーズンを通しで観れば、彼女もまた犠牲を払って反乱同盟軍の指導者となったことがわかる。EP6で見せたあの悲壮な表情には、帝国の圧制下で虐げられ犠牲になった人々への想いだけでなく、自らの信条と大義のために夫と娘さえ見捨ててしまったのだという過去もあったのだろう。モスマ役のジェネヴィーヴ・オーライリーは、EP6でキャロライン・ブラキストンが演じたモスマの背景を見事に体現した。さらに元はと言えば『シスの復讐』で登場シーンが削られてしまった若き日のモスマを演じたことが、20年後にこのような形で結実したこと自体新たな伝説となったと思う。20年という月日は、EP3からEP4直前までという劇中の経過時間である19年間にも重なるということにも触れておきたい。
地殻にある鉱物を自らの計画に利用しようというクレニック長官の企みにより、惑星ゴーマンが策略の渦中に陥れられる。帝国は惑星自体に負荷をかける強引な採掘と住民の強制移住を正当化するために、反乱や暴動をあえて誘発しようとし、最終的には市民への虐殺を起こす。超兵器により遠景の惑星が爆発するようなものではない、ストームトルーパーやKXセキュリティ・ドロイドが次々に人間を殺戮する衝撃的なシーンである(それでもギリギリのところでSWのフォーマットを逸脱するような描写にはならないところが絶妙である)。
この事件を、反乱グループに対処した帝国軍の行動として賛美する声が占める元老院において、モスマはそれを虐殺として非難し、その責任者として皇帝パルパティーンを名指しで糾弾する。勇敢にも皇帝を怪物と呼ぶのである。もはや後戻りはできない。モスマを反乱軍が拠点を置くヤヴィンへと無事送り届けるため現れたキャシアンは、初めて会った議員をこう言って迎える。
「反乱へようこそ」
ここでようやくふたりは顔を合わせるが、モスマがアンドーよりも後に反乱軍と合流するというのは意外だった。モスマの演説と亡命によってシーズンは山場を迎え、反乱軍も同盟軍へと完成していく。キャシアンの任務をはじめ、本作で描かれる戦いや作戦は常に質の高い緊張感が漂っているが、元老院議事堂からモスマを半ば救出するように連れ出すこのくだりは流れや目的、その重大さも手伝ってダントツである。反乱同盟のリーダーはいかにしてコルサントから脱出したのか、また帝国時代の元老院はどんな様子だったのか、そういう細部もわかって、「アンドー」の魅力が特に詰まったシーンだったと思う。元老院に配備されるとお馴染みの帝国軍の制服もかつてのセネイト・ガードのローブのように青くなるというのもおもしろかった。
モスマの演説それ自体にも胸打たれるのは言うまでもない。現代を生きる人間の端くれとして、ぼくもなにも思わないことは決してない。人間はひたすら客観を目指すことで社会を築いてきたはずだが、モスマが言うところの客観的な現実というのは、ぼくらの身近でも見失いやすくなっている。ぼく自身もそうだ。確かに物事には無数の視点がある。そのひとつひとつをバックグラウンド含めて理解し、共感しようというのは、理想のひとつではあるが難しいし、そこに生じる偏りを是正するためにも社会は客観を目指してきたのだろうと思う。また難しいことでも試行錯誤を繰り返しながら追求し続けることに人間の本質があるのも確かだ。複雑化した問題や理解の範疇を越えた出来事を理解するために、情報をシンプルに整理しようというのはいい。しかし、こう捉えれば楽である、自分に都合がいい、自分に疑問を持たずに済むというような理由で物事を簡単に解釈しようというのは、正しくはない。ゴーマンの虐殺を自分に都合よく解釈した議員たちは、モスマに比べてはるかに楽だったろうと思う。ベイル・オーガナのように本心を隠していない限りは、なんの負荷もかかるまい。客観を目指すというのは、自分自身に対しても挑戦することなのかもしれない。
S1のときからぼくのお気に入りだったキャラクター、帝国保安局監査官のデドラ・ミーロと、彼女を慕うシリル・カーンのふたりもまた、単なる悪役という枠を越えて印象を残した。今回はクレニックというより上位の悪役の登場により、受動的な形で帝国の悪事に巻き込まれることになるが、このふたりの上にも客観的現実を選び取るかどうかの試練が降りかかったと言えるだろう。
クレニックがゴーマンの鉱物を狙ったのは、もちろんそれがデス・スターの資材として必要だったからだ。ゴーマンの暴動を引き起こすために狡猾な罠がはられるが、それを発動させる役割はデドラに与えられる。指揮系統の都合とやらのために、デドラが命じ、別の将校が実行に移すことになっているのだが、これ自体が狡猾というか、一切の公式の責任がデドラに生じる形だ。自分が引き金を引いたことで大勢の市民が虐殺されたことにより、とうとうデドラの精神にも負荷がかかり、彼女がパニックの発作を起こすシーンがほんの短い間挿入される。彼女が具体的にどのようなことを感じ、考えたかはわからないが、帝国の冷酷な歯車としての印象が強かった彼女にも、人並みの心があった証拠ではないかとぼくは思っている。負荷を覚えるほどの脆い心があったはずだ。しかし、そこで過ちを顧みて手を引くということをしなかった彼女は、死よりも厳しい運命を迎えることになる。
対してシリルは、元々の正義感によりデドラと保安局、軍部の本当の思惑を察して激昂する。彼は秩序を重んじる正義感により反乱を憎んではいたが、しかし帝国が市民を虐殺しようとするのも許すことはできなかった。客観的な現実を理解した彼はデドラのもとを去るが、最期は帝国軍による市民への攻撃の最中、デドラを遠方から狙撃しようとしていたキャシアンと乱闘の末に死亡する。帝国の末端というのはこのように、きっかけさえあれば状況に気が付く、しかし弱く脆い、普通の人々だったのだなと思うと、ルーク・スカイウォーカーが破壊したデス・スターにはシリルと同じような平凡な、あるいはデドラのように罪の意識を覚えられる人々がどのくらいいたのだろう、と少し想像してしまうというものだ。
そのデス・スターだが、皇帝と同じく直接姿を見せずともS2の物語全体に大きな影を落としており、全てが『ローグ・ワン』に向かっていくのと同時に、全てがデス・スターへと向かっていくような流れとなっている。その不吉なシルエットもまたSWの原点であり、物語の原動力であることを改めて思い知る。それはただアイコニックな要素を受け狙いで再利用しているのでは、決してない。かと言って『新たなる希望』の背景であり、『ローグ・ワン』では描ききれなかった部分の補完と肉付け、と表現するのはどこか味気なくも感じる。というより、それらの映画の魅力と奥行きをより豊かにしてくれる作品と言ったほうが適切な気がする。SW全体を豊かにするひとつのピースでもある。
S1でも魅力的だった、これまでの映像では描かれなかった市民生活や、帝国軍側のディテールが健在なのはもちろん、より一層広がりが感じられ(先述の元老院配備のセキュリティー・オフィサーに加え、保安局の技術士官やタクティカル・フォース等)、またヤヴィンの基地も出てきたことからも反乱軍の細部もいろいろとディテールアップされたことが視覚的にはだいぶ楽しかった。
「アンドー」で描かれたようなことが、同じように他のエピソードの合間にもあったかもしれないという想像さえ、すでにぼくの頭の中では始まっている。そう思うだけで全ての映画、ドラマにより一層の豊かさを感じる。ぼくがここまでSWを好きになったのは、映画に登場するキャラクターやディテールの魅力もさることながら、映画にはこれっぽっちも出てこない背景や設定、小説やコミックといった拡張世界の奥行きのためでもある。それらは言い争いの種にもしばしばなるが、SWの中に実に多様な側面を持たせるに至っているのは動かしようのない事実だろう。そういった拡張世界の醍醐味が、この「アンドー」には詰まっていると思う。
なによりSWを観続けてきてよかったと思える作品で、このシリーズ自体がひとつの事件だったように思う。スター・ウォーズ・セレブレーションの閉幕から配信が始まり、間に5月4日も挟んで、とにかくSW一色の月間だったが、この「アンドー」S2の最終話をもってそれも一旦落ち着く。もちろん終わりではない。「アンドー」はぼくにライドニウム並みの燃料をもたらしたのだから、これからも想像と意欲がおさまることはないだろう。