Star Wars: Skeleton Crew

 
 『スケルトン・クルー』最終話まで観た所感。予告編などの前情報だけだと、なんとなく『ストレンジャー・シングス』のヒット以降たびたび引用されるようになった80年代ジュブナイルを、SWでやろうという試みに見え、実際にそれがベースではあったのだが、単にそれだけに留まらずしっかりSW世界に落とし込んだ上での密度やギミックのある作品になっていて、おもしろかった。テーマと長さ、濃度がそれぞれちょうどよく合っていたように思う。象のようなニールやサイボーグのKB、フクロウ型のキムといったキャラクターの造形もよかったし、多様な種族が登場する背景も充足感がある。泥湯に浸かるハットなんて最高だった。
 個人的に『グーニーズ』があまりピンと来ないタイプなので、正直その前提は大して重視していないなかったのだが、海賊や宝の島といった要素の落とし込み方はなかなかよかったと思う。特に、普通なら謎に包まれた宝の島というのは外から探し目指していく目的地になるところを、本作では逆に宝の島から外の世界に迷い出た主人公たちが、故郷に帰るために冒険をするというふうに捻っているのが最大のポイントだろう。自分たちが生まれ育った、当たり前のように存在するなんの変哲もない惑星が、実は外部からは実在さえ不確かな伝説上の星として扱われていたことがわかる逆転の展開は、引きとして十分に強かったと思う。子どもたちが帰ろうとするアト・アティンという惑星は一体なんなのか、それが気になって毎週楽しみになるのだから非常に効果的だった。
 たとえば序盤では子どもたちと同じ目線でアト・アティンの日常生活を見ることになるので、全然そのような展開を予想させない。学校で「共和国」という言葉が出てくると、オープニングのテロップでも時代背景は言及されているので当然それは「新共和国」のことだと思ってしまうのだが、いざ宇宙に出てみると海賊たちが子どもたちの持っていたお小遣いの硬貨を見るなり「旧共和国のものだ」などと言い出すので、だんだん謎めいた構造が浮かび上がってくるという寸法である。子どもたちの生まれ育った惑星は外界から遮断されている上に旧共和国時代に閉じ込められていたのだ。細かい言葉の仕掛けに騙されたようで小気味いい。
 かくして未知の宇宙で迷子になった子どもたちは、自分たちにとっては当たり前に存在する故郷、そして海賊たちが伝説視するアト・アティンを目指して帰り道を探る冒険を始める。宇宙海賊の巣窟である物騒な宇宙港、アト・アティンと全く同じ規格でありながら荒廃してしまった姉妹惑星、アト・アティンを目指したまま姿を消した伝説の海賊が根城にしていた現リゾート地をまわっていくわけだが、そのどれも新鮮味に満ちており、まるでディズニーランドのスター・ツアーズで次から次へとおもしろい惑星を巡っている気分である。その上そこかしこにカリブの海賊のムードも漂うのだから、こんなの楽しいに決まっている。文明と呼べるものが崩壊し、子どもでも武器を持って戦わなければならない終末的な色が濃いアト・アクランにあってさえ、そこで人々が暮らしているという生活感のディテールがあって、SWらしい奥行きが感じられる。
 謎めいていた部分の全ては明らかにされなかったところが、少し物足りないだろうか。しかしそれもあくまで子どもたちの物語を一貫するのであれば、触れず残しておいていいところなのかもしれない。フォース感知者の海賊ジョッドのバックグラウンドについても、回想シーンを直に見せるのではなくセリフで語るのみにとどめられた(彼の師である逃亡ジェダイについては俳優が公開されていたので、撮影だけはされたらしい)。とは言えその説明があっさりしてしまったので、ジョッドの人物像に今ひとつエクスキューズが足りなかったようにも思う。当初は怪しいながらもある程度頼れるおじさん(というか頼らざるを得なかったのだが)だったのが、一転して冷酷な怖いおじさんへと展開したからには、最終的にはやはり根はいい人だった、というのを少しは見せないと救いがないような気がする。海賊たちのアト・アティン侵略が失敗に終わった際の、わずかに笑みに見えなくもない諦め切ったような表情が、そのあたりの情緒の手がかりになっているとは思うが、おそらく回想シーンでジョッドの経験した具体的な痛みを見せなかったことで、そのあたりが弱くなってしまったのではないか。常に飢餓感に晒されて成長したジョッドは、同じ海賊でさえ夢物語だと一蹴してしまうような大きな宝を追い求めてきたのだろう(狙っていた大金を逃したことでクルーの反乱を招いてしまう冒頭シーンからも、彼が日頃から多大な犠牲を払う無茶な賭けに出がちなのが想像できる)。アト・アティンから来た子どもたちは、そんな彼が探し求めていた最大にして最後の宝への鍵だったのだ。もうこれを逃せば今度こそ仲間たちからの信頼を完全に失い、海賊としてだけでなく人生においても後がない。そんな追い込まれたような気持ちだったからこそ、ライトセイバーで子どもを脅してでも「旧共和国最後の造幣局」を手中におさめることに必死だった。また結果的にとは言え、直接には誰も傷つけずに終わったところを見ると、どこかに純粋さは残っていたはずである。言ってみれば彼は宝島を追い求めるまま傷つき大人になった少年だったのだろう。ジェダイに憧れ、宇宙への冒険を夢見ていた少年ウィムは、もしかしたらあり得るかもしれない自分の将来像のひとつを、ジョッドの中に見ただろうか。
 SWの世界にあって外宇宙からの接触が絶たれて孤立した惑星を、擬似的な地球のように描くのもなかなかおもしろい手だった。こうすることでウィムは地球の子どもと同じような距離感で宇宙に憧れ、宇宙船に乗って初めて宇宙に飛び出したときの感動も際立っていた。「共和国からの密使」として宇宙船が街に着陸するところなども、SWで『未知との遭遇』をやっているようだった。
 それにしてもアト・アティンについてはいくつも謎が残る。旧共和国が保安上の理由で存在を秘匿した9つの惑星を「旧共和国の宝石」と総称するそうだが、アト・アティンを残してほかの8つは本作の時代よりはるか大昔に破壊されたという。新共和国時代からはるか昔ということは、銀河内乱やクローン大戦よりももっと前の話と見るのが自然と思うがどうだろうか。破壊されたというとついクローン大戦による戦火や、帝国の暴挙を連想するが、そういうわけでもないらしい。そうして唯一残されたアト・アティンは「宝の尽きない失われた惑星」と呼ばれ、より一層伝説的な存在として語られるようになるが、この惑星が完全に外部から孤立するようになったのはいつ頃なのかもいまいち判然としない。最後にその正体が明かされる監理官によれば、共和国からの最後の通達はジェダイが反逆者になったことについてだった(つまりはEP3ラスト)。これを最後にアト・アティンには密使の輸送船も来なければ、通信も届かなくなったようだ。タイミングを考えれば共和国が崩壊して帝国が成立した頃だが、やはりそのあたりの混乱や帝国クレジットへの移行に伴って、アト・アティンへの交信は途絶えてしまったのだろうか。座標を知るごく一部の者もこの政変期の混乱に巻き込まれてしまったのだとすれば、そのままその存在は闇の中ということになっても不思議はない。帝国時代を通してその位置が明らかになっていない以上、皇帝と言えどアト・アティンがどこにあるのか知らなかったのだろう。なによりアト・アティンの住人は共和国が帝国へと再編されたことも知らないので(下手をするとクローン大戦さえ知らないのではないかという気もするが)、そこから外界との剥離が加速したのだろう。
 しかし、そうなるとアト・アティンを見つけた伝説の海賊タック・レノッドの存在も厄介である。レノッド自身共和国を旧共和国と呼んでいるので後の時代の人物だとわかるのだが、彼はすでに伝説的人物としておとぎ話や歌にも登場するあたり、もう少し昔の人じゃないと違和感がある。帝国の時代になってからアト・アティン目指して姿を消したとしよう。本作の舞台は新共和国時代とは言え『マンダロリアン』などと大して変わらない時期なので、せいぜいEP6から数年後というところである。レノッドの冒険を「旧共和国」という呼称や、前述の監理官の言と矛盾しないギリギリの時点としてEP3後の間もない時期としても30年前にも満たない「昔」である。30年前に行方不明になった海賊が、誰もが子どもの頃聞いた歌になるだろうか(だいたいそうなってくるとジョッドの年齢だってよくわからなくなる)。考えすぎだろうか。ぼくはいまいちこういう年齢とか年月の計算が下手なので正直この疑問にそこまで自信はないのだが。
 ところで、旧共和国領内の造幣をこのアト・アティンだけが最後まで一手に引き受けていたというのはちょっと考えづらいような気もする。しかも一回にクレジット・インゴットを集荷に来る輸送船もあまり大きくないように見える(かつてはオニックス・シンダー号とは違う形状の船が来ていたとしても、発着場のサイズからしてあまり巨大な船は来ていないのではないか)。このあたりは謎というよりは単純にリアリティとして気になるところだが。しかしそう考えると、アト・アティンが造幣局としての役割を外界に向けて発揮していたのはもっと昔の時点までのことだったという線もありえなくはない。他の8つの惑星が滅んだ時点でアト・アティンもまた外部にとってはその役割を終えたことになっていたのではないか。いずれにせよいろいろな可能性を考えられる余地が残されている。いずれ判明するのだろうか。
 惑星を統治する監理官の正体はHAL9000を彷彿とさせるようなコンピュータで、SWとしては珍しくSFらしさを感じるのだが(だってそうじゃん?)人工知能によって効率的に管理調整された社会で人間たちが仕事に従事するという、まあ非常に普遍的な未来像が描かれているのだが(SWではドロイドが家畜や奴隷のように扱われることがしばしばなので、こういった設定は逆に新鮮でもある)それを現実の世界への批評的眼差しと見ることもできるわけだが、ぼくはそこよりも惑星を外界から遮断しているバリアの存在の方が、身近な問題として感じられるような気がした。
 アト・アティンは長い間外界から孤立し、バリアの中で平和で安全な日々を送ってきた。クライマックスでは、襲来した海賊たちを撃退するために子どもたちが新共和国Xウィングの救援を呼ぼうとする。しかし、バリアが有効なままでは救いの手は届かない。そしてバリアを無効化するというのは、アト・アティンで生まれ育った者にとってはほとんど信仰を否定するのにも等しい。このバリアこそが安全と繁栄を支えてきたのだから。バリアを切れば救援は来るかもしれないが、これまでのようなアト・アティンの存続はおそらく難しくなるだろう。一度外界と接触してしまえば、もう元の日々には戻れまい。子どもたちのひとり、ファーンの母ファラ次官はその責任の重さに葛藤し怯えもするが、娘の言葉によって決断を下す。外の世界は危険もあるが、最悪の場所にも善良な人がいる。外界を警戒し、他者を遠ざければ確かに安全は得られるかもしれないが、その代わり人生はどこか豊かさに欠けるはずだ。警戒とはつまり恐れである。恐れに負けることなく善良さを信じて外に出る。不信や流行り病によって分断された世界を勇気づけてくれるような展開である。バリアが最後は大人たちの手で切られるというのもよかったと思う。大人が責任を取ってくれるからこそ、子どもたちは冒険ができるのだ。