選挙のたびに思うのだが(そして選挙だからといってこういう話を急に持ち出すのも憚られるのだが)、こうまで皆自分の投票先をおおっぴらに言うものだったろうか、という違和感がひとつある。SNSの広がりによって活発になったことだとは思うのだが、なんとなくひっかかる。確かにいろいろな面で人々の意識に変革が起き続けており、言ってみれば過渡期のような時代ではある。もっと考えをオープンに議論をしようという動きも活発である。その一環、いやもしかしたらその到達点のひとつとしてこの、自主的な投票先の表明というのはあるのかもしれない。確かに秘密投票というのは制度側が守ることであって、他人に表明を強要するでもなく、自分で勝手にそれを明かすこと自体は一見問題はないのかもしれない。だが、有名で影響力のある人が投票先を明かしたら、そのひとの熱心なファンはそれに倣ってしまわないだろうか?有名人でなくとも、身近で親密な相手であっても、つられたりしないだろうか。と、そう考えてしまうのは世の人々を見くびりすぎだろうか。
ぼくなどはひとからの影響を受けやすいから、どうもそういうことを明かされたりすると、それまで自分で考えていたことなどがまんまとひっくり返されそうになってしまうものだ。そこをぐっとこらえて、できるだけ思考をフラットにしようと努めるのだが、もしそれが出来なかったら、きっと忙しいだろうな。まあ、こういうことを書いているくらいだから、ある程度リスペクトしている相手であっても、投票先を明かしている時点でその点には少し幻滅を覚えたりするのだが。とにかく、誰に、どこに投票したのかを明かすというのは、一見自分ひとりの問題に思えそうだが、行く行くは他人の判断にある程度影響を与えてしまうのではないか。そういうつもりがなくとも他人の投票行動というやつを牽制、萎縮させてしまうことになるのではないか。そうなるとやはり秘密投票というのものが本当には維持できなくなるのではないか、とまあそんなことを前々から思っていたのである。
ただ、別にそれがはっきりと禁じられていない以上は、自分の支持している対象への、ひとつの応援の仕方として定着していくのだろうと思う(別にそれ自体はインターネット以前からもあったのだろう)。それが同調圧力といったものと結びついて悪い結果にならないことを祈るのみである。
確かに政治の話題をタブー視せず、積極的にオープンにして話そうという動きそれ自体には基本的には賛成である。賛成だが、それはある程度話せる土壌が整っている場合に限る。結局のところ、それはそのひとがどういう信条であるか、思想であるか、価値観であるか、ひいては世の中をどういうふうに見ているか、どういう尺度を持っているか、そういうところに関わることなので、合意が取れていない場合には、時事的な世間話以上に踏み込んでいいことではないように思うわけだ。海外で多大な影響を受けてきたひとはよく、海外の学生はこれこれこういうふうによく議論しているというような話を持ち帰ってきてくれる。ぼくもよく聞かされた。しかし、その海外の学生も別にところ構わず空気も読まずにそんな話をしているとは思えない。風土として政治の話題が活発というのはもちろんあるのだろうけれど、それにしたってそれはそういう積み重ねの上に成り立って、最低限の線引きが自然と出来ている上で、そういうふうに成熟しているのではないか。それをこちらに持ち帰って急に真似しようというのはやや無茶に思える。扱い方を一歩間違えれば分断さえ生んでしまうし、現に世界中でそういうことは起こっている。
これは実体験もあるのだが、こちらのコンディションが整っていないところにそういう話題をふっかけられても困ってしまうし、度が過ぎれば疲れてしまう。また相手が自分と同じ考えだろうという前提でそうした話題を振るというのもよくない。ぼくがそういう場合に難色を示すと、関心が低いだの意識が低いだのと言われたもので、そのときはそれに対して言い返す気も起きなかったのだが、はっきり言って関心はあるし自分なりの考えもある程度ある、と思う。しかし無闇にひとに話すつもりはないし、頭や気分がそういうモードでなければ尚更そんな気にもなれないのである。沈黙は無関心とは限らない。ある程度状況が整い、相手の人となりがまあまあわかり、相手に合わせた慎重な運び方ができてこそ、取り上げていい話題なのではないか、と現時点では思うのだ。なにごとも段階を踏まないといけない。