好きではない言葉、いやはっきり言って嫌いな言葉というのが結構ある。まず断っておくと、ぼくは根本的には言葉というものには関心がある。国語や現代文の成績がそこまで良かったわけではないし、今も別に正しい文法に関する知識がそこまで深いわけではない。しかし、このようにずらずらとテキストを書いたり、常に読んでいる最中の本がなにかしらあるという程度には言葉や文章というものが好きだということは伝わるかと思う。そうして、関心がある中にさらに好みやこだわりが出てくるというのが、厄介なところなのである。そう、前回の敬体は妻に不評だったので早速常体に戻している。
端的に言えば、おそらくは俗語というものがあまり好きではないのだろう。ぼく自身もプライベートな会話で一切俗語を使わないということはないし、略語もよく使うので別にその存在や使用を否定しようとは思わない。まさかそんなカタいことは言わない。なのでやはり個々のワードへの個人的な好みでしかないのかもしれないが、なにかの媒体で自分の思うところの雑な言葉遣いに当たると、どうにも言い知れぬ気持ちの悪さを覚えるのである。それが個人のポストの類などではなく、出版物という場合には非常にげんなりする。これはまあぼく自身がかつて仕事で校閲というプロセスにおいて嫌味に近い指摘を度々された経験があるせいかもしれない。なんでぼくがあんなにちくちく言われたのに、こんな雑なものが通用しているんだろう、とそういう気持ちが全くないとは言えない。
もちろん書き手ごと、本ごとにスタイルというものがあり、フランクな口語で通そうという場合もあるだろう。敬体と常体の使い分けと同じように。砕けた調子で話すことで読者や聞き手に親近感を持たせようという意図するのはごく当たり前の手法だ。またフィクションにおいては登場人物の性格によって話し方が異なるし、堅苦しい口調の者、丁寧な口調の者、そうして俗語や当世風の話し方をする者、いくらでもいるだろうから、それも当然なんの問題もないはずだ。場合によっては誰の台詞でもない地の文章でさえ砕けた文体になることがあるだろう(往々にしてそれは一人称形式でなくとも、場面において主観を持っている登場人物の思考が地の文にまで延長している場合だが)。
とは言え、それでもちゃんと書かれているものというのはそれなりに全体が整っているので(これもまた漠然としたイメージではある)、所々にあるフランクさはバランスのよさを感じさせたりもし、本来はそこまで気にならない。ただ、ぼくが翻訳ものばかり読むのは、内容への興味はもちろん、同時代の同国人が書いたものを直に読むよりも、言葉が丁寧な印象があるからかもしれない。場合によっては原語の生の雰囲気を伝えるためにイマドキな口語が訳に当てられることもあるが、それにしても、翻訳というフィルターを通すと言葉はずっと精度が上がるように思えてならないし、素人考えではあるが、かなり丁寧に言葉と向き合わなければ出来ない仕事でもあるように思える(もちろん母国語での執筆を軽んじているわけではない、もちろん)。ひとによっては翻訳もの特有の、日本人がまずは考えないであろう回りくどい日本語を苦手に思うのだろうけれど、ぼくはむしろ回りくどい日本語こそ読んだ気になれる気がする。
たとえば、所謂ら抜き言葉というのがかなり好きではない。未然形の本来のルールから外れているというのはもちろんだが、まあそこはこの際置いておこう。実際ら抜き以外のものでも現代語にはいろいろ落とし穴があるので、ぼく自身も結構変な、本来の用法ではない言葉遣いをしていることは十分にあり得る、というか確実にある(だいたいかく言うぼくも「来れる」というら抜き言葉は気づかず使っていた)。そうして極力正しい形にしようとすると、かえってその方が違和感のある言葉遣いになってしまったりということもあるだろう。なので、これは正しいとか間違っているとかというよりは、ぼくの偏屈な感性の話になるのだが、その偏屈な感性によればどうにもあの、れるれる言う言葉が気持ち悪くて仕方ないのだ。
個人的にれるれる言うのはまだ口のうまくまわらない小さなお子さんか、歌詞をうまくおさめられなかったシンガーソングライターくらいのものと思っていたが、気づけば見渡す限りれるれる言う世の中になったような気がする。擁護する点としては、未然形と尊敬語の区別がしやすいとかいう話もあるようだが、しかしそんなことは文脈で判別がつきそうなものだし、たとえば「食べる」の尊敬語は「食べられる」ではなく「召し上がる」なので、未然形と混同はされないはずである(ぼくもこのあたりはしっかり覚えているわけではないが)。少なくともそういう理屈で通すには無理があるのは明らかなので、ただただその方が言いやすいというところに尽きるのではないだろうか。
あるコミックでやたらと吹き出しの中がれるれる言っていることに気づいたためなかなかその先が読み進められなくなったことがある。これもまた特定のキャラクター独特の口調なのかとも思いったが、どうもどのキャラも言っているので一貫しているようだった。作品自体は非常におもしろく感じていたので大した問題ではないのだが、かえって自分の狭量さが嫌になる始末だった。まあ台詞は口語なので、そこはまだいいだろう(ここでもまた校閲のトラウマが蘇る)。テレビ番組のテロップでれるれる書いてあるのに比べれば全然平気な方だ。
誤用と言えば、悪名高い「確信犯」にも触れないわけにはいかないだろう。ぼくが初めてこの言葉と出会った際も誤用の文脈においてだったので、世間の大方と同様、正しい意味の方にはまだ慣れないし、多分今後もしっくり来ないだろう。しかし、誤用であることがわかってからは自分ではまず使わないようになった(自分みたいなやつに馬鹿にされるのも癪である)。そもそも誤用にしてもあまりしっくり来ない言葉なので使う場面があまりない。そして、これもやはり自分よりいい大人が平気で誤用で使っているのを見るとなんだかなと思う。知らないで使っているなら仕方ないが、誤用であるとわかった上で、この方が伝わるからという理由で使い続けるのはちょっと罪な気さえする。また、この言葉を誤用してまで使う場面というのは主に「わかってやっている」「狙ってやっている」というような脈絡だと思うが、それならそのままそう言えばいいのに、わざわざその漢字3文字を使おうというところに、ちょっと難しい、特殊な言葉を当てようという小賢しい意図さえ感じてしまい、挙句それが誤用という仕上げまでついているので、わざわざ使うことになんの意味があるのか、ぼくなどはちょっとわからない。
では、そろそろ今ぼくが最も苛立ちを覚える言葉を紹介して終わるとしよう。言葉に罪はないというのは確かにそうかもしれないが、しかしあまり快くない意図で生み出された造語であれば話は別だろう。かつて「ヤング・アダルトU.S.A.」という本でイラストを描いた身として、またティーンものの映画なりドラマなりがまあまあ好きな身としては、「スクールカースト」などという無責任な造語は忌まわしいことこの上ない。
アメリカ学園ものの、教室ないし校内の典型的な構図を、階級社会に見立てて、ティーンたちの属性をそのまま階級として解釈したのだろうけれど、確かに映像作品を観ていればそのような世界が描かれ、現実の学校でもそのような擬似的社会が成り立っているのは想像に難くない。前述の本ではぼくも学校内の各属性を、それを代表するような映画のキャラクターでイラストにした。しかし、あの本が伝えたいのはそんな救いのない身分制度のことでは決してないはずである。あそこで紹介されている作品はどれも、一見バラバラのタイプで隔たれているような多感な10代の少年少女たちが、それぞれが押し込められた属性を越えて本質的な交流を果たし、不安と期待で満ち溢れた得たいの知れない未知領域、大人の世界へと進む様子、またその間際のかけがえのない一瞬を映したものばかりだろう(紹介されている作品が膨大なのでぼくも全ては観ていません)。もちろん、そのような物語の中で学校内の社会というのはスパイスとして作用するだけでなく、重要な背景でもあるが、それをそこだけ切り抜かれ、ただひたすらに10代が閉じ込められるディストピアとしての側面だけが強調され、雑な造語を貼り付けられるというのは、それらの作品に思い入れを持っている身としてはなかなかいい気分はしない。これはもう完全に個人的な偏見の域を出ないが、好んでこの言葉を使っておもしろがるひとというのは、ティーンものの作品にはそもそもあまり興味がなさそうに思える。もしなにか胸を打たれる作品がひとつでもあれば、そのような言葉でそこに描かれているものを片付けようとは思わないのではないだろうか。
ぼくはアメリカのハイスクールに身を置いたことはないので、本当のところについて確かなことは言えないが(もちろんフィクションだけを参照するつもりもない)話に聞く限り、またいろいろと漏れ伝わってくる情報を総合的に考えれば、そこには実際にかなり厳しい世界があるであろうことは十分想像できる(もちろん学校によって変わってくることだろう)。そこには単にいじめっ子といじめられっ子がいるだけでない、実社会にも通じる根深い問題が多々あるだろう。ディズニーチャンネルやニコロデオンのドラマは輝いて見えたものだが(今でもその印象は変わらない)、おそらく自分のようなのは現実にそこにいればひとたまりもなかろうと、10代の頃から頭ではわかっていた。それでも、例の造語にその世界を押し込めようとは全然思えない。それどころか、そのような言葉で説明しよう、理解しようとしても、本質的なところがわからなくなってしまうのではないか。結局は複雑な現実を単純化ないし矮小化してしまう気がするのである。そういうわけで、フィクションに対しても現実に対してもそれぞれの理由からあまり好ましい言葉とは思えないのだ。もちろんそれ以前に個人的な感覚だけで言わせてもらえれば、本当にセンスの欠片もない言葉だなと思う。別にアメリカの学校に対してだけでなく、日本での学校生活についても使われることがあると思うが、いずれにせよ嫌な言葉であることは変わらない。嫌な言葉を実際に自分で書いてみるだけでも、なにか自分が汚れてしまった気さえするが、しかしこうして書き連ねてみるとどうしてそれが嫌なのかが少しわかってくるので、まあ書いてみてよかったと思う。気が利くひとはあまりぼくの前でこういう言葉を使わないように。