The Fantastic Four: First Steps(2025)

 体験の有無に関わらず、1970年の大阪万博に対して日本人の多くが抱いているロマンや郷愁は、欧米では1964年のニューヨーク万博のそれに当たるのではないだろうか。技術や進歩への飽くなき願望や期待、未来へとはやる気持ちはそのまま流線型の形をとり、惑星の重力に逆らって宙に浮くことは進歩の象徴で、キャデラックはこのデザイン思想のまま進化するはずで、この発展は永久に続くのだろう、未来に不都合はなく、「トゥモローランド」は必ず昨日の世界よりも素晴らしくなるだろうという楽観。時代が問う課題は多かったにも関わらず、未来は明るかったことだろう。その未来像を直に夢見た世代は郷愁を、それを夢見ることさえ許されなかったあとの世代は、決して体験できない幼年期に強い憧れを抱くのである。カラフルなプラスチックが象徴する豊かな時代とやらの、膨大で無責任な浪費を現代の見地から責めることは可能だが、しかしあのように明るく美しい未来像を前にしては、そんな気もなくなる。

だからスクリーンの隅々までミッドセンチュリーの雰囲気に彩られ、実現することのなかったレトロフューチャーなガジェットからなる架空のニューヨークのヴィジュアルには心が躍った。タイプ1のビートルとバブルカーが一緒に走っているなんていうのは素晴らしい景色だ。それだけで本作は万博映画と呼ぶこともできるのではないか。マーベル映画はMCU以前から観てきている方だが(もちろん2005年の「超能力ユニット」の記憶もある)、ここまで色彩やヴィジュアルを好きになる作品もなかなか珍しいと思う。ひたすらに暗く、コミック・ヒーローたちを現実に違和感なく落とし込もうとしていた頃への反動からか、だんだんとこのような色彩の作品が増えているような印象はある(いい塩梅のところを見つけないとそれはそれで陳腐になる恐れもあるのが難しいところだ)。そう考えると本作の場合は背景の方がキャラクターたちに合わせて設定されている。ファンタスティック・フォーを彼らが実際にデビューした1960年代に立たせるだけでなく、それを実際とは違った技術の歩み方をした別のアースに座標をずらしたところが、わざわざ説明するまでもない本作最大のセンス・オブ・ワンダーだろう。過去のようで過去でない、未来のようでそうでもないという不思議な舞台となった。劇中の舞台は1965年、ぼくたちの世界ではNY万博の翌年に当たる。

 地球のエネルギーを食らおうとする宇宙魔神ギャラクタスの襲来に関しては、原典となるエピソードがあまりに有名で、映像でもすでに翻案されているため、その顛末がある程度知れているという大きなネックがあったと思うが、そこも意外な舞台設定と同じように調整され、誰もが等しく初めて知る物語になっていたと思う。

 ただ、ギャラクタスに対する人類の途方に暮れた無力感はそれなりに伝わってくる一方(ペドロ・パスカル扮するミスター・ファンタスティックが常に泣きそうな顔であることも一役買っていると思う)で、その襲来にはもう少し意味付けが可能だったのではないかとは思う。つまり最初に書いたような「理想的で能天気なレトロフューチャー文明」をひっぱたくような警鐘としての意味付けや役割を、宇宙魔神に持たせられたのではないかというところだ。その前兆としてやってくる使者シルバー・サーファーは、その見た目通りに、浮かれた人々の首筋に当てられる冷たい銀色のナイフであるべきではなかっただろうか。前提は異なるものの、それはどこか戦後復興の上に繁栄を取り戻した東京に現れた、ゴジラのような睨みをきかせるものになったのではないかと想像できる。もちろんアース828のニューヨークは現実のものではないし、残念ながら今の現実世界も浮かれた感じでは全然ないので、もしそのような効果を狙うなら、もっと技術を享受する市民の日常や技術の進歩の上にやや傲慢になった人々、体制、あるいは日々の活動を通して自分たちの能力に慢心した4人組の姿を(すでにヒーローとして人気者であることは示されていたが)、予めスクリーンに見せる必要があったと思う。いずれにせよ、せっかくあのような世界にあったのに市民の生活描写が物足りない気がした。ニューヨーク市民を通して、非力で愚かながら可能性を秘めた地球人類の姿を見てこそ、シルバー・サーファーの心が動くはずではないか。

 ファンタスティック・フォーのプロフィールを描き、彼らがいる世界の前提を示した上で、その日常を壊すようにシルバー・サーファーとギャラクタスがやってくるというのを、一作のうちにやろうというのもなかなか難しかったのではないかと、序盤の4人組の活躍をやや駆け足で描くダイジェストなどを観ても思う(4人の活躍を振り返るテレビ番組の体裁をとる描き方は上手だったと思う。おまけに登場する放送局はかつてハンナ・バーベラのアニメ版、日本では「宇宙忍者ゴームズ」として知られるあのアニメ版を放送していたABCである。現在の親会社はちょうどディズニー社)。かつての20世紀フォックス版では、『超能力ユニット』でオリジンと宿敵ドクター・ドゥームとの闘いを描き、続編『銀河の危機』でシルバー・サーファー来訪を描いていたが、本当ならそれくらい段階を踏まなければならない話でもあろう。冒頭のダイジェストからはどうやら最終的に削除されたヴィランもいるという話なので(ジョン・マルコヴィッチ扮するレッド・ゴースト)、いろいろと勿体無い気もする。ポール・ウォルター・ハウザーのモールマンは素晴らしかった。モールマンが地底に引きずり込む地上の建物がパンナムのビルというのも時代感がいい。特集番組の司会がマーク・ゲイティスというのもあり、ぼくはわりとこの冒頭の前提説明部分でいろいろと満足してしまったところがある。

 そして、この振り返り映像で描かれた以上のアクションが、結局最後まであまり見られないというのが、本作の一番もったいないところではないだろうか。ヒューマントーチやシング(どうかファイヤーボーイとガンロックと呼ばせてほしい)はその後もいろいろと見せ場があるが、ミスター・ファンタスティックにはもう少し柔軟になってほしかったところだ(ゴームズさんさあ)。ペドロ・パスカルが伸びたり縮んだり、丸まったり広がったりするところが見たかったではないか。もっとありえないくらい伸びきったり、薄く平べったくなってパラシュートになったりしてほしかったではないか。そもそもあの衣装の生地の感じからして伸縮性がなさそうである(なんかニットみたいな)。スーに至っては、確かにひとりでギャラクタスを押し出すほどの強力な念力を見せてはくれるが、全然透明になってくれない。4人で能力描写に差があるのは、夫妻の方に特有のストレスがかかっていたからという見方もできるが(スーは産後、リードにしても妻子の身を案じながら世界を救う方法を考えなければならないという負荷がかかってはいた)、ギャラクタスにちょっと伸ばされただけで苦痛に叫ぶゴームズにはいたたまれないものがあった。ファンタスティックなアクションに関しては20年前の2005年版の方がよく出来ていたと思う(あちらは戦闘シーンそのものが冗長という欠点があったが)。

 とは言えぼくは元来アクションにうるさい方ではないから、今回はすでにくどくど書いてきたようにヴィジュアルの方でかなり満足している。ちょっと硬めのアクションも、時代感と合わさってまさに「宇宙忍者ゴームズ」の動きの少ないアニメーションの趣があるのではないか(そいつはどうかな?)。加えて同じくハンナ・バーベラ作品の「宇宙家族ジェットソン」の雰囲気も感じられて楽しいばかりだ。レトロフューチャー感を差し引いても、ミッドセンチュリーのインテリアや服装にも惹かれるものがある。監督のマット・シャックマンは映画というよりはテレビシリーズの監督として知られ、マーベルでは「ワンダヴィジョン」を全話監督しているほか、フィルモグラフィには「マッドメン」や「アグリーベティ」などぼくの好きなタイトルもあってピンとくるものがあった。「マッドメン」に関しては1エピソードを手がけたのみだが、本作と同じ1960年代を舞台にした伝説的ドラマである。このようにテレビシリーズで著名な監督を起用しているところにも、本作を往年のアニメシリーズの進化版として演出しようというコンセプトを感じることができるのではないか。スクリーンに行き渡っているかわいさみたいなものも、きっとこのように意図されたテレビスケールの雰囲気のためだろう。

 アクションのことはともかく、新たな可能性を秘めた作品であることは確かだ。ここからどのように膨らんで、MCU全体への役割を果たすのだろうか。別に果たさなくてもいいが、今度のフェーズはドクター・ドゥームが鍵らしいので、なんらかの展開に関わることになるのだろう(フェーズ2くらいの頃ほどにはそれほど情報を追っていないので正直どういう予定になっているのかはよくわかっていない)。ミッドクレジットシーンにも緑色の頭巾姿が出たわけだし、順番としては『超能力ユニット』『銀河の危機』の逆になるわけだが、ギャラクタスの後に満を持して登場する彼は一体どんなインパクトを残すのだろうか。
「ほんだけど今日のところはよ、見本だで、サンプルだで、ミッドクレジットだけにしとく」