『スカイウォーカーの夜明け』のラストシーン。通りすがりの老婆から何者かと問われたレイが名乗るべきだったのは、やはり「ただのレイ」でよかったのではないかと思う。物語の前半、惑星パサーナのアキ=アキ族の少女から名前を尋ねられたときも「ただのレイよ」と応えるのだが、その響きには「ただのレイ」として生きていくしかないのだという諦めを含んだ前向きさと、同時にどこか寂しさを感じとることができる。肉親がいなかった彼女はやがてそれがただひとり存在することを知らされる。パルパティーンである。彼女は血筋の宿命にしたがって邪悪な皇帝の後継者にされてしまいそうになるが、自分自身で道を選ぶ。シスと同じ力を持ちながらもジェダイたちの意志を受け継いだ彼女は、祖父を倒して宿命に打ち勝つのだ。
スカイウォーカーやジェダイたちの意志を引き継いだという意味であっても、スカイウォーカーが血筋から概念や象徴へと変わったという意味であっても、レイがスカイウォーカーを名乗る必要性をあまり感じられない。ましてやついさっき祖父を倒して血筋を拒絶したところなのに、また別の血筋に乗り換えただけになってしまう。この物語はスカイウォーカーの伝説が幕を下ろすためのものではないのか。言ってみれば呪われたふたつの血筋が途絶えることで全てが終わるのではないのか。その上でそんなあっけなく、はっきりと、自信たっぷりにスカイウォーカーを名乗ってしまっていいのか。なにより「レイ・スカイウォーカー」という字面が、申し訳ないがずっこけてしまう(「レイ・パルパティーン」も相当だったが)。
このお話、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』に非常に似ている。というよりあちらに先にやられてしまった以上、あれを超えられないように思える。母親しか知らなかったピーター・クイルはついに父親と対面するが、その正体は惑星そのものとして生きる神のような存在だった。自分も超人的な力を受け継いでいることを知って一時的に舞い上がるが、父エゴの邪悪な野望や母の死の真相も明らかになり、父子の繋がりを拒絶する。
パワフルな親子喧嘩の中、ついに窮地に陥ったエゴが言う。
「お前は神なんだ。私が死ねば普通のやつらと同じになってしまうぞ」
それに対しピーターは、
「それのなにが悪い?」
この一蹴の仕方が最高だ。もちろん作品の趣旨や条件が違うので簡単に比べることはできないが、少なくとも同じテーマでカタルシスと感動が大きかったのはこちらだ。フォースとひとつとなったジェダイたちに励まされ、祖父に立ち向かうレイにも感じることがなかったわけではないが、もうひとつぐっとくるセリフや、そのテーマがすっと入ってくる鋭さが足りなかった気がする。レイがスカイウォーカーたちに迎えられたのと同様、ピーターにもまた本当の父親と呼べる育ての親がいた。ヨンドゥ・ウドンタである。彼の最後のセリフがまたかっこいい。
「あいつ(エゴ)はお前の父親じゃない。ろくでなしの俺がいい息子を持てたぜ」
そう言って彼はひとつしかない宇宙服をピーターに着せて彼を助け、自分は宇宙空間で息絶える。もしこのあとピーターが「ピーター・クイル・ウドンタ」なんて名乗ったら、ヨンドゥの死に様が台無しになるほどではないにせよ、ちょっと微妙だと思う。必ずしも血の繋がりだけが重要ではないということが示されたのだから、苗字をもらう必要なんかないのだ。そんな記号に頼らなくとも深い絆があることは十分表現されている。
話を戻して、前半で登場した「ただのレイ」という自己紹介。これが最後にも生きてきたほうが綺麗だったように思う。老婆がフルネームを尋ねてきても、「いや、ただのレイだ」とはっきり言うのだ。前半では半分寂しさを含ませていたが、最後には胸を張って堂々と名乗る。スカイウォーカーの物語は終わったが、レイという何にも縛られないひとりの人間がここに完成し、未来が続いていく。そんなところでどうでしょうか。