Joker(2019)

 去年試写で観たきりだった『ジョーカー』がNetflixに来ていたので見返す。この映画を巡ってはいろいろな意見があると思うけれど、ひとまずぼくとしては無数にあるバットマン神話の数々の中の、いちパターンという程度であることは、初見時から変わらない。80年代の生々しい不景気なゴッサム・シティをはじめ絵的にかっこおもしろいところも多く、なによりのちにジョーカーへと変貌を遂げる主人公アーサーに扮するガリガリのホアキン・フェニックスの所作もいちいち見応えがある。

 今までは大富豪とその協力者である警察の視点からしか描かれなかったゴッサムそのものを、最下層の生活から描いたのは新鮮で、その象徴としてこれまでのバットマン神話ではブルース・ウェインにとって絶対的な存在だった「偉大な父」トーマス・ウェインを、低い視点から見上げて別の姿に描き出しているのがおもしろかった。主人公アーサーはつねに混み合った雑踏をさまようが、これもつねに高いビルの上から街を見下ろしているバットマンの定番ポーズとはわかりやすく対照的だ。

 またアーサーが、実はトーマス・ウェインと使用人との間に生まれたのではないかという疑惑(限りなくその可能性が高いことが示唆されるが結局本当かどうかははっきり明かされない)により、アーサーとブルース、ジョーカーとバットマンを「兄弟」として対比するというような試みもなされている。最終的にアーサーが悪として覚醒し、カリスマ的なピエロに感化された暴徒のひとりが、息子を連れて暴動の現場から逃れようとするウェイン夫妻に銃口を向けることになるが、これは間接的にジョーカーがバットマンを生んだというような構図になる。こういう、全く見慣れないルックやフォーマットによって、お馴染みの神話を構成し直しているようなところがおもしろい。

 ただ、そのためにあの犯罪界の道化王子たるジョーカーの誕生秘話として少しスケールが小さく感じられもするのだが(ましてやヒース・レジャー版の伝説的なバージョンと比べたら尚更だが、その比較はおそらく意味がないし、両者の違いこそがおもしろいところである)、そこはDCコミックのキャラクターの設定をところどころ借りながら、アーサー・フレックというひとりの男について描いた映画と受け取るのが妥当だろう。もしくは、いつものジョーカーがいつもの調子で語った嘘か本当かわからない身の上話のいちパターンだと思う程度がちょうどいいと思う(ラストシーンでカウンセラーと話しているところからその想像ができる)。タイトルに「The」がつかないのはそのあたりの余地のためでもあるのではないだろうか。ジョーカーそのものというよりは、ジョーカーのような男、ジョーカーという概念を指しているのだろうと思うことにしている。