男の仕事は至ってシンプルだった。ボタンを押す、ただそれだけ。
朝、職場にやってきてタイムカードをパンチすると、パーテーションで区切られたわずか2メートル四方の自分の持ち場に入り、座席に座って操作盤に向かう。操作盤はボタンが2つとその中央上部にランプが一つついただけのもので、この3つの丸による三角形が、男の仕事の全てと言ってよかった。
ランプが赤く点灯すると、すぐに右側の赤いボタンを押す。この赤いボタンが、勤務中に最も頻繁に押すメインのボタンだ。ずっと押し続けているものだから、男がこの仕事に就いたときには真新しかったそれは、すでに真ん中のところが剥げてテカテカと光っている。ランプが消灯している間はボタンを押さないが、ランプが消えている時間は8時間の勤務時間中にトータルで10分もないだろう。
左側にある青いボタンは、赤いボタンが沈み込んで戻らなくなったり、押せなくなったり、ランプが点灯しなくなったり、なんらかの故障が見られた場合に押す。すると、操作盤に向かって右側の壁面に取り付けられているスピーカーから、どういう状況か尋ねる通信が入るので、スピーカーの下についているマイクに向かって現状を説明する。もし、青いボタンを押してもスピーカーからなんの反応もなければ、つまりスピーカーの不具合や通信の不調が見られた場合には、背後の扉を開けて、外の通路に向かって右手を挙げる。そうすれば、通路を巡回している監督がやってきて、状況を説明できる。ただ、この通路は全長200メートルほどあり、監督はひとりしかおらず、さらには100のブース全てからしょっちゅう挙手が起こるので、監督を呼ぶチャンスはほとんどない。そういう場合には、終業ベルが鳴るまで座って待機するしかない。もちろんなにもせず座っていた場合には、一定時間赤いボタンが一度も押されていないことがコンピュータに記録されるので、タイムカードの記録に関わらずその時間は無給となる可能性がある。この事態を避けるために、誰もがあまり強く赤いボタンを押さないようにしていた。
男は今日もスイッチを押し続けている。適度な力で、素早く必要な回数を押す。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
カチ、カチ、カチ、カチ。他の99のブースからもこの音が一斉に聞こえる。ひとつひとつは小さな音に過ぎないが、100のカチ、カチがひとつに合わさると、それなりの大きな音となる。耳をやられる者もいるので、監督も含め各々が耳栓やヘッドセットをつけてこの音の嵐から聴覚を守っていた。男もまたヘッドセットをつけ、それでいながら全くノイズを遮断しない程度にそれを緩めていた(なにも聞こえなくなるのもそれはそれで仕事に支障をきたす)。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
実はこのスイッチがどういった機能を果たしているのかは、操作者たちには一切知らされていない。通路を巡回する監督にも知らされているか微妙なところだ。彼らがわかっていることと言えば、このスイッチを押すことは重要な仕事であり、生きた人間が自分の判断でこれを押すことがなによりも全体のプロセスに欠かせないということ。とは言え、その全体のプロセスがなんのプロセスなのかは誰にもわからなかったし、男をはじめ操作者たちはほかの同僚とは全く言葉を交わすことがないため、情報や推測を交換することさえなかった。
しかし、誰もがそれで十分だと考えていた。男もそうだった。余計な交友は面倒ごとを招くことをよく理解していたし、ゆくゆくはこのシンプルな仕事にとって邪魔になる。彼らは皆同じような性格、特性を買われてこの職場に配備されていたから、もしかしたらいざ付き合ってみればそこそこ気の合う友人になれたかもしれない。だが、全員が全員、他者と一定の距離を保つことを好んでいたため、それは意味のない仮定と言えた。彼らはこの仕事のそうした無駄のなさを気に入っているのだ。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
最初のうちはあまりに単調な作業なので、勤務中にいろいろな考え事にふけろうと男も思っていたが、すぐにかえってそんな暇はないことを思い知った。ランプの点灯する頻度もそうだが、スイッチを押すのにはそれなりの集中力が必要だったのだ。考え事をしながらなどしていられない。そんな姿勢で挑めば、ランプの点灯とのタイミングを合わせられず、点灯していない間にスイッチを押してしまったり、点灯している間に押しそこねたりしてしまう。後者については前述の通りだが、前者もまた減給や無給となる恐れがあるから気が抜けない。そう、この仕事は案外気の抜けないものだった。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
他のことをなにも考えずに、ランチや夕食のことさえ考えずにスイッチを押し続けていると、自然とある境地に達するようになる。雑念が消え去り、ただ赤いランプと赤いスイッチにだけ精神や思考、感覚が集中していく。この場に、この世界に、この宇宙に自分とランプとスイッチしか存在しないのではないかという感覚になり、神経は指先の、指の腹の一点に集中する。男はこの感覚を気に入っていた。他のことを考えながらこの仕事をしようなど、愚かな考えだった。未だかつて経験したことのないクリアな感覚は病みつきになり、ある種の瞑想状態が自分を高次元に導いているかのように感じた。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
それはなにもこの男に限ったことではなかった。残りの99のブースで同じようにスイッチを押している人間全員が同じ感覚にどっぷりと浸り、不思議なゾーンに入り込んで目を輝かせていた。なにも考えないことを考えることの喜び、全くの無心で指だけが勝手に動いていく快感に、全員が魅せられていた。そして、これは彼らの雇い主としても申し分ないことだった。実を言えばこの雇い主さえもこのスイッチの意味をよく理解していない。スイッチの真の意味を知り、全体のプロセスというやつを把握しているのはそれよりももっと高いレベルにいる人間たちで、監督や雇い主などスイッチを押している操作者たちとほとんど変わらない末端と言えた。言うまでもなく、彼らには詳細を知る必要がないし、知らないほうが幸福というものだった。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
そんなことも男の知るところではないし、はなから興味さえなかった。いつしか男の興味はスイッチをいかに華麗に押すか、いかに素早く例のゾーンに入り込んでクリアな精神状態を得るか、それだけに集中するようになった。これがもし元々多趣味で交友の広い人間だったなら、周囲の者はその変わりように驚いただろうが、この男はもとよりこれと言った趣味もなく、友人も少なく、なによりもとの性格がこの仕事に適していたのだから、変化が際立つ心配もなかった。事情を知る者が今の彼の姿を見れば、彼が天職を得たと考えたことだろう。もちろんそんな観測者も彼の場合はいないのだが。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
もはや男には疑問などこれっぽっちもないし、この仕事をする上での弊害は一切ないと言えた。スイッチを押すという最終的な行為を生きた人間が自分の判断でしなくてはならないという必要に迫られてこのような仕事を与えられているということも、この際彼にとってはどうでもよかった。実は高度な戦略用人工知能が全てのプロセスを進めており、あとはスイッチを押すだけというところまで完了した際に、赤いランプが点灯しているなどということも、彼にとってはどうでもいいことだし、知る由もない。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
実はランプが点灯し消え、次に点灯するまでのほとんど2秒もない間に、コンピュータが「次の」標的を探し出して照準を完璧に合わせ、エネルギーの充填や砲身の冷却、各種システムの点検を終えていることも、男が知るはずもないことだった。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
そのコンピュータが一度に、軌道上に配備されている100基のレーザー砲に同じコマンドを繰り返し、地表の至るところにある100の標的に対しほぼ同時に照準が合わせられ、最終的に赤いランプが点灯していることも、男の預かり知らぬところだ。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
コンピュータが探し出して照準を合わせた標的には、なんの武装もしていない小さな村さえも含まれていて、そこに暮らす老若男女の住人たちは自分たちになにが降り掛かったのか知る暇もなく(光線さえ見えることはない)、一瞬で蒸発してしまうこと、一瞬後には農場の巨大なサイロから小さな子どもの遊んでいた玩具の車まであらゆるものが跡形もなく消えること、何世代にも渡ってその土地で人々が暮らしてきた痕跡さえも消え、その土地には最初からなにもなかったかのようになってしまうことも、男が知るはずもなかった。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
一体誰が男を、100人の無自覚な砲手たちを責めることができよう。彼らはなにも知らず、ただ無の境地で瞑想にふけっているに過ぎない。彼らの上司もスイッチの意味を知らないし、おそらくその上司も知らないだろう。途方もないほどの階層を上がっていって、ようやくランプとスイッチに関する機構の一部を把握する技師や管理者が現れるのがせいぜいである。彼らの誰一人として、この全体像を知らないし、スイッチが押された結果起こることを知らないのである。誰のことを責めることができるのだろうか。
ランプが点灯する。スイッチを押す。ランプが点灯する。スイッチを押す。
そうして彼らに真相を知らせることもできない。もし本当のことを知れば、その多くが精神的に破綻するのは目に見えている。100人の砲手たちははこれまでやってきたことの重みに押しつぶされ、これからすることに怯えて壊れてしまうに違いない。あるいは、重大な現実から逃避するためにより一層瞑想の世界に浸り、二度とこちらに戻ってこなくなるかもしれない。そのままスイッチを押すだけの機械と化してしまうかもしれない。もっとも、今もそれと大して変わらないのだが。
ランプが点灯する。
唐突に。
そこまで一瞬で考え至って、男の指が止まった。配属以来初めてボタンを押す指が動きを止めた。
ランプが点灯する。
まさか。
ランプが点灯する。
そんなわけがあるか。
ランプが点灯する。
馬鹿げている。
ランプが点灯する。
男は再びスイッチを押す。