自分は決して愛想のいい人間ではないが、というかむしろ悪い方だと思うのだが、それにしても同じマンションの住人と階段やエントランスで鉢合わせしたときに挨拶しても、どうしてかあんまりちゃんと返されないというか、まるで他の住人とエンカウントしたのがイレギュラーな事態とでも言うように、気まずそうされる感じに、自分のことは棚に上げて違和感を抱いてしまう。はっきり言って無視されることさえあるのだが(聞こえていないという可能性に望みをかけるが)、他の住人に会うことってそこまで嫌なことだろうか。確かに自分の生活圏のすごく近い範囲に知らない人間が住んでるというのは、アパートなりマンションなりで暮らし始めた頃にぼくも慣れなかったというか、やや落ち着かないものがあったが、だとすれば尚更挨拶くらいしたほうがよくはないか。挨拶というのは自分が怪しい者ではないと表示するためのものでもある、ということを聞いたことがある。最低限挨拶をするだけで自分の身も守れるというわけだ。狭い空間で知らない人と遭遇することに居心地の悪さを覚えるのなら、挨拶してそれを軽減すればいいのに、とぼくなどは思う。
余計な近所付き合いなどせず、そっけなく接するのが都会の暮らし方なのだ、ということも人から聞いたことがあるが、その発言者は都会人どころかぼくよりも半端な地方から出てきた人間だったので、全然説得力がなかった。とは言え、ここにヒントがある気がする。つまりそれは勘違いされた都会像であって、同じマンションの住人のあの不可思議な態度は、要するに知らない土地で暮らす人のよそよそしさそのものなのではないか(念の為記しておくがかく言うぼくもよそ者である)。
都会は冷たい、と紋切型な言い方がある。都会という部分は別に東京でもニューヨークでもロンドンでもいいのだろうけれど、大きな街というものは往々にしてきらびやかに語られるのと同じくらい、冷たさを含んで語られることも多い。しかしそれはその人がよそから来たから、見知らぬ土地だからそう感じるのであって、そんなよそ者が大勢集まっているからこそ都会は冷たくなってしまうのである。そうしていつの間にか出来上がってしまった勘違いされた都会像に、地方からやってきた人々は自分を適合させようとがんばり、そっけない立派な都会人になっていく。そして同じマンションの階段でコーギー連れて降りてきたぼくの挨拶にも、中学生男子みたいなこっくり頷きで返すようになるのである。もちろん全てはぼくの想像で、案外本当に聞こえていないのかもしれないし、元からそういうそっけない人柄なのかもしれない。
『魔女の宅急便』というとてもおもしろい映画があるのだが、娘がこれに夢中で繰り返し観ているおかげでぼくも何度も物語を反芻する機会を得た。子どもの頃はテレビ放映していても断片的にしか観れず、最初から最後まではおろか全体を俯瞰して咀嚼することなど全然できず、仮にできたとしても子どもの頃ではあのストーリーの言わんとするところが、それほど理解できなかったと思う。今更ぼくが指摘することでもないが、魔女や箒で飛ぶといったことはフォーマットであって、物語の軸は少女の上京物語にある(二度の世界大戦が起こらず、魔女と魔法を使わない人間がかつて共生していたという世界観にはもちろん惹かれるが)。魔女のキキは初めて訪れた大きな街で、到着早々ちょっとしたトラブルを起こしたために思い描いていた理想と現実とのギャップにぶつかり、勝手のわからない街で途方に暮れ、しまいには「この街の人は魔女が好きではないらしい」と断じてしまう。それで、ご存知のようにそのあといろいろあって、最後にキキは「この街が好きだ」と言って物語は終わる。別に街は最初から表情を変えていない。人々がキキを受け入れたというよりは、キキが街に心を開いたのである。おそらく街の方は最初から門戸を開け放っていたのだろう。トンボという眼鏡の飛行少年にしても、最初から気持ち悪いくらい大歓迎状態である。人々と打ち解けるかどうかはキキ次第、自分次第なのだ。都会が冷たいかどうかも自分次第かもしれない。