『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(2021) 感想


劇場まで観に行って本当によかった。エヴァを公開日に観たのも初めてだし、およそ一年振りの劇場鑑賞、やはりスクリーンはいいものだ。端的に言えばすごいものを観たという感覚。忘れられない映画体験、アニメーション体験となった。
TVシリーズの最終回と旧劇場版『Air / まごころを、君に』に新劇場版の新たな展開を合わせた素晴らしい集大成にして完結編。旧作の展開を予感させながらも、その予感が気持ちよく裏切られる感覚は、かつて17歳の夏に『破』で受けた衝撃と同じもの。同じ世界観、同じキャラクターたち、けれど少し違う表情。知っているようで知らない世界。決して同じことは繰り返さず前進するキャラクターたちの姿は、もしかしたら作り手の姿勢と同じものかもしれない。とにかく新しい映像を見せようという気概がひとつひとつの場面やデザインから伝わってきて、それでいながら馴染みのあるイメージや様式を忘れさせない。だから親しみと未知とが合わさった世界が広がり、引き込まれる。絶対に印象に残る強い画、おもしろい画があるのがエヴァの好きなところでもある。
大団円にあって驚くほどフォーカスされる人間の生活ディテールは衝撃的でさえあり、新鮮だった。おなじみの未来都市での生活ではなく、世界の破滅を生き残った人々が築いた農村での生活で、食べることや働くこと、生み育てることがかなりの濃度で強調される。極端な状況下での極端な生活かもしれないが、エヴァンゲリオンにおいては必要な描写なのだろう。土や緑、農作業のイメージは、『破』で加持リョウジがすいかを育てていた畑へと繋がり、その加持の願いこそ地球の多様な種の存続であったこと、そしてそれを託されていたのが方舟としてのAAAヴンダーだったことがわかる。『破』での海洋研究所見学もここに繋がってくるとは。この物語は最初から地球上のあらゆる生命への賛歌であり、碇シンジは自分が守るべきものをあの農村、第3村ではっきり認識したわけである。
最後の戦いを前に、集められるだけの地球上の「種子」をおさめたユニットが宇宙空間に射出されるが、これがタンポポの綿毛のような形に変形するところは本当に感動した。映像やセリフ、キャラクターの表情などいろいろな要素に感動したが、ここはいわゆるSF的感動である。タンポポの綿毛のように伸ばされた細くたくさんのアンテナ、それは種子をできるだけ遠くへ飛ばそうと(逃がそうと)する目的に合致した素晴らしいデザインだった。
多様な個々の生命とその世界を存続させようという願いと希望に溢れた物語であることに気付かされるだけでも胸がいっぱいだが、その上あれだけ絶望し抜け殻になりかけていたシンジがしっかり立って前進する展開にはもはやなにも考えることができず、ただ見ていることしかできない。生き残った人々、新たに生まれてくる生命、不鮮明な未来を前にそれでも一瞬一瞬を噛み締めて生きながらえている第3村の「生活」を目の当たりにし、ミサトや加持、アスカたちの真意にさえ気づいたシンジにはもはや迷いも恐れもない。ここへ来て本当の恐れを抱き始めるのはあの父親、碇ゲンドウである。
ヒトであることをやめて神に等しい存在になり「果てた」父ゲンドウは、最初こそ強大で絶大で絶対的な力で息子を圧倒したかのように見えたが、シンジが父親と対峙するだけでなく、歩み寄った途端にひどく矮小な内面をあらわにする。あれだけ大きくて恐ろしい存在だった父親、文字通り神同然の存在にまでなった父親が小さなただの人間に見える。それはつまり息子が大人になったということにほかならない。そして、相手に歩み寄ることを知ったシンジは、当然ながら未熟な群体である人間をひとつに統合するのではなく、個々が生きる世界を選ぶ。確かに多様ゆえの不協和音は起こる。しかし、多様であるがゆえに世界は豊かにもなる。
なによりも生きたい、そして新しく生まれてくる生命を守りたいという願いから、シンジやミサトたちは戦った。生命として自然な本能によって神になろうとした男に抵抗したその行動は非常にシンプルなものと言える。確かにこの作品は世界観や設定、ガジェットが複雑だが、根底にあるその動機はシンプルでわかりやすく、だからこそこれだけ響いてくるのだろう。少なくとも今はこれ以上あまり細かいことを考えたくないくらいには、ぼくの気持ちにストレートに響いている。
とは言えこうして書き出してみても、もっとよく確認したいという衝動がわいてきて仕方がない。もしかしたら間違えているかもとか、もっとあそこをよく見てみたいとか、一度きりの鑑賞から一週間、長い余韻の中でずっと反芻してきたが、それにも限度がある。絶対にもう一度くらいは劇場で観たいものである。
そして、『破』の公開を機に初めてシリーズに触れてから12年が経とうとし、『Q』を観て全くの未知への衝撃を受けてからも8年が経ち、その間にぼくは結婚して子どもも生まれ、まあまあ仕事もしている。そのことになにより驚いてしまうし、『Q』を一緒に観に行った素敵な年上の女性とのちに結婚するということも、あのときのぼくはまだ知らないのだ。