『ハン・ソロ:スター・ウォーズ・ストーリー』(2018)
Solo: A Star Wars Story
■ 重厚で殺伐とした世界を生きたハン・ソロ
ポスターのイメージとは裏腹に、重厚なクライム調で驚いた。常にどこか薄暗く、モス・アイズリーの酒場以上に得体の知れない連中がうごめいている中で、ひとりの若者がどうやって自由を手に入れて生き延びてきたかが語られていた。
ハンの故郷コレリアからしてとても暗い。ミレニアム・ファルコンや反乱軍のブラッケードランナーの故郷でもあるこの造船惑星は、もっとハイテクで進んだ未来都市のイメージだったんだけど、曇り空に悪魔的な工業地帯といった感じ。ハンはそこでたくさんの孤児とともにギャングに飼われているわけだけど、そこにはスカイウォーカー親子やレイといったSWの主人公たちが経験してきた「自分はここで一生を終えるのか」という不安や絶望感みたいなものがあって、やっぱり閉ざされた世界からの脱出はSW全編に渡るテーマだなと思った。閉塞感や絶望感は、ひとを冒険に駆り立て、危険だが自由な世界への原動力となる。ハン・ソロも最初は農夫や奴隷だった少年たちと同様、何者でもなかったのだ。
何者でもないし、独り。まさか「ソロ」という名前が本当にそこから来ているとは思わなかったが、わかりやすくて気に入った。伝説的な名前(のちにスカイウォーカーの末裔となる男にも受け継がれる苗字だ)を名付けたのが、志願兵を受け付ける小役人だったというのも、そっけなくていい。まさに文字通り取るに足らない名前だったのだ。
ハンが一度は帝国軍に入隊していたという設定は、昔からあった。そのバージョンでのハンは帝国アカデミーで優秀な成績をおさめ、エリートコースを約束されていたが、ウーキーの奴隷が虐待されているのを目の当たりにしてそれを助けてしまう。エイリアンの奴隷は帝国において合法だったので、自身の良心に従ったはずのハンは罰せられ、軍から追い出されてしまい、最後には命の恩人である彼に忠誠を誓ったひとりのウーキーが残っただけだった、という話だった。
ハンが帝国軍に入っていたこと、その中で生涯の友となるチューバッカと出会ったことは旧設定も今回の映画も共通しているが、おもしろいのはそれを少しずつズラしているところだ。ハンはエリート士官なんかではなく、泥沼化(まさに泥沼だ)した前線に送られるヒラ兵士である。そこで彼は泥まみれになって死と隣り合わせの塹壕で戦うことになる。この泥だらけの塹壕戦、ミンバンの戦いはシリーズでもっとも「戦争」という感じのするシーンだった。『ローグ・ワン』はその意味ではまだまだいつものSWだったのだ。
ストームトルーパーはいつもの白ではなく、泥で汚れてくたびれきっていて、ハンはじめ一般兵の装備もごちゃごちゃ泥々としていて超汚い。なによりもSWの戦場でありながら「敵」の姿が見えない。これがすごい。そこらじゅうレーザーや爆発による煙で視界が悪く、光弾は飛んでくるがどんなやつが撃ってきているのかは全然見えない。一体誰となんのためにやっている戦いなのかは全然説明されない。そこがすごくリアルな気がした。ハンもつい上官にこう漏らしてしまう。「ここじゃ俺たちが“敵”ですよ」
■ キャラクターたちとミレニアム・ファルコン号
そんな感じで重々しい調子だんだけど、だからこそハンの軽快さ、チューバッカの動物的魅力、ランド・カルリジアンの小狡さなんかが際立つ。キャラクターが少ないからこそ、それぞれの持ち味がよく表現されているし、話も入り組まずにわかりやすい。重要でないキャラクターはわりとあっけなく死んだりするところも、前述のミンバンの戦いのように、いつ死んでもおかしくない緊張感、みたいなものが漂っていていいな。ハン、チューイ、ランド以外は誰が死んでもおかしくないのだし。
ミレニアム・ファルコン号との出会いの物語でもあるが、やはりキャラクター、人物の関係へのフォーカスが大きい。ハンがファルコンに乗り込んだだけではまだ画は完成しない。伝説のケッセル・ランを飛んでいく中、EP5『帝国の逆襲』の名曲である「The Asteroid Field」のアレンジが流れながら、ついに副操縦席にチューバッカが腰掛けた瞬間、全てがあるべきところにおさまって、ばっちり出来上がったような感動がある。ファルコンそのもののディティールがそこまで映し出されないから存在感が薄いように感じるひともいるかもしれない。しかし、ハンはまだあの船と出会ったばかりでそのディティールをよく知らないのだから、あれくらいで正しいのだと思う。ぼくたちの知るお馴染みの船は彼らの冒険や築き上げた友情によって出来上がっていったからで、あの時点ではまだ全てが白紙だ。それを象徴するかのように、ファルコンの外装も最初は白い。
ファルコンと言えば、船の秘密も明かされた。ランドの相棒ドロイド、L3-37のプログラムが船には組み込まれていたのだ。L3はシリーズにおいては初めてドロイドとしての権利を主張するキャラクターだが、そのプログラム上の性別が女性であることも興味深い。寓意性を持った彼女は、権利意識を持つ人々を戯画化しているように見えてしまいそうなところもあるが、それも含めて挑戦的なキャラクターだと思う。
ファルコンが「彼女」と呼ばれていたのは単に船舶が女性名詞だからというだけではなかったわけだ。EP5でC-3POが「この船のコンピューターはひどい訛りがある」と指摘していたが、あれはL3のことだったのかな。
■ スピンオフっぽさと「映画」とのバランス
シンプルでテンポよく進んでいく物語でいながら、スピンオフなのでオタクへの目配せも忘れていない。カリダ、ミンバン、オーラ・シング、モー星団、テラス・カシ……。スピンオフっぽい用語が随所に散りばめられていて、このほかにもぼくの知らない言葉も出てきたかもしれない。ほら、ぼくそんなに詳しくないし。でも、テラス・カシはわかる。テラス・カシ知ってますか?初代プレイステーションのSW格闘ゲームで「マスター オブ テラス・カシ」というやつがあったんだけど、テラス・カシというのはSWで格闘ゲームがやりたいがために作り出されたあの世界の武術なのだ。
とは言えルークはライトセイバー振り回すし、キャラはそれぞれの武器を使うのでどのあたりがテラス・カシなのかはよくわからないんだけど、一見どうしようもないゲームに見えて、実は結構おもしろいらしい。
ちなみに物語においてはもともとはジェダイに対抗するため、ジェダイを牽制するために編み出された武術だそうで、映画ではダース・モールが使っていたとされている。そう、実はちょっとした伏線だったのだ。
ハンが恋した彼女は、シスの暗黒卿から落伍しながらもクローン大戦を生き延び、暗黒街でひそかに勢力を伸ばしていたモールの配下だったわけだが、最後に黒幕としてこういうキャラクターを投げ込んでくるあたりも、実にSWスピンオフらしい。飛び交う用語、情報の密度が作り出す世界観の奥行き、そして意外なキャラクターの登場。こういった盛りだくさんなところ、雑多なところにSWスピンオフの魅力があると思う。それでいて本作は一本の宇宙犯罪ものとして(西部劇でもギャング映画でもいい)、一本の映画としてもおもしろいというバランスの良さ。
■ ソロという名前
彼はいかにして「ハン・ソロ」となったのか。その物語を知った上だと、EP7『フォースの覚醒』でのレイに対する老ハンの態度への印象も変わってくる。レイになにかを見出したハンは彼女の師となるが、それは孤独に生き抜いてきたレイにかつての自分の姿を見たからではないか。若きハン同様、レイもまた初めて乗ったファルコンで、初めて握った操縦桿で神がかりなテクニックを見せる。ソロという名前は、家族は誰もいないという理由でつけられたものだが、それならレイもまたレイ・ソロになり得るのではないか?
孤独なレイの擬似的な父親になるハンだが、しかし彼には本当の息子がいる。家族が増えることで、ソロは適当な名前からちゃんとした苗字となったはずだが、孤独の名を受け継いだ息子はやがて家族のもとを去りその名を捨ててしまう。さらには最初のソロである父親も殺してしまう。
ソロという名を与えられることで「自分」を手に入れたハン。そのハンに認められることで冒険へと旅立ったレイ。そしてソロの名を捨てながらも、孤独に転落してしまうベン。果たしてソロは呪われた名なのか?それともアイデンティティや自由への切符なのか?レイとベンがハン・ソロの存在によって結び付けられた擬似的な兄妹であることは確かだ。かつてジェイナとジェイセン・ソロという別バージョンのソロ兄妹がいたように。
別のエピソードへの理解を深める手助けをしてくれるところも、スピンオフのいいところだ。全体でひとつの歴史を作るのがスピンオフであり、ユニバースなのだ。