『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』(2019)

ついに終わった。14年前の夏にも「完結」を経験したけれど、『シスの復讐』は最終章というよりは最後のピースがぴったりはまって6部作が「完成」するといった意味合いが強かったし、「本当は9部作の構想だった」という話がなんとなく幻想を見させてくれてはいたので、あまり終わってしまったというような印象は薄かった。しかし、もはやその幻だった9部作さえも完全に終わったのだ。

 サーガの本当の終わりを迎えるにあたり、改めて自分にとってのSWの聖地を考えてみた。正直あまり劇場にこだわるタイプではないし、これまでの作品も単純に席が取れたところ、手っ取り早く観られる場所、というところで決めていた。でも今回はちょっと考えてみる。と言うのも、これまでSW鑑賞の聖地であった有楽町の日劇(跡地のTOHOシネマズ)が閉まってしまったので、聖地が無い状態なのだ。そこで、全体としての重要スポットではなく、自分自身にとってそういう場所はどこかを考えてみたわけだ。そこで母親から受け継いだ第1作目のパンフレットに「渋谷東宝」と印刷されていたのを思い出す。昔の映画パンフレットは上映館の名前が書いてあったらしい(今じゃ考えづらい。SWのパンフレットの表紙に「ユナイテッド・シネマ 豊島園」なんて書いてあるのは想像できない)。母が1作目をリアルタイムで観ているというのはぼくにとってすごく重要なことで、物語の受け取り方についても母の影響が結構大きい。そんな我が家にとってサーガの始まった地はこの渋谷東宝。そんなわけで今はTOHOシネマズ渋谷となっているそこで、最後のSWに挑んだのだった(以下は本編中の核心部分に触れます)。

 印象的だったのはスピードとパワー、そして巨大さ。文字通りミレニアム・ファルコンに乗せられているかのような目まぐるしい展開は瞬きする暇もなく、連続ハイパースペース・ジャンプによって次から次へと違う惑星や空間を飛んでいく映像はまるで「スター・ツアーズ」。これこそディズニーによるSW。速すぎてなにもかもあっという間に過ぎ去ってしまうが、なぜか美しいとさえ思えるシーンの連続だった。ハイパースペース・ジャンプをしたファルコンの後を追って、ハイパードライブ搭載のTIEファイターが次々とワープしていくところも痺れる。

 なんと言っても最大にして最強の悪役、銀河皇帝パルパティーンがスクリーンに帰還したことが個人的にもうれしい。スカイウォーカーの物語にはつねにパルパティーンの影があり、シークエル三部作の最後に彼を登場させることで、スカイウォーカー・サーガと呼ばれるこの9部作が改めて一本の糸で繋がったのだと思う。彼の登場によりファースト・オーダーの背景、スノークの正体といった『フォースの覚醒』以来の謎の部分が少しずつ解き明かされていく。と言ってもそこまで具体的な説明がないので想像で補うしかないのだが。結局のところファースト・オーダーは表舞台向けの手先に過ぎず、その首領であるスノークはクローン技術で生み出された操り人形だったのである。水槽の中に浮かぶ複数のスノークの残骸が、なんとなく綾波レイを連想させる。

 復活皇帝のディテールをもっとよく見たかった。隠れ家は常に暗く、不安定な空に走る稲妻によって時折その輪郭が浮かび上がる程度というのは、謎に包まれていてミステリアスだが、最後の最後で黒幕が登場するなら、いっそ全てをはっきり映し出して欲しかったとも思う。しかし不明瞭で説明が足りない分、復活の経緯について想像をかき立てられるというのも悪くない。お馴染みのフードの下で独特の陰影を持つ皇帝の顔は、死体とクローンの中間のようで、なにがあったのかがすごく気になる。

 そんな皇帝が銀河支配の完成のために解き放つのはシスの大艦隊。予告にも登場したおびただしい数の、もうこんなの勝てるわけがないと気持ちを挫けさせるような数のスター・デストロイヤーで、しかもその全てが惑星を丸ごと破壊できる主砲を備えている。どういうことだ。ぶっ飛んでいる。しかし最後の最後なのだから、これくらいぶっ飛んでいてもいいのではないだろうか、と思いたい。笑いたくなるほどの絶望的状況が、レジスタンスをより燃え上がらせるというものだ。劣勢(にもほどがあるが)をもとともせずに巨大な敵に立ち向かうのがSWである。

 巨大でパワフルで、スピーディ。それは大きなインパクトを与えたけれど、その分細部をもっとよく見たいと思わせた。目にも止まらぬ速さで動いている分、細かい部分がよく見えない、あるいは巨大過ぎて四隅が見切れているといったような印象が全体にあったと思う。しかし、逆に言えばもっとよく見たいと思わせる掴みは抜群だったとも言える。あまり全てを見せ過ぎず、それでいてガツンと来るものをテンポよく見せていたと思う。いずれにせよ背景を想像したくなる作品だった。謎を謎のままにしておくバランスというのも重要なのかもしれない。

 謎と言えば、レイの出自が明らかになる。前作で明らかになったのでは、と思うかもしれないが、さらに真相がわかる。前作でカイロ・レンはレイに対し彼女の出自を「両親は無名の人で、酒代のために娘を売った」と告げたが、それはレイの記憶を覗いたカイロ・レンがそう考え合わせたものだったようだ。レイを絶望させて味方に引き入れる意図もあったのだろう。これはオリジナル3部作における「ダース・ヴェイダーがアナキン・スカイウォーカーを殺した」というオビ=ワン・ケノービの「嘘」と重なるようなところで、「ベン」という名前の人物が事実を都合よくねじ曲げるというところも重なる。「要は見方の問題だ」というわけである。そして、結局レイは何者かと言えば、皇帝パルパティーンの孫だった。

 ぼくは前作『最後のジェダイ』の感想の中で、特別ではないレイが特別な血を受け継いでいるカイロ・レンと対峙、彼を救うという構図を想像して悦に浸っていたと思うけれど、しかし本来英雄ではない人物が、本来英雄になるはずだったが悪に堕ちた人物と対峙するという構図そのものはそれほど変わっていないと思う。本来ならスカイウォーカーに滅ぼされる運命にある邪悪な血筋であるレイが、闇に堕ちたスカイウォーカーの末裔と戦い、全ての元凶である祖父にも立ち向かう。これまでのサーガの善悪を逆転させたようなこの構図も、ぼくは美しいと思う。と同時に、2年前に前作に抱いた感想も変わらず大切にしていきたいと思う。本作では『最後のジェダイ』でのセオリーのズラしが元に戻されたという印象もあるけれど、そもそも『最後のジェダイ』は3部作の中間点として捻りの役割を果たしていると個人的には思うし、それを受けた物語の着地点として今作はよく仕上がっているのではないかと思う。

 ついにカイロ・レンが滅ぼされ、ベン・ソロが帰還を果たすところは今作のハイライトだ。『フォースの覚醒』では勇気を出して選ぶことのできなかった道を、ようやくベンは選択する。父親にライトセイバーを差し出したときにすべきだったことを成し遂げるのだ。綺麗な放物線を描いて衛星ケフ・バーの荒れた海の中にカイロ・レンを象徴する十字型ライトセイバーが落っこちていく。ついにやった。その後皇帝と対峙するレイのもとに駆けつけたベン・ソロは、まるで憑物が落ちたかのようなすっきりした顔で、もう普通のアダム・ドライバーだった。この姿もまたもっと長く見たいと思った。『最後のジェダイ』から密かに育っていたレイとベンの絆は、パルパティーンとスカイウォーカーというフォースの対の存在として完成し、宿命を越えた力が皇帝を圧倒する。銀河に向かって最悪の兵器とともに飛び立とうとしているシス艦隊に対して最後の攻勢を仕掛けたレジスタンスも、ランド・カルリジアンの呼びかけに応じて大集結した有志の船団によって持ち直す。ここでウェッジ・アンティリーズが再登場したとき、ぼくと友人は満面の笑みで顔を見合わせるのだった。

 圧倒的な皇帝のパワーに挫けそうになるレイに先代のジェダイたちの魂がフォースを通して呼びかける。ルークやヨーダ、オビ=ワンの声だけではない。ヘイデン・クリステンセンによるアナキン、サミュエル・L・ジャクソンのメイス・ウィンドウ、リーアム・ニーソンのクワイ=ガン・ジンといった声も聞こえてくるし、アニメ・シリーズでお馴染みのアソーカ・タノもいる。とは言うのはエンドクレジットで名前を確認してからわかったことだけれど、とにかくジェダイたちの声がレイに呼びかける。独りではない、フォースはいつも君とともにある。これまでの戦いの全てがここに集中するかのような場面。いろいろ思い返さずにはいられなくなる。世代を越えたジェダイたちの魂は、自分たちを滅したシス・マスターの孫に全てを託したのだ。光の抱擁によって迎えられたレイは膝をついて起き上がり、残された力を、それを与えた祖父に向かって解き放つのだった。

 レイは力尽きてしまうが、ベン・ソロは彼女に自分のフォースを送り込み命を繋ぎ止める。これはかつてアナキン・スカイウォーカーが妻を死から救うために求めた力ではなかったか。カイロ・レンはダース・ヴェイダーにはなれなったが、ベン・ソロはアナキン・スカイウォーカーを越えたのかもしれない。アナキンはおろか、皇帝でも到達できず科学で補うしかなかったフォースの秘儀は、自己犠牲の上に実現するものだったのだ。蘇ったレイは光への帰還を果たしたベンと初めて顔を合わせ、唇を重ねた。このシーンもまたたくさんの意見を呼びそうだが、ぼくはこれを『クローンの攻撃』で「恋愛」というジェダイの禁忌を犯したアナキンへの肯定と受け取った。愛によって悲劇は生まれたかもしれないが、愛がなければスカイウォーカーの物語も生まれなかったのだから。

 よかったところも、物足りなかったところも語り出せばきりがない。SWはじっくりと反芻して楽しみ、解釈を広げていく作品だと思う。これからぼくは『スカイウォーカーの夜明け』だけでなくシークエル三部作そのものに想いを巡らし続けるだろう。そこには疑問や不満ももちろんあるだろうけれど、重要なのはSWについて考えるということ。6部作だけの頃も考え続けていたが、新たな3部作はより深く思考する機会を与えてくれたし、なにより大人になってからSWが展開することで、自分の仕事をSWに結びつけられた。SWを絵に描くことが仕事に繋がったのだ。だから今回の3部作はぼくの人生にとってやはり重要なものになったと思う。プリクエルで育ち、シークエルではSWに対し自分からアプローチができた。こんなに喜ばしいこともないと思う。もちろんSWへの恩返しはまだまだ終わらない。頼まれもしないのにぼくは描き続けるだろう。絵に描いたり、文章で書くというのはぼくなりのSWへの解釈の広げ方であり、自分自身の表現の広げ方でもあると思う。そうしてやがては自分自身によるサーガを作りたいと思っている。創作意欲を刺激してくれるのもまたSWの魅力だ。

 同世代の俳優たちの成長を4年間見られたのもうれしい。デイジー・リドリーとジョン・ボイエガは間違いなく同世代のファンにとって英雄となったし、好きな俳優が増えたのも幸福なことだった。年月が経っても変わらない、そして深みの増したキャラクターを演じてくれた往年のキャストたち、またサーガの完成を見ることなくこの世を去った人々には敬意しかない。そうして、この大きすぎる神話を重圧に負けず発展させてくれた作り手たちに感謝したい。思う存分やってくれてありがとう。見たかったSW、知らなかったSW、悩ましいSW、とにかく様々な側面を見られて楽しかった。全てのひとにフォースのご加護あれ。