2002年の夏休み

あまりこういう実際の思い出話を書いたことがないので、今ここを書き出している時点で少し躓いているのだが、とりあえずやってみようと思う。これについては一度書き出しておいた方がいいと思っていたし、ちょうど20年というところで、書き留めておくにはいい機会だろう。

その夏休みになにがあったかを書くには、とあるひとがこの世を去ったことから書き始めなければならない。こういうふうに他人がいろいろと関わってくるので、思い出というのは書きづらいところがあったのだが、ぼくはひとりで生きているわけではないので、経験を書くためにはやはり他の人々にも登場してもらわなければならない。とは言え気恥ずかしさは否めないので細部は端折ったりごまかしたりするし、人物は皆登場順にアルファベットで呼称する(26人以上登場する場合はどうするのだ)。あくまでどういう夏休みだったかということを説明するだけのメモなので、ディテールは最低限にとどめたい。登場する人たちにも失礼のないようにしたい。

Aさんというのは、陶芸家であるぼくの父が焼き物を卸していた陶器店の社長B氏の奥さんで、この夫妻はぼくのとても古い記憶からすでに登場する。品物の搬入のたびに連れていかれたし、父がさらに遠方に用事があった際などは中継地点としてそこの家に預けられるといったこともあったらしい。幼少の時点で何日もひとりで預けられたこともあるそうな。確かにとても古い記憶をたぐり寄せてみると、長くて色の濃い板張りの廊下を四つ這いになって這いずり回っているという主観場面があるような気もする。そういう様子を父からよく聞かされたせいで自身も記憶している気になっているだけかもしれないが。

ディテールは最低限と言いつついろいろと思い出してしまうのだが、とにかくぼくはそこでよくしてもらった。ついでに弟も。Aさんはぼくらが訪れるたびにニコニコしながら出迎え、滞在中はずっと相手してくれたし、夫妻の息子さんのCと娘さんのDもこの生意気な子どもとよく遊んでくれた。Aさんは旦那さんの陶器店のうちひとつを取り仕切っているので、父が別に用事がある際はぼくもよくそこに連れていかれた。店の中の一角で陶器の包装紙の裏に延々と絵を描いている子どもを、Aさんが馴染みのお客さんに紹介するときの口上はよく覚えている。「そのお皿を作った先生のところのお子さんでね」

そんなAさんは2002年の7月に亡くなってしまった。詳細は省くがなんらかの病である。当時大人たちの会話から病名やその過程はいろいろ聞き取ったのだが、もう忘れてしまった。

思い返せば最後にAさんに会ったのはその前年、2001年の11月末頃のことである。映画『ハリー・ポッターと賢者の石』の公開を目前に控えた時期だったからよく覚えている(その公開日は12月1日だった)。B氏邸に向かう父の車が道中都内を通り抜けるとき、車体を幼いダニエル・ラドクリフたちの顔でラッピングされたバスを見かけたし、立ち寄ったトイザらスでは初めて所狭しと並んだハリポタのレゴを見て圧倒され、店内でかかっていた予告編にも見入った。買ってもらったのは品番4701「組み分け帽子」というほんの小さなセットだ。

さらには滞在中に、まだ持っていなかった「アズカバンの囚人」をAさんに買ってもらい、そこで読み始めたのだった。そんな状況下で読んだから前の二冊よりも楽しさは倍増だった気がする。今でも「アズカバン」はシリーズ中でも特にお気に入りの巻だ。

そういうわけでSWの夏が来る前には、ハリポタの晩秋があった(それぞれにぴったりの季節である)。そうして、これがAさんに会った最後となった。最後に交わした言葉は必然的に別れの挨拶だった。また来年の夏に、とかなんとか言ったのだと思う。またおいで。ぼくは靴を履き、振り向き様にさよならを言って、一足先に階段を降りていった父を追いかけ、4階建ビルの最上階を占める夫妻の部屋を後にしたのだ(前述した、ぼくが四つ這いで廊下を這っていた家からは移っている。父は前の家を「山の家」、新しく移ったこの川沿いのビルを「川の家」と呼んだ)。次にこの建物を訪れるのがお通夜だとは、このときのぼくには想像もつくまい。

その夜、お風呂からあがると、電話が鳴って、それを母が取った。相手はB氏であり、内容はAさんの訃報であった。直後、遅れてお風呂から出てきた父が母からそれを聞かされる。半年会っていないAさんが、さらにこの先ももう会えないのだということが、ぼくにはなんだか鈍く響いたが、それが知っているひとの死を聞かされた最初だった。もちろん始めはなんの実感もわかない。学校を休んで(親族ではないから忌引にはならないのだが、先生には母からことの重大さが説明されて欠席となったと思う)、父の車に乗ってB氏邸に向かっている間も、どちらかと言えば学校を休んで遠出をしているということのほうが大きくて、おかしなテンションにあった気がする。それが、だんだん目的地が近づいてくると、前はあんなに待ち遠しかったあのビルへの到着が、なんとなく重々しく感じられるようになってきた。端的に言えば緊張していた。そうして、いざ着いてみると、ビルの前にはすでに黒だかりが出来ていた。小さい頃会ったことのあるひと、毎年ここで会っていたひと、大勢の知らないひとたち。

恐る恐る奥へ進むとぼくが知っているのよりやや若いAさんの遺影があって、棺があった。やはりそれも、ぼくが亡くなったひとの顔を見た最初だった。眠っているように見えるが微動だにせず、知っているひとのようで知らないひとのようにも見える不思議な感覚。あれは今でも忘れない。もう朝方家を出たときとは全然違う気分で、悲しいやら恐ろしいやら、とにかくとんでもないことが起こったというショックを受けて、なにも言えず、考えられなくなった。前夜母に勧められて、思いつく限りいろいろな絵を描いた紙をまとめた封筒を、B氏に断って棺に入れると、その場から離れた。父と、ほかの何人かのひとたちと一緒に一旦4階へと上がっていく。そこでなにか振る舞われたのだろうが、もうあまり覚えていない。前年の11月にここを発つとき、まさかこんな形で戻ってくるとは思いもしなかった。

その後もとても下に戻る気分になれず、また父が無理をしなくていいと言うので、今考えればぼくは皆と一緒に下へ行ってお通夜に出るべきだったのだが、そうしなかった。誰かしらがついてくれたりもしたと思うが、やがては部屋にひとりになり、毛布にくるまってそれまで感じたことのない心細さでぼんやりテレビを眺めていた。そういえば初めてSWのVHSか何かを観たのもこの部屋だったはずだ。「ピーウィーのプレイハウス」を観たのも、フライシャーのベティちゃんを観たのもこの部屋だった(どれも渡米していたDによってもたらされた)。父を含めた大人のひとたちが何度か、なにかの用事で出入りしたが、それ以外はしばらく本当にひとりだった(この際初めて父親が泣いているのを見て、それもまたショックでもあった)。疲れて横になると、ずっと下の方からくぐもった音楽が聞こえてきた。

これがその年の夏休み前夜の出来事である。長くなったし、まだ夏休みが始まってもいないのだが、この経緯を説明しなければあとのことがいまいちうまく説明できない気がした。それから夏休みが始まって数日後、ぼくはいつの間にかひとりで一週間ほどB氏邸に泊まることになっていた。8月の頭に父が用事で再び訪れるまでの間である。

今思えば、毎日日記を書くべきだったが、ただでさえそんな几帳面さとは無縁な子どもだったぼくは、B氏邸での気ままな生活の中でそんな記録など一切していられなかっただろう。だから、全ては記憶に頼って書いていて、出来事の順序は大まかにしかわからないが、それでも大雑把にダイジェストでお送りするなら、まず思い出されるのはB氏がAさん同様によくしてくれたこと。今や最上階でひとりで暮らしているB氏は、ぼくを快く迎えてくれて、日々楽しく過ごさせてくれた。B氏とたくさん話をしたし、夜中までふたりしてケーブルテレビでわけのわからない映画をぼんやり観ていたこともある。朝になると階下の部屋で暮らすCとその奥さんのところで朝食を食べる。昼間は、Aさん亡き後B氏が出るようになった陶器店に行く。何日かそうやっていると、Dが現れてぼくを映画に連れ出してくれた。

そこで観たのがなにを隠そう『クローンの攻撃』だった。まともな映画館で映画を観るのも、SWを映画館で観るのも初めてだった。その少し前に金曜ロードショーで観た『ファントム・メナス』のストーリーも半分わかっていないような怪しい状態で観たわけだが、それでも夢中で見入った。ラストシーン、戦争が始まってクローンの軍隊が整列して輸送船に乗り込むところで高らかに「インペリアル・マーチ」がかかり、全てが繋がった気がして感動した。アナキン・スカイウォーカーがこの後ダース・ヴェイダーになるように、この兵士たちもこのままストームトルーパーへと変貌するのかと合点が行ったのである。Dが買ってくれたパンフレットはもちろんまだ手元にある。繰り返し見過ぎてボロボロで、テープで相当補強してある。

先にも少し触れているが、ぼくが基本的に好きだったものは大抵の場合このDからの影響が強い。ピーウィー・ハーマンもアードマン作品も彼女が持ち帰ったらしい原語版のVHSで観て夢中になった。字幕さえないが、それでも観ていて楽しかった。『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』以外のティム・バートン作品を教えてくれたのもそうで、『ナイトメアー〜』のメイキング本などのバートンの関連本を貸してくれたからこそ、ぼくはその世界観を知ることができた。バートンの絵本の影響で、絵を描くことにそれまでとは違う種類の楽しさを感じたりもした。で、SWにしても、もちろんそれ以前からペプシコーラのおまけやハズブロのフィギュアのせいもあって好きになりつつあったが、DがEP2を劇場で見せてくれたことは大きかった。ぼくが興味を持ったものはだいたいDがすでに知っていて、さらに掘り下げてくれたものだった。

EP2鑑賞を挟んでしまうと、もう残りの滞在中も頭の中はSWばかりだったが、7月の終わり頃、一帯で花火大会があった。ビルの前の川を挟んだ対岸で花火を打ち上げるので、屋上に上がると大変よく見えた(翌朝ベランダには無数の花火の玉の破片が落ちていて、うれしくなってそれをひとつ持ち帰った覚えがある)。

C夫妻とともにちょっとしたドライブに出かけた日もあった。そんな日々だから、ぼくも大人になったら、こういうふうによその子どもの面倒を見たりするのだろうか、とぼんやり思ったこともあった(実際にはそんな機会が来る前に自分の子どもが生まれたのだった)。ある夜はB氏に連れられてライブハウスなどに行ったりもした。子どもが行っていいところだったか、今や知る由もない。いろいろな大人を見た気がした。ぼくはどんな若者になるのだろうかと、いろいろな期待を抱いた。

今にして思えば、それらはB氏一家がAさんを失ったのと同じ月の内のことである。ぼくは妻と母がいなくなった家に転がり込み、夏を過ごしていた。本当は大変な時期だったはずだが、皆ぼくを退屈させないよう相手してくれて、当の子どもはいつまでも続くかのような楽しい日々の中、ほんの二週間くらい前にまさに同じ部屋で味わったあの言いようのない寂しさを思い出さないようにしていた。時折、なぜこんなに楽しいのにAさんがここにはいないのだろうかと、不思議な感覚があった。毎日B氏とともにまだお骨が載っている仏壇に線香をあげるたびに、Aさんはいないのだなあという現実を思い出した。線香と一緒に生前吸っていた銘柄の煙草が立てられていたのを覚えている。

間も無く父が再びやってくると、調子に乗った息子の姿を見るわけだが、滞在はまだもう少し続いた。その後街角で見つけたアメトイショップで、SWや『ナイトメアー〜』、その他諸々舶来作品のグッズで埋め尽くされた店内に感激して、小遣い握りしめて逡巡したりもするのだが、まあそれはいいだろう。

そういえば、鉛筆削りを使わず、カッターで削るやり方を教えてくれたのはB氏だった。これ以降ぼくは学校でも鉛筆削りを使うのがバカらしくなってしまい、その後専門学校に入ってデッサンの授業などが始まって本当にカッターによる鉛筆削りの技術が有用になると、心の中でB氏に感謝したものだ。もちろん他のことも感謝しきれないのだが。

これを書いている最中、気になってGoogleマップであのビルを調べると、すぐに見つかった。住所など知らないが、川の前、橋のふもとにあることだけは覚えているから街さえわかっていればそれほど難しくはなかった。果たして旧B氏邸の4階建のビルは、壁面を塗り替えられているだけで20年経った今もそこに建っているらしい。ぼくが悲しんだり楽しんだりしていた部屋も、ストリートビューから見えるし、入り口の階段を見た途端クラッとした。ぼくはよく期待を込めてそこを駆け登ったものだ。B氏たちはもうここには住んでいないし、お店の方もなくなっている。ぼくがそこで過ごしたのは、あの夏が最後となった。

ともかく、その夏休みはぼくに強烈な印象を残した。自分の中でのSWが始まり、落書きでなく、絵を描くことを覚えた夏でもある(傍目には変わらなかったかもしれないが)。ぼくが2002年の夏を特別視するのはこのためだ。もちろん、Aさんのことがあったのも忘れられない。

夏休み明け、ぼくが発表した自由研究はティム・バートンの経歴と、当時までのフィルモグラフィーのまとめだった。Dから借りた本を参考に、絵を交えながらB4くらいの新聞のようなものを作った。今とやっていることは変わらない。というより、そのときから始まったのだと思う。そして、今でもアメトイのお店で逡巡している。