Superman(2025)

 まず導入がスマートだ。テロップによるあらすじ自体は別に新しいことではないが(「遠い昔…」)、テキストのテンポがいい。リズミカルで簡潔な文面なのですっと入ってくる。気づけば目の前にはDCコミックスの世界が実に手際よく広げられていた。スーパーヒーローものはリブートで仕切り直されるたびにその身の上をどう描くかが毎回厄介そうな印象があるのだが、ああいうやり方もあるのだな。とはいえ、アメコミ映画をずっと観てきている人間にとっては、滅亡した異星の遺児が中西部に落ちてくるとか、学生が蜘蛛に噛まれるとか、御曹司が両親を目の前で殺されるとかいったくだりは常識にも等しいかもしれないが、実はそれがわからないひとだってたくさんいるということは留意しないといけないから難しい。ともかく今回のこの冒頭はスマートだった。


 ザック・スナイダー版への反動からか、原点回帰のような色彩も個人的に非常に好みだった。これでこそバットマンとの対比が成り立つというものではないか。「孤独の要塞」における世話役ロボットたちもイケてるし(ひと目見てK-2SOを連想していたら本当にアラン・テュディックの声で話し出して笑った)、怪獣と戦うなんていう絵もクラシックな感じでいい。未来、ファンタジー、宇宙、それでいながら都市生活も描く様はフライシャーのカートゥーン作品を思い出させる(欲を言えば銀行強盗ロボットも見たかったな)。


 そういった雰囲気はただ郷愁を誘うだけではない。本作のスーパーマンは本編開始の時点ですでに「アメリカの同盟国による隣国への軍事侵攻」を阻止して物議を醸している、という立場にあり、それに対してソーシャルメディアでは不毛な応酬が続き、誹謗中傷が絶え間なく流れているという状況にある(このあたりは実際にSNS上でバッシングにあった監督ジェームズ・ガンの切実さを感じる)。三原色の衣装を身にまとった古典的な姿が、現代的世界と摩擦を起こしている様子が浮かび上がってくる。ここからもわかるようにスーパーマン自身の性格がやや熱情的というか、だいぶピュアな方向に寄っているが(従来の、というか少なくともぼくのイメージでは、政治的影響や情勢よりも目の前の人命を優先することで体制と対立するのはバットマンの方で、スーパーマンはもっとホワイトハウスにべったりという感じがあったのだが、大方フランク・ミラーのコミックの影響だろう)、その不完全さは彼を「異星の超人」という他者から、他の人々と同じようにアメリカという「理想の地」で奮闘する「異星からの移民」、即ちひとりの人間の姿へとシフトさせる。それは決してキャラクターを矮小化するスケールダウンなどではなく、スーパーマンを語り、描く上で重要なフォーマットだ。彼を生み出したジェリー・シーゲルとジョー・シャスターはユダヤ系であり、シーゲルの両親はリトアニアの反ユダヤ主義から逃れてきた移民で、シャスターの父はロッテルダム、母はキーウからの移民だった。クリプトンの遺児には設定以前から移民としてのルーツがあり、また彼が創造された1930年代の世界情勢を思えば、弱い者の側に立ち、今そこにある暴力と対峙するのは実に彼らしく思える。


 本作における「ボラビア共和国による隣国ジャルハンプルへの侵攻」が彷彿とさせる、今も中東や東欧で継続している惨劇に対しては、いろいろな見方があるだろう。利害関係は複雑に絡み、問題の根は深く、交錯さえしており、無学なぼくにはとてもとやかく言える事柄ではない。しかし、それでも無力な子どもたちを飢えさせ、死なせていい理由はどこにもないはずだ。大義やイデオロギーへの知識とは別のところで、これはよくないと直感的に思ってしまうのは安易だろうか。過激派の蛮行やホロコーストがおぞましい所業であることは言うまでもない。その一方で、これはどうにかならないのだろうか、と思わずにはいられない。だからこそ、似たように難しい状況の中でどうにかしようとするスーパーマンや、どうにかしてしまうジャスティス・ギャングの行動には胸を打たれるのだろう。スーパーマンの「父」たちのルーツを考えればこそ、むしろ彼は純粋に暴力を等しく容認しないのではないか。どんなときも弱きを助けるのではないか。そこに普遍的正しさを求めるのではないだろうか。それはぼくの都合のいい願望に過ぎないだろうか。


 いろいろと今日的情景の多い作りにはなっているが、本作の「悪」の根源は結局のところレックス・ルーサーただひとりに還元されていく。それが本作をエンターテインメントたらしめていると思う。レックス・ルーサーが全ての悪を背負うからこそ、安心してヒーローを応援できるというもの。本作のルーサー、とんでもなく酷い最低野郎だが、スーパーマンに負けた悔しさに流す涙は本物だ。とんでもないヴィランを演じ切ったニコラス・ホルト、素晴らしい。


 素晴らしいと言えば、ネイサン・フィリオンのグリーン・ランタンことガイ・ガードナー。先に書いたように、全ての閉塞感を突き破るような気持ちのいい見せ場がある。怪獣が現れれば周囲の被害など考えなしに力技で退治にいどみ、また諸外国への介入には慎重で、大富豪をスポンサーにつけての活動という、スーパーマンとはおよそ対照的なヒーローとして描かれるのだが、最後には同じハートで行動する。こういう熱さを描くことに関してはジェームズ・ガンはピカイチだなと思う。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のような勢いのノリを期待したひとも多いかもしれないが、本作は同じビートを刻みながらもより一層洗練されているような印象がある。


 ガイ・ガードナーというキャラクターには今までそれほど馴染みがあったわけではないのだが、ひとつだけ思い出すことがあるとすれば、20年ほど前の中学時代のことだ。夏休み明け、クラスメイトが海外旅行のお土産としてアメコミのリーフ(一般的なアメコミの媒体、ホチキス綴じの薄い本)の古本を数冊くれた。曰くぼくが好きそうだからと。彼もまたアメコミ好きで、同世代の多くがそうであるように(ぼくは違うのだが)カプコンのゲームでマーベルキャラを覚え、サム・ライミの『スパイダーマン』やブライアン・シンガーの『X-MEN』シリーズを愛好していた(バットマンについてはぼくのほうが知っていた)。もらった中にはスパイダーマンやハルクとともにスーパーマンのリーフもあり、それがガイ・ガードナー登場の号だった。ガイが登場し、スーパーマンには世話役のロボットたちがいる隠れ家があり……とそれだけを手がかりに今検索してみると、それは1993年刊行の「Action Comics #688」とわかる。見たことはあったがよくは知らなかったキャラクターの正体が判明して、かつ映画であのような活躍が見られてうれしかった。当時は絵だけ見て変な髪型の印象くらいしかなかったが、20年後、同じ変な髪型にこんなに感動するとは思わなかった。これでぼくもシェルドン・クーパーのようにグリーン・ランタンのマークが大きく入ったTシャツを着られるかもしれない。件のクラスメイトとはもう長いこと会っておらず、MCUの感想を交わしたことさえないが、今も熱心に観ているのだろうか。