
緑色はボバ・フェットだろ、と自分でも思うのだが、本作はやはりグローグーが主役だったなと改めて感じる。そしてその次に位置するのがロッタ・ザ・ハットだ。個人的に気に入ったキャラクターを強調するつもりだったが、よく考えればこの物語で最も人生が変わったのはロッタなので、結果的にちゃんとメインどころを大きく描くという順当な形となった。銀河の命運はふたりにかかっている、みたいなコピーで宣伝されていたはずだが、銀河というよりロッタの命運だった気がする。
もちろん当のマンダロリアンも決して添え物ではない。冒頭からのテンポの良いアクションは、鎧をまとった宇宙版ジェームズ・ボンドかというような鮮やかさだ(カメラワークが非常に良い)。ここは対する帝国軍トルーパーたちのやられっぷりももはや様式美の域に達してると思う。普段の仕事ぶりをアバンタイトルに置いてキャラクターとその環境を説明し、オープニングのあとで本題に移るというのもスパイものや請負ものの定番である。それを『スター・ウォーズ』の賞金稼ぎで再現された意義は大きいと思う(ドラマでは3シーズンを経るとともにどんどん賞金稼ぎ業の色が弱まっていったので、ここで改めて本業回帰というところだ)。またドラマどころかSWの事前知識なしの観客が引き込まれたのも、キャラクターのおもしろさやかわいさ以前に、こういう古くからの手法がすっと入ってきてるのかもしれない。
デジャリック・チェスの実物が集結するシーンは中盤までで特に楽しいところだが、闘技場と客席との隔たりがなくなって怪物たちが脱走をしてからが本番。逃げ惑う人々と暴れる怪物という興奮の場面をSWで観られるとはね。『ゴーストバスターズ』の、貯蔵庫から逃げ出したお化けたちがニューヨークで大暴れするシーンを彷彿とさせるが、ああいうそれぞれの狼藉のバリエーションを観ているとかえって闘技場での戦いが物足りなく感じたりもする。電撃や針飛ばし、巻きつきなど多少あったが、もっと不思議な技を出してきてもよかった。『新たなる希望』のモチーフが登場すると、1977年当時では不可能だった表現の付加を期待してしまうんだな。元々のデジャリック・チェスのシーンは、あれがどういうルールなのか、やつらがどういうふうに戦うのか、なぜあれらがチェスの駒に選ばれたのかが気になるところなので、あれだけフォルムの違う怪物たちにはそれぞれのやり方で戦ってほしかったとも思う。とは言えマンドーとロッタのたったふたり(と言うにはボリュームがあるが)を相手にした混戦ではなかなか描写が難しいのかもしれない。それにそうなるとマンドーたちにいよいよ勝ち目がなくなるし、凄みのあるポケモンみたいになってしまう(それはそれでいいが)。
中盤あたりを境にマンドーの立場は急変し、物語の構図も転換を迎える。これまでのドラマシリーズでは、守られ助けられるのはグローグーだったが、今度はなんとマンドーが囚われて救出を待つ身となる。そこでグローグーの冒険の始まりである。小さなアンゼランたちの助けもあったにせよ、観客は初めて主体的に考え、行動するグローグーを目の当たりにする。事前知識がなくとも十分にその健気さは伝わるだろうが、ドラマから観てきた者はその成長ぶりに感慨を覚えたことだろう。最初の頃なんて寝てるか座ってるかしかしなかったのに、自分で水筒に水を汲んで飲んでいるとは。ちなみにうちの長女は『マンダロリアン』の最初のシーズンの頃には1歳半くらいだったが、まさに初期のグローグー(当時はまだ個体名が判明せず単にThe Childと呼ばれていた)のイメージは身近にいた本物の幼児と重なったものだ。そして今では次女がやはり同じ段階にあり、スクリーンに観るグローグーとリンクする。それほど意識はしてこなかったが、どうやらこのキャラクターは子どもというイメージを通して、ぼくのライフステージに繋がっていたらしい。
グローグーによるマンドーの看病はそれなりの時間を使って丁寧に描写されるが、そこで示される関係性は監督ジョン・ファヴローが度々描いてきた親子の系譜にも連なる。ファヴロー作品の多くの場合に一貫するのは父と子の関係ではないかとぼくは思う。『エルフ』、『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』(なんなんだこの副題は)、『ヤング・シェルドン』あたりはわかりやすいが、直接父親が登場せずともその影の中で不完全さを抱える『アイアンマン』のトニー・スタークもまた無関係ではあるまい。『ライオンキング』への起用もそういう特徴からかもしれないが、その布石であろう『ジャングル・ブック』でも動物と人間の擬似的な親子関係が描かれた。
『シェフ』を例にとれば、はじめは子どもが父親から教わる一方だったが、やがて子どもとの関係を通して父親の方も影響を受け、自身の問題を乗り越えていくようになる。親子の関係は決して単純な上下関係でもなければ一方通行でもない。グローグーの奮闘の末に意識を回復したマンドーのセリフの通り、老いは若きを助け、やがて若きが老いを助ける(字幕では確かこんな感じで、吹き替えではそれぞれ親と子に置き換わっていたはず)。これは単に子育てが介護へと反転するような「助け」には留まらないように思う。子どもを育てていたはずが、いつの間にか親の方も多くを学ばされていたという意味も込められているのではないか。マンドーがなにを引用したのかはわからないが、もしマンダロリアンの教義にこうした一文があるのであれば、それはただ親子だけに限った話ではないだろう。コミュニティ全体での年長者と年少者の関係そのものを広く指しているとしても不思議はないし、その方が孤児を受け入れるマンダロリアンらしいように思う(だからこそ個人的には「老い」と「若き」の訳の方が好みである)。
いずれにせよ、このときのマンドーはこのほかにはグローグーに対するお礼のような一言は口にしない。なぜならこの言葉が自分を回復させた息子の行いへの最大限の賞賛と評価だからだ。一連の展開でふたりの関係は逆転したのではなく、互いの不完全さを補い合う関係へと発展したのである。
また本作にはマンドーとグローグーだけでなく、ロッタに対する父親ジャバの影というのがある。ロッタが登場するなり言い放ったように、まさに誰も犯罪王ジャバの息子の気持ちなんて考えたことがなかっただろうから、思いがけないサブテーマとなった。劇場版『クローン・ウォーズ』での登場から18年、まさかこんなに成長した姿で、こんな形で再びスクリーンに現れるとは。グローグーの成長、ディン氏族ふたりの関係の変化に加え、ロッタ・ザ・ハットが自分自身の道(This is the Way!)を見つける物語まで重なるとは恐れ入った。ハット族のメインキャラクターというのも非常にロマンがある。
物足りなさがあるとすれば、ヴィランの存在感だろうか。確かに敵役、悪役はいる。暗躍する帝国残党の軍将たち、ロッタの命を狙いジャバ・ザ・ハットの犯罪帝国を我が物にしようと企むハット・ツインズ、物言わぬ好敵手エンボ。たとえば帝国残党に関しては冒頭に登場した軍将と、ハットと取引してまで行方を追っていたコマンダー・コインとがほとんど同程度のスケールの存在というのは気になる。AT-ATなどの兵器の規模で言えば最初に登場した方が大きいくらいである。あまりスケールの大きい敵を出せないという外伝ゆえの制約もあるのかもしれないが、もう少し狡猾というか邪悪というか、従えている部隊だけではなくこいつ自体も手強そうだぞと思える人物造形でもよかったように感じる。そうだったとして、本命のハット・ツインズが弱まることはないと思うのだが。ハット・ツインズはさすがに悪いやつらで、ハット族との謁見シーンというのはやはり観ていても緊張を感じる。ランコアとは比べ物にならないサイズの怪物を飼っているわ、凶暴なアマニの戦士やドロイド・ゴートラを雇っているわで、こりゃおっかないなと思う。ただ、謁見室ががらんとしていて、いるのはドロイド兵だけというのはちょっと勿体無かった。ジャバの宮殿とは明確な違いがあって当たり前だが、もう少し怪しげな取り巻きがいてもよかったと思う。ただ、洞窟の中にいた三下のハットたちの描写には、これまであまり考えなかった生活感が垣間見れて良かった。ああいうの、カム・ケネディ画のコミック「ボバ・フェット」を思い起こさせる(ざっくり言うとハット族の結婚の話)。
とは言え、ドロイド・ゴートラは手強く、アマニも怖いし、マンドーも十分苦しんだ(グローグーが土でシェルターを作り始めたとき、てっきり土葬を始めたのかと思ってしまったほどである)。雇われた身でしかないとは言え、エンボも恐ろしいやつだ。いつか味方として登場してほしいものである。この物語は敵を倒す痛快さはもちろんあるだろうが、なによりマンドーたちが試練に耐えるお話でもあるように思うから、悪役がクレニック長官のようでなくとも納得はできる。言ってみればナル・ハッタで彼らが直面した環境や状況の困難さそのものが恐ろしい敵であったとも言える(動くのをやめた瞬間から巨大な昆虫が群がり、墜落した宇宙船にはあっという間に植物が侵食する恐ろしい生態系なのであながち比喩にとどまらない)。
説明し過ぎない一定の視点で語られる明快なストーリーを、AT-AT、ハット族、ドロイド、クリーチャー、Xウィングといった象徴的なモチーフで彩ることで、SWが本来持つストレートなおもしろさが際立った作品だと思う。なによりぼくのSWの入り口は『ジェダイの帰還』のジャバ宮殿のくだりで、ジャバやその取り巻きたちの世界を凄みのあるセサミストリートみたいだと思って観ていた自分にとって、本作はまさに贈り物のような作品。確かに銀河の大局が動くことはない物語だが、スカイウォーカー・サーガに必要以上に干渉しない形で、一作完結型で楽しめる映画が可能であることを示したのは大きいのではないか。個人的にはこうした作品がもっとあっていいように思う。