8月までの映画のメモ

 今年もそこそこ映画館や試写に行っているのだが、なんとまだちゃんと感想が書けていない。ちゃんとした感想というのは理想はイラストつきなのだが、それが作れる体勢になるまで待っていたらいつまでもなにもできないと思う。以下、劇場公開済で観た中で主なところ。

・『ブゴニア』
 これは多分今年最初に観たものだと思う。エマ・ストーンとジェシー・プレモンス主演、ヨルゴス・ランティモス作品。すっかりそのミューズとなったエマ・ストーンは巨大製薬会社(かなにかだと思う)のカリスマ経営者ミシェル。タイムやフォーブスの表紙になるような人物と言えばわかりやすいか(と言って最近は誰でも載ってるような気がするが)。とにかくそういう公人とも言うべき企業家でお金持ちで、当然と言うべきか表向きに言っていることをこれっぽっちも本気で思ってないような人物なのだが、これがプレモンス扮する陰謀論者テディに誘拐されてしまう。テディとその相棒のいとこは、陰謀論者と言っても比較的古典的なタイプで、ミシェルを宇宙人のアンドロメダ人だと思っている。地球での立場を利用して生態系(主にミツバチ)に干渉し、人間を支配しているというのだ(だいたいはそういうことだったと思う)。それで、次の月食までにアンドロメダ皇帝と会談しなければならないらしい。ミシェルは身を守るために彼らに調子を合わせるが……。
 といった具合でテディが信じているこの設定を一生懸命読み取る必要は多分なくて、彼がなぜこの狂気に飲まれ、ミシェルを狙うに至ったのかは途中で明らかになる。言ってみればテディを飲み込んでしまった狂気の手がかりを少しずつ読むことが肝だろう。あとはミシェルの身になって緊張を感じながら脱出までを見守るといったところか。基本的に不条理ものなので、半笑いしながら観るのが良い。後半にかけてはかなり楽しい。タイポグラフィが素晴らしかったなあ。エマ・ストーンはどんなに悲惨な目にあっていても、なにか漫画的な楽しさが伝わってくるので不思議だ。2000年代の韓国映画のリメイクらしいのだがそれについては一切わからない状態で観て、今もわからないまま書いている。
 しかし、多分当時はまだ陰謀論と言えば「Xファイル」的な、日本では一時期流行った都市伝説みたいな、どちらかと言うと「そんなわけあるか」を前提に楽しめる他愛ないものだったと思うのだが、2020年代の今ではその言葉が持つ印象や質感、前提が変わってしまっているように思う。そこを昔のノリのままでやってしまうと、結局怪しい話をする動画配信者の言ってることが正しかった、というような話になってしまって、どうかなあと思う(この前の『ズートピア2』もなんとそのパターンであった)。

・『映画ドラえもん 新・のび太の海底鬼岩城』
 待望のバギーちゃんリメイク。人工知能がより身近になった現代においてだいぶキャラクターが精細になるのではないかと思い、確かにその感じがあるのだが、のび太たちと親交を深めるバギーちゃんと、AI特有の融通の効かなさにより終末兵器を起動してしまうポセイドンとの、対立する2本柱としての対比が弱かったのが勿体無い。ポセイドンを破壊して勝利、平和、という流れもオリジナルのままだったが、どうせやるなら人間との関係性を発展させたバギーがポセイドンを説得し、はるか昔に命じられたプログラムから解放してやるという決着の方がリメイクの意義を感じもする。ただリメイクは原案やプロットにリソースを割かないための企画だと思うので、そこまでやってしまうと新作に等しい労力がかかってしまうのかもしれない。でも、改変自体はあるのだから、比重を調整することはできそうな気がする。どうしてもポセイドン、バギー、ドラえもんと人工知能の持ち主が3体も揃ってしまうと、もう一歩踏み込んでほしくなる。こういう場合ドラえもんは準人間みたいな立ち位置になってしまうので、バギーともポセイドンとも種類の異なるロボットとしての役割があるといいなと思う。東西冷戦の頃の物語を今やっても子どもにはわかるまいというような反応も見かけたが、一体何を言っているのだろう。今だって誰が何をし出すかわからない、抑止力という名の脅しが繰り返し振りかざされる、非常に緊迫した情勢ではないか(核兵器の完成以降そうでなかった時代など1秒たりともない)。ドラえもんの物語の普遍性、そして歴史的状況の普遍性、なにより子どもの柔軟性への理解が足りないと思う。ある出来事に名前ラベルを貼り付けて歴史の棚にしまい、それでそのことは完全に終わった、と思い込むのはあまり賢明とは言えない。

・『プロジェクト・ヘイル・メアリー』
 以前から原作を読まなきゃなあと思っていたのだが、なんとなく帯の推薦文の大仰な感じから、食べる前に強い匂いを嗅がされてる感じがしてちょっと遠ざけていた(おもしろいのは事実だから別に大仰でもないのだが)。結局映画の予告編が出始めた頃から、映像で先に印象づいてしまう前に、と思って手に入れて、ぐだぐだ読んでいるうちにあっという間に公開となった。タイミング的には文庫版で読めたので結果的に良かったと思う。それで、確か公開時には上巻が読み終わったくらいで、本当なら最後まで読んでから観たかったのだが、例によってSNSで余計なものを読む前に(この余計なものというのはその先の展開や結末のことというよりは、他人の解釈や所感の方)観たい、ということで原作の途中だが急いで観に行った。
 前述のエマ・ストーン同様に、ライアン・ゴズリングというひともなんだか所作のひとつひとつが非常に漫画的なひとでなので、この話は基本的に彼が宇宙船の中で独りぼっちのシーンが多いのだが、そのおかげで退屈しない。内容に関してはどうしたって活字でじっくり紐解いていく楽しさには及ばないんだけど(わざわざそう感じるために先に本を読むようにしていないか?)、それでも原作の時点で主人公グレースの置かれた現状に、どうしてそうなったのかという回想(コールドスリープから覚めたグレースが少しずつ記憶を取り戻していく)が効果的に挿入されていたので、そこはうまく映像のテンポに当てはめられていたと思う。あとはなんと言っても奇妙な宇宙人ロッキーをヴィジュアル化した功績も大きいだろう。岩で出来た甲殻類で顔と言えるようなものがないという、およそ哺乳類が共感を覚えられそうにない見た目だが、かわいいやつであった。やはり全てはモーション次第かもしれないな。と同時に、原作では冷淡な役人として描かれるストラットにしても、演じるサンドラ・ヒュラーによってだいぶチャーミングになっていた。表情という点で映像は活字に勝るなと思う。原作では「ビートルズ」が着弾した後の地球の様子は描かれないので、あのように最後にグレースとストラットの関係性を示すようなことはなく終わるはずだ。ストラットにもハートがある、というフォローは映画ならではだろう。

・『マンダロリアン・アンド・グローグー』
 これに関してはここで簡単に、というふうにはいかないのだが、とりあえずこれもフラットに他の映画と並べて書き留めておこう。自分の中でこれについて書くのはおおごとだぞ、という頭になってしまっているからハードルがどんどん上がっているのだろう。他人の感想や世間の受け入れ方を目の当たりにする前に、観た直後にオフラインな思考でさっさと書き留めておかないといけないなあとつくづく思う。
 別に難しいところも大仰なところもなく、純粋にドラマの劇場版という感じで、これを毎年とはいかなくとも2年に一本くらいやればいいのではないかと思える楽しい完結型の作品。もっと言及できる背景要素があるにも関わらず、登場人物の数を最低限に絞り、視線を一定にしたからこそ、あの『スター・ウォーズ』にあってここまで新規ファンが増えるに至ったのだろう。本作とドラマシリーズを観ただけで、そこから始めて旧三部作をほぼなんの予備知識もなく見始めたひとの、『新たなる希望』の感想がほとんど公開当時の観客のような感覚で大変羨ましかった。オーウェンとオビ=ワンが兄弟ではないかという、かつてリアルタイムで観ていた人々の間にも流れた推測を自力で立てるひとさえいて、やはりそう思わせる節があるのだろうな。本作にはSWが本来持つストレートなおもしろさというのが際立っていたのだろうと思う。
 本国との反応の温度差についてあれこれ推測するのはもうすでに大勢がやっているし、早くも訳知り顔が語る際には絶対そこへの言及がワンセット、というのが様式と化しているので、ぼくはやりたくない。でもひとつ言えるのは、こちらの観客は話が歴史的に前進しないモラトリアム感が好きだよなということ。そしてかの地ではおそらくもっとサーガ的な展開が期待されたのだろう。そこは趣旨が違うとしか言いようがない。グローグーというキャラクターの発見が遅れたとかいうより、本質的にそういうところが大きいのではないか。
 また実は本作で初めて発明されたものはほとんどないという指摘もあるが、そこは逆に言えばすでにあるものをうまく活かしたということで賞賛できるのではないだろうか(そもそもドラマ『マンダロリアン』というのはそこから出発している)。おそらく基本的には予算が多くない作品と思われる。限られたリソースを最大限使っておもしろい映像を作ったのだから、SWの素材が持つ優秀さと監督の職人感が光ったというところだ。ただ個人的にはもう少しなにかのフックがあってもよかったようには感じる。
 ともかく観終わってああおもしろかったなあ、と思えたから満足である。SWの新作が楽しいとあんなに週末が気分良いのかと驚いた。公開初日に大きな劇場で、当たり前のように知っているひとが何人もいる回で観られたのもよかった。SWの映画公開は祭りでなければならない。

・『マスターズ・オブ・ユニバース』
 アメトイの趣味があれば必ずその視界に入ってくるムキムキフィギュアのあれ。昨年から仲良くさせてもらっている国内随一のとんでもない有識者にしてコレクター、悪魔の毒々フロッグ氏を通して一体買わせてもらい、ぼくも晴れて今年デビューした。おもちゃが先に出来て、販促としてアニメが作られ、ミニコミックが封入され、というふうにメディアが拡張されたので、この映画もその延長上に存在する。同じマテル社としてはグレタ・ガーウィグの『バービー』が先行するが、もちろん趣は異なり、完全にSWやマーベルにムキムキで殴り込むような、第3のユニバースサーガを提示してきた感じで、おもしろかったし楽しかった。ぼくはウェブ上のPRイラストを描かせてもらったりしたが、ああいう感じなので非常に描きやすかった。公式ポスターアートを手がけるマット・ファーガソン氏にもご好評いただき感無量である。俳優が皆楽しんでそうなのもよかったな。
 ただただマッチョであるというだけの(言ってしまえば本当にそれだけのことである)キャラクターで、パワーパワーと連呼するようなやつを今日日ヒーローとして召喚するのはなかなかやりづらそうなことだったと思う(英語のPowerは「権力」も意味している)。でも、アダム王子ことヒーマンはムキムキである以前に優しい心の持ち主だ。ムキムキとバランスを取れるものはなにか、それは頭脳、ではなく優しさだ。優しさこそ強さの善良さを裏付けるものだと思う。ムキムキで弱きを脅すなどもってのほかである。そんな偽りのムキムキは負ける運命にある。そんなふうにシンプルに励ましてくれる作品だったと思う。

・『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』
 トム・ホランド主演のMCU版第4作目。4作目にしてやっと通常営業のスパイダーマンが観られて安心。摩天楼スイングにも満足。わざわざコミックカバーの有名な絵を強調していたのも王道さを見せるためだろう。あとサム・ライミ版で育っているせいかぼくはピーター・パーカーが不憫であればあるほど気持ちが安らぐらしい。例によってスパイダーマン業に私生活はおろか人生まで犠牲にしているのだが、それを体現するかのようにピーター・パーカーの生活感がかなり希薄になっている。それはそれで正しいのだが、どうやって生計を立てているのかという理由くらいは言い訳程度に入れてもよかったと思う(これはすでにSNSで書いているのでしつこいかもしれないが)。ピザ屋だかデリだかのTシャツを着ているシーンはあるので、撮影自体はされて削除されたか、そんなところかもしれない。ただトビー・マグワイア版みたいなバイトではとても維持できなさそうな機材や設備を構えているところから、資金源はもっと別のところから来ているのかもしれない。なんらかの形でスターク社由来のツールを確保しているとか、メイおばさんがとんでもない資産を持っていたとか。メイおばさんの口座を切り崩して生活してるピーター・パーカーはあまり想像したくないが(思えばメイおばさんにしてもなにをしているひとなのかが結構謎であった)。
 だいたいそうするにしてもメイおばさんとピーターの関係をどう示すのだろうか。世界からピーターは忘れられているのだが、公的記録や身分証の方はどうなっているのか。本作はピーターという個人がどんどん希薄になって本人でさえピーターだったことを忘れてしまうのではないかという危うさが重要な点なので、そのあたりがぼんやりしているのは確かに主題に合っているのだが、人間ひとりが生活していく以上いろいろと気になってしまう。生活感ということに関してMCUは基本的に苦手なのようなので、あまり考えても仕方がないが、それでもやっぱり英雄には糧が必要である。ドクター・ストレンジの魔法のルールが曖昧なんだよな。
 これまでこのバージョンのスパイダーマンはあまりにもシェアード・ユニバースの都合に振り回され続けてきたところがあるので、ようやくタイトルロールとして純粋にその物語が描かれているのだが、過去3作の前提と再出発のフレッシュさとのバランスがほどよいので、シリーズを観てきたひとにも、あまりMCUに深入りしていないひとにも観やすいのではないか。その意味では『マンダロリアン・アンド・グローグー』とも似ている。アベンジャーズの勢いだけで押し進める祭り感は確かに楽しいけど、本来客演やクロスオーバーってこんなものだよな、という懐かしさもあった。

まとめて書き出すとこんな感じかなあ。やはり書き出してみると印象が整理されて大変よろしい。『オデュッセイア』もすでに試写で観たが、公開前なので別途にする。