ボー・ピープはいつか

 陶器の身体でありながら外の世界に飛び出した彼女が、いつか絶対に確実に必ず割れるだろうということは明白だ。すでに両腕がテープで補修されていることから、その危険とは常に隣合わせであることは明らかで、次も助かるという保証はない。それを踏まえると、彼女が自ら外に出ることを選んだという意味の大きさになにも思わないわけにはいかない。ほかのどのおもちゃたちよりも壊れやすいからこそ、彼女の外の世界への憧れは一層強かったのだろう。少なくとも好き勝手に外で活動できて、多少危ない目に合ってもへっちゃらなウッディやバズとは違う(ウッディなんて所詮身体がぬいぐるみなので、どこかにぶつかってもまず壊れない)。大きなリスクは願望をより強くし、彼女を安全なランプの台座から、危険だが本物の人生へと駆り立て、ほかのどのおもちゃよりもタフにした。弱さをバネに強さを得たのだ。

 ウッディがボーに惹かれたのは、もちろんもともと恋仲だったというのもあるだろうけれど、そんな彼女が外で生きているという事実そのものに、強い衝撃を受けたのではないかと、ぼくなどは思う。テープでとめられているだけで、すでにぽきりと割れてしまっている彼女の腕を目の当たりにした彼は、彼女が常に危険を伴った生き方をしていることを知る。自分がそばで助けなければと思ったか?いやいや、今更彼女には助けなど必要あるまい。多少冒険したことはあっても、所詮ウッディは子供部屋暮らししか知らないし、今までそれがおもちゃにとっての幸福だと信じてきた。外の世界では新参者だ。そうではなく、彼は彼女がいつかなにかの拍子にパリーンといってしまったときに、そばで見届けなければいけないと感じたのではないだろうか。もちろんぼくの妄想だし、場合によってはウッディには陶器の恋人を助けることができる。しかし、繰り返すようだが、いつかは取り返しのつかないことになるかもしれない。そのときに誰もそばにいなければ、ボーはただのゴミとして最期を迎えることになる。

 ゴミ。幼児の工作から生み出されたフォーキーは自分をゴミだと思い込んでいたが、物語を通じておもちゃとしての自覚、あるいは人格を得る。ゴミ同然の素材で作られたおもちゃと、持ち主不在で外で生きるおもちゃは、どちらも一歩間違えればゴミになってしまうという危うさを抱えている。道端に落ちている小さなぬいぐるみのキーホルダーを見かけたことはないだろうか?ぼくはよく見かける。俯いて歩いているから落ちているものをよく目にするのだ。しっかりした既製品で、置いてある場所が少しでも違うなら、ちゃんとおもちゃに見えるだろう。しかし、道端に落ちているというだけで、そいつはゴミ同然の状態になる。ボー・ピープたちはその道を選んだのだ。自由の代償として、おもちゃとゴミの中間的な危うい存在になった。そしてボーは、屋外で暮らす陶器の人形という、割れ物のゴミとして一番わかりやすい。フォーキーとボーはそういうふうに対比できる。

 ボーが本当に割れ物になってしまうのは本編が終わった直後かもしれないし、また20年くらい先かもしれない。いずれにしてもいつかその日はやってくる。とにかくウッディよりも先に彼女が壊れてしまう可能性のほうが高い。一体ふたりはどんな冒険を繰り広げていくのだろう。エンドクレジット中にあったおまけとして、テキ屋の景品のおもちゃをどんどん子どものもとへ送り出していくなんてのは序の口、まだまだいろいろなことがふたりを待ち構えているに違いない。

 ボーとウッディそれぞれ性別から、抑圧と束縛を知っていたからこそ自由を手にできた女性が、不自由を感じていなかったからこそかえって従来の価値観の中で苦悩するに至った男性に手を差し伸べ、ふたりで未来を切り拓く、といった構図を見ることもできる。よく出来た物語だと思う。そうして、その寓意にとらわれることのない普遍性も兼ね備えている。もっと広い意味で、『トイ・ストーリー4』はひとが自分自身の人生を歩む物語であって、そのタイトルに反して人間の物語なのだと思う。