48: 『スーサイド・スクワッド』
(2016年、デヴィッド・エアー監督)

 バットマンの敵が魅力的なのは、宇宙からやってきた異星人だとか、チートパワーを持つ超能力者、ミュータント、北欧神話の神様などとは全然関係なく、基本的に(一概に言えないものの)マフィアやギャング、知能犯、殺人鬼、怪盗、科学者、精神異常者などといった普通の生身の人間だっていうところ。ラーズ・アル・グールやベインといった特殊なやつもいるけれど、もっとも有名なメイン・ヴィランの面々を思い浮かべれば、その趣向が超人揃いのマーベル・コミックとは違うことが明白だろう。そもそも、当のバットマンも財力と知能に支えられた、普通の人間というところがいちばんの魅力と言えるだろう。そうして、同時に彼もまた彼の宿敵たちと一歩間違えれば同類だというところがおもしろい。 

 ジョーカーとハーレイ・クイン。まあ簡単に言ってしまえばアンパンマンで言うところのバイキンマンとドキンちゃんみたいなものなのだが、この狂気のカップルが実写映画で再現されるのは個人的に感慨深い。カートゥーン・アーティストのブルース・ティムによって生み出され、その完成度によりアニメーション・シリーズから原作のコミックに逆輸入されたという異色のキャラクター。なによりハーレイのキャラクター性、造形が優れているのは、わりと最近創作されたにも関わらず、あたかも昔からバットマン・コミックに登場していたかのような風格があるところだ。60年代のアダム・ウェスト主演のTVドラマ・シリーズに、シーザー・ロメロが演じるジョーカーの傍に彼女の姿がないことが逆に不思議なくらい。それだけゴッサム・シティの世界観にぴったり馴染むキャラクターだったのだ。 

 本作でヴィジュアル的にふたりのツーショットが観られたのには満足で、有名なアートワークなどの構図を丁寧に丁寧に作り込んでいた印象。しかし、その分キャラの中身にやや違和感を覚えた。ストーリーや敵はともかく、とにかくジョーカーとハーレイの描き方には、いろいろ思うところが出てきてしまう。好きだからね。ジョーカーに性的なイメージを持ってくるのも、ハーレイが他人を説教するのも、ありかもしれないけれど、ぼくはあまり好きじゃない。そしてなにより、ハーレイがジョーカーに首ったけなのは当然だが、ジョーカーの方もやや気があるのがちょっとね。実際ジョーカーがハーレイのことを本当はどう思っているかはわからないほうがいいと思う。マーク・ハミルが声を当てるアニメやビデオ・ゲームのジョーカーはハーレイに優しくしたり、と思ったら高いところから突き落としたり、厄介者邪魔者扱いしたり、罵倒したり、良い具合に本心がよくわからない。あの関係がとても良いのだ。その方がジョーカーらしい。そもそも、道化王子が本当に愛している唯一の相手はバットマンでは、と考えてしまうのはぼくだけだろうか? 

 ハーレイのデザインについては好みでしかないから文句を言ったって仕方がないけれど、ぼくはコミックやゲームにおいて、彼女がどんどん道化の格好から離れて、道化の頭巾を意識した(?)ツインテールヘアで際どい服装をしたお姉ちゃんになっていったのが結構不満だったので(なんか、グレたアヴリル・ラヴィーンって感じ)、その流れの延長にある今回のデザインはどうしてもね。

 それで、ハーレイのかわりに魅力を感じたのはカレン・フクハラ扮する女侍、カタナ。名前がストレートすぎるものの、ジャパナイズ・キャラには珍しくわりとリアルな特攻服風の衣装が好感を持てるし、ぼくはもともとパーティにひとりだけいるアジア人ががんばるというやつが好きなので(ドラマ『ウォーキング・デッド』のグレンとかが記憶に新しい)、応援したくなっちゃう。唯一のアジア人にして、さらに唯一自分から決死隊に志願した、悪党ではない戦士と来れば応援しないわけがない(「全員悪党!」という宣伝文句に物申したい)。

 シンプルな日の丸お面のデザインも斬新だけれど(日の丸のデザイン性に依るところが大きいが)、あの切れ長な目穴によって彼女の瞳が際立っていることに、観ていて気づいた。瞳の動きによっては白目の面積が広くなって、それがお面の穴から覗いているのでまるでコミックのキャラクターの目のように見えるところがなんともかわいい。それも含めて、向こうの人が好きそうな日本性を体現しているんだな。好き。 

 なんだか愛憎入り混じってしまったけれど、やっぱりジョーカーが高笑いしながら暴力を見せつけるシーンにはテンションがあがるし、ジョーカーと、まだ精神科医ハーリーン・クインゼル博士だったときのハーレイがカウンセリングを通じて出会うシーンも観られたのはファンとして素直にうれしかった。コミックの映画化において、なにが正解かはわからない。コミックとしての魅力と映画としての完成度を両立させるのは難しいだろうけれど、どちらかが疎かになってしまってもよくない。ひとつだけ確かなのは、原作すら様々な姿形を持っている作品の映画版となれば、それは神話のようにいろいろな異なるスタイルを持って当然ということだ。この映画もまた、ジョーカーとハーレイを描いたひとつの例と言えるのではないだろうか。さらに、また違ったふたりの可能性にも思いを馳せることができる。 DCはDCの道を行けばいいのだから、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の真似などしなくてもいい!

(2016年9月11日)